恋愛武闘伝
序章 恋愛と武闘のはじまり
体育館の裏側ほど、告白する場として適した場所は無いだろう。多くの先人達がこの地にて、負けられない一戦に挑んだ。結果は様々。ある者は青春を謳歌し、ある者は学校生活における望みを捨てた。
ハイリスクハイリターンとはまさしくこのことを言うのだろう。しかし、負けることを恐れてはいけない。臆せずに立ち向かっていく勇気ある者が、敗れても立ち上がれる強い心を持つ者が、恋愛という名の大勝負を制するのだ。
四辻 秀至。彼もまた、退けない戦いに挑もうとしていた。
今、呼びだした女の子と体育館裏で二人っきり。秀至の覚悟は既に決まっている。
あとは、自分の想いを相手に伝えるだけ。当って砕けるのみだった。
夕陽を背に受けて、彼は口を開いた。
「好きです! 付き合っ」
「ごめんなさい」
玉砕。当る前に弾け飛ぶ、秀至の純情。膝が地に落ちた。
「私、体格の良い人が好きなの」
追い討ち。平均的な身長だが、細身で病弱な秀至にとって、それは指と爪の間に針を刺されるぐらいの痛みを伴う発言だった。自らの軟弱さを理解した上での告白であっただけに、想像を絶する痛みを心に受けた。
両手を地面に押し当て、うなだれる秀至。否、敗北者。
呼び出された少女はその姿をちらと見て、「あと、心の弱い人も嫌い」という言葉だけを置いて去っていった。
幸い、秀至はトドメの一撃を聞かずに済んだ。彼の心はもう、ここには無かったから。呆然自失、気息奄々たる状態だった。
やがて、秀至は涙した。拭う余裕など、ありはしない。彼は四つん這いになったまま、泣き続けた。
そんな彼の目の前に、一人の人物が現れた。
「少年! 貴様は仮にも男である。泣き崩れるとは、なんと情けない!」
凛とした声が辺りに響いた。秀至は顔を上げると、目を見開かせた。
「さぁ、立たんか! たった一度の敗北に屈するな!」
自分を叱咤するのは、真っ赤なカンフー服を着た女性だった。年は三十前後。身長が高く、細身な体型をしている。切れ長の眼と黒髪のポニーテールが彼女を勇ましく見せた。
秀至は唖然とした表情で、「あ、あの、どなたでしょうか……?」と問いかける。明らかに学校の関係者ではない。だが、なぜかそう聞かねばならない気がしたのだ。
「私か? 私の名は彩色拳美、マスターカラー。世界最強の恋愛ファイターだ!」
もはやどこに突っ込めばいいのか。秀至は考えることを放棄した。
「どうした? なにをボケッとしておる」
「いえ、あの……。じゃあ、恋愛ファイターっていうのは……?」
「なに? 恋愛ファイトを知らんのか?」
知っていて当たり前。そう言いたげな口調だった。秀至が無言を返事とすると、彼女は不敵に笑った。
「ふむ。やはり日本は、恋愛ファイト後進国なのだな」
むしろ、そのファイトの先進国とはどこなのかを教えて貰いたいところだった。
「恋愛ファイトとは、鍛え抜いた体を駆使して行われる、言わば告白! 恋愛ファイターの拳は、口よりも多くを語る! 言葉よりも深く想いを伝える! 昨今の乱れた恋愛を正すために生まれた、最強にして清純な、決闘なのだぁ!!」
やばい。秀至はそう感じた。今、この女性に関わるのは危険な行為である。頭ではなく、本能で理解した。よくよく考えてみれば、学校にこんな格好でうろついている人間がまともであるはずがない。
「初めて知りました。では、僕は用事があるので失礼します」
棒読みで言いのけると、走り出した。が、すぐに後ろから肩を掴まれ、足を止めさせられた。
「貴様の今回の敗因はズバリ体格だ。この貧相な身体では、とても恋愛ファイトには耐えられん。しかしな、私の見立てでは、貴様はなかなかの純真さを持ち合わせている。そのピュア・オブ・ハートは得ようとして得られるものではない。その者の素質が大いに問われるのだ」
秀至は全力でもがいたが、びくともしなかった。むしろ、もがいた分だけ、肩が痛む。恐ろしいまでの腕力を肌で感じ取った。純粋な恐怖が心を満たした。
「よろしい! 少年、貴様を私の弟子として育ててやろう!」
「え? は? いや、あの」
「なに、案ずることはない。たかだか数年、私の元で修業を積めば貴様も世界屈指の恋愛ファイターになれるぞ!」
首根っこを掴まれ、引きずられる秀至。じたばたと暴れるが、やはり脱することは叶わない。
「ちょっと、どこに連れてく気ですか! 離して下さい!」
「まずは修業に相応しい場所に移る。話はそれからだ!」
「話はそれからじゃないですよ! ちょっと、誰か! 誰か助けてえええええええ!」
喉を振り絞るように声を出し、助けを求めた。もう一度、叫ぼうとして息を吸い込むと、鳩尾に鋭い衝撃が走った。苦しむ間もなく、秀至は意識を失う。
「まったく、世話のかかる弟子だな」
既に弟子認定された秀至は軽々と肩に担がれ、その場から連れ去られていくのだった。
一章 自然の中で闘いを学ぶ
それは朝日が昇ろうとする時分だった。赤い風が鬱蒼とした森の中を駆け抜けた。木々を揺らす音は涼やかで、切り裂くような風音は軽快そのもの。兎や栗鼠などの小動物達でさえ、横を通り過ぎるまで赤い風の接近に気付けなかった。
その正体は、赤いカンフー服に身を包んだ女性だった。肩に担いでいる秀至などなんの支障にもならないようで、涼しい顔のまま森の中を突き進む。
やがて、彼女は速度を落としていった。立ち止ったところは、小川の流れるやや開けた場所。辺りを見回してから満足気に頷くと、秀至を無造作に小川へ投げ入れた。
数秒後、彼は水面から飛びだした。何度も大きく咳きこみ、やっと呼吸が落ち着いたところで周りを見回す。見慣れない風景の中、堂々と腕を組んで仁王立ちになっている女性が、嫌でも目についた。
及び腰になって秀至は問いかけた。
「あの、ここはどこですか?」
「うむ。本当ならギアナ高地にでも行きたいところだったが、あまりにも遠すぎるのでな。とりあえず、長野の山奥に来てみた。ここならば一応は自給自足もできるだろう。修行する場としてはまずまずなところだ」
「長野ぉ!? 東京からここまで僕を担いで来たって言うんですか!? 僕はいったい何日眠らされてたんですか!?」
「ふっ。そんなに時間はかかっていない。半日かからず、貴様を担いで走ってきたのだ。本気では無かったとはいえ、まだまだ機械には至らんがな」
切れ長の目を細めて高笑いした。豪快に笑う彼女とは対照的に、秀至は沈黙した。
「さて、無駄話をしている訳にもいくまい。早速、修行に取りかか……」
「ちょっと待って下さい! さっきから修行、修行って、僕に何をさせる気ですか! 大体、これは誘拐です! 拉致です! 犯罪です! 親の許可は? 学校に連絡は? 僕はちゃんと帰れ……」
「そんなことはどうでもいい!!」
一喝。彼女は秀至を無理やり黙らせた。
「問題は、貴様が強くなりたいかどうかだ!」
いや、もちろんノーなんですけど……。そう言おうとしたが、秀至に喋らせる暇は与えられなかった。
「しかし、今の脆弱な貴様では、真の答えを言えまい!」
もはや秀至の意志など関係なかった。
「よって、心身ともに鍛え上げ、真なる答えを導き出せ! さぁ、行くぞ! 我が弟子よ!」
即座に秀至の首根っこを掴み、引きずる。二人は森の奥へ奥へと入っていく。
彼はただ、一つのことを祈るのみだった。無事に帰れますように、と強く願う。
こうして、無理やり師弟関係を作らされた挙げ句、人生最大の試練を受けることとなった秀至。この時ばかりは、人生を諦めかけていた。
しかし。二人の出会いが地球全体に影響を与えようとは、この時点では誰も知る由もなかった。
※
修行が始まってから、早くも季節が二周した。師と弟子の二人は、変わらず長野の山奥にて修練を積んでいた。周りの景色に変化はない。が、この師弟の間にはなにかが芽生えようとしていた。
若い草木が彩る森。その中で一人、白のカンフー服に身を包んだ秀至は静かに構えていた。
足を大きく広げて腰を落とし、右拳は脇腹の辺りに添える。手の平を見せるように左手は前に出す。師に教わった、流派彩色拳美が壱の型。全ての基礎となる、構えだった。
秀至は師の言葉を思い出す。
「全てはここから始まり、ここに帰結する」
そう、この構えを認めて貰うのに、半年以上かかったことを思い出す。日が明けてから暮れるまで、一日中構え続けていたこともあった。
「多くの基礎はその先にある、『究極』へと繋がっているのだ」
自分は、究極にどれだけ近づけたのか。今まで行ってきた鍛錬を思い起こす。
「しかし、そこに至るには、途方もない時間と情熱が必要である。進んだ距離など気にせず、常に驀進し続ける向上心が必要だ」
そうだった。道の途中で振り返った分だけ、人の成長は遅れる。こうして後ろを振り向いてしまう自分など、まだまだ甘い。と、感じる秀至だった。
目を閉じて、雑念を取り払う。自然に溶け込み、彼は一つの岩と化した。小鳥が一羽、肩に止まった。野生の鳥が安心感を得るほどに、彼は自然の一部と化している。
穏やかに、緩やかに、時が流れる。さえずりとせせらぎのみが響き渡る森の中は、やさしさに満ちていた。
やがて、小鳥は飛び立った。その瞬間、空気が一変した。
ひりつく視線。ものものしい気配。
――来る。
秀至の目が開かれると同時に、彼の背後を赤い影――彩色拳美マスターカラーが迫った。右の正拳突きが、彼の背中を襲う。
いち早く接近に気付いていた秀至に焦りはなかった。地を蹴り、身体を捻って反転。左手で正拳突きを捌き、彼の拳がマスターカラーの頬を狙う。しかし、彼女は片腕でそれを防いでみせた。そこで二人の攻防が終わったかに見えた。
ただ、秀至の本命は別にあった。死角から伸びる、左の鉤突きは師の右頬に届いた。激しく打ち付けた音と共に、彼女は地面を転がった。
静寂が舞い降りた。師がピクリとも動かずに横たわったままでいるので、秀至は少し心配になった。
「し、師匠……?」
不安な気持ちにたえかねて聞いてみると、わずかな笑いが漏れた。
「くくく……、ふははは! なっはっはっは! あのモヤシっ子が、よくぞここまで成長した!」
軽々と跳ね起きて秀至と相対するマスターカラー。彼女の頬を殴った時、たしかな手応えを感じたが、特に外傷は見られない。師の力の底が見えなかった。
「先の拳も、なかなかのものだった。拳を一度は振り切っているのに、咄嗟に出た二撃目があれほどの威力を出せるとはな。合わせ突きとはまた違うようだし、器用な奴だ。体つきは大して変ってはおらんが、十分な成長を遂げたようだ。今の貴様になら、次の段階に辿りつけるだろう」
「次の段階とは……?」
「うむ。ついてくるがよい」
師はそう言って、颯爽と森の中に入っていく。秀至は慌てて彼女のあとを追った。
しばらく進むと、小川に突き当たった。師はきょろきょろと視線を巡らし、下流の方に目を向けると「おお、いたいた」と漏らした。
秀至は彼女の視線の先を見た。黒っぽい巨大な塊。体毛に覆われた『それ』は、実際に目にするのは初めてではない。けれども、人の倍以上はある大きさのものは今まで見たことは無かった。
「し、師匠。あれは……」
「うむ。あれはヒグマだ。数日かけて奴を探し当てた。ヒグマ探しも、割と骨が折れるものだな」
「お、大きな熊ですね」
「うむ。日本最大級のヒグマかもしれん。内陸のヒグマのくせに、三メートルは優に超えている。一体何を食っているのだろうな。はっはっはっは」
ゴクリと喉を鳴らす秀至。師が考えていることの大方は予想がついた。
「それでは、貴様の次の段階に移るための試練だ。あのヒグマを素手で倒して来い」
やっぱり……。秀至は足を震わせた。
「し、師匠! さすがに体格差があり過ぎますよ! それに野生なんですから、師匠と違って殺され……」
「そんなことはどうでもいい!!」
一喝。秀至の言葉は遮られた。いつもならばここで黙り、なんでも言うことを聞いてしまうところだが、さすがに今回ばかりは己の命がかかっている。彼は意を決して、反論を試みた。
「し、しかしですね!」
「ええい! 貴様、それでも流派彩色拳美を継ぐものかぁ!」
問答無用で首根っこを掴まれる。
「ちょっ、ま、まって……」
「男ならば! 黙って挑んでこんかぁ!」
外野からのバックホームよろしく、秀至は遠投された。地面に落ちる瞬間、上手く受け身を取ったので、大事には至らなかった。
ほっと息をつきながら、師の方を見遣る。
「まったく、あの人はどういう腕力してるんだよ! 師匠も十分、人間じゃな――」
そこで秀至の口が止まった。背中に受ける、恐ろしいまでの威圧感。これまで感じたことのない殺意。足をすくませるには十分だった。
少しでも動けば相手に襲われる、という気配があった。安易に振り向いたりしたら、命取りになることだろう。かといって、いつまでもこの硬直状態が続くわけでもない。秀至は生き残るための術を必死に考え始めた。
気配を敏感に感じ取り、わずかな情報から先を読む。あらゆる状況を想定し、最善の行動を見出す。師との組み手では、常に考え続けていた。そうしなければ彼女の動きにはついていけなかったのだ。そして、いつしかそれは秀至の中では当たり前のものになっていた。
行動のパターンを決めると、秀至は背後にいる相手の動きを注意深く探る。呼吸はやや荒く、地面を踏みしめている音も聞こえる。低い唸り声が緊張と不安を増長させる。
足に力を入れ、タイミングを見計らう。脇から伝う汗が気持ち悪かった。
唸り声が止まり、息を大きく吸う音がした。
秀至は地面を蹴って前へ飛んだのと、ヒグマが咆哮を上げるのは同時だった。ヒグマの初撃は咆哮の分だけ遅れた。わずかな差ではあったが、それが秀至を助けた。
右肩から地面に着き、その勢いのまま回転して受け身を取る。素早く立ち上がって振り返り、ヒグマと正対した。
秀至が構えると、ヒグマはゆっくりと立ち上がった。その大きさを見ただけで圧倒されてしまう。離れた所で見るのと近くで見るのとで、これほど印象が違うのかと実感させられた。
その太い腕は人間を簡単にへし折り、その巨体はあらゆる攻撃を通さないのではないか、と思ってしまう。師とは異なる迫力と威圧感が恐ろしかった。
ふと、自分が少しずつ後退していたことに気付く。無意識の内にこの猛獣から逃げ出そうとしていたのだ。本能が叫んでいる。奴には勝てない、と。
「恐れるな、秀至! 今までの修行を思い出せ!」
凛然たる声が響いた。今では聞き慣れたその声に、わずかな安堵を覚える。
「今のお前にならば出来るはずだ! 私から教わった技を全て、見せてみろ!! 流派彩色拳美に不可能はない!」
秀至はハッとした。たしかに師は無茶苦茶なことを強要する。しかし、そのおかげで自分は強くなっている。昔だったら遠投されただけで大惨事なはずだ。
師の言葉を信じ、秀至はヒグマに向かって駆け出した。彼の唐突な動きにヒグマは反応して右腕を振ったが、空を切るのみだった。
「うあああああああ!」
ヒグマの懐に入った秀至は万全の態勢で技を繰り出す。
「肘打ちぃ! 裏拳、正拳、掌底、平拳、弧拳! 光唸輝叫掌!」
これまで培ってきた技術が存分に発揮されていた。相手が人であったならば、どれも有効な攻撃であった。そう、秀至の全てはヒグマに通じなかったのだ。
ヒグマは咆え猛りながら、その強腕を薙いだ。秀至の受けはかろうじて間に合ったが、威力の半分も抑えられずに弾き飛ばされた。数メートルほど地面を転がり、仰向けになる。
――やっぱり、無理だ。勝てるわけない。僕の人生はここで終わりだ……。
薄れゆく意識の中、怒声が聞こえた。
「その程度で諦めるのか!」
師の声だ。いつも言われていた言葉。
「そんなことでは強くなれんぞ!」
今、耳にしているのは、記憶に残っている言葉だった。凛々しい声音が頭の中に響く。
「そして何よりも!」
何よりも?
「こんな所で諦めたら、女子と付き合うなど夢のまた夢! 未来永劫、叶わぬぞ!」
秀至の瞳に光が宿る。身体の芯から熱くなった。
「……そうだ。死ねない! 女の子と付き合うまでは、死ねないんだぁぁぁぁぁあああ!」
秀至は立ち上がり、気合いを入れた。全身に力を入れ、獣のように叫ぶ。すると、彼の周りの空気が歪み始めた。ヒグマはその得体の知れない気配を敏感に察知したのか、不用意に近づこうとしなかった。
静寂が場を制し、しばらく両者の睨み合いが続いた。
小川で魚が跳ねる音がした。ヒグマはほんの一瞬だけ、意識を本能的に向けてしまったようで、視線が逸れた。
すかさず、秀至が前に出る。その俊足は、一筋の光のようだった。彼にはまだ、特別な力を得たような実感がない。それゆえ、初撃は様子見で、普通の打撃を繰り出したつもりだった。
しかし。
彼の一撃によって、ヒグマはいとも簡単に宙を舞った。数メートルほど後ろに飛んでいき、背を打ち付けると、意識を失ったようだった。秀至はその光景を見て唖然としていた。
「上出来だ、秀至。これでまた一歩、私に近づけたぞ」
音もなく、師が秀至の傍らまで来ていた。驚きで我に返った彼は、自分の身に何が起きているのかを彼女に尋ねた。
「うむ。貴様は今、闘気を纏っているのだ」
「闘気、ですか?」
「うむ。精神的に追い詰められた者が発揮する力だ。俗に言う、火事場のクソ力だな。厳しい修行に耐え、強い覚悟を持った者はその力を自在に操れるのだ」
自分の強い覚悟というのが『女の子と付き合いたい』という不純なものだったので、秀至は複雑な気分になった。
「まぁ、最初は本当に命の限界まで追い込まねばならぬから、かなりの危険を伴う。しかし、お前はそれをやってのけた。これは誇ってよいことだ」
マスターカラーは快活に笑いながら、秀至の頭を撫でた。掛け値なしにここまで褒められたのは初めてのことだったので、秀至は少しドキリとした。
「よし、今日は気分が良い! 景気づけに、あの夕陽に向かって走るぞ!」
いつの間にか日が暮れて始めており、師はその言葉通りに駆け出した。
「は、はい! 師匠!」
慌てて彼女の後を追う秀至。二人は楽しそうに走り去っていくのであった。
二章 真のピュア・オブ・ハート
新緑が生い茂る中に泉があった。膝下が浸かるくらい深さを持つ泉だ。その中央にて、秀至は佇んでいる。すぐ近くにはマスターカラーが彼を見守っていた。
秀至が闘気に目覚めてから、数ヶ月が経つ。二人の修行は大詰めを迎えていた。
精神を集中し、深く呼吸する。拳を強く握り、足を大きく広げる。腰を深く落として右手は腰の辺りに、左手は前に出す。流派彩色拳美が壱の型である。
「はああぁぁぁ」
力強く息を吐く。すると、秀至を中心にさざ波が広がった。
「だあぁりゃぁぁあああ!」
さながら爆発したかのように、周囲の水が舞い上がった。頭上高くに昇った後、重力に従って降り注ぐ光景は雨を思わせる。マスターカラーはそれを見て満足気に頷く。
「うむ。闘気は完璧に使いこなせるようになったな」
秀至はほっと息をつく。泉から上がって、地面に座った。
「では、いよいよ我が流派の最終段階に入る」
師を見上げて、生唾を飲み込む。長かった修行の終わりが見えた気がした。
「だが、その前に」
秀至とはまるで関係のない、明後日の方に向き直って息を大きく吸い込むマスターカラー。そして、「出てこい! 居るのは分かっている!」と叫んだ。
秀至は師を呆然と眺めていた。こんな場所に人がいるのかと、訝しんだ。しかし、木々のざわめきと小鳥のさえずりの中に笑い声が聞こえ、考えを改めた。
次第に大きくなる笑い声。秀至の視界の端にある、木の枝が大きく揺れたので即座に視線を向けた。
「我が気配に気付くとは、さすが、彩色拳美マスターカラー! 私が認めた女よ!」
木の枝に一人の黒いカンフー服を着た人物が立っていた。野太い声からして男である。腕を組んで立つその男は、なぜかドイツ国旗を模した覆面を被っていた。あまりにも不似合いな恰好であった。
「お前は!! えーと……、そうだ、ゲシュタルト!」
「ちがぁぁう! 我が名前を崩壊させるなぁ!」
じたんだを踏んで否定する異様な人物。師からはため息が漏れた。
「我が名はゲシュテルン! 彩色拳美マスターカラー! お前に恋愛ファイトを申し込みに来たぁ!」
人差し指でマスターカラーを指し示し、宣言した。師は心の底から嫌そうな顔を浮かべ、舌打ちをした。
「あの、師匠、あの人は誰なんですか?」
「うむ。ただのストーカーだ」
「ちがぁぁう! 人を変質者扱いするなぁ!」
たしかに変質者のような見た目だが、その佇まいからして相当に出来る相手だと、秀至は感じていた。
「ええい、マスターカラーよ! とにかく私と恋愛ファイトだ!」
「ゲシュテルン、貴様との決着はついた。何度挑も」
「と、に、か、く! 恋愛ファイトだ!」
秀至は考えを改めた。ただのうざい人物だと認識した。
「わかった。ならば私の弟子に勝てたら、貴様の申し出を受けよう」
観念したのか、彼女は吐き捨てるように言った。秀至は慌てて振り向く。
「ぬはははは! そのような条件で良いのか! よろしい、恋愛ファイト世界ランク二位の実力を、その小僧に見せてやろう!」
木の枝からゲシュテルンは地面に降り立った。四、五メートルはありそうな高さなのに、難なく着地していることから、かなりの使い手であることが分かる。また、世界ランク二位という謎の肩書きが秀至に臆病風を吹かせた。
「し、師匠、僕なんかが本当に勝てるんですか?」
師は秀至の耳元に口を近づけた。秀至の心臓が高鳴る。
「うろたえるな、馬鹿者。奴は闘気を扱えん。技量では向こうに劣るが、体術で奴を圧倒できる。これは勝ち戦だ」
「で、ですが……。相手は世界二位なんですよね?」
「世界一は私だ。その私と毎日、拳を交えているお前が負ける道理など、ありはしない」
小声でそれだけを話すと、師は彼の背中を軽く押し出した。
「行くがいい。我が弟子よ。流派彩色拳美の力を、あの変態に見せつけてやれ!」
彼女の言葉で秀至は勇気づけられた。威勢よく「はい!」と答えると、前に進み出る。
「別れの挨拶はすんだのか? 耳元で囁かれるなど羨ましい! 妬ましい! 忌々しい!」
いきなり相当な恨みを買ってしまったようたが、臆せず構えた。
恋愛ファイト開始前の礼儀は師から聞いていた。挑む側が合図を叫ぶのだ。
「恋愛ファイトォッ!!」
ゲシュテルンが叫びながら身構える。秀至は心を落ち着かせ、闘気を纏った。そして、叫ぶ。
「レディィィィィィ!」
「「ゴオォォォォォォ!」」
二人同時に大地を蹴った。拳が交叉し、相手の頬を打ち合う。それを皮切りに、純粋な殴り合いとなった。
手数ではゲシュテルンが圧倒的に勝っている。しかし、秀至にダメージを与えられなかった。苦悶の表情を浮かべるゲシュテルンと、余裕の表情の秀至。両者の差は歴然であった。勝敗は既に決していると言えた。
耐え切れなくなったのか、ゲシュテルンは受けに回った。秀至の攻撃を巧みに捌くと、距離を取る。
口から伝う、一筋の血を拭った。
「なるほど、マスターカラーの弟子と言うだけはある。お前も闘気を操るのか」
彼は闘気のことを知っていた。また、実力者であるが故に、秀至との力の差は感じ取っているはずだ。
それでも、ゲシュテルンは不敵に笑うのだった。
「しかぁし!」
彼は両の拳を強く握り締め、構える。不穏な空気を秀至は察知した。
「闘気を扱えるのは流派彩色拳美だけでは無いということを、このゲルマン流仙術の開祖が教えてくれるわぁ! ぬあああああああああああああ!」
雄叫びと共に風が吹き荒れた。自分も体得しているからこそ、分かる。
紛れもなく、ゲシュテルンは闘気を纏っていた。
「ゲ、ゲルマン流仙術ってなんですか……」
秀至はそう呟きながら、師に疑問の眼差しを向けた。彼女もまた、驚きの表情でゲシュテルンを見ていた。
「知らん。奴は生粋の日本人だが、ドイツにて、よく修行を行っている。そこから来ているのではないか?」
「さすがはマスターカラー! 我が嫁のことはある!」
ゲシュテルンは満足気に哄笑しながらそう言うと、師が未だ見たことのない、本気で気持ちの悪そうな顔を浮かべた。
「ドイツの気候は我によく合う。また、ドイツ語の発音も好きだ! よって、ドイツの山奥に赴いては修行を繰り返したのだ。そして、いつしかドイツの山々は我を認め、力を授けた! ドイツとマスターカラーを愛することで目覚めた、究極の流派! それがゲルマ」
「要するに、ドイツ語の響きに憧れた痛い奴が身に付けた変態技だな。これは厄介だ」
「くっくっく。さすがは我が嫁だ。侮蔑され、顰蹙を買い、蔑視を向けられ、なおも昂る我が気持ち……! これは、まさしく愛だ!」
さすがに秀至の背中にも悪寒が走った。師が闘いたくないのも無理はない。
「ゆくぞ、少年! お前から勝利を奪い取り、我は彼女を手にするのだぁぁぁぁぁ!」
ゲシュテルンが駆けた。稲妻の如き速さをもって近づき、秀至を殴りつける。あまりの速さに、目で追うのがやっとだった。
必死になって相手の動きに合わせ、防御を試みる。しかし、全てが裏目に出てしまう。スピードで翻弄される秀至に、打つ手は無かった。
「どうしたどうしたぁ! 我の力はこれだけではないぞぉ!」
防戦一方どころか、ほぼ一方的に打ちのめされる秀至。苦し紛れに拳を振るってみたが、虚空を切り裂くだけだった。
「打つ手はないようだな。ならば、今、楽にしてやろう」
高笑う声が秀至の頭に響く。完全にゲシュテルンを見失った。
「とくと見るがいい……。我がゲルマン流仙術の、奥義を!」
気付いた時にはもう手遅れだった。ゲシュテルンの掌底が顎に入り、身体がわずかに浮く。間髪を入れずに上段蹴りが腹に決まった。蹴り上げられた秀至はなす術もなく、空をさまよう。
「くらえぃ! イーウィゲヴィーダークンフトゥ!」
数瞬、辺り一帯が黒く覆われた。視界が晴れたかと思うと、秀至の全身に鋭い痛みが走る。何が起こったのかわからないまま、その痛みに悶絶し、やがて背を打ち付けた。
遠のく意識を繋ぎとめるだけで精一杯だった。
「どうだぁ! 我が奥義、イーウィゲヴィーダークンフトゥの威力、思い知ったか!」
秀至の目の前で、腕を組んでの仁王立ち。苦痛に顔を歪める秀至には、話を聞く余裕すらなかった。
「なるほど、たしかに凄い技だ。この私ですら、ほとんど目で追えなかった」
マスターカラーですら、感嘆の息を漏らした。彼女の正直な感想を貰って気を良くしたのか、ゲシュテルンは今日一番の高笑いをした。
「我が奥義は、高速で急所という急所を正確に打撃する! 一瞬に全てをかける、技の集合体! 我の技量を持って初めて生み出せる代物だ! 少年の意識が残っているだけ、僥倖と言えるだろう」
師は秀至を一瞥し、頷く。
「ふむ。たしかに、今の秀至では勝つことが難しい。私でもその奥義を見切るのは出来ないかもしれん」
「ふは! ふはははっ! 少年! どうやらお前は、師に見切りを付けられたようだな! さあ、彩色拳美マスターカラー! 我ら二人で、最高の恋愛ファ」
「だがそれでも、私とお前が闘うことはない」
遮る言葉は力強かった。師の声だけが、秀至の胸にまで届く。
「ぬうう。この状況を見て、どうして余裕でいられる! お前の弟子は立ち上がることすらできず、こうして這いつくばっているのだぞ! そもそも、お前は今、弟子が勝つのはむず」
「私は弟子を信じている。それ故の余裕だよ」
迷いなき瞳でゲシュテルンを睨む。師の有無を言わせぬ迫力に、さすがの彼も、足を引かせた。
やがて、ゲシュテルンの覆面の下から、少し卑屈な笑いが漏れる。
「よろしい。そこまで言うのなら!」
動けない秀至の頭を掴み、片手で持ち上げた。
「我が奥義で、少年の意識を完全に断ってくれるわぁ!」
秀至を真上に投げる。マスターカラーの表情に焦りが見え隠れしている。
「くっ、秀至……!」
名前を呼ばれた気がした秀至は、わずかに残された意識で師を見遣る。高々と舞い上がる中、秀至は過去の出来事を振り返った。
初めて師に出会った時のこと。今でこそ慣れてしまったが、当時は彼女に対して恐怖心しか抱いていなかった。
彼女に言われた、ある言葉を思い出す。
「私の見立てでは、貴様はなかなかの純真さを持ち合わせている」
純真さ。真心。純粋な気持ち。
「そのピュア・オブ・ハートは得ようとして得られるものではない」
そう、自分が持つ、最高級の才能。ただし、それが生かされたことなどあったのだろうか? 修行を始めて一年経った後に、秀至はその疑問を問うたことがある。
「今はまだ、完全に生かされてはおらん。だが、いつしか必ず、その力は発揮される」
この時は、上手くはぐらかされた様に感じた。たしか、つい先日も同じように尋ねていた。すると、師の反応は変わっていた。
「はっはっは。それでこそピュア・オブ・ハートよ」
秀至には意味が分からなかった。そして、今でもよく分かっていない。
いったい、ピュア・オブ・ハートとはなんなのか。純真さはなんの役に立つのか。
「僕は……」
秀至がそう呟いた瞬間、闇夜のような黒が彼を包んだ。思考を遮り、怖れを抱かせる漆黒。圧倒的な暴力が彼の前に立ちふさがる。
「これで終わりだ、少年! お前の師匠は、このゲシュテルンが! 奪い取る!」
ゲシュテルンの声がハッキリと聞き取れた。奪い取る、という言葉を聞いた時、胸の内に抑えきれない感情が芽生えた。
灼熱する感情。秀至はその感情に身を委ねた。思うがままに、叫ぶ。
「師匠を渡して、なるものかああああああああああ!」
秀至の全身が赤く染まった。いや、正確には、彼が纏っている闘気に色が付いたのだ。
それとほとんど同時に、黒い閃光が走る。秀至は全身に力を入れた。
一刹那の後、視界を覆う黒は消え失せた。衝撃が体を襲ったが、何とか耐えられた。地面に着地すると、壱の型で構える。
赤い闘気を纏う秀至を見て、ゲシュテルンは驚きで目を見開いた。
「馬鹿な、耐えただと! それに、闘気に色が!? なんだ、この力は!」
マスターカラーは大きく口を開け、笑った。心の底から喜んでいるように見えた。
「彩る拳は美しく! それが流派彩色拳美の名の由来よ! 闘気の色付けこそが、我が流派の真骨頂!」
「なにぃ!?」
「膨れ上がった感情を闘気に乗せることで色が付く。闘気と感情が結びつくことで、さらなる力を発揮する! 心の強さがそのまま力となるのだ!」
「心の強さだと!? マスターカラーに対する我が想いだって、引けはとらんはずだ! 少年に出来て、なぜ我には出来んのだ!」
「己の考えを相手に押し付け、欲望のままに拳を振るう貴様では辿りつけん境地だからだ!」
ゲシュテルンがたじろいだ。正にその通りであったからだろう。
「何よりも、秀至にはピュア・オブ・ハートの才能がある」
「なんと! あの噂に聞く、ピュア・オブ・ハートか!」
どうやら恋愛ファイターの中では常識らしい。ただ、自分の身に何が起こっているのかなど、秀至には関係なかった。
「そんなことはどうでもいい!」
秀至が一喝すると、爆風が巻き上がった。
「決着を付けるぞ、ゲシュテルン!」
その語気は、嵐のような激しさを持っていた。額から伝う汗を拭ったゲシュテルンは、軽く笑みを浮かべた。
「決着とは大きく出たな、少年。だが、まだだ! まだ我が技量の方が上で」
「いくぞぉぉぉおおおおお!」
秀至が大地を蹴ると、大きく陥没した。今までとは桁違いの力だ。
不意を突かれたゲシュテルンだったが、秀至の初撃を寸でのところでかわした。速さと技量ではまだ、ゲシュテルンに分がある。
黒と赤。二色の閃光が目まぐるしく駆けまわった。拳がぶつかり合う度に木々を揺らすほどの衝撃が走る。
「こ、この熱き想いは……、まさか……!」
拳を交えながら、ゲシュテルンが呟く。秀至が繰り出す拳からは、ある感情で溢れていた。
「少年! お前は……! それほどまでに愛しているということか!」
確信を持ったように、ゲシュテルンは叫んだ。やや困惑した調子で、「何を言ってる!」と秀至は返す。
「ふん、なるほどなぁ!」
衝撃波を生んだ数が二十に達したとき、赤い光――秀至の動きが鈍った。初めに受けたダメージの影響が、ここにきて現れたのだ。
さらに数合、拳をぶつけ合うと、先に秀至の足が止まった。
「自分の気持ちに気付かぬほどの強い想い……。まさしくお前こそ、真のピュア・オブ・ハートよ。そして、魂を奮い立たせるこの闘い! これこそ恋愛ファイト!」
肩で息をする秀至は、返答が出来なかった。少しずつ呼吸を整え、再び壱の型で構える。
「だが、少年! 我とて負けられんのだ! この想いを成就させるためにも!」
ゲシュテルンの姿が消えた。そして辺りを覆う、暗黒。
「奥義ぃ! イーウィゲヴィーダークンフトゥ!」
秀至は目を閉じた。目で追えぬ速さなら、感じ取ればいい。師に対して、いつもやっていたことを思い出す。慣れ親しんだ感覚を思い起こす。
――正面か!
秀至は自分の感覚を信じ、左足を前に出しながら正拳突きを放った。
正拳はたしかに当った。ゲシュテルンの左腕に。
「惜しかったぞ! 少年!」
そう言い切り、ゲシュテルンの右拳が放たれようとしたところで、彼の動きが完全に止まった。
ゲシュテルンの視線が下に動く。彼の鳩尾には、秀至の本命が見事に入っていた。いつしか師に見せた、咄嗟に放つ一撃。二段構えの拳。
「馬鹿な……この、威力は……」
彼が静かに倒れ込むことで、勝敗は決した。
同時に、二人の闘気は解かれた。秀至の足がふらつく。
「秀至、よくぞ闘い抜いた。これでお前は……」
駆け寄ったマスターカラーの胸の中に、秀至は倒れ込んだ。師は彼の頭を一撫でしてから、やさしく背負った。
「マスターカラーよ……」
苦しそうな息と共に、ゲシュテルンが話しかけた。マスターカラーは少し、哀れみを含んだ目で彼を見る。
「ゲシュテルン……。まだ諦めんのか?」
顔だけを上げ、「いや、私の、完敗だ」と満足そうに言った。
「その少年に礼を言ってくれ。それから」
そこで一旦区切り、「おめでとう」とだけ言い残すと、意識を失ったようだった。
マスターカラーは訝しげな顔をしながら頷くと、ゲシュテルンを置いて去っていくのであった。
三章 師弟対決! 告白という名の闘い!
一年後。
ゲシュテルンとの死力を尽くした闘いの時よりも、秀至はさらに腕を磨いていた。闘気の色付けはもちろん、感情をコントロールすることで、赤以外の色も習得した。師から教わることは日を追うごとに減っていき、いよいよ、彼女の元を離れる時が近づいていた。
またその間、二人の関係に微細な変化が現れた。
秀至が師から距離を置こうとしていたのだ。師もそれに気付いていたようだが、特になにも言わなかった。口数は極端に減ってしまい、何をするにも、どこかぎこちない。ぎくしゃくとした関係が続いた。
そして、気まずい雰囲気が漂う中、とうとうその時が来た。
生命溢れる森の中で。照りつく太陽の下で。赤いカンフー服を着たマスターカラーと白いカンフー服を着た秀至が、向き合う。
「それではいよいよ、最後の組手を行う」
ただ立っているだけ。そこにいるだけのはずなのに、圧倒的な存在感を見せつけ、凛とした美しさが溢れている。
そんな彼女の佇まいを見て、秀至は一つの覚悟を決めた。
「この組手で、全てを出し切れ。今の貴様なら、最後の――」
「師匠!」
普段の彼からしたら、あるまじき行為だった。しかし、声から滲み出る決意の強さに師は気付いたのか、「どうした?」と短く問うた。
一つ深呼吸をして、生唾を一つ呑みこんで、一度天を仰いでから、秀至は目を瞑って叫んだ。
「僕はあなたに! 恋愛ファイトを申し込みます!」
一瞬だけ、マスターカラーは目を見開かせたが、すぐに厳しい顔つきへと移り変わった。
「貴様、何を言っておる」
怒気の混じった声だった。それでも、秀至は臆せず、語り始めた。
「この一年間、ゲシュテルンに言われた言葉がずっと胸の中で引っかかっていました。僕は彼と闘っていた時、一体何に怒り、何を守ろうとし、何を得ようとしたのか?」
俯き加減に秀至は話した。彼の苦悩が見て取れる。
「初めは日常を守るためかと思いました。師匠と修行に明け暮れる日々を守るためだと、そう思ったんです。しかし、その答えにはなぜか納得がいきませんでした。さらに考え続けた僕は、一つの結論に至った。そう、僕は気付いたんです。本当の気持ちに……!」
拳を強く握り、目一杯息を吸い込む。
「師匠! 僕は、いや、俺は! あんたのことが、好きだ!」
腹の底から、心の底から、全てを吐きだした。
その思いの丈を感じ取ったのか、さすがのマスターカラーも少しばかり圧倒されているようだった。
「こ、この馬鹿弟子がぁ! 年がいくつ離れていると思っている!」
「そんなことは、どうでもいいんです!」
有無を言わせぬ一言だった。
マスターカラーは肩を震わせた。怒りに満ちた瞳が、秀至を捉える。
「認めん! 認めんぞぉ! これでは私は、理想の男を作るために、貴様を弟子にしたようではないか!」
「結果的にはそうかもしれません! ですが、この気持ちは本物です!」
睨みあうと言うにはあまりにも暖かく、見つめ合うと言うにはあまりにも殺伐としていた。複雑な感情が渦を巻いた。
やがて、マスターカラーは大きく笑った。
「いいだろう。その恋愛ファイト、受けて立つ。そして、貴様に人生の厳しさを! 敗北を与えてやる!」
それが師の言葉による、最後の警告だったのかもしれない。されど秀至の意志は強く、固かった。迷うことなく、あの言葉を叫ぶ。
「恋愛ファイトォッ!!」
「レディィィィィィ!」
「「ゴオォォォォォォ!」」
互いに赤い闘気を纏って地を駆る。正面から激突し、それぞれの技をぶつけ合う。
闘いは拮抗した。技術の練度、経験、基礎体力。どれも秀至がわずかに劣っていたが、想いの強さ一つでカバーしている。心の強さがそのまま闘気に現れていたのだ。
「なぜ、それほどまでに人を拒むんですか!」
秀至の正拳がマスターカラーの頬を打つ。そのまま連撃が、彼女を襲った。
「ゲシュテルンさんの時もそうだった! 少しは他人を認めたらどうですか!? そうすれば、違う結果が待っていただろうに!」
彼女はその猛攻に怯むことなく、前蹴りを秀至の腹部に決めた。
「貴様なんぞに私の何が分かる!」
「教えてくれなければ分かりませんよ!」
苦痛に顔をゆがめながら、上段蹴りをマスターカラーに見舞わせる。彼女の顎へ、きれいに決まったが、それで止まることは無かった。むしろ、秀至の攻撃の隙を突いて、反撃に出る。
「私はなぁ! 青春の全てを、武道に注いだ! 恋愛ファイトに全てを捧げた!」
今度はマスターカラーの連打。秀至の防御の隙間を抜けて、確実にダメージを与えてくる。
「もがき苦しみながらも、必死になって闘い抜いた! やがて頂点に立った私に待っていたモノ! それは、孤独だ!」
一際気合いの入った後ろ回し蹴りによって、秀至は十数メートルという距離を飛んだ。背を地面に打ち付けながらも、素早く立ち上がった。すかさず駆けようとしたところで、師の異変に気付く。
「好きな人がいた」
どんな打撃よりも鋭く、その言葉は秀至を貫いた。想いもよらぬ発言に、棒立ちとなった。
「当時、恋愛ファイターの頂点に立っていた人だ。彼に恋愛ファイトを挑み、勝ってしまった。私は喜んだが、彼は私の強さに怖れ、去っていった。玉座を明け渡された私に挑んでくる者は、揃いも揃って私を見ていなかった。ゲシュテルンとて、同じだ。私の武術か、世界一という肩書きしか見ていなかった」
「師匠……」
「恋愛ファイトとは何だったのか。私には分からなくなった! 強さだけを求める愚か者しかいないのかと、絶望した! 故に私は! 恋愛ファイトから遠ざかり、同じことが繰り返されないためにも、後進の育成に尽力することを望んだ! そんな折に! せっかく貴様という逸材を見つけたのに! なぜ貴様は……!」
マスターカラーは動揺していた。いつもの見せつけるような強さが、そこにない。今にも泣き出してしまいそうな声だった。
彼女が今、何を望んでいるのかは秀至には分からない。だが、彼女が本音を語っているのであれば、自分も曝け出す必要があると感じた。例え彼女に拒絶されようとも、勇気と覚悟を持って、彼女に見せつけなければならない。
「師匠! あんたは矛盾している!」
「なに……?」
憤怒の形相を作ったマスターカラーは射るような視線を向けてきた。秀至は臆せず、声を振り絞る。
「たった一度の敗北に屈するなと説いたのは誰だ! 流派彩色拳美に不可能はないと教えてくれたのは誰だ! 全部、あんたが教えてくれたことだ! それなのに、自分はたった一度の敗北で全てを諦め、恋愛することすら放棄するなど、愚の骨頂!」
「貴様ぁ! この私が敗北しただと? 愚かだと? 私は負けていない! 勝ち続けてしまったからこそ、恋愛ができなくなった! 貴様の受けた敗北と、私の受けた傷を一緒にするな!」
「同じだ! あんたは負けたんだ! 恋愛ファイトとは、拳を使った、言わば告白! あんたほどの使い手が、拳に想いを乗せられないわけがない! つまり、あんたの告白は相手に受け入れられなかった、振られたということだ!」
マスターカラーは愕然とした表情で秀至を見る。
彼はさらに言葉を繋げた。
「師匠の教えはいつも厳しかった。だが、その中にはやさしさが潜んでいた。いや、師匠がやさしいからこそ、厳しかったのだと、俺は気付いてしまった! 俺はいつしか、師匠の持つ慈愛に心惹かれてしまった! 口では、言葉だけでは語れないこの想い! 全て拳に乗せ、届けてみせる! 恋愛ファイトとは、そのためにある! あんたに恋愛というモノを、思い出させてやる!」
秀至の言葉に聞き入っていたマスターカラーは、一度顔を伏せたあと、高らかに笑った。
「ならば、ここから先は、本気で相手をしてやろう。その言葉に偽りがないか、見せてみろ! 貴様の想いとやらを、私に伝えきってみせろおおおおおおおお!!」
師は咆哮を上げた。猛る魂が闘気に新たな色を付ける。
マスターカラーが纏うは、燦然と輝く黄金の闘気だった。
「お、黄金!? 黄金の感情とは、いったい!?」
秀至は感情の色は四つまでしかないと教わっていた。怒りの赤、悲しみの青、怖れの黒、喜びの黄。これが人の基本感情になぞらえた、闘気の色であるらしい。
「ぬはははは! 感情の色など、基礎にすぎん。基礎を極めてこそ、発現する色もあるということだ! 行くぞぉ!」
金色の光芒が秀至を襲う。先ほどよりもさらに、力と速さは増していた。繰り出される技の数々を防ぐので精一杯だった。かろうじて直撃を免れてはいるが、防御越しにもダメージは蓄積されていく。
同時に、思うことがあった。一つ一つの技が熱い。いや、暖かいのだ。
黄金と暖かさ。いつもその存在を見かけ、恩恵を受けている気がした。その瞬間、脳裏に閃くものがあった。
「そうか、これは、太陽の輝きか!?」
ほう、とマスターカラーの口が動いた。
「素晴らしいな、もう気付いたか。その通りだ!」
マスターカラーは秀至から距離を取った。そして、構える。
「これは感情というより、自我! 己を表現した闘気だ! これぞ『白日天昇の極み』である!」
「自我を表した闘気……」
「そうだ! さらに、この闘気を纏うことでしか使えぬ技がある!」
そう言うと、マスターカラーは手で円を描く。彼女が三周回してから手を引くと、黄金の円だけが残った。
「秘技! 十二色鉛筆大日輪!」
叫びと共に、マスターカラーは円の中心を突いた。円からは赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の虹色に加えて、金、銀、黒、白、灰色の五色の鉛筆を象った闘気が飛び出し、秀至を襲った。
四本までは捌くことが出来たが、五本目を捌き損ねた。残りの七本全てが、秀至を突いた。刺さることはなかったものの、大きな痣となって傷が残った。
「どうだ! 自らの闘気を形と成し、攻撃手段として用いる! 貴様のような未熟者では、この境地にはまだ立てまい!」
秀至は片膝をついた。師の技を前に、圧倒されかけていた。
「そして! 流派彩色拳美最終奥義は! これを基礎として繰り出される!」
足を大きく広げて腰を落とす。右拳は脇腹の辺りに添える。手の平を見せるように左手は前に出す。
「最初に教えた、壱の型!」
右拳の輝きが増していく。秀至は動くことはおろか、立ち上がることすら出来ない。
「拳に己が闘気を集中させ、想いを込める!」
黄金の風が吹き荒れ、大地が揺れた。
「これは単なる突きではない! 突きと共に放たれるは、流派彩色拳美が最終奥義! 『千紫万紅拳』!」
突きに合わせて巨大な黄金の拳が放たれた。地面をえぐりながら向かってくる。
秀至は腕を交叉して身を守ろうとした。が、腕に黄金の拳が激突した瞬間、無意味であることを思い知らされた。
「うあああああぁぁぁぁ!」
黄金の拳は秀至の身体を数十メートルはさらった後、盛大に爆発した。秀至を中心に巨大なクレーターを築き上げ、周囲にあった豊かな緑は残さず消え去っていた。地形を変えてしまうほどの威力。今まで受けたことのない、未知なる攻撃。防ぐ手立てはなかった。むしろ、かろうじて立つことができたのが奇跡と呼べた。
秀至の前にマスターカラーが立ち塞がる。
「どうだ! これだけの実力差を前にして、まだ向かってくるか? 未熟者の貴様が、恋愛を語るのか!?」
彼女の問いかけは無駄だと、秀至は思った。なぜなら、答えは既に出ているからだ。
「俺は諦めない! 流派彩色拳美に不可能はない! それを教えてくれた、あんたのためにも!」
秀至の赤い闘気が、輝きを増した。気合いを入れて「俺は今日、師匠を超える!」と叫ぶと、変化が現れた。
闘気に複数の色が見え始めたのだ。一つ、また一つと増えていく。やがて、七つの色が発現した。
「虹色の輝き!? よせ! 一度に複数の感情を纏えば、貴様の精神が持たんぞ!」
「師匠を超えるには、これくらいのことをしなくては……!」
だがしかし、このまま続ければ精神が自壊してしまうことは、秀至自身が一番良く分かっていた。一世一代の恋愛ファイトが自滅で終わってしまう。
――どうすれば、師匠を超えられるんだ……。どうすれば……!
ふと、ピュア・オブ・ハートという言葉が浮かんだ。それは、いったい何だったのか。いまだに自分はよく分かっていない。その才能があるのならば、今すぐに力を与えて欲しかった。
秀至の頭の中で目まぐるしく言葉が駆け巡る。
自我、真心、虹、太陽、色、ピュア・オブ・ハート。そして、純白。
その瞬間、パズルのピースがはまる様に、あるモノを見出した。
「我が真心は太陽にまで届く! そうだ、これしかない!」
秀至の七色の闘気が混然一体となった。複雑な模様を作ったのは一瞬のことで、すぐに一つの色に染まっていく。
「まさか、この感じは! 至るというのか……、この極致に!」
秀至の全身が白く煌めいた。
「見えた! これぞ『白虹貫日の極み』だぁぁぁ!」
哮り立ち、強き想いが闘気を爆発させた。白い闘気を纏った秀至の背後に、白虹が浮かんだ。
「白虹貫日……。白き虹を持って、太陽を貫くと言うのか……」
マスターカラーは微笑んだ。
「ならば! 全身全霊をもって、貴様の真心を、その想いをぶつけてこい! 今の貴様ならば、教えずとも分かるはずだ!」
「はい! 師匠!」
お互いが壱の型で構える。精神を集中すればするほど、自分が何をすればいいのかが分かった。
「はぁぁぁ、流派!」
「彩色拳美が!」
「最終ぅぅぅぅうう!」
「奥義ぃぃぃぃいい!」
二人は目を瞑り、さらなる精神統一を試みる。極限まで研ぎ澄まされた感覚は、時を止め、音を掻き消す。
異様なまでの静寂が、周囲を包む。
そして、二人は同時目を開いた。
「「千! 紫! ぶぁん、こぉぉぉぉけぇぇぇぇぇぇぇぇぇん!!」」
叫びと共に放たれた、黄金と純白の拳。二つは然る距離を渡ったあと、激突した。
強大な力のぶつかり合いは大地を揺らし、頭上に浮かぶ雲を払った。
巻き起こる爆風はあらゆる物をなぎ倒す。大地から伝わる力は、少し離れた所で隆起現象を引き起こした。
二人の人間が生み出した力はあまりにも大きく、畏怖を与える。だが同時に、その光景の美しさに心を奪われるのもまた、事実。かくも不思議で、優美な眺めだった。
「ぬはははは! やはり、経験の差が出たか! お前はまだ、私には遠く及ばない!」
力は拮抗しているように見えたが、ほんのわずかに、マスターカラーが押していた。秀至の顔には、焦りと苦しみが浮き彫りとなって出ていた。
――やっぱり、師匠に勝つのは無理なのか……? こんなにも強い人に、僕なんかでは……。
秀至が諦めかけた、その時。
「馬鹿者ぉ! 何を諦めかけている! お前はそれでもピュア・オブ・ハートかぁ!」
聞き覚えのある声が、右側から聞こえた。目を向けると、黒いカンフー服にドイツ国旗のマスクを被った男がいた。間違えようがない。ゲシュテルンだった。
「お前に敗れ、マスターカラーを諦めた我はどうなるのだ! 勝って彼女のハートを掴まんかぁ!」
彼はこの暴風が吹き荒れる危険地帯に耐え、必死に叫んでいた。
「これはお前にしか出来んことだ! やり遂げてみせろ!」
続いて、獣の咆哮。声の発せられた左側を見ると、巨大なヒグマがいた。闘気に目覚めるきっかけを与えてくれた、あのヒグマで間違いなかった。
「ゴルゥアアア!」
ヒグマは叫んだ。秀至は即座に脳内変換し、『俺に勝っておきながら、ここで諦めることは許さん!』と言っているように聞き取っていた。実際には何を言っているのかは分からない。
「ゴォォォォフォォォオオオオ!」『てめぇの想いは、その程度かああああ!』
ヒグマもその場に留まるよう、必死に耐えている。
秀至の目に、涙が浮んだ。一人では、おそらくすでに諦めていた。
そう、ヒグマやゲシュテルンとの闘いの時も、傍にいてくれた人がいた。彼女に感謝し、誓いを立てた。
「師匠……! 俺はあんたと、添い遂げる!」
秀至の左拳に力が入る。純白の闘気が集まっていく。
圧倒的な集中力と信じる力。それこそが、ピュア・オブ・ハートの力だった。
「千紫万紅・二重拳!」
解き放たれる、もう一つの拳。師が認める、二段構えの拳。もう一つの本命。
形勢は逆転した。白い虹が太陽を貫こうとしている。
「くっ、負けてなるものか……、こんなところで!」
懸命に耐えようとするマスターカラーだったが、すぐにハッとした顔となった。
何かに気付かされたような、何かに胸を刺されたような、驚嘆とした表情だった。
「なるほど……。これがお前の……」
彼女が言い切る前に、周辺は白に包まれた。爆音と閃光が広がった。
白き光が天を貫き、地球の外にまで伸びた。それは一つの剣のような鋭さを誇っており、切っ先は太陽に向けられていた。
終章 天地無双の恋愛ファイト
秀至は夜の森の中を、懐かしみながら歩いていた。服装はカンフー服ではなく、ジーンズにTシャツという簡素なものだ。
かつての修行の地をぐるりと見回した後、夏の夜空を見上げた。極光が美しかった。
今では夜になると、極光が必ず現れるようになった。世界中のどこでも見られるのだが、特に長野の山奥で見れる極光は格段に美しい。
これは自然現象によるものではない。秀至とマスターカラーが作り上げたモノだ。白き刃が天に向けられ、それが砕け散った後、破片が世界中の空を覆った。破片は夜になると輝きを発し、極光の様に見せるのだ。一つの恋愛の決着が、このような奇跡を生んだ。
師弟対決から数年が経っている。
千紫万紅・二重拳を放ち、視界が白に埋め尽くされた時、秀至は意識を失っていた。目が覚めると、マスターカラーの姿は無かった。
ゲシュテルンやヒグマ達と一緒になって辺りを隈なく捜したが、彼女は見つからなかった。悲しみに暮れながらも秀至は一人と一匹に別れを告げ、数年ぶりに自宅に帰ることにした。何年も無断で留守にしていたため、行方不明扱いとなっており、両親に泣きつかれた。秀至はしばし、家族と過ごすことで心の傷を癒した。
家に帰ってから一週間後、家族の理解を何とか得て、また家を出た。師を探すため、世界中を回った。その途中、ゲシュテルンと久々の再会を果たした。彼からとある情報を聞き入れ、再び長野の山奥に戻ってきたのだ。
秀至は決戦の地に踏み入れた。変り果てた地形はそのままだったが、数年という年月は周辺に緑を与えていた。
ちょうど千紫万紅拳がぶつかり合ったところに、鮮やかな赤色が見えた。秀至は驚かなかった。彼女はそこにいると、信じていたから。
「お久しぶりです、師匠」
近寄って、声をかける。振り向いた赤のカンフー服を着こんだ女性は、切れ長の目を大きく開かせた。
「よく、ここだと分かったな」
「ゲシュテルンさんに教わりました。師匠は夜になると闘った地に赴く癖がある、と。思い入れが強いほど、その地に向かいたくなると聞きました」
師は苦笑いを浮かべた。
「あやつめ、余計なことを……」
愚痴をこぼすと、すぐに「して、何用でここへ来た?」と問うた。
ポニーテールがよく似合う、凛々しい姿。昔となんら変わっていない。
「師匠。俺はまだ、あなたの返事を貰っていない」
「返事、か……」
彼女は一旦目を閉じ、なにやら考え始める。しばらくして、不敵に笑った。
「ならば!」
「ならば?」
「その言葉、私の拳で語ってみせようぞ!」
言葉の意味をすぐに理解した。
「はいっ、師匠!」
秀至の声は歓喜で溢れていた。そう、もう答えは出ている。
「ゆくぞ! 恋愛ファイトォッ!!」
「レディィィィィィ!」
「「ゴオオオオオオオォォォォォォ!」」
二つの拳がぶつかり合い、天と地を震わせた。
極光というカーテンが揺らぎ、三日月が姿を見せる。月は二人の闘いを見て、やさしく微笑みかけているようだった。
天より祝福を受けし二人の愛に、勝るものなし。
完!!
後日談 極光に輝く愛の告白!
とある格闘家がいた。彼は不器用だが、実直な男だった。鍛錬を積み、いつしかその名を世界に轟かすことを夢みていた。
ある日、彼に好きな人が出来た。相手は町一番のパン屋の看板娘だった。
一目ぼれしてしまった彼は、鍛錬がてら働いている、飲食店の仕事の時でも、彼女のことを考え続けた。口下手の自分が彼女を落とすには、どうしたらいいのか。それだけを考えていた。
ただし、あまりにも考え過ぎたため、仕事中に呆けていたので店長に殴られてしまった。
その瞬間、彼は驚愕した。殴られたことで受けたのは痛みだけではない。店長の怒りも感じ取れたのだ。彼は決意した。自分に出来ることはこれしかないと、そう思えたのだ。
そして、彼女を呼び付け、殴ったのだ。
殴られた彼女は困惑しながらも殴り返した。なぜかそうしなくてはならない気がしたのだ。二人は殴り合いの結果、お互いを深く知ることが出来た。次の日からは町一番のバカップルにまでなっていたらしい。
これが、恋愛ファイトの始まりである。
それから時が流れ、現在。極光が現れた日を境に、恋愛ファイトは世界中に広まった。
極光を見るとなぜか、無性に拳と拳で語り合いたくなり、さらになぜか、拳で殴ると想いを伝えやすかった。それが恋愛ファイトを驚異的な早さで流行らせたのだ。
世界が格闘と愛で溢れる一方、とある脅威が地球に迫っていた。
※
彩色拳美マスターカラーと師弟の関係を越えてから、早くも四年という月日が去った。
秀至は今、かつての修行の地であると同時にマスターカラーと幾度も拳を重ねた、長野の山奥に来ていた。白のフロックコートを身に纏い、万感の思いを持って空を見上げる。
朝焼け混じりの晴天に、うっすらと残る極光。かくも幻想的な眺めだった。
「秀至、待たせた!」
背後から声がした。顔を向けると、一頭のヒグマが全力疾走している。そしてヒグマの背には、純白のウェディングドレスに身を包む彩色拳美マスターカラー。腕を組んでの仁王立ちに加え、大層嬉しそうな顔をしていた。見慣れぬ恰好であっても、凛々しさは変わらない。
二人と一匹の距離は近づいていく。残り十数メートルというところで、マスターカラーと秀至の二人は飛んだ。ヒグマはこけた。
「答えろ、秀至! 流派、彩色拳美は!」
「恋する太陽!」
マスターカラーの、豪雨の如き烈しさを持った拳が飛んでくる。
「献身!」
それをやさしく丁寧に受け止める秀至。
「情熱!」
そして二人の苛烈な打ち合い。
「「相思相愛!!」」
拳と拳がぶつかり合い、二人の視線は重なった。
「「見よ! 両頬は、赤く染まっているぅ!」」
その言葉通り、二人は頬を染めていた。これが流派彩色拳美の挨拶らしい。ヒグマはポカンとしている。
秀至は師の拳を包むように握って、微笑んだ。
「師匠、遅かったじゃないですか」
「うむ、こういったヒラヒラとしたのはどうにも慣れん。おまけに、似合っているか不安だったのでな。どこか可笑しな所は無いか?」
ほんの僅かに恥じらいを見せながら、左手でスカートの裾を持ち上げる。茶長さのシンプルなデザインをした、ウェディングドレス。いつもと違い、随分と華奢に見えた。
「はい、とても美しゅうございます」
師は秀至の頬を無言で殴った。照れ隠しであるのは、まさしく言うまでもない。
改めて向き合った二人は、空を見上げる。極光は既になくなっていたが、その代わりに、燃え上がるような朝日が美しい。
「随分と近づいてきたな」
「はい……」
空を見つめる二人は朝日を見ていなかった。その頭上にあるのは、歪な月。否、地球に落下しようとしている、小惑星だった。
「直径数十キロに及ぶ、巨大な小惑星。様々な対策を行ったものの、今なお、地球に向けて驀進中だ。地表から可視出来るほど近づいてしまった『奴』に対して、人類に打つ手はなし。多くの者達は諦めの境地に至っている」
「はい。しかし、これは仕方ないと思います。かつてないほどの、天災なのですから」
師は口角を釣り上げ、秀至を見る。
「では秀至。貴様はもう諦めているのか?」
秀至は目を合わせると、同じように笑った。
「いいえ、師匠。僕はまだ諦めていませんよ」
二人は手を繋ぎ、もう一度空を見上げる。いや、歪な小惑星に対して、不敵な笑みを浮かべているのだった。
「ふふん。そうだとも! 結婚式は、これぐらい派手でないとな!」
「ええ! 行きましょう、師匠!」
不穏な気配を感じ取ったヒグマは猛然と走り出した。
「極めし我らに、今更道理など通じぬ!」
「はいぃぃぃぃ! 師匠ぉぉぉ!」
師からは黄金の闘気が、秀至からは純白の闘気が溢れだす。ヒグマは自分のことを忘れ去られていると悟った。
地が震え、大気が震え、ヒグマが震えた。
「白日天昇の極み!」
「白虹貫日の極み!」
闘気が二人の足に集中し始めた。振動が高まる。
そして。
それは、さながらロケットの発射の如く。強烈な爆風と爆音を残し、二人は宙を目指して飛びあがった。なお、ヒグマは気絶した程度で済んだ。
凄まじい速度で飛翔する最中、マスターカラーがなにかを思い出したかのように、ハッとした顔を浮かべた。
「そうだ、貴様に言い忘れたことがあったな」
「なんですか?」
やや言いにくそうに、口ごもりながら、師は言葉を紡いだ。
「私の本名は、彩だ。今後はそれで呼んでもよい」
秀至は嬉しく思った。知らず知らず、手を握る力が強まる。また、ふと思った疑問がそのまま口から突いて出た。
「師匠、そう言えば、名字の方は?」
「そんなものはお前から貰う。だから、どうでもいい」
秀至は初めて実感した。これから先、師と生涯を共にする仲になったのだと。ならばこそ、なおさら小惑星が邪魔ものに見えた。人の恋路を邪魔する者は、馬に蹴られるか爆発しなくてはならない、と感じた。
まもなくして、二人は成層圏を突破し、中間圏にまで辿りついた。小惑星は熱圏に踏み込もうとしており、その巨大さに秀至は圧倒されかけた。
「師匠! これからどうしますか!?」
「案ずるな! 世界を覆っている極光は、我らの心の残滓! 言わば我らの一部! これを使わぬ手はあるまい!」
師は深い呼吸をして集中力を高めた。黄金の闘気が膨れ上がっていく。
「闘気を行き渡らせろ! 地球に住まう全員との対話を試みるぞ!」
二つ返事をしてから秀至も師に習った。二人の闘気は見る見るうちに地球を覆っていく。
しばらくして、地球全員の心と繋がったと確信できたのか、マスターカラーが叫んだ。
「聞けぇぇぇい、地球人共!」
彼女に地球人である意識があるのか気になるところだ。
「我が名は彩色拳美マスターカラー! 世界最強の、『女』の恋愛ファイターだ!」
恋愛ファイトの流行と共に、彩色拳美の名前は広まっていた。どよどよとざわめきが広がる。なぜ彼女の声が聞こえるのか不安になる者や、天の助けだと敬う者、彼女と心が通って喜びに震える変態が一名など、様々な想いが溢れた。
「私は今、かの小惑星を破壊しようと試みている! しかし、一人二人の力ではさすがにどうにもならん! だから力を貸して貰いたい。やることは簡単だ! 我らに合わせて、拳で天を突けばいい!」
マスターカラーの言葉と共に、イメージが何となく伝わっていった。なんとも便利で万能な闘気である。これも全ては、彼女の力が地球全体に恩恵を与える太陽を象っているからかもしれない。
「助かりたければ! 地球を救いたければ! 想いの丈を全て、その拳に託せ!」
(ふっ。嫁には出来んかったが、この想いを全ておm)
「貴様だけは黙ってろ!」
変態一名がしゅんとしたところで、秀至とマスターカラーは頷き合った。
二人は手を絡めて手をつないだ。いわゆる恋人つなぎである。そのまま、流派彩色拳美が壱の型を構えた。秀至は左手に、師は右手に闘気を集中させる。
「流派!」
「彩色拳美が!」
「「最終奥義!」」
地球全体が静寂に包まれた。人々の意志が、一つになろうとしている。闘気が高まるにつれて、地球がわずかに震えた。
そして、その時が来る。
「千!」
「紫!」
「「究ぅぅぅ極、万紅けぇぇぇぇぇぇぇん!」」
束ねられた幾多の想いを乗せて、究極の拳が小惑星に向かって放たれた。小惑星に激突すると、接近の速度を急激に抑えた。ただし、押し返すには至らない。二人は苦悶の表情で必死に技を出しているものの、かろうじてその場に留めるのが限界であった。
秀至から苦しい吐息が漏れた。相手を押し返すには力がまだ足りないということを悟り、徐々に接近してくる小惑星に怖れを抱いた。マスターカラーと手を握っていなければ、諦めていたかもしれない。そう、彼女がいるからこそ、限界を超えようと頑張ることが出来た。
だがしかし、全ての人が彼らと同じというわけではない。多くの者たちが力を使い果たして、地面にひれ伏していた。
徐々に諦めの色が濃厚になっていくのを感じ取ったのか、マスターカラーが叫んだ。
「足を踏ん張り、腰を入れんかぁっ! そんなことでは石っころの一つ、跳ね返せんぞ! この軟弱者共がぁ!」
彼女の叱責が地球を駆け巡る。それでも、地に膝を付ける者達は増え続けた。
「何をしておる! 自ら地に膝を付けるなど、勝負を捨てた者の、することぞぉ!」
一部の者達は気付かされた。人類の存亡を賭けた勝負を自ら捨てるという、その行為。それは、他者の命まで見捨てる行為なのだ。この勝負だけはどんなことがあっても、最後の最後まで抗わなければならない。
「立てぇ! 立ってみせぇい!」
ある程度の者達は再度立ち上がり、拳を天に向けて放った。彼女の言葉によって自らを奮い立たせることができたのだ。とはいえ、それでも立ち上がる気力を持てていない人の方が多い。
追い討ちをかけるように、小惑星の進む速度が増した。とうとう熱圏に差し掛かり、その表面を真っ赤に染めた。暗澹とした雰囲気が流れ始める。
無論、秀至とて負の感情が高まっていることに気付いている。どうにか流れを変えたいとも思っている。ただしかし、彼の場合、今と似たような場面を思い出していた。あの時の――あの師弟対決の時の記憶が呼び起されていたのだった。
自分も諦めかけていた。だが、友人達が応援してくれたことで、気付けた気持ちがあった。隣にいる彼女を想えばこそ、自分はあそこまで頑張れた。
ならばこそ。
「みんな、叫べ! 愛する者の名前を! 恥ずかしがらずに、叫ぶんだ! その想いこそ! 究極の力になる!」
秀至の声によって、戸惑いが生まれた。それを口にするのは、容易なことではない。ましてやこのような状況で言えるはずがなかった。
彼は知っていた。導きが必要なのだ、と。
「僕は叫ぶぞ! そう、僕はあなたが……。あなたが……」
意を決し、彼は導となった。世界中に聞こえるよう、愛を轟き叫ぶ。
「お前が好きだあああぁぁぁ! お前が欲しーーーーーい! 彩ぁぁぁぁぁぁ!」
その想いがどれほど強いものなのか。手を握っている分、嫌と言うほど伝わったようだった。マスターカラーは顔を真っ赤にし、眉根を下げ、口を震わせている。
「こ、この馬鹿弟子がぁ! 私とて愛しているに決まってるだろぉが! いちいち言わせるな、恥ずかしい! だぁからお前は! アホなのだぁぁぁ!」
二人の羞恥心と愛する気持ち。加えて、それを口に発することが出来る勇気。それは地球全体に伝播した。
人々から戸惑いと迷いが消えた。一人、また一人と、好きな者の名を叫ぶ。
すると、極光が一つの花を作り上げた。それは初めて目にする、可視化された愛の形。人々が叫ぶごとに花の数は増してゆく。やがては彩り豊かな花によって、地球全体が覆われた。
「これだけの想いがあれば……! まとめるぞぉ、秀至!」
「おおう! ピュア・オブ・ハートの名にかけて!」
手をからめて、強く握る。二人は様々な想いのこもった愛を、舞いながら束ねていく。
「千!」
「紫!」
それは舞踏のように激しく、華麗で。
「「 ラ ー ブ ラ ブ !!!!!」」
烈火の如き熱さと勢いを持って。
「「ぶぁぁぁん、こぉぉぉぉけぇぇぇぇぇぇぇぇぇん!!」」
重ね合わせた掌で、二人は打ち出した。地球全土の愛を、打ち出したのだ。
多彩な色模様を含んだ閃光が、小惑星を貫いた。くっきりと、ハートの型を残して。
「「爆発!!」」
二人の掛け声に合わせて小惑星は爆発した。まるで、「お前らがな!」と叫ばんばかりの盛大な爆発だった。
ハートを象った闘気が世界に溢れた。それは、まさしく千紫万紅の輝き。壮麗でありながら珍妙でもあり、筆舌に尽くしがたい光景だった。
小惑星の破片が地球に降り注いだ。どれも熱圏で燃え尽きてしまう、小さなものだった。数え切れないほど多くの流星が見れた。
「地上から、あの流れ星を見てみたいですね」
「ならば、どちらが先に地面へ降り立つか、勝負するか?」
彩が不敵に笑う。秀至もつられて、笑い返した。
「望むところです!」
足に闘気を溜める。二人の考えることは同じだった。
「恋愛ファイトォッ!!」
「レディィィィィィ!」
「「ゴオオオオオオオォォォォォォ!」」
燦然と輝く地球に向かって、二人は降りていった。
災厄をも嫉妬させた、地球の愛。邪魔立てすることなど、叶わない。
絢爛豪華な挙式を済ませた二人に幸があらんことを。
完!!