第六章 握り拳一つ分
第六章 握り拳一つ分
「やってくれたもんだな……」
庵に呼び出され、文紀はお世辞にも殊勝とは言えない態度で立っていた。
「おとなしく俺に交渉を任せているかと思えば……こんなことを考えていたとは……」
庵の言葉の節々に、事態を楽しむような愉悦が浮かんでいた。
「回帰倶楽部の目的、それが偏見からの脱却だと言うのなら……今はおとなしく、一生徒として行動するべきだったんじゃないのか? 俺個人としては、大分面白い手法だとは思ったがな」
淡々と文紀の非を指摘する庵。
「すみません……」
「そんな誠意のこもってない謝罪はいらんよ。なぜ、こんな真似をしたのか、俺に教えてくれないか? 文紀」
「自分なりに考えて、庵先生だけに任せた場合、勝算が少ないと考えたからです」
文紀の言葉を聞いて、庵はなにかを思いだしているかのように目をつぶり、渋面を形作る。
「…………確かに、なぁなぁで色々なことが済まされるあの会議で、珍しく反対意見が多かった。お陰で交渉は確かに難航していた。だが……」
そのことを予想できていたのかと問いかけてくる庵の視線に、文紀はうなずきを返す。
「ええ。ちょっと心当たりがあったものですから……」
それは回帰倶楽部を設立するにあたって、今までの経緯を思い出している内に思い付いた疑問だった。
その疑問に対して、文紀は嫌な予感を抱いていたのだ。
だからこそ、職員会議の間は大人しくしていてくれと庵に言われながらも、文紀は行動を開始したのだった。
ふぅ、と小さくため息を吐いて、頭を振る庵。
「おめぇはそれでいいのかもしれねぇが……なにも説明されないで、勝手に行動されるのは、サポートする俺たちにとって……迷惑なんだぞ」
「たち……とは?」
今回の件でサポートしてくれたのは、庵だけのはずだ。
そう考える文紀は、内心の疑問を隠しきれずに、庵に問い掛ける。
「……おめぇ、わかっちゃいねぇってのか?」
ため息を吐き出し、呆れたかのように口を出してくる庵。
「なにをわかっていないっていうんです?」
そんな庵に、文紀は噛み付く。
「…………」
声もなく、ほう、と息を吐き出して、庵は頭に被った帽子を取り、指先でくるくると回らせる。
それは庵が考える時にやる癖なのだろう。
その目は遠くを見ているかのように細められ、眉間にはしわが寄っていた。
「もう一度聞く。おめぇ……自分のこと、自分の周りのこと……なにもわかっちゃいねぇのか?」
「だから、俺がなにをわかっていないっていうんです?」
文紀の言葉に庵は苦笑を浮かべた。
「は、ははっ……」
「なにを笑っているんですか」
ジト目で文紀は庵をにらみ付ける。
「おー怖い怖い」
そんな瞳を茶化すように庵は軽口で答え、タバコを取り出した。
「悪いな、酒の代わりに吸わせてもらう。素面で話すには、ちょーっとばかし恥ずかしい話だからな」
かちゃん、という音がしてオイルライターが、庵の口元にくわえられたタバコに火を付ける。
右手だけでオイルライターを振ってふたを閉め、左手でくわえたタバコをつかんで煙に曇った息を吐き出す。
「酒じゃなくて、タバコで酔えるものですか?」
「酔狂って言葉は昔、酒を飲んでバカやらかすって意味の言葉だったらしい…………今の酔狂って言葉は好んで風変わりな行動をするって意味だ。自分の道に酔っぱらって、バカな真似をやるのも一つの酔狂ってことでいいんじゃないのか?」
自分の道。
庵がその言葉を口にするのなら、それは彼がいつも言う「ハードボイルドの道」にほかならないだろう。
確かに今までの動作を鑑みるに、タバコを吸うときの動きは、幾度も格好をつけるために練習したそれであり、その行為は確かに自分に酔っていると言えるだろう。
苦笑し、タバコの灰を落としながら、庵は言葉を繰り出していく。
「俺はな……学生時代、結婚を申し込んだ女性がいた」
苦い思い出なのだろうか、庵の顔には苦渋がにじみ出されていた。
「いいとこのお嬢さんでな。当時、俺は幸せだった。けど、浮かれていたから、気付かなかったんだよな。俺が、俺自身が一体どんな人間だったかっていうことに」
タバコの煙が庵の抱えてきた苦労を示すように、丸く、大きく、応接室の中で渦を巻く。
「その娘の母親に挨拶に行った時だった。豪華な飯が出されてな。普段、カップラーメンとかで飢えを凌いでいた俺は次の日、高いものを食い過ぎて腹を壊すことを予想したよ」
にやりと笑って、灰皿にタバコの先端に溜まった灰を落とす。
「そんな時、あの娘の母親が言った」
帽子を目深に被り、表情を顔に出さないようにする庵。
「あなたは……あなたの道と家族、どちらかを優先しなければならないとき、どちらを優先するのかしらね……って、そんな言葉だったと思う」
息を深く吸った分、短くなったタバコ。タバコの火をもみ消して、庵はさらに足を机の上に乗せる。
目深に被った帽子。足を組み、机の上に足を乗せるスーツを着た中年の男性。
細面の小さな顔には、うっすらと髭が生えているのが見て取れる。
どこぞのハードボイルド小説の冒頭にありそうな状態のまま、庵は話を続ける。
「俺は唖然として止まってしまったし、あの娘は腰を浮かしてしまっている俺の腕をつかむことが出来なかった……だから、その娘の母親に言われたのさ。あなたたちは、まだ結婚するということを甘く見ているってな」
慧眼、と言えばいいのだろうか。
確かに普段、庵が標榜する「ハードボイルドの道」に生きるのならば、そのそばに幸せな女性などいるだろうか。
ハードボイルドを標榜する男性が、幸せな結婚生活を送っていることなど、少なくとも物語の中に見たことがない。
「あなたは求道者で、その本質は独りよがりに過ぎる。だから、家族というものを軽視する。そして、そんな男の妻を務めるのなら、あの娘には夫の首根っこをつかんで自らの場所に引き寄せるくらいの強さか、ただ黙って相手を信じるような強さがいる……ってな」
庵の目が薄く開かれ、文紀を見てくる。
「実際、慧眼だったと思えるよ。事実、俺は良家のお嬢様だったあの娘の腹の中にいた子供を、あの娘の実家に取られても…………今の俺はなにも出来ちゃいないんだからな」
ぐっと、庵が胸の前で拳を握る。
「文紀……お前は俺みたいになるな。自惚れるな。自分の周りに付いてきてくれる人の重さを、常に忘れるな」
とん、とん、とまるで心臓の脈打ちに合わせるかのように、庵の親指が庵自身の心臓を叩いた。
「人間、現実にきちんと足を据えて生きていれば、煮え湯を飲まされるようなことばかりさ。そして、その煮え湯は熱をもったまま……人の体の中に入り込み、人の心を固く煮て、白く固まらせる」
じっと、目線を少し上げて、庵は文紀をにらみ付ける。
文紀はただ圧倒されていた。庵が酔狂に酔っぱらって奇行を繰り返している理由に触れて、ただなにも言うことが出来ず、庵が伝えようとしているものすべてを受け取ろうと努力した。
それを見て、気分を良くしたのか。庵が目を見張らせて、口元に笑みを浮かばせる。
「ハードボイルドってのはな、俺から言わせてみれば、現実って煮え湯に固くゆでられ、煮立ったまま固まった…………握り拳一つ分くらいの小さな心さ」
庵はその言葉の後に、自らの胸に押しつけた拳をにらみ付ける。
「それをな、お前はただ受け入れた。自分の煮立って固くなった心を解して、手の平で相手の固くなった心を……受け止めてやったんだ」
胸の前に置かれた拳を、庵はもう一つの手で優しく包み込む。
そして、じっとこちらを見やる庵の視線。それは、ただひたすらに文紀へと注がれていた。
一心不乱に。庵が今までの人生で得てきた、なにか大切なことを伝えるために。
「だから、お前の周りにはあんなにも人が集まったのさ。あんなにも、奇異で様々な人間がお前の元に集まった。その重みと大切さ、もう少し、しっかりと自分の心に刻み込め…………わかったら、退室しろ。いい加減、酔狂による酔いも覚めてきた頃だしな」
そう言って笑った後、庵は文紀に背中を向ける。
「…………失礼、します」
胸の中に入り込む庵の気持ち。
それをどうすればいいのか持て余しながら、文紀は挨拶を口にして待合室の外に出た。
回帰倶楽部の面々は皆、今日は先に帰っているはずだ。
その理由は、文紀が今日は用事があるから、先に帰ってくれと言ったからだ。
その用事は庵から呼び出されたことだけではない。あることを調べようと、文紀は決意していたのだ。
「……とりあえず、やらなきゃいけないことをやらなくちゃ……さて、どこから手を付けるかね」
やらなければならないことをやる。そのために必要な冷静な心、それを手に入れるために、心の中に感じる高揚を無視して、文紀はあえて軽口を叩くようにそう言った。
「…………!」
「……!」
そんな文紀の足を止めたのは、なにか口論をしていると思われる声だった。
試験前に現実逃避として掃除を行うような気持ちで、文紀はその口論が聞こえる方へと足を向ける。
その先にあった場所は、文紀にとって忌まわしい場所とも言える図書室だった。
「わたしは……!」
「アンタ、それでいいと思ってんの!」
口論の内容が今度ははっきりと聞こえてくる。
「ねえ、さん?」
片方の声が姫子のものであると気付き、文紀はつぶやきを漏らす。
その声が聞こえたわけでもないだろうが、口論が少しの間止まる。
「ねぇ、もう一回だけ……聞くよ」
「う、うん……」
そっと扉を開け、文紀は図書室の中をのぞき見る。
そこにはやはり声から予想した通り、姫子と、そして姫子のクラスメイトと思われる女生徒の姿があった。
「あんた、あの回帰倶楽部のパレードに参加していたって聞いたけど……それって、あの連中と付き合っているってことなの?」
「う、うん」
おどおどとした態度だが、はっきりとした声で答える姫子。
「どうして?」
姫子のクラスメイトと思われる女生徒は、姫子の答えに憤りを隠せない様子だった。
「あの問題児……いえ、あんたの弟、真木文紀に静森響歌。不良、来乃宮礼香にその舎弟」
嫌悪感を交えた言葉が、友人の口から発せられる度に、姫子はとても辛そうな顔をしていた。
「この学園の問題児たちばかりが集まっているのよ? そんな中に、あなたみたいな良い人がいたら……心配になるに決まっているじゃない!」
ヒステリックな叫び声。だがしかし、その声には確かに姫子を心配する気持ちが込められているようだった。
「今日だって、また騒ぎを起こして……あんたみたいな大人しい子が、あんな連中と付き合ってるなんて……心配するのが当たり前じゃない」
徐々に力強くなる言葉。
その言葉を聞く度に、姫子はより辛そうな顔を浮かべる。
それだけに、回帰倶楽部の面々と今までの友人との板挟みになっている姫子は、とても辛そうだった。
思わず、文紀は飛び出そうとしてしまう。
「あなたには…………関係ないじゃない」
文紀の足を止めたのは、冷ややかな姫子の言葉だった。
顔を上げ、姫子は友人の顔をじっと見つめる。
「え?」
恐らく、姫子のクラスメイトである彼女にとって、姫子がそんな態度を取るのは初めてのことなのだろう。
動揺しているのか、落ち着かない態度で姫子の言葉を待っている女生徒。
「家族じゃない人が、家族の問題に口を出す。それって、おかしなことじゃないかな?」
「それは……」
柔らかくほほ笑みを浮かべ、戸惑うクラスメイトの言葉を封じる姫子。
心の中にしまいこんだ大切なものをくみ出すかのように、小さな手を、その胸の前に姫子はかざした。
「あの子は不器用だから……皆に誤解されるような行動をとっても、それでいいんだって……思っちゃっている人なの」
いつもいつも、小動物じみた姿を見せていた姫子。
そんな姫子が家族である文紀を守るために、牙を剥く。
「だから、私はきちんとあの子が自分の心を表現できて、皆に誤解されない人になれるよう、手伝ってあげたいの」
「それは……」
「更正なんて言葉、聞きたくないよ?」
クラスメイトが口にしようとした言葉を先回りして口にすることによって、その言葉を封じる姫子。
「あの子にはもう少しだけ、ほかの人にも頼っていいんだってことを……教えてあげたいの」
文紀には、姫子が言っていることがなにを示しているのか、わからなかった。
自分が人を頼っていない?
どうしてそう思われるのか、わからなかった。
だがしかし、その言葉は不思議と文紀の心に染み渡っていく。
温かい気持ちが、じんわりと文紀の体を温めていく。
「だから、わたしはあの子と一緒にいたいの。脅されてなんかいない。わたしが、そう望むから、そうしたいの」
その言葉は、回帰倶楽部を作ろうと言った時に文紀が語った言葉通りの言葉だった。
なにかをしたい。その思いを実行するために、ほかの人の理解を得る。
それをだれよりも早く、気の弱い姫子が実行していた。
「…………わかったわ。あなたの気持ちは受け取った」
姫子のクラスメイトは、姫子の決意が固いことを知って引き下がろうとする。
「だけど、なにかあったら言ってね。アナタも、アタシに頼っていいんだから」
「うん! ありがとう!」
すたすたとこちらに近づいてくる姫子のクラスメイト。
彼女から姿を隠し、文紀は外に出る。
庵が言いたかったのは、こういうことだったのだろうか。
独りよがりに他人がこういう存在であると決めつけているところが、文紀にはあったのだろうか。
文紀は一人、通学路を歩きながら考え込む。
姫子のクラスメイトである女生徒は言った。
今日も騒ぎを起こした、と。
それは十中八九、あのパレードでのことだろう。
パレードでの騒ぎ。そして、その騒ぎを起こした回帰倶楽部の面々に混じっていた自分の友人。
その友人を姫子のクラスメイトである彼女が心配するのは当たり前の事だった。
話しておけば良かった。事前に庵や姫子、そして多くの回帰倶楽部の人々に。
そう、今更のように文紀は後悔する。
「ん。あれは……おい、真木!」
自分が起こした行動が、いかに周囲に対する配慮に欠けた行動であったのかを考える文紀に、声が掛けられる。
「あ、ああ……礼香か」
その声の持ち主は礼香だった。
「今日は用事があるって言っていたけど、もう終わったのかい? たぶん、響歌はお前を待っていると思うぜ」
遠くから文紀に声を掛けた後、こちらへと駆け寄ってくる礼香。
そんな礼香に、文紀は話しかける。
「なぁ……礼香」
「なんだよ、改まって……気持ち悪いな」
神妙な態度を取る文紀を警戒して、まゆをひそめる礼香。
「礼香、悪いんだけどさ……」
目をそらさずに、文紀はじっと礼香の瞳を見つめる。
「ああ、茶化すのは無しってわけ……で、真木、あんたになにがあったの?」
文紀の態度になにか感じるものがあったのか、礼香は真剣な目をこちらに向ける。
「あのさ、礼香……俺って、独りよがりで……自分勝手なのかな?」
「はっ……」
文紀の真剣な相談を、礼香は鼻で笑った。
「あんた自身、重々知っていることでしょ? それは」
「…………ああ」
確かに、それは、今更他人に相談するまでもなく知っていることだった。
「けど、な……その自分勝手さが、だれかに迷惑をかけていたって思うと、な」
「…………なにがあったの?」
先程見た姫子のことを思い出しながら文紀がそう言うと、礼香は文紀に詰め寄ってきた。
「お、おい」
礼香が詰め寄ってきた分、下がりながら文紀は手を前に出して、礼香の足を止める。
近づけば気圧されてしまいそうなくらいに真っすぐな目が文紀を見つめていた。
「あんたは自分勝手な人間よ。だから、他人がどうなろうと関係ないって思っている。けど、そんなあんたが、他人を思いやるような発言をするってことは……あんたにとって、他人じゃないだれかに、なにかがあったっていうことでしょ?」
文紀の手をつかんで引っ張り、自分の目の前に顔を寄せる礼香の言葉。
その言葉に、文紀はバツの悪そうな顔でそっぽを向きながらもうなずく。
「じゃあ、それは……あたしにとっても他人じゃないだれかの問題よ」
畳みかけるように文紀へと言葉を掛ける礼香。
「話しなさい、真木」
あごを上げ、胸を張り、腕を組んで、見栄を張る礼香。
そんな礼香に、文紀はまず姫子のことを話した。
姫子が文紀の起こした行動によって、迷惑を被ったこと。そして、友人の心配をはね除けてでも文紀の味方に付こうとしていたことを。
「そう……姫子がそんなことを……」
感慨深げに、礼香がつぶやく。
その内容に、文紀は深く頷くしかなかった。
「俺さ、その……ああいう風に、自分の我が儘を受け止められたことがなかったから」
親との不仲。それが原因で、文紀はいつだって悪者だった。
だから、それが当たり前だと思っていたのだ。
だというのに、そんな文紀を、今まで両親から文紀自身が守ってきた姫子がかばった。
その事実に対して、文紀は気恥ずかしい思いを抱えていた。
「だから、かな……なんつうか、今まで自分が好き勝手やってたことが、すっげぇ情けなく思えてきたんだ」
「ふぅ……ん」
何となく複雑そうに、礼香が相づちを返す。
「礼香?」
それがおかしく思えて、文紀は礼香に話の矛先を向ける。
「ん、ああ、いや……あんたがそんなことを言うとはねぇ……って思って」
「なんだよ? 俺、そんなにおかしいこと言ったか?」
しみじみと自分の方を向いて語る礼香の視線に、文紀は居心地の悪い思いを感じる。
「ああ、それと、さ……」
文紀は庵と話したことを思い出し、そのことを口にしようとする。
その瞬間、何かを忘れていないだろうかという思いに文紀は囚われたが、特に気にせず、文紀は話を続ける。
「庵先生から、あの人の家族のことを聞いたよ。それで、色々教えてもらった…………ほんと、色々と勉強になったよ」
ぴきり、と今まで和やかだった空気が強ばるのを、文紀は感じた。
「真木?」
なんてことはない礼香の呼びかけ。
それが、今までとはまるで違う声に聞こえたのは、文紀の気のせいだっただろうか。
「それは、本当?」
首をかしげ、こちらを見る礼香。
その唇は笑っていても、その瞳は笑ってはいない。むしろ、さざ波に揺れる湖面のように、静かな激情で震えていた。
「え、ああ……本当だ」
「へぇ~……」
礼香は抑揚のない声でつぶやき、文紀に視線を向ける。
いや、それは視線を向けるという程度の生やさしいものではなかった。
明確な敵意をもって、礼香は文紀をにらみつけていた。
「なにか、気に障るようなことを言ったのか……? 礼香、俺は」
「ええ、とても」
つぶやくように言った言葉に、礼香は首肯して、にこやかに笑う。
「で、あんたはその話を聞いて……どう思ったの?」
適当にごまかして、礼香の怒りを静めるべきか。
そんな考えが文紀の頭に浮かぶ。
しかし、なぜ、どうして礼香が怒るのかわからない。だから、どうごまかせばいいのかわからなかった。
「ああ……あんた。そういえば、あたしの事情…………知らなかったんだ。察しのいいあんたのことだから、そこまで調べて言っているのかと思ったよ」
困惑したように言うべき言葉を探す文紀を見て、礼香がそう言った。
絡みつくような礼香の言葉に文紀はあることを思い出す。
これはまるで、礼香が庵に対して訳の分からない激高した時と同じではないかと。
「…………丁度良いから、あんたにあたしの事情を教えてやるよ」
礼香はじっと、今までよりも強い視線で文紀を見つめながらそう言った。
「あたしの父さんは……あいつ、長谷部庵なんだ」
礼香の口から吐き出された言葉は、確かに文紀の知らない礼香の家庭事情のようだった。
「あいつと母さんの離婚話を持ちかけたのは、ばあちゃんだったらしい……ばあちゃんは、あいつが子育てに向かない人間だっていうことに気付いて、あいつと母さんの結婚を認めなかった」
ふぅとため息をつきながら、髪をかき上げる礼香。
その動きに、確かに庵が考える時に良くやる、帽子をいじくる癖との共通点を感じながら、文紀は黙って礼香の話を聞く。
「それは別にいい。家族をもてない理由なんて……色々あるのだから。けれど、あたしが許せなかったのは、その後のことだ」
──その後?
文紀はまゆをひそめ、礼香の言葉に耳を澄ます。
「あいつと会ったのは、この学園に入ってからのこと。馬鹿な言動をしながら、周囲に溶け込もうとする道化のような男。最初の印象はそんなもんだった。けど……あたしは、あいつの名前を、実の父の名前だと知っていた」
因縁とも言っていいだろうか。
実の娘と父親との出会い。それはもしかしたらほほ笑ましい一日の思い出になったかもしれない。
でも、そうはならなかった。そう、礼香の険しい顔が物語っていた。
「名前だけは知っていて、顔とか職業とか、それ以外は何も知らなかった。だから、ばあちゃんに聞いたんだ。長谷部庵、あの男はあたしの父親かって……」
左腕のひじを右手で握りしめるように、腕を組む礼香。
小さくとも確実にある胸元の膨らみが下から押し上げられ、支えられていた。
それが礼香にとって、楽な姿勢であるのだろうと文紀は思う。
「ばあちゃんは、あいつがあたしの実の父親なのだと教えてくれたよ。会ったのならば、仕方ないって苦笑しながらね」
じっと遠くを見つめる礼香。
その視線の先になにを見ているのか、文紀には理解することが出来なかった。
「それから先、あたしは学級委員長になって、あいつのそばに出来るだけ居ようとした。そりゃ、何年も会ったことのなかった実父に興味があったからね。でも、話す度に、あたしはあいつに失望していった」
礼香はぐっとひじを握る手の力を強める。
「何度も何度も……叱ったさ。理想の父親でいてほしいと、そう願ったんだ。けど、その願いは伝わらなかった」
礼香は唇を引き寄せ、目を伏せる。
その痛ましげな表情に、文紀はなにもすることが出来ず、礼香の話を聞くしかない自分の身を呪った。
「あたしが、やっぱりこの人はあたしと母さんを捨てた人なんだって、ようやくあきらめが付いた時……」
その瞬間、礼香の目が文紀に向けられる。
そこには、文紀の背筋を凍らせる憎悪と嫉妬が滲んでいた。
「あんたが……現れた」
舌がもつれる。言葉がうまく発せられない。
「俺、が……?」
身内だと思っていた人間から向けられる激情というものは、ここまで深く自分の心を切り刻むものかと文紀は驚愕する。
「あんたは気付いちゃいなかったかもしれないけど、あんたが一年生の時、響歌を守って何度も事件を起こして、生徒会や教師を悩ませる問題児だったあんたが半ば放置されていたのは、あいつの協力があったからなんだ」
礼香のあいつが示しているのはこの場合、庵だと見て間違いないだろう。
「なんで……なんで俺を、庵先生が守る必要があったんだ?」
意味が分からないと取り乱し、口を滑らせたと、文紀が痛感したのは次の瞬間だった。
間違いなくこの瞬間をもって、文紀は礼香の逆鱗に触れたのだ。
「ああ……ああ! あたしだって聞きたかったさ。知りたかったさ。だから…………聞いて、知ってしまったのさ」
その時、礼香の目に浮かぶのを見て、文紀は驚愕に揺れる心が不意に動きを止めるのを感じた。
涙。
あの気丈で、何者にも屈しないとばかりに生きていた礼香の涙。
その涙を見て、文紀は心が切り裂かれてしまったかのように痛むのを感じた。
「あいつはな……あんたに期待してた。道は歩くものだけど歩いた後の道は、説くものだって言って……あんたにその道で得たことを教えようとしていたんだ」
礼香は涙を浮かべたまま、文紀の胸ぐらをつかむ。
「なぁ……なんで、あんたなんだ? なんで、実の娘であるあたしじゃなかったんだ?」
その理由を文紀は知らない。だから、礼香の質問には答えられない。
ぎゅっと拳を握り、文紀は礼香の視線から目をそらす。
「実の娘なんだぞ、あたしは……なのに、あいつは……父さんは、あたしじゃなくて、あんたを選んだ」
文紀の胸にすがり付き、涙をぽろぽろと落とす礼香。
そんな礼香の姿を見て、文紀は思う。
まるで、親に泣きすがる子供のようだ、と。
「父さんが、あんたを気にしているって知って、あたしはあんたを真似たよ。けど、うまく出来なかった……だから、あたしは結局、父さんを取られたんだ……」
──取ってなんかいない。
「あたしは、あんたみたいに……強く、ない!」
──それは、俺の台詞だ。
文紀は礼香のことを強い女性だと評価していた。
「他者の視線を、偏見を気にせず、だれかを思いやって行動する……やってみてわかった。こんな、こんな重圧に……あたしは耐えられない」
けれど、それは間違いだったのだろうか。
礼香が真似ようとした文紀の姿。それを、文紀が好ましく思い、高く評価していたのだったのだとしたら、それは、とても歪なことだと文紀は思った。
──俺は、そんな立派な人間なんかじゃない。
心の中で思うことは、多々あった。
けれど、こんな風に無防備に泣く少女を目の前にして、文紀の口は動かない。
動かせるわけがなかった。
文紀は自分の胸ぐらをつかんで泣く礼香の体を、強く抱き寄せた。
細く柔らかな体だった。
簡単に手折れてしまいそうな体を、文紀は抱きしめ、顔を背ける。
泣いている顔を見ないように。
泣いている声を聞かないように。
けれど、その涙を受け止められるように肩を貸すことが文紀に出来るすべてだった。
「なぁ……こうは、考えられないか?」
しばらくの時間がたった後、文紀は言葉を口にする。
ずっとずっと考えていた。この親子の絆を求める子供のような礼香に言える慰めの言葉を、文紀は口にする。
「あの人はずっと……後悔していたんだと思う。求道者だと、家族を第一に出来ない人間だって言われて後悔していたんだ」
決して、文紀は、礼香と目線を合わせようとはしなかった。
不意に感情が高ぶり、泣き出してしまった礼香。
その礼香の泣きはらした顔を見ることが、どうしようもなく文紀には失礼なことに思えたからだ。
「だから、ずっと考えていたんだ。道を追い求める自分でも、家族を優先できる人間に変わった証拠を見せるために。あるいは道を優先していても、それでも家族を守れる人間であることを証明するために」
泣いていた時はひっく、ひっくと震えていた礼香の体が、動きを止めているのを感じながら、文紀は言葉を続ける。
「きっとその答えが……歩いた道を、その成果を……言葉で説いて、教えることが出来る人間になるっていうことなんだと思う。だから、あの人は教師を目指しておきながら、教師という職自体には執着がなかったんだ」
教師にそこまで執着はない。
それは、文紀が回帰倶楽部を作る際に、庵を訪れた時に聞いた話だった。
きっと礼香は耳を傾けていてくれるはずだと思い、文紀はただ言葉を連ねていく。
「じゃあ、なんで真っ先に娘であるあたしに教えてくれなかったの? あたしのことなんて、本当はどうでもいいっていうことなんじゃないの?」
礼香が、文紀の言葉を否定しようとする。
その言葉を、文紀は柔らかく首を振ることで押しとどめた。
「それは……違うと思う。一番大切な娘だったからこそ、一番初めに教えられなかったんだ」
「どういう……こと?」
たどたどしい礼香の言葉に、文紀は慎重に言葉を選んで話し続ける。
「それは……多分だけど、成果がいるからだ」
「せい、か?」
文紀は頭の中で必死に庵と話した時のことを思い出す。
「あの人は言っていた。子供を取り上げられても、今の俺はなにもすることが出来ていないんだって……そんな風に言うってことは、これからなにかをするっていうことだと、俺は思うんだ」
きっとこれが真実なんだろう。そう信じて、文紀は礼香に考えを話す。
「礼香、庵先生やお前の言葉で思ったんだが……お前のお婆ちゃんってすっごい優しくて、頭のいい人で、尊敬できるような、凄い人なんだろう?」
こくりとうなずく礼香。自分より少し背の高い礼香を真っ正面から抱きしめてるために、文紀の顔のすぐそばに礼香の顔があった。
だから、文紀は礼香の顔がどんな風に動いたのか、すぐにわかることが出来た。
「そんな人の決定を覆すためには、結果が必要だ。だれかのためを思って、道を説くことが出来た証拠が……それを、俺は託されたんだと思う。だから……」
「だから?」
「だから、家族に任せる訳にはいかなかったんだよ。きちんと知らない他人であっても、道を説き、正しい道を選ばせたという証明のために」
文紀が言葉を終えた後、礼香は静かに考え込む。
そして、しばらくした後に、くすりとすぐそばにある礼香の口元から、苦笑が漏れるのを文紀は聞いた。
「バーカ」
「馬鹿とはなんだ、馬鹿とは……」
どうやら、慰めることに成功したようだ。
そう思い、文紀は全身から力が抜けそうなのを踏ん張ってこらえ、礼香と同じように苦笑する。
「真木、あんた、結構悪い人なんだね……」
どこか子供っぽかった今までの発音とは違い、いつもと同じ声で、礼香は文紀をからかうようにそう言った。
「悪い人って……どういうことだよ」
それが嬉しくて、文紀は自分でも自分の発言を、声が弾んでしまったと感じてしまうくらいに浮かれていた。
それを笑ったまま受け入れて、礼香は意地悪な言葉を口にする。
「弱っている女に優しい言葉……そんなものを吹き込むなんて……普通、弱っている女の子なら信じちゃうよ。詐欺師の手口だね」
確かに言われてみれば、と文紀は納得しかけて、慌てて頭を振る。
「俺は、そんなつもりはないぞ…………って」
礼香の言葉を否定しようとしたその瞬間、文紀はまだ胸ぐらをつかんだままだった礼香の手から震えが伝わってくることに気付く。
その手を握り、文紀はため息を吐いた。
「俺が言った礼香にとって、優しい考えか真実なのかどうか、って思うと怖いのか? だったら、庵先生に本当のことを聞く時は……俺が付き合ってやるよ。あの人の理想を勝手に押しつけられて、勝手に期待されたんだ。それくらいの褒美、要求しても、罰当たりってものじゃないだろう?」
文紀がその言葉を口にして、ようやく礼香の手や体が文紀のそばから離れる。
「バーカ……」
泣きはらした瞳と文紀の肩に押しつけたことによって、少し赤くなったほおに笑顔を浮かべ、普段と変わらない口調でそう言ってくる礼香に、文紀は笑みを浮かべてその言葉を受け入れた