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ギャップ's  作者: ヴルド
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第七章 身勝手

 第七章 身勝手


 今日はモメた後だし、あんたと遊びに行くのは遠慮するわと言って去った礼香と別れた後、文紀はいつも通り、回帰倶楽部の面々が集まる場所へと足を進める。

 今日の集合場所は礼香から聞いた通りなら、いつも通り音貴の部屋ということだった。

 しかし、歩いている途中、文紀は見慣れた一房の髪がぴょこんと飛び出した、小さな背中を目にする。

「響歌!」

 その背中に文紀が呼びかけると、長い髪が揺れ、こちらを向く響歌の姿が目に入った。

 こちらを振り向く響歌の口元には小さく笑みがこぼれているのを見て、文紀は心の底から安堵する。

「音貴は?」

 集合場所は、音貴の部屋のはずだ。

 それなのに、こんな所を歩いている響歌に文紀は疑問を抱いた。

「音貴はいつものように、親が帰ってきたみたいだから」

「なーんだ……」

 回帰倶楽部の面々が集まる場所は、文紀にとって、どこよりも落ち着く場所だった。

 だからこそ、文紀は疲れた心を癒やすために、その場所へ行くことを望んでいたのだ。

「はぁ……」

 ため息を吐く文紀の顔を、響歌がじっと首をかしげ、体を屈めるようにして見つめていた。

「……なんだよ?」

 その視線に含むものを感じて、文紀は響歌に問いかける。

「じゃあ……私の家、来る?」

 なんでもないことのように響歌が言った言葉に、文紀は最初唖然とした。

 響歌の家。

 それは回帰倶楽部として集まる時、一度も利用したことがない場所だった。

 その理由は、響歌の家が文紀たちが集まる場所としては遠く、不便な場所にあったからだが、なによりも響歌の心情を気遣った結果だった。

 男性に襲われたことがある響歌にとって、例えその相手が文紀や音貴であっても、自らの部屋に男を招き入れることは強いストレスになるだろう。

 その事を考え、文紀は極力、回帰倶楽部が集まる場合でも、響歌の家は除外してきたのだ。

 そして、文紀のそんな気遣いを響歌は嬉しく思っていたということを文紀は知っている。

「…………いいのか?」

 自らの考えを曲げ、文紀は響歌の意志を確認する。

 なによりも、文紀は疲れていた。

 これだけの精神的な疲労を感じながら、気疲れする自分の家に帰りたくはなかったのだ。

 その思いが、文紀の背中を押していた。

「うん……いいよ。文紀なら、大丈夫」

 自分なら大丈夫。その言葉に、文紀は救われたような気持ちだった。

「そう、か……助かる」

 響歌が今までは入ることを嫌がっていた場所へと誘ってくれたことが、文紀を気遣った結果であったとしても、文紀は嬉しかった。

 それはなによりも、文紀に対する響歌の真心がこもっている行為と確信できたからだ。

 響歌の部屋。

 女性らしい装飾に満ちた部屋だと思っていたが、実際は、まるで病室のように無味乾燥とした部屋だった。

 建築されてから恐らく、もう何年も月日が経っているのだろう。

 古い家の中、その部屋だけがやけに白い印象に満ちていた。この部屋だけに、改築工事が行われたらしい。

 それがどうしてなのか、文紀にはわからなかった。

 所在なさげに置かれた、この部屋で明らかに使い込まれたものだと思われる座椅子と机に文紀は目を向ける。

 その机の上にいつも響歌が読んでいる詩集が置かれていることに、文紀は気付いた。

「なぁ……」

 文紀は、静かに言葉を発する。

「なに?」

 うれしそうにこちらを振り返る響歌。

「いや、あの、本……まだ借りているんだなと思ってな」

 しかし、文紀はただその視線から逃れるように顔をうつむける。

 その視界の端で、がっかりしたような顔をした響歌の姿が見えたような気がした。

 けれども文紀は今、話しかけておいて勝手だと思いながらも、だれとも話したくないとも思ってしまっていた。

 なによりも今まで見て、聞いたことが、心の奥底で他人と関わることを億劫だと思わせていた。

 ここに座れ、とそう示すように、床に置いてある座椅子を示す響歌。

 座椅子はピンク色のいかにも女性らしいものだった。だがしかし、部屋の真新しい様子とは違って、使い古され、いくつかの場所には穴すら開いている。

 人をもてなすには、あまりにもボロボロな座椅子だった。

 しかし、響歌はその座椅子に座るように勧めていた。

 その理由がわからずに、文紀は呆然とする。

「ここで、一番お金を使っている椅子だから……きっと、気に入ると思うよ」

 その言葉に、文紀は半信半疑のまま、座椅子に座り込む。

「へぇ……!」

「ふふっ」

 柔らかなクッションの感触に思わず驚いて、感心の声が漏れた文紀の姿に、響歌が忍び笑いを漏らす。

「なんだよ……」

 不機嫌そうに見えるよう、装いながら、文紀は響歌を見つめる。

「口の端……笑ったままだよ?」

「っ……」

 口元を手で覆い隠す文紀。

 しかし、響歌の笑みがその手に向けられていることに気付いて、文紀は諦めたようにため息を吐いて、笑みを隠した手で頭をかく。

「お見通し……ってわけか?」

 苦笑を浮かべたまま、文紀はつぶやいた。

 その言葉を受けて、響歌は静かにほほ笑む。

「文紀は身勝手な人だから……」

「それが今、なんの関係があるんだ?」

「だけど、その分……真っすぐな人だから。わかりやすいのよ」

 文紀の疑問に答える響歌。

 その顔には、どこか物事を斜に構えたような笑みが浮かんでいた。

「…………え?」

 文紀の首、肩。そして、ひざの順番に重みが掛かる。

 するりと、首筋を撫でるかのように触れて、そのまま文紀のひざに座り込む響歌。

「響歌?」

 自分の体を慈しむかのように触れてくるその手の温かさに、文紀は驚きを隠せなかった。

 何よりも、他人の熱というものが、熱く自分の体の中へと伝わってくる心地よさを、文紀は初めて知ったのだ。

「響歌……?」

 自分の体に触れてくる響歌の手。

 その手に心が安らぐのを感じながら、文紀は響歌の心を心配した。

「大丈夫、なのか?」

 響歌の精神にはあの日、男に襲われたあの一件が深いトラウマになっているはずだ。

 男に触ることは、そのトラウマを刺激することになるのではないか、と文紀は体を硬直させた後、慌てて響歌の手から逃れようとする。

「……大丈夫だよ、文紀。疲れたんでしょう? それでも、私のことを気にしてくれるのは嬉しいけど、あんまり……無理しないで」

 響歌の言葉を信じるのなら、文紀は疲れ果てているのがはた目から見てもわかるような状態なのだろう。

 そんな状態で口に出された文紀の気遣いに、響歌は泣きそうな顔をする。

「…………それに」

「それに?」

「こうしていると、落ち着くでしょう?」

 確かに、響歌の言葉通り、疲れ果てた心に人の体温は不思議と染み渡った。

 まるで、心の中に淀み固まっていた疲れが暖められて、溶けて流れていくかのようだった。

「私も……最初はそうだったから……」

「最初……?」

 文紀はだれかの新しい一面を見ることに怯えていたことすら忘れ、ただ、興味のままに響歌のことを聞いた。

 そんな、文紀の様子に気付いているのか、いないのか。

 ただ、響歌は悲しそうな顔にほほ笑みを浮かべたまま話を続けた。

「私はね……今は大丈夫だけど、昔は喘息で……発作の度に何日も動けなくなって、学校を休んでたりしたんだ。その時、本を読むことを覚えたの」

 響歌は自らの部屋へと視線を向ける。自然と、文紀の視線もそれを追った。

「そんな中で気に入ったのが、あの詩集。昔はね、私の病気のせいで、お金も心もとなかったから、ずっとずっと何週間も決まった日にちに図書館に行って、あの本を借りていたんだ」

 くすくす、と小さく笑いながら、響歌は言葉を紡いでいく。

「本のほこりが悪影響になるからって、病気が酷くなる前に買った本は売られちゃったから、お気に入りの本を何度も読むにはそれしかなかったんだ…………面白みがない部屋でごめんね? 文紀」

 恐らく、それが響歌の部屋が病室じみている理由なのだろうと文紀は思う。

 響歌の趣味や嗜好を反映していない白い部屋。

 そこに住んでいる人間の色に染められない純白の部屋というものが、どれだけ不自然なものなのか、文紀は知ることになった。

 その事実を知って、文紀は改めて部屋の中を見渡す。

 すると、今まではただ無味乾燥としているとしか思わなかった部屋の空気に、文紀は違和感を抱いた。無味乾燥としているのではない。この部屋に漂う空気は、あまりにも生活感がなく、停滞しているのだ。

 そう文紀が感じる事実が先程まで響歌が語っていた言葉と重なり、実感となって文紀に襲いかかる。

 知らず知らず、自分がまた再び知っているだれかの見知らぬ一面を掘り返そうとしていることに気付き、文紀は怯えてしまう。

「大丈夫だよ。文紀」

 そんな風にすくんでしまった文紀に自らの体温を更に分け与えようと、響歌はその体をさらに寄り添わせる。

「私は……怖くない……」

「…………あ、ああ」

 なにを怖がっているのだろうと響歌の言葉に文紀はそう思い、頭を振る。

 不意に冷静になると、自分が晒した醜態が恥ずかしくなってきた。

「ふふ……くすぐったいよ、文紀」

 恥ずかしさから文紀が足を揺らし、体勢を変えようとすると、響歌はそう言って文紀の動きを止めようとする。

「あ……」

「ふっ……ん……」

 そんな二人の動きが合わさり、急速に二人の距離が詰まる。

 危うく、顔を上げた響歌の唇に自分の唇が触れそうになったことに気付いて、文紀は体を遠ざける。

「ふふっ」

 響歌の唇から漏れた吐息が、文紀の顔にその熱を移していた。

 ほおが赤らむのを、文紀は感じる。

 そんな顔を更に響歌に見せることを嫌って、文紀は頭上を見上げた。

 そんな文紀の体に、響歌は更に体重を預けてくる。その小さな体にふさわしい軽い体重とその小さな体には似合わない大きな乳房が、文紀の体に乗せられていた。

「おい……」

「ねぇ……文紀……」

 自分の体から響歌の体を離そうと文紀が手を伸ばした瞬間、その手を止めるように響歌が声をかけてくる。

 肩に頭を乗せて振り返り、響歌が文紀の顔を見つめていた。

「今日は……なにがあったの?」

 その言葉を聞いて、文紀は最初、なにを言うべきなのかわからなかった。

 しかし、時間が経つにつれて、自分が今までに晒してきた醜態を思い出し、この事について口をつぐもうかとも考える。

 けれど、そんな文紀に口を開かせたのは響歌の囁きだった。

「私じゃ、役に立たないかもしれないけど……文紀?」

「……なんだよ」

 文紀の不機嫌な問い掛けに、響歌は目をつぶって答える。

「私とあなたは契約を交わしたわ。私が……あなたを守る代わりに、あなたは……私を守ってと……」

 その時、響歌の顔に浮かんだのは苦笑じみたほほ笑みだった。

「ねぇ、文紀。あなたは私に……その契約を破らせる気?」

 その約束は中学時代のあの頃、文紀があの事件の犯人として疑われていたのを晴らしたことで守られている。そう主張したかった。けれど、今日、失敗ばかりだった文紀でも、響歌の言葉に隠された意味はわかった。

 疲れている心。それを解きほぐし、リラックスして欲しいのだと、響歌は文紀に提案してきてくれているのだ。

 響歌はただ、文紀に弱音を吐き出させるためにその約束を再び語っていた。

「…………はぁ」

 その事に気付いて、文紀は響歌の言葉にため息を返す。

「わかった……長くなるけど、聞いてくれ。頼むわ、響歌」

「うん!」

 音を上げた文紀に、響歌は満足げにうなずいて、満面の笑みを浮かべた。

 結局、文紀が今日の出来事すべてを語るころには日は沈み、どっぷりと日は暮れ始めていた。

「そう……」

「そう? そうって……それだけかよ」

 文紀の話を聞いた響歌の反応はそれだけだった。

「……なにを言えというの? 盗み聞きなんてはしたない。そうとでも言って欲しい?」

「…………なんか、お前、不機嫌になってないか?」

 文紀のひざの上に座ったまま、髪をいじり出す響歌。

「別に……」

 話を終えた瞬間に背中を向けたその姿は、拗ねた子供を思わせるものでしかなかった。

「はぁ……」

 子供じみた響歌の態度に、文紀はため息を吐き出す。

「ふんっ」

 ため息によって伝わる熱を振り払うかのように、ぶんと首を振って響歌が顔をそらす。

「ったく……」

 拗ねた様も絵になるんだから、美人は得だなと響歌には聞こえないように心の中だけでつぶやき、目の前で乱れた響歌の髪を整えようと手を伸ばす。

 文紀の手が響歌の髪に触れる。

 その瞬間、ずしりと少しだけひざの上に乗る重みが増えた。

 響歌が体の力を抜いたのだろう。

 響歌の体から力が抜けたことが、文紀が響歌の髪に触れることへの許可だと信じて、文紀はその髪に触れ続ける。

 幼い頃にずっと病気だったからか、やや白い印象を受ける肌の色をしたうなじに、色濃い黒髪が流れているのがやけに艶っぽかった。

「疲れたよ……今日は……」

 ぼやきを漏らしながら、文紀は響歌の髪を整え続ける。

「人の、さ……色んな……知らない一面を見ることって、こんなにも疲れることなんだな」

 庵先生。普段はひょうきんな言動をするあの人が、実は重い過去を背負っていたこと。

 そして、今もなお、過去の後悔を見つめて、その後悔を乗り越えるために努力していたこと。

 だれかを守る。文紀がそう思った、最初の切っ掛けである姫子に、自分は守られた。

 その事実から見える、姫子の新たな一面は、姫子がかつての弱さを乗り越えて、成長しようとしたことで生まれたものだ。

 そして、文紀の知らなかった礼香の一面。

 その強さに驚嘆し、評価していた文紀には意外な事実だった。

 その強さが、文紀を真似しようと思って作られたものであったことは。

 三人に共通すること。それは、きっと過去、自らが経験した出来事を糧になにかを求め、成長したということだろう。

 言わば、今の彼女たちにとってそれらの出来事は今の彼女たちを形成する原点とも呼ぶべきものなのだろう。

その原点を、友人ではあっても他人である自分が知ることが、こんなにも重いことだったのだと文紀は初めて知った。

 それが、今日の出来事に対する、文紀の正直な感想だった。

「じゃあ……」

 髪の毛も整え終わった頃、今までずっと黙っていた響歌の口から言葉が漏れる。

「また……二人だけになる? 文紀」

 その言葉に、文紀は唖然とするしかなかった。

 なにを言い出すのか、そう言おうとした文紀の唇に響歌の指先が触れる。

「ほかの人たちと縁を切って……二人だけになる? 文紀」

「なにを、言って……」

「だって、そうでしょう? 文紀、あなたは言ったわ。人と付き合うことで、知る事の出来る新たな一面が怖いのでしょう?」

 響歌の言葉にうなずきを返す文紀。

 響歌の顔はいつになく真剣で、振り返ったその瞳はじっとこちらを見つめていた。

「なら、私と二人きりになることで……人との付き合いは消えるわ。それをあなたが望むのなら、文紀……私は、いいわよ」

 響歌の瞳を見ていると、文紀はまるで深い井戸の底を覗いているような気分になった。

 黒目がぽっかりと、穴の開いた井戸のようにも見えたのだ。

「返事は、いつでもいいわ……あなたがそれを望むのなら、私はいつだって契約を果たす」

 キスでもしてしまいそうなほどに、響歌の顔が文紀のそばに近づく。

「私は……あなたに必要とされたい。そう思っている。けれど、あなたはだれかに必要とされたいと思っているのね」

 壊れ物でも扱うかのように、そっと響歌の手が文紀の顔を撫でる。

「それがなぜかはわからないけど、あなたのその衝動はとても強い…………だから、私はあの時、だれかに好かれたいって言った欲張りで身勝手なあなたに、それは無理なのって言ったわ」

 衝動。文紀の孤独を言い表すには、言い得て妙なその言葉。

 文紀の中にある孤独。それを育てたのは、家庭での孤独であり、そして自らが信じる原点故だろう。

 子供の頃に教えられた親からの言葉。文紀がそれを今も守ろうとしているのは、家族とまた絆を結びたいという思いから生まれたものなのかもしれない。

「その理由は、あなたが求める愛に、きっとほとんどの人が追いつけないから。無数のだれかにも愛されたい、ほかのだれでもない特別なだれかに愛されたい。あなたの欲求は、そうしたものだと思う」

 目を伏せて、響歌は文紀を抱きしめる。

「ねぇ、文紀。もし、あなたがほかのだれでもない特別なだれかに愛されたいと思っているのなら……私を選んで。もし、あなたが無数のだれかに愛されたいと思うのなら……それはいつか、あの時のようなことを生むから」

「あの時?」

 文紀は響歌の言葉を問い返す。

 その言葉にこくりとうなずきを返し、響歌は話を続けた。

「あの時、私を襲った事件の容疑者としてあなたは疑われ……あなたの周りを囲む多くの友人はいなくなってしまった。人と人の絆は永遠じゃない。たぶん、あなたは何もかもを受け入れるから、それに甘えて多くの人が集まるけど、いつかその絆は切れるときが来る」

 ふぅ、と一息ついた後、話し続ける響歌。

 思えば淡々と短く言葉を使うことが多かった響歌が、こんなにも長く言葉を喋るのは初めてのことではないだろうかと文紀は思う。

「人が増えるごとに、摩擦は増えるから。そうして、もめ事だって起きる。そして、あなたはあなたが愛して欲しいと思った人を失っていく。そうすれば、きっと、あなたは心を痛めるでしょう」

「それは……」

 確かに、そうだった。

 あの事件以来、容疑者として疑われ、今まで話していた友人と話せなくなってしまったことに、文紀は深い絶望すら感じていた。

 これが付き合いの長い、たとえば回帰倶楽部の面々ならどうだろう。

 その時感じる痛みは、どれだけのものだろうか。

「だから……私は契約を語ったの」

 その言葉はささやきとは思えないほど、文紀の心に強く響いていた。

「契約はきっと、切れない絆の一つだから。だから、私は……あえてあなたに弱みを見せ、無力な自分を見せたの。それを守ろうとするあなたが、元気になることを祈って」

 いっそ泣き出してしまいそうな顔で、響歌が文紀にささやく。

「体が小さくて、ほかの人がいない時は毒舌で気丈。でも、人前では自信がなく、おどおどとした態度を取る……そんな人間、普通の人は目障りでしょう?」

響歌は少しの間だけ、そこで言葉を句切り、周囲の部屋を見渡す。

「でも、あなたは受け入れてくれた」

 その目はどこかぼんやりとしていて、ここではないどこかを見つめているようだった。

「昔、私が喘息持ちで家族に迷惑を掛けていたころ……育児ノイローゼになった母は、結局、私を見捨てたわ」

「な……」

 その言葉に、文紀は驚愕する。

 病気の子供。その育児に疲れたとはいえ、母親からの心ない言動にどれだけ響歌が傷ついたのだろうか。

 それを想像すると、文紀の心は痛んだ。

「心配してくれているの?」

 心の中に走る痛みを堪える文紀に、響歌が手を伸ばす。

「ありがとう」

 その手が触れたと同時に、響歌はお礼の言葉を口にした。

「ねぇ、文紀……あなたは優しくて、身勝手だから。私みたいな面倒くさい人間でも放っておけなくて、守ろうとしてくれる」

 響歌の手が、文紀の手に触れる。

 幾たびもの喧嘩でささくれ立った無骨な手を、響歌は愛おしそうに撫でていた。

「だから、私は弱い自分を隠さずにあなたに見せた」

 小さく、響歌は笑う。

「それがあんなにも危険な男たちを誘うなんて、気付いていなかったけどね」

 響歌が言っているのは、以前、響歌に告白してきたような男のことだろう。

 響歌は美人で、なによりも肉感的な体付きをしている。

 思春期の少年にとって、それだけでも目に毒だと言うのに、文紀の前限定とは言え響歌が心を開いた姿は、ああいう危険な男たちにとって誘蛾灯のように作用したのだろう。

 すっと響歌の手が文紀の胸元を撫でる。

 あの時の事件以来、鍛え上げた体。その筋肉に触れ、響歌はほほ笑む。

「あなたは私を守ることで……私に必要とされていることで、心を癒やして……自信を取り戻しているのが、私にはわかったわ」

 休むことなく作り続け、やっとの思いで完成させた作品。あるいは、苦労を重ねて育て上げた子供を見るような目で、響歌が文紀を見つめていた。

 目は口ほどに物を言う。そのことわざの意味を、文紀は実感していた。

 井戸のような響歌の瞳。その瞳の中からわき出してくる感情。

 響歌が語ろうとするすべての気持ちが、瞳を通して文紀に伝わる。

「あの事件があった後、あなたはずっと意地を張っていたのだけど……でも、ずっとずっと寂しくて、心が痛かったのでしょう?」

 だから、響歌の言葉に、文紀は意地を張ることも出来ずにうなずく。

 頷くしかなかった。それは文紀があの事件以後、あの図書館で響歌から契約を持ち出されるまで、ずっと感じていた気持ちだったから。

「だから、私はこう言うのよ。あなたが人付き合いに疲れて、多くの人からもらえる愛情ではなく特定のだれかの愛情を求めてくれるのなら、かつての契約を果たしたあの時のように……私があなたを、愛するわ」

響歌がすべてを文紀に委ねるかのように、体を預け、瞳をつぶる。

「あなたが、ほかのだれかじゃなく、私一人を選んでくれるのなら……あなたが私を必要としてくれるのなら、それ以上の幸せは……私にはないから」

 その言葉を最後に、文紀の顔を撫でた後、響歌は立ち上がる。

 そして、そのまま響歌は部屋から出ていこうとした。

「まっ……」

 呼び止めようとする文紀。

 そんな文紀に振り返り、響歌はにこりと笑う。

「時間が遅いから、もう……帰ったほうがいいよ? それとも……」

 その笑みから続く言葉に、文紀は絶句した。

「……一夜を共にする?」

 今まで一度も見たことがない響歌のその笑み。それは確かに、戸惑う文紀を楽しんでいるような妖艶な笑みだった。

 その笑みを浮かべた後、響歌は扉を開いて外に出て行った。

 薄く開かれた響歌の瞳が文紀から外された瞬間、文紀はどっと溜まっていた息を吐き出す。

 いつの間にか、息を止めてしまっていたらしい。

 はぁ、はぁと呼吸をする音だけが、響歌の部屋に響き渡る。

結局、その後しばらく待っても、響歌が部屋に戻ることは無かった。

 仕方なく、文紀は部屋の外に出る。

 その瞬間を待っていたかのように、文紀のポケットの中で携帯が震えた。

 携帯を開き、そこにある文字を読む。

 どうやらメールが届いたようだった。

 文紀は何気なく、そのままメールを開く。

「いつだって……待っているから」

 そんな内容のメールが、響歌から届いていた。

 顔が赤らむのを感じながら、文紀は響歌の家から出る。

 響歌のメールには続きがあった。

「答えを……きちんと出してね」

 そのメールを見た後、文紀は行くあてもなく、さまよい歩いた。

 いつの間にか、文紀は繁華街に着いていた。

 恐らく、夜遅くにも明るいこの場所に、文紀は安らぎを求めたのだろう。

 教育に熱心だった文紀の両親は、今でも文紀の夜間での行動を縛ろうとする。

 だから、こうした場所に行くようなことはなかった。

 けれど、今、文紀はこの場所に。ただ知らない人々が行き交うこの場所に、安らぎを求めてしまっていた。

 自分が無意識に求めた安らぎを拒絶するように、文紀はあえて路地裏を進み、そこにある雑多な物と者にまゆをひそめる。

 あからさまに柄の悪い人相の男が二人、頭の悪そうな女が二人。

 ついでにその周りには、空き瓶が転がっていた。

「なぁんだよ、てめぇ」

「いえ、なんでも……」

 関わるのが面倒くさい。

 そう思って、文紀は頭を下げて路地裏から出ようとする。

「失礼しました」

「失礼? 失礼って言ったか、お前」

 隙を見せてしまった。文紀は毒づきたくなる気持ちが顔に漏れ出さないように気をつけながら、振り返る。

「失礼だって思っているんだったら……悪いんだけど……迷惑料ぉ、もらえないかなぁ?」

 にこやかに笑いながら、タチの悪い要求を口にする不良。

 その顔を見て、文紀は荒事になるのを覚悟した。

 女を前にして、引けない気持ち。

 その粋がり方には覚えがあったからだ。

「悪いけど……支払いは遠慮させてもらう、よ!」

 全力で文紀は肩に触れた手を振り払い、逃げ出した。

「あ、てめっ! 待て!」

 後ろから自分を追う不良たちの声が聞こえるが、すぐに消えた。

 自分の女から離れることによる危険性を、男が見過ごせるはずはないだろう。

 走り抜けた文紀は、いつの間にか繁華街から少し離れた場所にある地下道の前に立っていた。

 ただ通り過ぎていくだけだと思っていた雑多な人に絡まれたことが、余計に一人になりたいという文紀の気持ちを刺激していた。

 この地下道は繁華街のそばを通る大通りと、繁華街を歩道で繋ぐために作られた道路の一つで、その多くはどんな時間でも人が行き交っている。

 けれど、この地下道には今、人はいなかった。

 住宅街でも若者が多い場所と大人が多い場所がある。そんな中、この道は大人たちが主に使う道なのだろう。

 もっと夜遅い時間か、それとも会社からの帰宅時間か。

 そんな時間に賑わうこの道には今、人はいない。

 文紀は人のいない地下道の中に入り、蛍光灯の光で不自然なほどに照らされた通路の中で考え込む。

 文紀が考えているのはもちろん回帰倶楽部の面々のこと。

 そして、自分自身のことだった。

 何よりも、自分の弱さが身に染みた。

 なにかを守っていると粋がって、結局、守られていたのは自分自身だった。

 響歌に、そして姫子に。自分は守られていた。

 そして、自分より精神的に強いと思える人を思い出そうとして文紀は、実は自分の真似をしているだけだと言って、その小さな肩を震わせた礼香の小さく頼りない、思わず支えてあげなければと思わせるような姿を思い出す。

 何を考えようとしても、今日知ることになった回帰倶楽部に所属する人間の新しい一面が思い浮かんでしまう。

 こんな時に、庵のひょうきんな態度の裏にあった重い過去を背負ってでも、前に生きようとするあり方を、文紀は羨ましく思った。

「はぁ……」

 文紀はため息を吐き出す。

 頭の中には先程、自分を追ってきた不良の姿があった。

 結局、文紀が粋がっていた理由は、彼らと同じようなものだったのだろう。

 あの時、あの事件で文紀は響歌の前で恥をかいた。

 守りきれず、ただボコボコにされた。

 強くありたい。そんな思いで、どんな時も強がってきた。

 そして、その強がりを多くの人が文紀を見ることで、そのすべての強がりを見透かされて丸裸にされた。

 それどころか、響歌は文紀の強がりが本当の自信に繋がるように、自らを弱い人間として文紀が守る対象であろうとした。

 穴があったら、入りたい気分だとそう思い、文紀は上を見上げる。

 小さな地下道の、低い天井。それが自分の背伸びの限界を示しているかのような気がして、文紀は背筋を伸ばし、つま先立ちでその天井に触れる。

 その天井に触れても、なにが変わるというわけではなかった。

 背筋を伸ばし、背伸びをして強がっていた自分の限界を押し上げるようなことにはならない。

 自分が行った考えの無い行動の裏に、そんな思いが隠されているのだろうと文紀は自分の心を分析してため息をつく。

 自分自身の弱さに、文紀は恥じ入った。

「……せんぱい?」

 そんな風に後悔と恥の入り混じった複雑な気持ちを持て余していると、不意に文紀へと声が掛けられる。

 その言葉を聞いて、文紀はうつむいていた顔を上げた。

「音貴?」

 そこにいたのは、回帰倶楽部の一人でもある支倉音貴の姿だった。

 その顔を見て、文紀は少しの違和感を抱く。

 いつもよりあでやかで女性っぽい印象を受ける顔立ちを、音貴はしていた。

 それが自分の精神が弱っているからだと思い、文紀は自分が感じた事実を気にせずに音貴と顔を合わせる。

「せんぱいは、どうしてここに?」

「お前こそ……って、なにを担いでいるんだ?」

 音貴の部屋では見なかったケース。

 そのケースは黒く、皮で作られているのか重厚な雰囲気があった。

 そんなケースが音貴の肩に担がれているのを見て取って、文紀がそのケースに視線を向ける。

「これ、ですか?」

 そんな文紀の視線を感じ取ったのか、音貴は肩を揺すってケースの存在を示す。

「これはクラシックギターのケースです」

「クラシックギター?」

「はい!」

 文紀が不思議そうに聞くと、音貴はうれしそうにうなずいた。

「あまり盛んなものではないんですけど……繊細でどんな曲にも合うことが出来る音色が、とても奇麗な楽器なんです」

 普段、自分の声が女性っぽく伸びのある艶ややかな声色をしていることを気にして、多くを喋らない音貴にしては珍しい熱弁だった。

「お、おいおい……」

 音貴の熱弁に押され、文紀の体が引く。

「あ……」

 その動きに気付いて、音貴がしまったとでもというように握り拳一つ分、口を大きく開ける。

「す、すいません……」

 その口を手で覆い隠し、恥じらう音貴。

 その姿は可憐な美少女のようだった。

「…………ひ、ひきましたか?」

「いや……」

 自分らしくもない、熱の入った口調に、文紀が引いてしまったのではないかと恐る恐る尋ねてくる音貴に、文紀は苦笑しながら答える。

「ちょっと、最近……人の色んな部分を見たからかな。結構、抵抗なく受け入れられるよ」

 それは、文紀にとっての正直な感想だった。

「お前の部屋にだって、楽器はたくさんあったろ? もともと、お前は音楽一家に生まれたんだ。そういう風に音楽をやっていることに特別、違和感はないさ」

 文紀の言葉を聞いて、ほぅと音貴が安堵の息を漏らす。

「よかったぁ……」

 胸をなで下ろす音貴の瞳には、安堵のためか、涙すら浮かんでいた。

「なんだよ? 泣いているのか?」

「な、泣いてなんか……ないです……」

 からかい混じりに文紀が瞳に浮かんだ涙を指差すと、音貴は急いで目を腕でぬぐい、瞳に浮かんだ涙を拭く。

「ふっ……」

 その動きこそ、涙が瞳に浮かんでいたことを示すものなのだと指摘してやっても良かった。そうすれば、きっと、音貴は面白い反応を見せてくれるはずだ。

 けれど、文紀は指摘しなかった。

 意地悪をするような精神的な余裕を、今の文紀が持ち合わせていなかったからだ。

「なぁ……どうして、お前はこんな時間に、こんな所にいるんだ?」

 文紀の疑問は当然のものだった。

 繁華街と住宅街を繋ぐこの地下道には人気がなく、音貴が入ってきた方向から考えれば音貴は繁華街に向かうつもりなのだろう。

 さっき絡まれた文紀からしてみれば、そんなところに友人が行くのは心配すべき出来事だった。

「あ、もしかして習い事か? でも、それならお前……俺たちに話すよな」

 回帰倶楽部での集まりは、夜遅くまで続くこともある。

 各人のプライベートを配慮し、文紀は回帰倶楽部での集まりに、強制されるような雰囲気が出ないように注意していた。

 気の弱い音貴などには、そうした雰囲気だけでも居心地の悪いものになるだろう。

 そのため、なにか事情があるのなら、適当にメンバーのだれかに話すことで気軽に集まりから離れる時間が作れるようにしていた。

「…………笑わない、ですか?」

 文紀の言葉に、音貴は体を小さくしながら質問してくる。

 その質問に、文紀はただ黙ってうなずいた。

「あの……実は、これから……路上演奏をしようと思っているんです」

 音貴が語った言葉に、文紀は耳を疑う。

「お前が路上演奏って……両親は認めているのか?」

 いいえ、と首を振る音貴。

「じゃあ、黙って?」

 今度は、はいと音貴はうなずく。

 そんな音貴の姿に、文紀は驚愕した。

 気の弱い音貴が両親に逆らうことは、文紀にとって想像の埒外だった。

 音楽一家として有名な音貴の家族。

 その両親が嗜む音楽はクラシックなどのいわゆる格調高いものが多く、街で路上演奏をするようなポップな音楽を、音貴の両親は好んでいない。

 そのため、音貴にもそうした格調高い音楽を勧めるだけではなく、そうしたポップな音楽を聴くことを禁じてすらいるほどだ。

 そんな教育のせいで、良くクラスメイトが話す音楽の話に加わりたいのに、その曲がわからないと音貴が嘆いていることを文紀は知っている。

 そうした音貴の家族の品格を重んじる性格を表す一例として、茶髪などは特に受け入れがたいらしく、以前、音貴の両親がいる時に回帰倶楽部の面々が集まった時、礼香の姿を見た音貴の両親は、露骨に嫌悪感が混ざった目を礼香に向けていた。

 それを気にして、何度も礼香に謝る音貴の姿を見かねて、文紀たち回帰倶楽部の面々は音貴の両親が居る時には音貴の部屋で集まらないようにしていたのだ。

 そして、それは数日前、音貴の家で集まらなかった理由の詳細でもある。

「なんで……路上演奏を?」

 音貴を知る者なら当然湧く疑問に、音貴は体を縮こまらせて返答することを拒否する。

「答えられないのか?」

 文紀の言葉に、音貴は困ったような顔を浮かべる。

 視線を下に向け、ぷるぷると震えている音貴の姿は、まるで小動物のようだった。

「ま、話したくないっていうなら、無理矢理聞くつもりもないけど…………」

「聞いて、くれますか……せんぱい」

 文紀の言葉の途中で、きっと眼差しを鋭くし、音貴はこちらをにらみ付けるようにして見つめきた。

 そんな音貴の問いかけに、文紀はうなずいた。

 音貴の話を聞いてみると、音貴はどうやら両親とは音楽性の違いを感じているらしい。

 オーケストラでヴァイオリンを演奏する母。そして、指揮者として活躍する父親。

 そんな両親とは違い、音貴はどちらかというと自分一人で行う音楽を好んでいるらしい。

 独奏。それも曲調を問わず、多くの人を楽しませることを音貴は心から楽しんでいる。

 そのため、特に週末のような繁華街が賑わう時には路上演奏をするために様々な場所を渡り歩き、多くの人と対面して演奏できる機会を楽しんでいたらしい。

 そんな中、今日も同じように路上演奏に出向いた所、文紀に出会ったのだということだった。

「最近は、僕の演奏目当てに来てくれるお客さんも増えたんですよ」

 客の内訳を聞いてみると、最初はあまり客もいなかったが、自分の容貌をいかそうと考え、化粧をした所、それが好評を呼び、今では固定客もいるらしい。

 そう言われてみればと文紀は音貴の顔を見て、最初音貴と会った時に感じた違和感が化粧によるものだと気付く。

 いつもの通り間延びした声で、楽しそうに話す音貴を文紀は笑顔で見つめていた。

「お前…………ロックだな」

 文紀の言葉に、音貴は顔をほころばせる。

 親に反抗し、自分の音楽性を確立しようとする。

 そんな音貴の行動を、文紀とロックと言い表したのだ。

 その言葉を、音貴は笑って受け入れた。

「ふぅ……」

 ひとしきり二人で笑いあった後、文紀は思わずため息を吐き出してしまう。

「どうしたんですか?」

 文紀が先程吐き出したため息は、まるで心の底から湧いた疲れが固まって出たような重く、深いものだった。

 そんなため息を文紀が吐き出したことに心配したのか、音貴が文紀の顔を覗き込む。

「熱は……ないみたいですね」

 すぐに額に手を伸ばし、自分の額にも手を当てて、熱を測る音貴。

「俺が悩みを抱えてちゃ……いけないのか?」

 ため息から、すぐに病気を連想した音貴に文紀はぼやきを漏らす。

「悩みが……あるんですか?」

 結果として、それは文紀の内心を吐露するつぶやきだった。

「あ……」

「ふぅん……」

 にこにこと楽しそうに、いつものぼんやりとした態度とは似合わない笑みを浮かべる音貴。

「せんぱいが、悩みなんて……珍しいですね」

 音貴の顔に強い好奇心が浮かんでいた。

「話してくださいよー」

 いつもの通りのびのびとした声と共に、音貴が迫ってくる。

「ふがっ……」

 文紀はこちらに向かってにじり寄ってくる音貴の鼻面を押さえて、歩みを止めさせた。

「なんだって、お前は……俺の悩みがそんなに気になるんだよ」

 あきれた、という口調でそう音貴に伝える文紀に、鼻を押されたことで自然と出てしまった涙で目を潤ませながら音貴は反論する。

「あの傲岸不遜というか、唯我独尊を地で行くせんぱいが、悩むようなことなんですよ? 僕じゃなくても、普通、気になると思います」

 にこやかな笑顔で毒を吐いているという自覚もなく、毒にまみれた言葉を言う音貴。

「…………俺はそんな傍若無人とか、傲岸不遜とか、言われるような人間じゃねぇよ」

 文紀の力ない否定の言葉を聞いても、またまたとほくそ笑む音貴のほおに、文紀は指を伸ばし、軽く引っ張った。

「あたた……」

 つねられて赤くなったほおを押さえる音貴を、なんとはなしに文紀は眺める。

 茫洋とした瞳の中で、文紀は正直、音貴にすべてを話してしまいたいという気持ちが強くあった。

 音貴に話すことで、少しでも自分が背負った荷物を軽くしたい。

 文紀がそう思うのも、無理はないだろう。

 それくらいに多くの出来事が一気に起こって、文紀の精神を衰弱させていた。

「それに、僕、憧れていたんです」

 腕を組んで考え込む文紀に、音貴がそれこそ、夢を見る乙女のように手を合わせて、キラキラした目で語り出す。

「憧れていたって……一体何に?」

「こういうふうに、友達と悩みを話しあうってことですよー」

 文紀のつぶやきに、音貴は満面の笑みでそう答えた。

「こう……修学旅行で、男の子同士好きな人を話し合う感じがいいんですよねー!」

 弾けんばかりの笑顔で話す音貴に、文紀はため息を吐き出す。

「とっても、男の子……って感じがして、いいなぁ……って常々、思っていたんです」

――そういうお前は、実におんなのこって感じがするよ。

 心の中で呆れ半分にそうツッコむ文紀。

「まぁ……何に憧れるか、なんてその人の自由だけどさ。悪いが、俺はお前に、俺の悩みを話す気はないぞ」

「えぇー」

 ぶーっとふくれる音貴に、文紀は苦笑する。

 子供っぽく感情を表す音貴に、文紀は癒やしを感じていた。

「いいじゃないですかー、せんぱーい」

「ねだるなよ……」

「おねがい、おねがいだから!」

「ひ、み、つ、だ!」

 手を合わせてこちらを拝み倒してくる音貴に、文紀はそう言って背中を向ける。

「僕の……」

 甘ったるい口調でつぶやく音貴。

「恥ずかしい秘密は、無理矢理探ったくせに?」

「はぁ?」

 音貴がつぶやいた言葉に、文紀は絶句した後、慌てて音貴へと向き直る。

「バッ、おまっ!」

 その時、音貴が浮かべていたしてやったりというような笑顔を見て、文紀は頭を抱えたくなった。

「あんなに嫌だっていったのに……むりやり……」

 うるうると、それこそまるで脅迫されたことを告白するかのように音貴は喋り出す。

 その内容はすべて、音楽一家で生まれ育ったことで教え込まれた発声法と元々高い音貴の声色に乗せられて、地下道の中を響き渡った。

 恐らく、音貴の声は地下道の外まで聞こえているはずだ。そして、音貴の声は女性のものにしか聞こえない。

「ひどい……ひどいです、せんぱい……」

 改めて考えてみれば、音貴が先程から言っている言葉の内容には、いかがわしい内容を想像させるような内容のものばかりだった。

「お、おま、おま……えぇぇぇ!」

 引きつった顔で、音貴を指差す文紀。

 そんな文紀を見て、音貴は色っぽく笑っていた。

 魔性の笑み、とでも言えばいいのだろうか。

 音貴の笑みはそうした性質を持ち合わせているように文紀には思えた。

「あ……」

「わかった、わかった! 言う、言わせてもらう! だから、もうやめろ!」

 口を開け、さらに卑猥な想像をさせるような言葉を言おうとする音貴を、文紀は慌てて止めた。

「えへへ」

 さっきまで文紀を脅していた、とは思えないほどに邪気のない笑みで音貴は笑う。

「ったく……お前ってやつは……いつからそんな手腕を身につけた?」

「せんぱいの真似、ですよ」

「俺はそんな脅迫をした覚えはねぇよ!」

 楽しそうに笑う音貴に、文紀はそう呟くしかなかった。

「それで、話してくれるんですよね?」

「ああ……一度言ったことだからな」

 文紀は手をポケットに突っ込み、背中を地下道の壁に預ける。

 音貴はそんな文紀の隣にハンカチを敷き、その上に座り込んだ。

「よっこいしょっと」

 随分と重い物だったのだろう。声すら出して、音貴は座った自分のそばにギターケースを置く。

「さすがにだれがどうしたかっていう部分は省くぞ。だれが俺を悩ませるようなことを言ったかなんて、知らない方がいい」

 前置きして、文紀は今日一日の出来事を語り始めた。

「最初はさ、見知った人の、知らない一面を見たってだけだった。今まで、弱い人だなんて思ってた人が、意外と芯が強い人間なんだって気付いただけだった」

 文紀は庵と姫子のことを思い出す。

「次に知ったのは、ある人が持つ酷い事情と……そして、その事情に抗おうとする強い意志だった。俺が不用意に、そいつの触れられたら嫌な所に触れちまったからな。そのせいで、怒られたのさ」

 礼香のことを、思い出す。

「最後に……」

「最後に?」

 相づちを打ちながらも、基本的には黙って文紀の話を聞く音貴。

「自分の……情けなさを知った。だれかに守られていることにも気付かないで、俺は自分が見たくないことから目を逸らし続けていた」

 思い知らされた自分の弱さ。

「それを教えてくれたやつがいた。そいつは、俺の弱さを認めてくれている。そして、俺を求めてくれている……」

 響歌のことを思い出す。

「それで……せんぱいは、その求めに対して、どう答えるつもりなんですか?」

 真剣な表情でこちらを見る音貴に、文紀は頭に手をやって、目を瞑る。

「それが…………思い付かないんだ」

 正直、文紀だって思春期の少年だ。

 恋愛をしたい、恋人を作りたいという感情はあって当たり前のものだろう。

 しかし、実際には文紀にそうした気持ちはあまりなかったのだ。

 ただ周りに自分の名前を呼ぶだれかがいる。それだけで満たされるなにかを、文紀は持っていたからだ。

 だから、文紀は戸惑うと同時に、響歌への返事をどうすべきか考え込んでいたのだ。

「それに……」

「それに?」

 文紀は一つ息を吐き出しながら、囁くように語った。

「どうしてなのか……って思いがあるんだ」

「どうして……って?」

 音貴の声に、文紀はただ自分の心中にある疑問を口にする。

「どうして、今……なんだ?」

「それは……だれかはわからない人の求めに対してですか?」

 まゆをひそめ、不快感に顔を歪めながら、文紀を責める視線を向ける音貴に、文紀は首を縦に振る。

 いや、力なく首を落とすことしか文紀には出来なかったのだ。

「身勝手な人、ですね」

 確かに、だれかの真剣な願い、求めをなぜ今、口にするのだと疑問に思うのはあまりにも身勝手というものだろう。

 当の本人は、その求めを聞いた文紀の事情など知らなかった可能性もあるのだから。

「いや……違う」

 音貴の怒りはそうした憤りから来るものだろうと思いながら、文紀はその怒りを否定する。 

「お前も言ったけど、身勝手……なんだろ? 俺は」

 自分のことを知る人間に、良く言われる言葉。

 その言葉を口にして、文紀は正直な気持ちを語ろうとする。

「じゃあ、なんで……そんな身勝手な俺に対して、あんな風に自分のことを話したんだ、皆……俺は、そんなものを受け取れるほど立派な人間じゃない……」

 文紀はただ、ぼんやりとつぶやく。

 それが文紀にとって、なによりの疑問であるのかもしれない。

 自分に価値などない。そう思ってすらいる文紀にとって一番戸惑っているのは、そうした彼らが、急に自分へ多くのメッセージを伝えようとしたことだった。

「ふふっ」

 そんな文紀に、音貴が小さく笑い声をあげる。

「それは、せんぱいが……他人も巻き込むくらいに、身勝手で優しい人だからですよ」

「他人も巻き込むくらいに、身勝手で優しい?」

 音貴の言葉は、文紀にとって予想外のものだった。

 なぜ、他人も巻き込む身勝手と言われるような人間が優しいと評価されるのだろうか。

「普通の身勝手な人は、他人を巻き込んでも……利用するだけです」

 音貴がいつもの口調で淡々と喋る。

「自分だけが、良ければいいのですから」

 音貴が顔を上げて、文紀の顔をじっと見つめる。

「けど、せんぱいは違う」

「…………どこがだ?」

 文紀もまた同じように音貴と視線を合わせ、その言葉を真剣に聞いた。

「せんぱいは、自分の知るだれかも自分にして、身勝手になれる人なんですよ」

誇らしい顔で、音貴が文紀をそう評した。

「だれかも自分にする? どういうことだ」

 音貴の言葉、そのすべてが文紀にとって考えた事もない価値観に満ちていた。

 音貴の言葉すべてが、文紀にとって知らないことを知る機会となっていた。

 自然と文紀は、音貴の言葉に集中する。

「せんぱいは、なんで回帰倶楽部を作ろうと思ったんですか?」

「は? あー……突然だな」

「身近な例ですから……」

 文紀は音貴の言葉を聞いて、自分がなぜ、回帰倶楽部を作ろうとしたのかを思い出す。

「最初の切っ掛けはやっぱり、お前の両親だな……あの人たちがいる、だから皆が集まれないっていうのは、嫌だったんだ」

 音貴は文紀の言葉を聞いて、首を振る。

「それはきっかけです。決意を固めるに至った理由じゃない」

 その言葉を聞いて、文紀は考え込んだ。

 自分が回帰倶楽部というものを作るに至った理由を。

 そうして考えて、思い付いたのは、あの職員室前での出来事だった。

「職員室の前で、さ……俺たちが待っている時、やけにほかの生徒から視線を浴びせられただろ?」 

 文紀の言葉に、音貴はうなずく。

「だから、その時……俺はその視線を見返してやりたくなったんだ」

「でも、その時見られていたのは……せんぱいじゃない」

 その言葉に、文紀は例えようのない強い違和感を抱いた。

「いや……それは……」

 違う、と口にしようとして文紀は気付いた。

 音貴がいつのまにか立ち上がり、文紀の目の前に立つ。

 首をかしげ、媚びるように笑いながら、音貴は自分の体を指し示した。

「僕、女の子みたい……ですよね?」

 その言葉は音貴が口にすることを嫌っていた事実だった。

 その証拠に音貴の顔は、心の中で感じる痛みによって歪んでいる。

「なんで今……そんなことを?」

 音貴の傷口を抉る言葉を止めるために、文紀は話を進めようとする。

「あの時、見られていたのは、女の子みたいな僕。女性として賞賛されるべき体と顔立ちを持つ響歌さん。それに……学園唯一の不良として有名な礼香さん」

 自分以外の回帰倶楽部に所属する全員の名前が音貴の口から挙がる。

「せんぱいはそもそも、僕たちを見るまで、自分たちが見られていることに気付かなかったでしょう?」

 音貴がリップを塗った艶やかな唇でそう語る。

「それはそもそも、そこまで視線を向けられていなかったから。せんぱいの起こした事件はその事実を否定する響歌さんの存在によってそもそもうわさにすらならず……この学園の人たちには伝わっていない。元々、せんぱいに視線は向けられていなかった。回帰倶楽部として有名なのは僕たちの方だから」

 それは、その言葉は、文紀に強い断絶を感じさせた。

「でも、俺は…………視線を感じたぞ!」

 自分が回帰倶楽部という場所に所属する人間であると、無意識の内に主張するために、文紀の言葉は強いものになる。

 その言葉を聞いて、うれしそうに音貴は笑った。

「それこそが、せんばいが……優しくて、身勝手で……」

 うれしそうに、誇らしそうに、音貴が文紀に告げる。

「だれかを自分に出来る人……って、証拠なんです」

「…………どういうことだ?」

 文紀は、音貴の言っていることの意味がわからなかった。

「自分じゃないだれかが感じた、不快だという感情を」

 その疑問に答えるため、音貴が言葉を続ける。

「自分が……感じたもののように、共感することが出来る優しさ」

 音貴のゆっくりとした口調を、今ばかりは急かしたい気持ちを抑えながら、文紀は音貴の言葉を聞く。

「そして、その共感した感情をもとに……」

 音貴が、目を瞑る。

「せんぱいは、身勝手に周りの状況を変えていく」 

音貴はその目蓋の裏で、文紀が行ってきた今までの行動を思い出しているのだろう。

 目を閉じたまま、ゆっくりと顔に笑みを浮かべる。

「だから、みんな……せんぱいを、身勝手で優しい人っていうんです」

 音貴は、穏やかに笑う。

「僕たちにはないものを、もっているせんぱいを」

 ゆっくりとした口調とはいえ、休みなく語り続けることで疲れたのだろう。

「けほっこほっ」

 と、何度か咳をする音貴。

「大丈夫か? 音貴」

 そんな音貴の背中を軽くさすって落ち着かせた後、文紀は話の続きを促す。

「だいじょうぶです……」

 文紀の気遣いをうれしそうに受け取り、音貴は話を続ける。

「そんなせんぱいをみんながみんな、尊敬し、意識しているんです……」

 音貴はゆっくりと目を開けて、文紀を見る。

「尊敬って……俺をか?」

 その瞳に浮かんだ敬意に、文紀は居心地が悪いと身じろぎをする。 

「それは僕もそうだから……だから、ほかの人の気持ちもわかるんです」 

 そんな文紀を見て、音貴が苦笑いを浮かべる。

「せんぱいは、僕たちみたいな……ダメ人間じゃあ、ないから」

 自分自身がそう見られていることを受け入れ、諦めていることを示すかのような、投げやりな音貴の言葉。

「ダメ人間? そんな! お前らが! お前らがそんな人間である訳が!」

 そんな音貴の言葉すべてを、文紀は否定しようとする。

 そのために、文紀は回帰倶楽部を作ったのだから。

 文紀の周囲にいる人々に注がれる、心ない偏見からの脱却。それこそが、回帰倶楽部の目的だった。その根底には文紀が回帰倶楽部の面々に感じている好意がある。

 だから、文紀は音貴の言葉を否定しようとする。

 けれど、否定の言葉を口にすればするほど音貴はうれしそうにほほ笑み、文紀の言葉を受け取れないと首を振る。

「ダメな人間ですよ。だから、僕たちは、二面性をもったんですから……」

「二面性?」

「それが、僕たちの弱さの証明で…………それこそが、それを持っていない、せんぱいの強さの証明。そして、みんなが、せんぱいにそれを話したかった」

「話し……たかった?」

「はい」

 自嘲の笑みを浮かべながら、音貴は文紀に語り始める。

「回帰倶楽部に……所属する全員が、二面性、ギャップをもっています」

 音貴は自らの顔を指し示す。

「僕は、自分の女性っぽさが……きらいです」

 声、そして顔。どちらも女性っぽさを感じさせる音貴。

「だから、僕は……男として、男友達として、都合のいい性格を演じています」

「演じて……いる?」

 文紀はその言葉に強いショックを受けた。

 音貴は確かに、友人としてかなり都合のいい性格をしている。

 自分の部屋をたまり場として提供したり、今現在の状況もそうだろう。

 友人が苦しんでいるのなら、自分が忌み嫌う女性的な声と顔立ちすらも利用して、その悩みを聞き出そうとする。

 そして、その悩みに真剣に答えている。

 今、文紀を思って音貴がしてくれていると思っていることが演技だと、文紀は信じたくなかった。

「演技、というよりは……強がり、ですかね?」

 不思議と楽しそうに、音貴は発言する。

「せんぱいは、あの仮装大会でうまいことを言いましたよね」

 音貴の言葉を聞いて、文紀はその発言がなにを意味しているのかわからなかった。

「だって、人には……だれにだって、今を作る原点があるといったのですから」

 音貴の言葉が意味することに、文紀は気付けない。

 だから、呆然と不思議そうな間抜けな面を晒してしまう。

「ふふっ……僕も、そうなんですよ」

 その顔をみて、音貴が笑った。

「だれにだって原点があるのなら、僕たちは弱さの証明とも言える二面性を作り出した原点をもっている」

 確かに文紀自身も礼香や響歌の過去を聞いて、その出来事こそが今の彼女たちを構成する原点だということを知った。

「そして、その二面性の原点を話すことで……みんな、せんばいに……」

 音貴は笑いながら、呟くように話を続ける。

「自分のことを理解して欲しかったんだと思います。それが何故だか、わかりますか?」

「なぜって……?」

「みんなが、せんぱいに……その原点を話した、理由……」

 音貴は少しずつ言葉を句切るようにして、文紀に話しかける。

 音貴の目がなにかを訴えているような気がして、文紀は懸命にその意味を考えた。

 だが、結局なにも思いつかなかった。

「…………わからない」

 文紀は仕方なく、正直にそう言った。

 けれど、そんな文紀の答えを音貴は予想していたらしい。

「それも……せんぱいが、みんなから尊敬されている理由ですよ」

 朗らかに笑う音貴の姿と真っすぐな視線に、文紀は照れ隠しのために顔をそっぽに向けながら、音貴の言葉に応える。

「……正直、そんな尊敬を向けられるようなことをした覚えがないから、実感できねぇよ」

「そう……でしょうね」

 そう、音貴は呟くように口にした。

「せんぱいは、強い人だから……」

「強い? 俺が?」

 文紀は音貴の言葉に強い衝撃を感じた。

 文紀は自分が弱いということを、響歌の原点を聞かされたことによって思い知ったのだ。

 そんな自分が強いなどと言われるとは、夢にも思わなかった。

 だからこそ、文紀は音貴の言葉を疑い、険しい視線を音貴へと向ける。

「二面性の原点」

 文紀の視線にもうろたえず、音貴はじっと文紀を見つめ返す。

「それを持つということは……自分を受け入れられず、生来の自分を認めず……変えた過去を持つということです」

 その視線には、揺るぎない強い意志が宿っていた。

「自分を取り巻く環境、現実。その過酷さ……強さにまけたということ」

 その視線の中に宿った感情を、文紀は読み取ろうとする。

「それを持つ、僕……いや、僕たちにとって……」

 音貴の言葉に力がこもる。

「せんばいの、真っすぐで、ただただ自分という本来あるべきものだけを武器にして、周囲の環境を変える身勝手な強さが……」

 真っすぐな視線と、真っすぐな言葉。

「どれだけ……心強く……見えたことか」

 そこに込められた激しい感情が涙に宿り、ぽとぽとと、音貴の激情が宿った涙が落ちる。

 拭くことすら躊躇われるほどに美しいもの。文紀には、音貴の涙がそんな尊いものに思えた。

「だから、みんなも……そんな強さを持った……せんばいに……」

 激しい言葉を語る音貴の体が左右に揺れる。

「今の自分を作った……原点を打ち明けたんです。より強く、せんぱいに自分を理解してもらおうと思ったから」

肩で息をし、体に染みついているのだろう、奇麗な発声法すら忘れて語る音貴の言葉。

「それを、どうか……わかってあげてください」

 それをどうして、疑えるだろう。

 ただ文紀は音貴の言葉を聞き、その言葉を自分の胸に刻んでいく。

 その言葉すべてを、文紀は受け入れるべきだと思っていた。

「自分の弱さを打ち明けて、自分を知ってもらいたいと」

 そして、文紀は気付く。

「みんながそう思ったことを、受け入れてください」

 切ないほどに強い感情を込めた音貴の言葉を受け取って、文紀は長く沈黙した。

「――――はっ」

 文紀は小さく、息を吐き出した。 

 その音は、笑い声に似ていた。

 身体が軽い。今まで重荷だと思っていた今日一日で知ったことすべてが、他者からの信頼という心地よい重さに思えた。

「お前、さ」

「え?」

 音貴がぽかんとした顔で、文紀の言葉を聞く。

「男らしく、友情に篤いっていうのは、演技じゃなくて……お前の素だよ」

「僕は……」

 自分の言葉を否定しようとする音貴に、文紀は再び念を押すように言った。

「お前の、素さ。じゃなきゃ……どうして、そんな身勝手な俺を、お前の言葉で動かす事ができる」

 文紀の言葉を聞いて、音貴の顔が輝く。

 ふらり、と音貴の体が揺れた。

 息が詰まる思いで、自分の内心を話していたからだろうか。音貴は呼吸困難になっているかのように顔を真っ赤に染めていた。

 その体を、文紀は抱きしめ、支える。

「そこまで期待されてちゃ……逃げる訳にもいかないか……」

「え?」

 ぼそりとつぶやいた文紀の言葉は、音貴には聞こえなかったようだ。

 こちらを見る音貴の顔に文紀は笑いかけながら、言葉を掛ける。

「悪いけど、俺をここまで動かしたんだ。お前にも、協力してもらうぞ」

「協力……ですか? いったい、なにを?」

 不思議そうに小首をかしげながら、聞いてくる音貴に、文紀は不敵な笑みを浮かべてみせた。

「――――」

 文紀の言葉を聞いて、音貴は何度も何度も得心するかのように頷いてみせた。

「なるほど。確かに、それは……解決しないといけない問題ですね」

「…………ああ」

 そんな音貴に、文紀は力一杯に答え、すぐに動き出した。

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