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ギャップ's  作者: ヴルド
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第八章 回帰倶楽部へようこそ

 第八章 回帰倶楽部へようこそ


「ったく……アイツはなにやってんだよ」

 そんなつぶやきが、礼香の口から漏れる。

 響歌はその言葉を、笑ったまま聞いていた。

 いつだって、どんなときだって、真木文紀という男は回帰倶楽部の中心にいる。

 そのことは、彼がいない場合、回帰倶楽部が良く口にする話題が、常に彼のものであることからもわかることだった。

 不思議と、苦笑が浮かぶ。

 そんな人間を自分が好いているということに対する自慢にも似た気持ち。

 恐らくそれは、人を見る目が自分にあるということに対する自負から生まれてくるのだろう。

「聞いてる、響歌?」

 礼香の顔が自分の顔を覗き込む。

「なんですか、礼香さん」

「やっぱ、聞いてなかったのね……あんた、また、あいつのことを考えてたの?」

 ため息を吐き出し、頭を抱える礼香。

 そんな礼香に、先程の言葉を肯定する意味も込めて響歌は頷いてみせた。

「相変わらず、アンタは恋する乙女をしているね」

 それをかわいいと思っていると、礼香はその思いを込めて、響歌の頭を撫でてくる。

 そんな礼香の手を、響歌はただ黙って受け入れた。

 数日前の出来事を思い出す。

 自分が今まで秘めていた思い。そのすべてを打ち明けたあの日のことを。

 あの日以来ずっと、文紀は自分の元にやってきてはいない。

 それがどんな意味を持つのか、わからないほど、響歌は鈍くなることは出来なかった。

 恐らく、文紀は自分ではなく回帰倶楽部の全員と歩んでいくことを決めたのだろう。

 文紀は否定するだろうが、文紀の本質は、どうしようもないほどに寂しがり屋な人間だ。

 文紀が自分ではなく、周りに変化を促すのは、確固たる自分というものを持っていることが、他人をより強く感じることが出来るからだと本能的に知っているからだろう。

 自分とは違う考え。自分とは違う物事の捕らえ方。

 そうした違いを感じることこそが、他人を感じることなのだと文紀は本能的に知っている。だから、自分たちのような特異な人間も受け入れることが出来た。

 そんな彼が自分ではなく、みんなを選ぶこと。

 それは正直に言えば、響歌にとって予想の範疇にあった。

 けれど、それでも響歌は文紀が考えるみんなの中にいる一人ではなく、特別な一人になりたいと思ってしまったのだ。

 それが自分の恋心から出たエゴだと、響歌は自覚していた。

 だから、響歌は返事すらしてくれない文紀を責めるつもりはない。

 文紀の意に沿わない願いを抱いた自分こそが悪いのだと、そう考えていた。

 だから、早く響歌は文紀に会いたかった。

 文紀に会い、何も気にしていないというような態度でまた回帰倶楽部として集まれる時を待ち望んでいた。

 胸の中で、ちくりと針が刺さったような痛みを響歌は感じる。

 その痛みを吐き出すために、響歌はため息を吐き出した。

「響歌?」

「……なに?」

「なにか……あったのか?」

 淡々と答える響歌に一瞬たじろぐ礼香。

 その姿を見て、響歌は自分の顔に笑みを浮かばせる。

「ううん……ただ、ちょっと……体の調子が悪かっただけ」

 響歌が元々酷い喘息を患っていたことを、古い付き合いである礼香は知っていた。

「なら、ちょっと休む? あんた、顔色……悪いよ」

 精神的な疲れもまた、喘息の症状を発生させる原因となる。

 恋心から目を背け、自分を騙そうとする心が、その疲れを引き起こしたのか、自分の息が上がるのを響歌は感じた。

 久しぶりのその発作に、響歌は倒れそうになる体を必死に支えようとする。

 その様子を見かねて、礼香が響歌の肩を背負う。

「ごめんなさい」

「いいさ、少し先に公園がある。そこに行くわよ?」

 その肩に支えてもらいながら、響歌と礼香は近くにある公園へと向かった。

「ちょっとあたしは、なにか飲み物でも買ってくる。だから、あんたは大人しくしておくんだよ」

 ベンチの上に座らされ、礼香が歩み去るのをぼんやりとした頭で把握して、軽く頭を下げた。

 視界が暗くなり、ぼんやりとした頭が過去を思い出させる。

 響歌は昔の頃から公園というものが大嫌いだった。

 昔から小児喘息を患っていた響歌は、親から体の弱さを克服するために運動をさせられていた。

 子供の頃から楽しく遊ぶのではなく、義務や健康のための運動を行う。

 それがどれだけ人として不健康なことか。

 周りにいる礼香は男の子すらも上回る活発さを持ち、実に健康そうだった。

 そんな礼香が、響歌は羨ましかった。

 恐らく礼香の親は、響歌が言われたような言葉を口にしたりはしないだろう。

「あんたみたいな子、産みたくなんてなかった」

 ぼんやりとした頭が、普段は心の奥底に沈めているはずの記憶を思い出させる。

 その言葉は、響歌の看病に疲れた母親の口から漏れだした言葉だった。

 子供の頃、夜中に発作で目覚めた響歌。

 それを必死に看病し続けた響歌の母、その精神は次第に追い詰められていったのだろう。

 眠っていると思っていた我が子に、そんなことをつぶやくくらいには。

 今でこそ落ち着きを取り戻した響歌の家。

 しかし、響歌の喘息がひどかった時は、酷い有様だった。

 娘の病気とその看病、仕事の疲れに心を病み始める母親。そして、そんな家庭を見ていられずに、仕事へと逃げた父親。

 過去を思い出す、響歌の胸の中で、痛みが更に酷くなり、呼吸が再び苦しくなるのを響歌は感じた。

 それでも今、響歌の家が家族としての形をとどめているのは響歌の喘息が落ち着いてきたために、母親の負担が軽くなったこと。そして、両親のどちらともが家以外の居場所を見つけたからである。

 父親は仕事、母親は以前から趣味であった料理が認められ、料理教室を開いたこと。

 そうして身体が健康になった響歌の家に普段、家族はいなくなった。

 それが自分の心を少しずつ追い詰めていくのを響歌は感じていた。

――必要としてほしいのは……私、か。

 自然と二つのいきぐるしさから、響歌の目に涙が浮かぶ。

――息が苦しい。

――生きることが、苦しい。

 そんな思いが、響歌の心中に浮かぶ。

「あれ?」

 苦しさから頭を下げていた響歌の頭上から、声が響く。

 その声を聞いて、響歌は顔を上げ、驚愕した。

「こんなところで、なにをしているのかな?」

 数日前、自分に告白してきた男がそこにいた。

 

 突如として鳴りだした携帯の音に、文紀は体をびくりと動かす。

 周囲から集まる視線。

 その視線に手で謝罪の意志を示しながら、文紀は外に出る。

「真木!」

 文紀は電話先から聞こえる声から、電話先の相手が礼香であることを確信する。

「礼香か……どうしたんだ? 悪いが、俺はちょっと用事があって……」

「それどころじゃない! 早く、早く来い!」

「……どうした?」

 礼香の声にただ事ではない雰囲気を感じ取り、文紀は礼香の言葉に集中する。

「響歌がさらわれた」

「…………そう、か」

 ついに、来るべき時が来たのかと文紀は覚悟を決める。

「そう、かって! あんた、なに冷静に……!」

「今は説明している時間はない。どこに連れて行かれたか、わかるか?」

「あ、え……えーっと、あたしたちの家の近くにある公園から、繁華街の方へと連れ去られたみたいだ」

「悪いが、そっちからも追ってみてくれるか?」

「そんなこと、あんたに言われるまでもなくやってるよ!」

 力強く返ってきた返事に礼香がパニックから脱したのを確信してから、文紀は携帯を切った。

「せんぱい?」

「文紀ちゃん?」

 そんな文紀に、音貴と姫子の声がかかる。

「音貴。悪いが、ここから繁華街までの最短ルートを案内してくれ。姉さんは、学校の庵先生に一報を」

「え? え?」

「…………なにか、あったんですか?」

 取り乱す姫子と違い、音貴は文紀になにかあったのかと問い詰め、状況を理解しようとする。

「響歌がガラの悪い連中に連れ去られたみたいだ」

 その言葉を聞いて、すぐに手元に持っていた新聞を姫子に預ける音貴。

「姫子せんぱい。片付け、おねがいします」

「え、あ……うん」

「姉さんは、その片付けが終わった後……庵先生に学校側から、なにかアクションがとれないか、聞いてみてください」

 実際になにか行動を起こしてくれるとは思わない。

 だが、背丈も小さく、体を鍛えてもいない姫子を喧嘩が起こるかもしれない場所に連れて行くことは出来なかった。

 自分の前を走り、繁華街へと向かう音貴の後ろを追いかけながら、再び文紀は携帯を取り出す。

 連絡先は礼香だ。

「もしもし、礼香。今、どこにいる?」

「驚かすんじゃないよ、真木」

 ひそひそと小さな声で、こちらに声を伝えてくる礼香。

「礼香。お前……まさか……」

 自分で響歌を助けようと、無茶なことを考えているのではないかと文紀は危惧する。

 そして、その危惧は当たらずとも遠からずと言ったところであったらしい。

「…………」

 不穏に黙り込む礼香を制止するために、文紀は走りながら必死に考える。

「奪い取って、すぐに逃げれば……あんたじゃなく、あたしにだって」

「はぁ……」

 案の定、といった所か。

 無茶な考えを口走る礼香に、文紀はため息をつく。

「なによ、これでもあたしは真剣に考えて」

「確かに、今は非常事態だ。でも、それをするのは……あくまで最後の手段にしてくれ」

「なんで!」

 文紀の言葉を聞いて、納得できないと言わんばかりに噛みついてくる礼香の声に文紀は答える。

「俺は、お前も守りたいからだ」

 激高する礼香に、文紀はそう告げた。

「え……」

「確かに、お前ならもしかしたらあいつらから、響歌を奪い取れるかもしれない」

 口ごもる礼香に畳みかけるようにして、文紀は言葉を告げる。

「けど、そこで、もしなにか手間取ったら……それは、お前が……暴力を振るわれるかもしれない事態を呼び起こすんじゃないのか?」

 文紀の言葉に、礼香は押し黙る。

「そうしたら、お前は傷つくと思う。だから、そういう事態は俺に任せておけ」

 苦笑しながら、文紀は最後に付け加える。

「こういう時は男の出番だろ?」

 だれかを守るために力を振るう時。

 その時は、今をおいてほかにはないだろう。

「……わかった……けど、いざとなったらあたしは……」

「ああ、その時は……頼む。今、響歌はどこだ?」

 絶対にその時が来ないように祈りながら、文紀は礼香に問い掛ける。

「今は大体、住宅街から繁華街に向かっている所だと思う」

 住宅街から繁華街の間には、所々未開発の畑が広がっている。

 丁度住宅街と繁華街の中央にある山に建てられた、文紀が以前通っていた中学校とその麓には特にそうした場所が多く、犯罪の温床になる可能性を指摘されている場所だった。

 そのため、警察や市民団体による巡回なども良く行われている。

 しかし、今の時間は丁度、部活動に所属していない学生が帰る時間、部活動に所属している学生が自宅に帰る時間、どちらにも合致しない時間だ。

 そういった時間ならば巡回する警察官を良く見ることが出来るが、今の時間では巡回に通りかかった善意の第三者による、響歌の保護を期待するのは難しいだろう。

「音貴、俺の出身中学側だ!」

 路上演奏をしている内に得た土地勘なのだろうか、地元に住む文紀も知らない道を選んで最短ルートを走る音貴に指示を出しながら、文紀は考える。

 響歌を捕まえた連中はなぜ、文紀が通っていた中学校の方へと向かったのか。

 あの地方には特にこれといった建物などはない。

 ただ田畑と森林が広がっているだけだ。

 そこで響歌に乱暴を働く気だろうか。

 そんな思いが浮かび、知らず知らずのうちに文紀は歯がみする。

「せんぱい」

 文紀が自分が歯を噛みしめていることに気付いたのは、不意に振り返った音貴が自分に声をかけてきたことからだった。

「ん、どうした?」

 余裕のない声が、文紀の口から漏れ出す。

「どっしり、構えていてください。みんな、指示に従ってます」

 文紀の情けない様子に気を遣ったのか、自分を勇気づけようと言葉を発する音貴。

「せんぱいなら、大丈夫です」

 音貴の言葉を聞いて、文紀は苦笑する。

 数日前に見せた音貴が持つ、文紀に対す絶大的な信頼と尊敬。

 それがこの状況では、やけに心強いものに思えた。

「確かに……みんな、俺に従ってくれているんだもんな」

 その気持ちを重いと、負担に感じないと言えば過去の自分が嘘になる。

 しかし、文紀にとって、そうした自分を必要と感じる気持ちは何よりも嬉しいものだった。そして、自分の言葉を信じて響歌を助けるために協力してくれる友人たちの存在も。

「これだけ、周りに恵まれたんだ。なにか緊急事態が起こっても、常にハッピーエンドにしなくちゃな」

 あの時とは、違うのだから。

 心の中で小さくつぶやいた瞬間、文紀の脳裏に閃光が走る。

 突如として感じた閃き。

 その閃きに身を任せるか否か。文紀は迷い、足を止めてしまう。

 文紀をおいて、前を走る音貴。

「音貴!」

 声をかけても、その声は聞こえていないようだった。

「礼香、悪い。音貴に電話してくれ、俺は別行動を取る!」

「え、ちょ……真木!」

 礼香と繋がったままだった携帯を切り、文紀はある場所へと歩き出す。

 文紀と響歌が通っていた中学校は、謳祖学園に近い位置にある。

 そして、その近くに図書館もあった。

 あの事件が起こった現場でもあるビルとビルの間に残された公園。

 文紀が向かうのは、そこだった。

 走りながら、文紀はあることについて考える。

 それは回帰倶楽部を設立するにあたって、考えなければならなかったこと。

 回帰倶楽部設立において、必要だった教師受けのする理由。

 庵に考えてもらったその理由の中にある原点という言葉について、文紀は考える。

 静森響歌との付き合いが始まった原点。

 それは間違いなく、あの公園での出来事だろう。

 そして、その出来事が終わった後の文紀を取り囲んでいた状況。

 そして、弱り切った文紀の心。

 そのすべてが、響歌の行動を強制したと文紀は考える。

 自分を助けてくれた人間が不条理にも、その出来事を切っ掛けに追い詰められていく。

 響歌はあまりそのことに触れなかったが、そんな光景に心を痛ませないはずもない。

 そう考えれば、この機会は文紀にとって千載一遇のチャンスといえた。

 そして、文紀は公園にたどり着く。

 数年前とまるで代わり映えのしない空き地。

 そこで文紀は、来るべき時を待つ。

 その時は意外と早く訪れた。

 ふらつく響歌の手を取り、先導する男。

 その男の姿を見て、文紀は少し驚く。

 数日前に響歌へと告白した一学年上の先輩がそこにいたからだ。

「やっぱり……あんたが……」

 文紀が二人へと声を掛ける。

 その声を聞いて、二人は共に薄い反応を示した。

 一学年上の先輩は文紀をただ格下と見下し、響歌は薄れた意識で首を振っていた。

「無茶をしないで」

 不思議と文紀は響歌が今考えているだろうと思われることに想像が付いた。

 恐らく、自分を助けに来る必要はないと首を振り続けているのだろう。

「キミか……やっぱり、ここに来ると思っていたよ」

「俺にとっても、あんたにとっても、手痛い失敗を負った場所だからな。ここは」

「へぇ……」

 文紀の言葉に、一学年上の先輩は薄くまゆを上げる。

「あの時の犯人がボクだって……気付いていたんだ?」

「いや。ただ、ここにくる人間はきっと……あの時の犯人なんだろうって思っていただけだ」

 丁寧に吐き出していく言葉に、あふれんばかりの敵対心を込めて、文紀は語る。

「もともと、俺と響歌はある契約を交わしていた」

 それは、あの事件以来結ばれた契約だった。

「俺が響歌を守り、響歌は俺を守る。あの時、響歌は俺に対する偏見を覆すために、その契約を結ばせた」

 けれど、そんな響歌の思惑とは別に、文紀はあることを考えていたのだ。

「響歌が襲われた事件。あれは、明らかに計画性のあるものだった」

 その場しのぎとは到底思えないしっかりとした変装。犯行に協力した人間がいたこと。

 それは考えなしの突発的な犯行ではあり得ない事実だろう。

「一番引っかかっていたことは……響歌があの図書館への近道を通ることをなぜ、犯人たちが知っていたか、だ」

 そして、犯行が行われた場所。あの公園に繋がる道はビルとビルの間にあるもので、普段人通りが全くないと言ってもいい場所だ。

 そんな場所を犯行の場所に選ぶには、欠かせない要素がいくつかある。

 まず、第一にその道を犯人が知っていること。

 あの道は文紀たちが通っていた中学校から図書館に繋がる近道。

 けれど、その道はほとんどの人間に知られていない。

 それはなぜかというと、あの道を通ることで図書館への近道になるのが、文紀たちが通っていた中学校から図書館へと向かう場合だけだからだ。

 それ以外の場合は、再開発された道を通ればいい。

 むしろ、あの道を通ることが遠回りになることもあるのだ。

 だから、あの道を知っているものは、文紀たちが通っていた中学校と同じ学校に通っていた生徒に限られる。

 ただし、この場合はこの街にもう一つある音貴や礼香が通っていた学校に通っていた生徒が除外されるだけで、未だに疑うべき人間は多い。

 けれど、もう一つの要素を加えると大幅に人数を絞ることができる。

 その要素とは、あの時、響歌がなぜあの道を通るか確信できたか、だ。

 文紀は最初、あの時の事件は無差別に女性を狙った犯行だと思い、最初はその部分を気にしてはいなかった。

 なぜなら、響歌が定期的に図書館へと通う理由などなかったと思っていたからだ。

 しかし、数日前の響歌との話を終えて、文紀はその理由があることを知る。

 響歌が持ち歩いていた詩集。

 あの詩集は中学生の頃は喘息が酷く、家計も苦しかったため、文庫本一冊も買ってもらうには心苦しかった響歌が、ほとんど毎週のように図書館に通い、借りて読んでいた本であった。

 だから、推測できたのだ。

 もし、響歌がいつも同じ詩集を借りていることに気付いた人間がいたのなら、その人間は響歌に狙いをつけて犯行を行うことができると。

「それにな……」

「ん……?」

 不思議そうに、けれど楽しそうに笑いながら、首をかしげる一学年上の先輩。

 その顔を見て、文紀ははっきりと告げる。

「俺は必ず……犯人がもう一度、響歌を狙うと思っていたんだ」

「そう思った理由は?」

「簡単さ……」

 そのことに文紀は最初、確信を持ってはいなかった。

 だがしかし、あの事件以来、文紀はある疑惑を持っていたのだ。

 それはあの事件の後、自分に流された酷いうわさ。

 文紀が響歌を襲ったという事実とはまるで逆のうわさ。

 そのうわさが流れるのが、早すぎた。

 最初の疑惑はそこから生まれた。

 そして、その後、文紀はあの事件が新聞の片隅に報じられているのを見て、確信する。

「あの時の事件で逮捕されたのは、俺と争っていた男一人。もう一人の男、俺に不意打ちをされて気絶した犯人の一人は逮捕されてすらいなかった」

 そして、その事実を知った時、今までの推理と合わせて文紀は確信したのだ。

 響歌をあの事件の失敗後も狙い、そして、その響歌を守った文紀を排除したいと思っている存在がいることを。

 そのことを確信した時に丁度、響歌から契約を持ちかけられ、文紀はうなずいた。

 響歌の悲鳴に応える時のために。

「あの時以来、ずっと待っていた。あんたが、尻尾を出してくれるのを」

 文紀はこれだけの情報を持っていても、所詮はただの高校性。

 学校の中にいる生徒に犯人候補を絞ることはできても、その内のだれが実際に犯人なのかはわからなかった。

 そして、文紀はずっと考えた。

 もし今度、あの時の犯人が響歌を狙うのならどうするだろうか、と。

 まずはなにか響歌と縁をもって、その行動を把握するだろう。

 前回はたまたま文紀がやってきたから、助けが間に合った。

 今度はきちんと人がいない時間、人がいない場所に、響歌を追い詰めるために必要な情報を手に入れようとするはずだ。

 しかし、響歌は文紀たち回帰倶楽部の人員以外のだれとも行動を共にしようとしない。

 もし、それでも響歌に縁を持とうとするならば、告白しかない。

 あわよくば、告白に乗じて人気のない所に呼び出してしまえばいい。

 犯人にとっては幸いなことに、響歌は告白に対してきちんと誠意を持って、答える性分を持っている。

 それを利用して、あわよくば。そう思う人間がいると思った。

 そして、そんな不埒なことを考えて自分の好みに動かせる人員を手に入れていたのが、この一学年上の先輩だった。

 あの事件で文紀はなにも出来なかった。

 そのことに対して、雪辱を晴らしたいと思う気持ちがあった。

 自分が弱く、なにも出来ない存在ではないのだと証明したかった。

 己の矜持を守るための気持ち。そして、今度はきちんと守り抜くという決意が、文紀に周囲の視線やうわさを耐える強さを与えてくれた。

「さぁて……さっさと響歌を返してもらおうか…………間口(まぐち)(きよう)()先輩?」

 その名前を口にした瞬間、一学年上の先輩。いや、間口の顔が醜く歪んだ。

「…………ようやく、ボクの名前を呼んだね」

 その歪みを笑みと呼ぶべきなのか、文紀は内心迷った。

「キミは……ボクにとって、随分と目障りな男だったよ」

 その顔には、あまりにも様々な感情が浮かんでいた。

「いつもいつもボクのすぐ前にいて……それでいて、ボクのことなんか歯牙にも掛けていない……」

 憤怒、絶望、そしてなによりも色濃い狂気。

 それらすべてが入り混じった感情が、どんな表情をも塗りつぶして、醜悪な顔付きを作り出していた。

「そんなキミに、ボクはいつも苛ついていたんだ」

 誰しもが羨む存在。

 自分をそうした選ばれた存在だと思っていた間口にとって、自分の言うことを聞かない人間はどれだけ目障りな存在だっただろうか。

「響歌、この娘もそうだ。いつもいつも素知らぬ顔で、日々を過ごして……」

 幼稚な自己顕示欲。

 けれど、それはこの男の本質であるのだろう。

「ボクはね……キミたちみたいな人間を好きに踏みにじることが出来る人間だ」

 確かに間口の言葉はその通りなのだろう。

 文紀はこの一件にこの男、間口が関わっているのではないかと疑いを持った後、この男を調べ上げた。

 間口、その名前はこの地域である種タブー扱いされている名前だった。

 何故なら、少し前に起こったベンチャー企業を創設するブームの中で成功した数少ない企業の一つでもある間口情報株式会社を経営する社長の一族であり、そしてなにかと悪いうわさの絶えない会社をバックに育った人間たちだからだ。

 古くからこの地方の地主として名を馳せた名家の一つと間口の社長が結婚したことにより、更に豊かな地盤を得た間口情報株式会社は、今ではこの地方でかなりの権力を持つに至っている。

 何よりも取り扱うものが情報だけに、様々な投資を積極的に行うことによって、資金を運営。

 この地方に元々住んでいた名家と成り上がった間口。

 その構図は次第次第に両者の間にあった資本力を反転させていった。

 最初は間口が一方的に援助を受ける形だったが、いつの間にか間口は、この地方由来の名家たちにも引けを取らない企業を作る。

 土地を握る名家たちとこの地方の経済における情報を握る間口。

 二つの名士がこの街に存在する事になった。

 そのために、多くの人々がこの二つの名士にコンタクトを取ろうとし、その子供たちは幼い頃から特別扱いを受ける。

 大人が子供に笑顔を強要され、ご機嫌うかがいに翻弄される。

 そして、失敗や過ちを叱ってくれるような大人に会えず、子供が成長した姿。

 それが、今の間口の姿なのだろう。

 そのことを旧来の名家の一つである来乃宮に育った礼香から、文紀は聞いていた。

「それで……お前はどうしたいんだ?」

 文紀は間口に聞く。

 その言葉を聞いて、間口は今度こそ笑みと呼ぶに相応しい表情を形作る。

「踏みつぶされてくれない? こんな人気のない所に自分から入り込んだ馬鹿さ加減を呪いなよ。ボクが一人で行動するとでも思ったのかい?」

 間口がさっと後ろを振り返る。

 その瞬間、文紀の死角となっていた間口の後ろから二人の男が出てくる。

 その男たちはどちらも、文紀があの時、体育館裏で倒した相手だった。

「どっちも……一度倒した相手だな」

 その言葉を聞いて、相手方の男たちが怯む。

「じゃあ、人数を増やそう」

 にっこりと朗らかに笑って、間口は携帯電話を取りだした。

「キミたち、時間くらいは稼いでみせなよ。後での褒美にこれをくれてやる」

 これ、と言って差し出したもの。それを見て、文紀の頭に血が上る。

 響歌、その体に触れる間口の手が憎かった。

「さっさと終わらせてもらうぞ。お前が響歌に触れているのは不愉快だ!」

 飛びかかってきた男二人を前に、文紀は恐れない。

 ただひたすらに拳を握って、直進する。

 そうして、ほどなくして二対一の戦いが始まった。

 体育館裏で目の前の男たち二人と戦った時と同様、文紀はこの場所で以前そうしたように一人を速攻で沈めるという手を取った。

 しかし、今、目の前にいる二人は端から攻勢を捨てて、守りに入っている。

 その内の一人に、文紀は蹴りかかる。

 それを見て、一人の男は蹴りに反応して体を固めて防御。そして、もう一人の男が、その隙をついて攻撃を仕掛けてくる。

 それを見て、文紀は入り込んでいた体を引き戻すことが出来ないことに気付き、相手の攻撃を逸らすようにして払いのける。

 大きく相手から距離を取るために、文紀は目の前にいる男の腹を思いっきり蹴り抜いた。 防御されてもそのまま押し出されるようにして、文紀は目の前の男と距離を取る。

 すると、そのすぐそばにもう一人の男がいた。

 目の前にいる男、その男と文紀が戦っている内に、抜け目なく文紀の背後を取り、囲もうとしていたのだろう。

 ラッキーパンチが当たって相手の意識を失わせる。

 そんな幸運を、文紀は期待することは出来なさそうだった。

 だから、文紀はただ懸命に囲まれないように動く。

 そうして、少しずつチャンスを窺った。


 そんな行為を一体何度繰り返したことだろう。

 春の陽気もどこかに消え、ただ寒々しい夜の帳が落ちようとしていた。

「ああ、ようやく来たかい」

 そんな間口の声が聞こえ、文紀の周りを囲う人間の数が増える。

 間口が呼んでいた増援だ。二人がかりの相手にすら手こずっていたというのに、自分では手に負えないだろう。

 そんな状況だからこそ、文紀は笑った。

 意地を張るために。

「潰れろ……」

 どこからか声が聞こえる。悪意と義務に塗れた、感情の渦。その先に、その目があった。

「潰れてしまえ……ボクと同じように……よってたかって、周囲の悪意によって」

 文紀はその言葉を聞いて、呼び起こされる。

 文紀は戦いの中で、いつのまにか、意地を張るためだけに戦っていた自分に気付く。

 戦いというのはどうしようもなく、野蛮で圧倒的な行為だ。

 その戦いの中で、目的を見失うことは決しておかしなことではないだろう。

 生存に対する欲求が暴走することによって生まれる思いが、文紀をいつからか塗りつぶそうとしていた。

 だからこそ、文紀はこの小さな隙間になにをすべきか。見失わずに行動しなければならなかった。

 次の瞬間、再び戦いが始まった時、すべてを忘れて戦うためだけの思考をするものに文紀は成り下がることがわかっていたからだ。

 目の前にいる間口の手下たち。大体、五人か。視界をふさぐかのように前を囲む男たちの包囲から逃れるように後ずさりをしながら、文紀は考える。

 なまじ、勝ち目がある状況であったことが災いした。

 自分がなにをするためにこの場所に来たのか。その事実を思い出すために、文紀は視線をさまよわせる。

 その瞬間、ほおに熱い感触が触れた。

「がっ!」

 殴られた。そう気付いたのは、自分の体が地面に横倒しになっていると気付いた時と同時だった。

 押し倒され、潰され、蹴り飛ばされる。

 何度も何度も執拗に蹴られ、それでもなお息をしていることすら憎いとでも言うかのように、五人の間口が雇った人々が文紀を踏みつける。

「…………めて」

 なにか、声が聞こえた気がした。

「やめて、よ!」

 その声を聞いて、文紀はようやく思い出す。

 自分がなにを守るために戦おうとしていたのかを。

 げほげほと咳をしながら、響歌が声を上げていた。

 それがどれだけ苦しいものなのか、文紀にはわからない。

 けれど、喘息の発作による呼吸困難によって顔を真っ赤にし、それでも必死に声を張り上げる響歌の姿に文紀は目を奪われた。

「私が欲しいっていうのなら、どれだけだってあげる…………だから、その人に手を出さないで!」

 その必死な響歌の訴えに、文紀を囲んだ間口の手下による攻撃が止む。

 文紀は這いつくばりながら、響歌の顔を見て、ただひたすらに首を振ろうとした。

 お前がそんなことをするような必要はないのだ、とそう訴えかけるために。

 けれど、そんな文紀を響歌はちらりと見ただけで言葉を連ねようとする。

「やめろ……」

 そう口にしたのは文紀ではなく、間口だった。

「そんな下らないご託は聞きたくない……どうせ、お前も自分が危険に陥れば、すぐに人を裏切るような人間だろう?」

 間口は響歌に近づき、その顔に手を伸ばす。

 嫌悪感に顔を歪めながらも、響歌は間口の手から逃れようとはしなかった。

「私のことなんてどうだっていい。けど、その人に手を出すのはやめさせて」

 その顔を眺め、間口は笑った。

「い・や・だ、ね!」

 その笑顔は歪んでいた。

「昔のボクなら……キミだけを欲していたボクなら、受け入れたかもしれない。けど、今のボクじゃあキミの要求を受け入れるのは無理だ」

「なぜ?」

 響歌の言葉に、間口はその顔と歪んだ笑みを文紀に向ける。

「だって、気にくわないじゃないか……」

 こつ、こつと足音を鳴らしてこちらに近づく間口。

 その動きを遮らないように、五人の男が下がる。

「こいつ、こんな状況でもまだ諦めてない。潰れてない……むかつくんだよ!」

「がっ!」

 あご先を蹴られ、文紀は無理矢理上を向かされる。

「ほら、こんな風に蹴り飛ばしてもまだこっちを睨んでいる! 反撃のチャンスを窺っている! 凄いよね、感動するよ! まさしく不屈ってやつだ! ヒーローってやつだ!」

 狂騒と言ってもいいだろうか。目の前の男、間口はまるで気が狂ったかのように笑いながら、動き回る。

「だから、むかつく。ボク、こういう人間ってむかつくんだよね。自分が出来なかったことを出来る人間ってさ、それだけでむかつくよ」

「きゃっ」

 その時、響歌の手を引っ張り、間口が楽しそうに文紀へと響歌の顔を見せる。

「だーかーらっ、キミには、この男の心を潰すための犠牲になってもらおうかなーって考えているんだよね!」

 その言葉を聞いた時の胸騒ぎを、文紀は生涯忘れることはないだろう。

「なにを……するつもりだ……」

「もちろん。男の子だもーん。わかる、よね?」

 乱暴を働くつもりだろうと簡単に予想が付いた。

 歯がみし、文紀は必死に方法を考える。

 なにをするべきか。なにをしなくてはならないのか、を。

「ま、もう少し痛めつけておかないといざって時に抵抗されても困るし。さ、やっちゃってよ」

 間口は一方的に文紀へと響歌に対する乱暴を予告した後、そう言った。

 間口に連れられた響歌ごと、人の壁が文紀の前に立ちはだかる。

 だから、文紀はその取り巻きを突破するための策を弄する必要性があった。

 そして、その策を文紀はもうすでに準備していた。

「なぁ、これはなんだと思う?」

 そう言って文紀が取り出したのは、ここに来るまで礼香と繋がっていた携帯だった。

「お前が増援を呼んでいたように、お前が時間稼ぎをしていたように……俺も同じようなことをさせてもらっていたんだよ」

 取り巻きの男たちの視線が、文紀が握る携帯に集まる。

 そして、人の壁の先で間口がこちらを見て、響歌から注意を逸らした。

 その瞬間、文紀は動き出していた。

 がむしゃらに人の壁を突き破り、ただひたすらに走った。

 しかし、その思惑は読まれていたらしい。

 こちらを振り向き、殴りかかってきた文紀を見て取って、文紀の腕を払い、腹に拳を打ち込んでくる間口。

 どうやら間口が空手を習っている、というのは本当のことであったらしい。

 その動きはやけに堂に入ったものだった。

「ぐ、がぁ……」

 間口の拳が、文紀の腹を貫く。

「読めているんだよ……キミのことは……」

 腹に打ち出された拳。その拳によって、前のめりになる文紀の顔を睨みつけながら、間口が告げる。

「キミはいつも、このボクの前にいたからね」

 それが目障りだったのだと、吐き捨てるように口にしながら、間口が更に文紀の拳を払った腕で文紀のあごを打ち抜く。

「あ……が……」

 意識を失いそうになる文紀。

 だがしかし、ある事に対する疑問が文紀の頭をよぎり、その意識を呼び覚ました。

──キミはいつも、このボクの前にいた。

 間口はそう言った。

 それはなぜだ。

 文紀は考える。

 普通に考えてみれば、文紀が間口より前に抜きん出ているものなどないだろう。

 金と財力をなによりも尊ぶような人格をしていそうな、間口がなぜそう考えるのか。

 文紀にはわからない。だから────尋ねた。

「なぜだ?」

 再び打ち出された拳を顔で受け止めながら、文紀は尋ねる。

「あぁ?」

 不機嫌そうに問い返す間口に、文紀は問い掛けた。

「なぜ、俺を羨む?」

 文紀からしてみれば、間口が持つ様々な力こそ羨ましく映るものだった。

 自分は持っていない力。それを正しく使えれば、どれだけの人を守ることが出来るだろう。

 そう素直に羨ましく思った。

「ふっ……ざ、けんな!」

 けれど、見る者が違えば価値は異なるもの。

「ボクからしてみれば……キミは……キミらは……!」

 激しくなる攻撃。

 亀のように体を丸め、文紀は攻撃をやり過ごそうとする。

「間口さん」

 取り巻きの男たちの声、間口の増援として彼らはより文紀を痛めつけようとしているのだろう。

 背後から近づいてくる足音が聞こえた。

「止めるな! 間に入るな! キミも潰されたいのか?」

 そんな足音の持ち主に、間口は叫び、彼らを停止させる。

「ボクの…………ボクの、持っていない……仲間や友人、自分の心の根っこを話せるような友人を……キミは持っているじゃないか!」

 半ば泣き出しそうな声で、間口が叫ぶ。

 その叫びに、文紀は驚愕した。

「ボクは、そんな"モノ"もってない!」

 自分の心根を話すことが出来る他者。

「どいつもこいつも、キミの周りにいる人間は、キミに心を許してる! 弱みを見せている!」

 原点を共有できるだれか。

「ボクの周りには……ボクじゃなく、間口にすり寄る馬鹿か、間口におびえるクズばかり」

 そう言って、間口は周りにいる男たちをにらみつける。

 その視線を受けて、男たちの全員が視線を逸らした。

「最初はね、ボクも間口のやり方が気に入らなかった。けど、どうしようもないじゃないか…………それ以外の方法は、周りにいる大人たちによってたかって潰されたんだから。友人を持とうとしても、その子の親や家族に間口はずぶずふと入り込んでいる。そして、次の日には怯えた目で見られるのさ」

 原点を共有するだれかを持たない人間。いや、持てない人間にとって、それがどれだけ羨ましく思えるものだろう。 

「親から子へ、情報を握られた恐怖は伝わり、ボクは機嫌を伺われ、なにもしていないのに恐怖される! こんなボクがどうして、キミを羨まないでいられる! こんなボクがキミをどうして、妬まないでいられる!」 

 間口の嫉妬は激しく、猛獣のような暴力を伴って文紀に叩きつけられる。

「ぐっ……」

 大振りになった間口の蹴りを避け、文紀はその足を更に払うことによって間口の体勢を崩す。

「だれもがボクを取り込むことによって、間口の情報を手に入れようとしている! だから人を信用するなと!」

 悲痛な表情を浮かべながら、間口が文紀を睨む。

「そう教え込まれて、ボクは生きてきたんだ!」

 間口が持つ情報。それは多岐にわたる。

その情報を得ることが出来れば、どの会社の資金が潤沢であるか。また、どの会社の経営が危機的な状況にあるのかも簡単にわかるのだろう。

 だからこそ、その情報を守るために、間口鏡也もまた厳しい教育を受けた。

 その教育が間口を縛り、彼を孤独にさせた。

「だが!」

 それは確かに悲劇なのかもしれない。

「だが、それが…………俺を目の敵にする理由になると思っているのか!」

「かっ……はっは、ははははははは」

 文紀の言葉を聞いて、間口は笑った。

「そうさ……そうだよ! ならないさ、こんなのは! ただの僻みなんだからねぇ!」

 間口は力強く断言し、自らの理不尽さを肯定する。

「けれど、ボクにはその恨みを……妬みを、抑えることは出来なかった!」

 間口の拳が鋭く打ち出される。

「開き……直るなぁ!」 

 文紀は吠える。

 お互いに拳を打ち出し、殴り合う。

「あーあ、まったく……」

 文紀はつぶやき、拳を握り直す。

 いつしか、文紀の前に立つ間口の顔には笑みが浮かんでいた。

 その笑みの意味を推測して、文紀は苦笑する。

 この男は、ただ孤独だったのだろう。

 なにもかもが自分の思い通りになるような力を強制的に手に入れて、その力を用いて多くの者を従えさせた。それが半ば自分の意志とは関係なく、家のせいで行われたものであったとしても、この男はそうして孤独になっていった。

 そうして求めたのが、敵なのだろう。

 自らの意志に従わない。だからこそ、他者であると。

 そう信じて、敵を求めたのだろう。

 露悪的な行動は、その象徴と言えた。

 そして、その姿を見て、文紀は理解する。

 その理解とは、文紀が周囲の人物が持つ原点を知って傷ついたあの時の気持ちがなぜ生まれたのかについてだった。 

 他者とは自分とは違うもの。理解の出来ないもの。

 なぜなら、他者とは自分とは違う考えで動き、別の原点を体験し、そして成長した存在だからだ。

 そのすべてを見通すことなど、出来るはずがない。

 だというのに、文紀は絶対的な自信をもって、友人たちのことを理解できていると思っていた。その傲慢な考えが文紀自身を傷つけた。

 自分は友人のことを理解できているという、根拠のない思い込みを否定する友人たちのギャップ。

 それを見て、文紀は傷ついたのだ。己の傲慢さを思い知って。

 そのことに思い至って、文紀は少しの間だけ、目の前にいる間口から視線を外し、倒れているはずの響歌を見る。 

 その視線の先で、ここに来る前に文紀の指示に従って、こちらにやってきた礼香と音貴の姿が見えた。

 礼香は目の前で振るわれる実際の暴力に対して、恐怖を感じているのだろう。

 青ざめた表情を浮かべたまま、響歌を抱きかかえていた。

 そんな礼香を後ろから支える音貴の姿が見えた。

「ったく……」

 その姿を見て、文紀は肩をすくめて冷静になる。

 目の前にいる間口は人に暴力を振るうことと自分が振るわれたことによって、脳内物質が分泌されているのか、酷く醜く興奮した顔をしていた。

 その顔に、文紀はぐっと握りしめた拳を叩きつけた。

 その拳があごの骨を歪ませ、間口の体を吹き飛ばす。

「……………………ふぅ」

 文紀はじっと倒れた間口を見つめ、しばらくした後に息を吐き出す。

 周りにいる男たちは倒れた間口に駆け寄り、その体を介抱しようとしていた。

 今、彼らが襲いかかってくることはないだろうと、文紀は響歌に近づいた。

「真木」

「せんぱい」

 礼香と音貴が声を掛けてくるが、文紀はその声に笑みだけ返して、響歌の顔をのぞき込んだ。

「大丈夫か、響歌」

「え、ええ……」

 響歌の視線が、心配そうに文紀の全身を這う。

 その視線に肩をすくめ、文紀は笑った。

「大丈夫だよ。痕が残りそうな怪我とか、そういうのはないから」

 そして、文紀は響歌の無事を確かめた後、間口の方へと向き直る。

 今度は気絶することなく、立ち上がった間口。

 彼はその子供じみた顔にあざを作ってなお、笑っていた。

「やれ。潰せ」

 短い命令に応じて、周りの男たちが動き出す。

「娘の前だ。気張れよ、ハードボイルド!」

 文紀の声を聞いて、公園の中に一陣の黒い風が入り込む。

 ざっと草と土を踏みしめた音と共に、目の前に現われたのは長谷部庵、その人だった。

「いい見せ場をくれるものだな、文紀」

 タバコに火をともし、煙をくゆらせながら庵が振り返る。

「ハードボイルドを気取るなら、それなりの荒事は任せても構わないんでしょう?」

 そんな庵に、文紀はそう問いかけた。

「もちろん、だとも」

 力強くうなずいて前を行く庵。そして、礼香も庵の後に続いて、前に歩き出そうとする。

「礼香…………見ていなさい」

 ただ、庵はそう言った。後ろすら振り返らず、庵は男たちの中に入り込む。

「鉄拳制裁、教師という立場にあまり興味はなかったが……こういうのは悪くないな。悪ガキは、叱ってやらねばならないだろう」

 文紀など歯牙にも掛けないであろう実力を持つ庵は、周りにいる男たちを駆逐する。

 そして、文紀は痛む体を押して、間口の方へと向かった。

「文紀ちゃん!」

 それを止めようとする女性の声。

 恐らく、庵を呼んできてくれたのだろう姫子の声に、文紀は背中を向けたまま手を振って応えた。

「なぁ、おい……これでお前の周りを囲むやつらは消え失せたぞ」

「ひっ!」

 その言葉を聞いて、間口は怯えたように引きつった声を出し、文紀へと構えを取る。

 その姿を見て、文紀はやれやれと首を振る。

 なんとなく読めた気がしたのだ。この目の前にいる男の歪み方は結局、間口という環境にもあったが、自分がなにも出来ない弱い子供であったということ自体が起因となっているのだろう。

 子供時代に感じた無力感。自分を信じることが出来ない自信のなさ。

 それだけに、間口の力に従う大人たちや子供たちの要求に無意識のうちに応えていた。

 いっそわざとらしいと感じるほどに自分の悪いところや醜いところを見せていく振る舞いは、そうした過程で生まれたものだ。

 その証拠に、いま周囲にいた男たちを無くして、自分だけになった瞬間にこの男はその小さな体を震わせて、怯えていた。

「ふんっ!」

 拳を振るい、目の前にいる間口の頭にげんこつを落とす。

「うわっ!」

 その衝撃に驚いたのか、間口が座り込む。

「う、ううう……」

 そんな間口に、文紀は固く小さな拳を開き────手を差し伸べた。

「これで終いだ。子供相手にしつけ以上の暴力が振るえるか」

「なっ……」

 その言葉を聞いて、自分の外見的な特徴を言われたのだと思ったのだろう。

 怒りに顔を歪め、羞恥に顔を赤らめる間口。

「だって、そうだろう。お前は言ったじゃないか。妬みや僻み、それを抑えきれなくて、こんな事件を起こしたって…………そういう我慢の足らないやつのことをなんて言うか知っているか? 子供って言うんだよ」

 その言葉を吐き出した瞬間、目の前で座り込んでいた間口が突然起き上がり、拳を振るう。

「つっ!」

 その固い拳を文紀は受け止めた。

「そうだ、それでいいんだ。気に入らない、気にくわない。そう思うのは我慢するな。それはお前の長所だ。けど、それを貫くべきべきだと思うなら、正しい手順を覚えろ」

「なにを、言って……」

 困惑した表情を見せる間口。

「間口のやり方が嫌いなら、それを我慢して間口のやり方を使うな。気にくわないなら、反抗しろよ。お前らしくもない」

「なにを、言って……ボクの、ボクのことなんて……キミは……」

「わかっちゃいないだろう……ってか? ああ、わからないよ」

 今までの間口が見せた邪悪な有様。そして、今、目の前にいる少年が見せる無防備な困惑した表情。

 そのどちらをも見たからこそ、文紀は思うことがあった。

 こいつはきっと同じなんだ。

 回帰倶楽部のだれもが持つ二面性に苦しむ人物。

 その事に気付いたからこそ、文紀は言いたいことがあった。

「他人のことなんて、わからなくて当たり前だ。自分とは違うんだからな」

 自分のことすらわかっている、と自信をもって言える人間がどれだけいるだろうか。

 案外、そう多くはないだろう。

 ましてや友人とはいえ、他人ならば理解していると断言することはすなわち傲慢というものだ。

 そのことを、文紀は身をもって体感していた。

 だからこそ、文紀は思う。

「だから、提案する。お前は間口のやり方が嫌だって願いを潰されたって言ったな。今度は、俺が潰されないやり方を教えてやる」

「それが……キミに、なんの利益を生む!」

 間口の言葉を聞いて、文紀は笑みを浮かべる。

 ああ、信じて良かったと。

 他者の善意、悪意など関係なく、ただひたすらにより良く生きようとする意志を、人間は持っている。

 それこそを信じるべきなのだ。

 人は変わる。変わろうとする原点を得て、人は変わる。

 しかし、その変わり方が常に良きものであるとは限らない。

 けれど、他人が変わった理由は常により良き環境、人との付き合いを求めたからだろうと信じるべきだと文紀は思っていた。

 それを受け入れ、信じることが出来れば、他人を理解することは出来なくても、他人を信頼することは出来るはずだ。

「利益がなきゃ、安心できないか?」

 その言葉に、こくりと間口がうなずく。

「お前の力が欲しい。お前の力を借りられれば、偏見から脱却するっていう目的で作った俺たちの部活がやりやすくなるからな」

「それは……間口のやり方を使えってこと?」

 嫌悪感で顔を歪ませてそう口走る間口に、文紀は肩をすくめてみせる。

「違う。早とちりするなよ。そのやり方は無し、だ。周りの恨みを買うようなやり方は潰されて当たり前だからな」

「それじゃ、ボクになにを望んでキミはそんな事を言うんだ?」

 その言葉を聞いて、文紀は笑った。

「お前は俺を陥れた。その時に使った方法はなんだ」

「周囲の人間に金を握らせ、センセーショナルなうわさを作りあげたんだ」

 さして考えた様子すら見せず、間口はそう言ってのける。

「それは間口のやり方か?」

「ああ……そうだ」

 吐き捨てるようにうなずく間口。

「だが、そのうわさを利用することが出来た能力は、お前が持っているもののはずだ」

「なに?」

「手法を知っていたとしても、それが実際に出来るかどうかは、その人間の資質次第だ。その点、お前はそれをやることが出来た。俺たちが戦っているのは周囲の偏見だ。偏見ってものは大抵、うわさが関わるもの。情報を操る能力があるなら、それは心強い能力だ」

「それじゃあ、結局、間口のやり方をやれってことじゃないか!」

 絶望したかのように、こちらを涙の浮かんだ目で見つめる間口に文紀は笑う。

「ここからさ。間口のやり方は他人の弱みとなる情報を握ることによって、それを臭わせるか臭わせないかで脅迫して、自分の会社の利益や価値を上げていく形だった。その真逆をやってほしい」

「真逆?」

「うわさを利用して、株を上げるのさ。他人の株をな」

 そういう職業があることを文紀は知っている。

「つまり、俺がお前にやってほしいのは、回帰倶楽部っていう部活のコンサルタントさ」

 コンサルタントという職業には様々なものがあるが、共通する部分は相談を受け、その問題を解決するということだ。

 そして、偏見という他者が抱く情報を変えられるのは同じ情報に精通した人間だけ。

 文紀はどうしようもなく身勝手な人間だ。

 だからこそ、他人のことをそこまで思いやり、考えることは出来ない。

 だが、目の前にいる男ならどうだろうか。

 無意識のうちに周りから期待されている人物像を演ずるほどに、他者を気にするこの男なら。

「ボクを必要とするのか……間口じゃなく、このボクを」

 その言葉に、文紀はうなずき、手を差し伸べた。

「回帰倶楽部へようこそ。鏡也」

 間口、と呼ばずに、文紀はそう呼んだ。

 その言葉を聞いて、鏡也は苦笑を浮かべる。

「キミは……身勝手な男だ……」

「重々、承知の上だよ」

 そして、ほどなくして庵と鏡也の取り巻きの喧嘩は、仲裁に入った鏡也によって止められ、文紀たちは家路につく。

 その途中、文紀は響歌に近づき、こう言った。

「今度、時間があるときに……きちんと、答えを言うよ」

 

 エピローグ

 

 意識を失うほどではなかったにしろ、文紀の体もまた疲労困憊だった。

 後から音貴に聞いた話では、文紀の顔は腫れ上がり、口の中から流れた血が唇と顔に沿って流れるような酷い有様であったらしい。

 結局、その後学校では、二人の生徒が喧嘩したという程度の話で済んでいるらしい。

 学校からの処分は厳しいものだった。

 二週間の謹慎。

 元々はあの間口に手を出したということもあって、文紀の処分はもっと重いものであったらしい。

 学園に間口の目が向けられることを恐れ、文紀を退学させようとする教師もいた。

 だがしかし、庵の懸命な弁護と当の本人である鏡也が特に文紀の処分に対して訴えなかったことから、文紀に対する処分は軽いものとなった。

 そのことを文紀は嫌み混じりの言葉で、自宅で謹慎していた文紀を訪ねてきた鏡也自身から聞くことになる。

 そのそばに、音貴の姿があったことが印象的だった。

 女性的な顔立ちの音貴、そして子供っぽい顔立ちをした鏡也。その二人が一緒にいると年齢を誤解させられそうだったのを文紀は覚えている。

 庵が迷惑をかけてばかりの文紀を弁護した理由は知らない。

 だがしかし、見舞いに来た庵のそばに礼香の姿があったことから、文紀はある程度の事情を推測することが出来た。

 そして、響歌。

 文紀はずっと謹慎の間、彼女が来ることはないと思っていた。

 そして、その思いは当たっていた。

 結局、文紀の謹慎が解けるまでずっと、文紀は響歌と会うことは出来なかった。

 そして、二週間後。

 ようやく謹慎が終わった朝。

「…………おはよう」

 身支度をして、出かけた文紀にそう声をかけたのは響歌であった。

 その姿を見て、文紀は笑みを浮かべる。

「よう」

 簡単な挨拶。けれど、確かなこととして感じるものがあった。

 文紀に寄り添い、歩き始める響歌。

 その響歌との距離が以前より少し遠くなっていた。

 それが、彼女が自分の返事を待っているために生まれた距離だと知って、文紀は覚悟を決める。

「ねぇ……ふみ」

「響歌」

 文紀は響歌の呼びかけを遮って、声をかける。

 その瞬間、響歌の肩がびくりと震えた。

「俺はな……身勝手な人間だ」

 いつもいつも、だれも彼もが文紀をそう言って表した言葉を、文紀は口にする。

 今回の一件で、その言葉を真実だと受け止められるほどには、文紀は自分の身勝手さを痛感していた。

「だから、俺の答えは決まっている」

 その言葉を口にすることが、どれだけ身勝手なことなのか。文紀は知っていた。

「俺はな……」

 けれど、それを本当に判断出来るのは、響歌だけだろう。

 開き直り、文紀が口にした、響歌の懇願に対する答え。

「皆と一緒にいたいんだ」

 その言葉を口にした瞬間、ほっと小さく息を吐く響歌。

 その顔には、安堵と少しの悲しみがあった。

「私一人を選んではくれない……って、ことだよね」

 その言葉に文紀はなにも答えない。

「じゃあ、わたしは……」

「俺は……お前も……お前にも……」

 文紀はまた響歌の言葉を言い切らせない。

 その言葉を、言わせたくはなかった。

 わたしはいらない?

 そんな悲しい言葉を、好きな女に言わせるわけにはいかなかった。

「お前にも、俺のそばにいてほしい」

 そう言い切って、文紀はぐいと髪の毛を引っ張るようにして目を隠す。

「恋人だからって……特別扱いするような真似は、俺には多分……出来ない。それでもいいなら、俺は……お前に、恋人としてそばに居て欲しい」

「それって……」

 呆れたような顔をする響歌から目を逸らして、文紀は言葉を続ける。

「俺とお前だけの二人を望むっていうのは……俺には無理だから」

 響歌が求めているのは、二人だけの世界だろう。響歌がそれを求めているのは、以前の告白でわかっていた。響歌はなによりも、文紀に自分を優先して欲しいと願っている。

 だが、それを文紀は選ぶことが出来ない。

 だれかといることが、なによりも自分というものを意識させる。

 自分とは違う考え、違う原点を持つ他者。

 その他者を作り出した原点を知ることが、どれだけの信頼と友情を育んできた証しなのか。

 文紀は間口との諍いで思い知った。

 そんな中で、文紀だけを求める響歌を、文紀は否定した。

 それが子供の理屈だというのは、わかっている。

 普通、これくらいの年齢になれば、徐々に主体となるコミュニティが変わっていくものだ。

 友人主体のコミュニティから、恋人というコミュニティを優先するようになる。

 そして、将来その恋人が家族へと変わり、恋人同士という関係が家族関係というコミュニティに変わる。

 けれど、文紀はそのコミュニティの移り変わりを否定した。

 友人としてのコミュニティを、維持したまま恋人とのコミュニティをも望もうとする。

 そんな文紀の姿は、文紀たちを回帰倶楽部と呼ぶ人々の言葉、そのままの姿だろう。

 けれど、文紀は今までに得た友情がどれだけ貴重で大切なものだったかを思い知った。

 それを思い知っただけに、文紀は今、別のコミュニティを主体とすることは出来なかったのである。

 くすりと、響歌が零れるような笑いを漏らす。

「そう、だよね……」

 その声を聞いて、文紀はじっと響歌の顔を見つめた。

「文紀なら、そう言うよね」

 穏やかな顔でそうつぶやく響歌。

「なら……」

 その心の中にある感情が一体どのようなものなのか、文紀には想像も許されない。

 そんな気がした。

 だから、文紀はただ黙って響歌の言葉を聞く。

「なら、私は……文紀を待つよ」

 そう言って、響歌は笑った。

「文紀の心が変わるまで、きっと待ってみせる。いつだって私との時間を優先したいと思うくらいに、振り向かせてみせるよ」

 ほほ笑みながら力強く語る響歌に、文紀は唖然とする。

 正直に言ってしまえば、文紀は愛想をつかされてもしょうがないと思っていたのだ。

 普通、こういった男女の関係になる告白は男がするものだ。

 それを女性からさせてしまった。

 それだけでも、普通の女性からは甲斐性無しだと言われてもしょうがない行為だ。

 それだけじゃなく、文紀は響歌の告白をある意味では断った。

 恋人になりたい。けど、お前ばかりを優先することは出来ないと男のエゴを語ったのだ。

 それなのに、響歌はそれを許容しようとしている。

 そのことに、文紀は驚愕すら感じた。

 そんなことでいいのだろうか、と。

「それに……文紀……私は文紀のことを本当の意味で理解しているから。だから、その未来を信じられる」

 響歌の言葉に、だがしかし、と文紀は苦笑しながら内心で反論する。

 文紀は他者を理解することは出来なくて当たり前という考えを持っている。

 だから、もし響歌が文紀のことを本当に理解していると言うのなら、それは響歌がいつか響歌の思い描く文紀とのギャップにぶつかるだろうという事を意味していると、文紀は思った。

 改めて、文紀は思う。

 それは当たり前のことだ。

 他者の今、現在を作り出した原点を知り、多くの時間を共有しても、本当の意味で人は人を理解することは出来ない。

 だからこそ、自分の想像や理解とは違う人の在り方を肯定し、知ることが出来たことを喜んでいくべきだ。

 それだけその人物に歩み寄れたからこそ、別の一面を見ることが出来たのだから。

 そう思い、文紀は笑ってこう告げた。

「あんま……見透かしたようなこと、言うんじゃねぇぞ? 人のことなんて早々、わかるもんじゃないんだからさ」

 ハトが豆鉄砲を食らったかのように、目をぱちくりとする響歌。

 それは文紀の反応が、響歌にとって予想外のものだったからだろう。

 早速ギャップにぶつかることになったかと、文紀はその顔を見て笑い、うなずく。

「そして、それをわかって、それでも人を理解していこうとすることが楽しんでいけるっていうなら……共に歩もう。これから相手が持つ多くの一面を理解するために」

 二面性、そんな言葉だけでは計れない人のギャップたち。

 もしかしたら、それを見いだすためにするのが、友人付きあいであり、恋人との付き合いというものなのかもしれない。

 そう思いながら、文紀は響歌に手を差しだした。

「少なくとも、俺は響歌のことをもっと知りたいと思っている……お前は?」

 その言葉に響歌はうなずき、とろけるような笑みをもって文紀の手を握った。

「文紀、あなたのそういうところ、私は好きだわ」

 その言葉に照れくさいと笑みを浮かべることしか、今の文紀には出来なかった。

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