第四章 原点
第四章 原点
「ごちそうさま」
夜、自分の家の中で下らない食事を味わい、小さく声を出して席を立つ。
自分の方を申し訳なさそうに見る姫子の視線を感じながら、文紀は黙って二階へと上がった。
無言のまま、階下で聞こえ始める自分がいる時より楽しそうな両親の声を聞く。盛り上がる会話。自然と話の中心へと上がる出来た姉、姫子を褒めたたえる両親の声を、文紀は頭の中から追い出そうとMP3プレイヤーの電源を入れる。
近所のリサイクルショップで買いあさったCD。
その多くは、英語やどこのものともしれない異国情緒あふれる音楽の数々だ。
言葉もわからない外国の歌。意味のわからない言葉や音の中へと身を潜めるように没入していく。
耳から、不意にすべての音が聞こえなくなる。
それが、自分が深い睡魔に身を任せた証しなのだと気付いたのは、翌日の朝のことだった。
いつものように早く寝たために、だれよりも早く起き、顔を洗って、パンなどの食材を引っつかんで部屋に戻る。
味気ないそれらを適当に食べる内に、生徒会に所属する姫子が慌ただしく出ていく音が聞こえ、文紀は学校に行く準備を整える。
これが、大体いつもの文紀が過ごす家庭での過ごし方だった。
夜、飯を食う時間まで、回帰倶楽部の面々と遊び、家に帰って居心地の悪い食事を済ませる。
そして、自分が出て行くとすぐに聞こえ出す幸せな家庭らしい会話。
テレビの音やそれを見て笑うだれかの声。
話し合うだれかとだれか。
そんな音を閉め出すように、文紀はいつも音楽を聴いて眠る。
幼い頃から、こうであった訳ではない。
ただ、最初は親の言うことを聞いていた文紀が親の言うことを素直に聞き、その期待にこたえようして潰されかかっていた姫子をかばい、親の言葉に反抗した。
そして、こうなったのだ。
そのことを姫子は気にして、文紀の頼み事を絶対に断らない。
文紀自身は家族から冷たい目で見られていることを自分が選択したことだと受け入れ、姫子には自分が原因であると思って欲しくないと思っていた。
だから余計に、文紀は姫子に頼み事をするのを避けていたのだ。
もし、自分が姫子を頼ってしまえば、それが余計に姫子の罪悪感を刺激するのではないだろうかと考えたからだ。
文紀は胸の奥にしまったある言葉を思い出す。
子供の頃に聞かされた言葉。
その言葉を守ろうと自分は決心して、その通りに生きた。
そして、その決断の報いを受けている。
幼い頃、思いやりをもって、相手の立場に立ち、相手の嫌がることをしないようにしなさいと母に言われたことがある。
幼い頃、だれかが困っている時、自分が助けてやれる男になれと父が言っていたのを覚えている。
だから、文紀はその言葉を守って、姫子の嫌がることをする両親に反抗したのだ。
それが今、このような結果になった。
けれど、文紀はその言葉を守り続けようと思っていた。
その言葉は正しいのだと、文紀は信じ続けているからだ。
親に冷たい目で見られていようと、その事情を知ってくれている姫子がいて、ばか話が出来る友人がいる。
それだけでいい、とは言えないが、少なくとも現状を受け入れることが文紀は出来ていた。
学校の中、いつものように回帰倶楽部の面々と登校した文紀は席に着き、のんびりとかばんの中身を机に入れていく。
前日の予習で使ったノートを確認し、文紀は背筋を伸ばして椅子に座る。
「文紀ちゃん」
そんな文紀にふと声がかけられる。
その声の主は、姫子だった。
周りの人間から注がれる何が起こっているのかという視線を一顧だにせず、文紀は姫子の前に立つ。
「どうしたんだい、姉さん。教室に来るなんて珍しいよね」
なんてことはない文紀のつぶやきに、姫子がびくりと反応する。
その反応にまゆをひそめる文紀。
なにかあったのかと不審に思い、うつむいた姫子の顔を文紀はのぞき込んだ。
その視線に丁度、顔を上げようとした姫子の視線がぶつかる。
一瞬驚いてぽかんと口を開いたものの、すぐに姫子は顔を引き締め、一大決心をしたかのように拳を握りしめる。
「姫子を、文紀ちゃんの部活に入れてくれない?」
「は?」
その言葉を聞いて、文紀は頭を抱えた。
「……って、どうして、そんな……」
文紀が頭を抱えると、自然と周りの状況が目に入ってくる。
なにを話しているのかと盗み聞きするためにだろうか、身体を乗り出している男子生徒を一瞥した後、文紀はため息を吐いた。
「姉さん、ちょっと場所変えるよ」
文紀はそう言って、姫子の手を握る。
「わっ」
顔を赤く染める姫子。
その姿にふと、文紀は大型犬を連想する。
ひなたぼっこで暖かくなった体を揺らして、家に帰ってきた主人を迎える。
そんな愛くるしさが、姉にはあった。
予期せぬ自分の内側から湧いた感情に戸惑いながら、文紀は姫子を図書室に連れていく。
朝のHR前、そんな時間の図書室は開いてはいるもののだれもおらず、秘密の話をするには格好の場所だった。
到着と同時に鳴るチャイムの音に、文紀はため息を吐き出す。
姉は優等生で有名だ。だからこそ、こんな風に学校のカリキュラムから外すなんて目立つ行動はしたくなかった。
これから自分たちが作ろうとする回帰倶楽部は、自分たちに対する偏見を無くすための部活だ。
それなのに、こうした問題を起こすのは、目的に反した行動だと言えた。
「文紀、ちゃん?」
自分にそんな行動を取らせる原因となった姫子の言葉に、文紀は抱えた頭を離して姫子に目を合わす。
「とりあえず……一体なんで回帰倶楽部に入りたいなんて思ったんだ? 姉さん」
「うん……」
文紀の問いかけにうなずき、自分の意志を話し始める姫子。
その視線や握りしめた拳はやけに力強いものだった。
「文紀ちゃんが言った昨日の部活、その説明を聞いて姫子は思ったの」
胸の前で手を握り、祈るような姿勢で文紀を見る姫子。
「お願い、文紀ちゃん。文紀ちゃんは知っているでしょう? 姫子が、お母さんやお父さんの言葉に逆らえないこと。それに、頼まれると嫌だって……言えないこと」
それは、文紀自身も良く知っていることだった。だからこそ昨日、文紀は姫子に頼み事をしたのだ。
「それは……やっぱり、姫子が周りの人に良い子に見られたいっていう思いがあるからだと思うの」
「それのどこが悪いんだ?」
文紀はそう聞いた。
なぜなら、だれかに良く思われたい。
それはだれもが持つ当たり前の思いだろうと、文紀は思っているからだ。
だというのに、姫子はその思いが疎ましいものであるかのように顔をゆがめて、言葉を発していた。
「悪いよ」
姫子はそう断言する。
「だって、姫子はただ……周りの人が怖いだけだもの」
そう言って、うつむく姫子。
その姿はまるで幼子のようにか弱く、文紀には小さく見えた。
「怖いから、好かれたいんじゃなくて、怖いから……だから、良い子だって思われていれば、傷つけられずに済む。そう思っているから、姫子は……」
そこで姫子は口をつぐんだ。
「姫子は……だから……良い子でいたいの。でも、それじゃいけないと思うの」
そう言った後、姫子は文紀を見る。
「姫子だって、やりたいことあるもん……だから、文紀ちゃんや礼香ちゃんみたいに、自分がやりたいと思ったことを出来る。そんな人になりたい」
文紀は姫子の訴えを聞いて、頭を抱えたくなった。
だって、そうだろう?
姫子の言っていることは確かに必要なことだ。
嫌なことを嫌と言える。それは確かに、文紀が企図した回帰倶楽部の目的に一致する。
周囲の目や偏見などによって出来ない、誤解されてしまうような行為を、周りの人間に違和感なく出来るようにする。
それが回帰倶楽部の目的である。
だが、それは礼香や文紀のような悪いイメージに対して、行おうと思っていた行動だ。
姫子が突然、今までの従順な性格から嫌なことは嫌という性格になったら、それはどちらかというと、周りの人間からは嫌な目で見られることになるだろう。
そして、その変化は妙なことをしているとうわさを立てられるだろう回帰倶楽部。
つまり、文紀のせいだと思われることになるだろう。
不良だった弟に影響を受けて、優等生だった姉が堕落。
姫子がそんな風に見られるだろうということが、文紀には簡単に予測できた。
「だめ?」
首をかしげ、涙を浮かべた目でこちらを見る姫子。
「…………はぁ~」
その姿に、文紀は今日何度目かもわからないため息を吐き出した。
「…………いいよ、姉さん」
「ありがとう! 文紀ちゃん!」
自分の名前を呼んで、それこそ正に犬が飼い主にじゃれるように胸元に飛び込んでくる姫子を受け止めながら、文紀は考える。
「おいおい……女性がはしたないぞ」
姫子が変化することで悪くなるであろう回帰倶楽部の評判をどう取り戻すべきなのか。
容易には答えが思いつかない問題だった。
けれど、そもそも文紀は最も単純な解決策である姫子を見捨てるという選択肢を取らなかった。
だからこその苦労を、文紀は笑って受け入れる。
その理由は、確かに姫子もまた、文紀たちとは方向性が違うが、自分の本心とは違う評判に振り回される人間だからだ。
回帰倶楽部。文紀はそれを作る時、特に何も考えず、ただ周囲の認識と自分とのズレを気にせずに、まるで子供の頃に戻ったかのように振る舞える居場所を作ろうと思っていただけだ。
けれど、これは思ったよりも大変なことのようだった。
姫子のように、たとえ周囲に悪いイメージを与えることになったとしても、自分の本心をさらけ出したいと思っている人間。それすらも受け入れてくれると、文紀の知らない内に、回帰倶楽部はそう期待される場所になっていたらしい。
その部長を務める。それはきっと難しい仕事だと思いながら、文紀は姫子の体を押し返す。
「あん、もう……文紀ちゃんのいけず」
「なに言ってるんですか、姉さん……」
まるで似合わない、色気のある言葉を口にする姫子に目を細める。
「え? 確か、姫子が見ているドラマでこう言うと男の人が……」
「それ以上は、いいです。それ以上は……辞めてください」
あきれ顔で話しながら、文紀は周囲を見渡した。
こんな時間に来るのは始めてだったからか、見慣れたはずの小さな図書室が文紀には新鮮に映った。
そういえば、と文紀は今の状況を客観視してみる。
だれもいない図書室の中、男女が二人。
これが姉と弟で無ければ、ラヴロマンスでも始まりそうなシチュエーションだった。
「姉さん。今、時間は?」
「はへ? あっ!」
なにかに浸るかのように文紀に抱きついたまま、目を閉じている姫子に文紀がそう声をかけると、慌てたように姫子は時計を見て大きな声を上げる。
「どうしたんだい、姉さん」
そんな姉に声をかけると、まるで犬が耳や尻尾を垂れるかのように、全身で気落ちしている様子を表現する姫子の姿が見えた。
「朝のHR、もう始まっちゃってる……」
今更気付いたのか、とあきれた視線を向ける文紀。
「だ、だってだって……自分からお願い事をするのって初めてだから……緊張したんだもん」
そんな文紀に言い訳をする姫子の姿に文紀は苦笑する。
「ま、今から行っても目立つだけだから、適当に時間、潰そうぜ」
そう言って図書室の奥に入り、適当なスペースに入り込む文紀。
「あ、まっ……待って」
そんな文紀を追って、姫子が図書室の奥に入りこむ。
文紀はそんな姫子のために上着を脱ぎ、床に敷いた。
「椅子の数が足らないと教師が不審に思うかもしれないからな。これで我慢してくれ」
文紀が床に座る。座り込んだ文紀を、姫子はじっと見つめていた。
「なんだよ、姉さん」
「文紀ちゃんは……いいの?」
「いいよ」
上着に座って良いのかと遠慮している姫子に対して、ぶっきらぼうに返事をして、文紀は床に手を突いて、天井を仰ぎ見る。
図書室特有のほこりっぽい空気をかぎながら、文紀は時間が過ぎるのを目を閉じて待っていた。
隣に視線を向けると、ようやく姫子が文紀の上着の上に腰を下ろすところだった。
おっかなびっくりに上着の上へ座り込んだ後、こちらを伺う姫子。
「なんだい、姉さん」
その視線に気付いて、姫子の姿を横目に見ながら、文紀は姫子に視線の意味を尋ねる。
「文紀ちゃんに、ちょっと聞きたいことがあるの……」
そんな文紀に、姫子はそう言って、目線をそらす。
聞きたいことがあると言いながらも、言いづらそうにしている姫子の姿に文紀は無言で姫子の言葉の先を促した。
「文紀ちゃんは……響歌さんのことをどう思っているの?」
そんな文紀に、姫子は途切れ途切れの言葉でそう問い掛けてくる。
文紀はその言葉を聞いて、まゆをひそめた。
文紀には、その言葉の意味がわからなかったからだ。
「どう思うって……別に、ただの友達だけど?」
だから、文紀はそう答えた。
けれど、その答えに姫子は不満そうな顔を浮かべる。
そのほおを、文紀は指で突っついた。
「なんだってんだよ、姉さん。俺と響歌の関係が、そんなに気になるのか?」
からかい半分に笑いながら、姫子に尋ねる文紀。
「べっつにー……ただの友達ならなんで、あんなに数多い問題をおこしてまで文紀ちゃんが響歌さんを守っているのか、気になっただけですよー」
ぷーとどこかの魚のように、そのほおを膨らませながら語られた姫子の言葉。
文紀はふと、押し黙る。
「文紀ちゃん?」
押し黙った文紀を心配して、声をかけてくる姫子。
「ん、ああ……いや、ちょっと……昔を思いだしてな」
姫子に素っ気のない返事を返しつつ、文紀は響歌と出会った時を思い出す。
同じ小学校だったということを考えれば、もしかしたら、あの時以前にも文紀と響歌は出会っていたのかもしれない。
だが、文紀が響歌のことを意識し始めたのは中学生のころだった。
響歌は思春期の少年たちには、刺激の強い女だった。
中学の頃から成長し始めた胸や体付き。
顔立ちが童顔で体も小さいことから、性的な成長がわかりやすかったのだ。
そのせいで、思春期の少年たちに強い興味を抱かれていた。
そしてあるうわさを、文紀は当時、クラスメイトから聞いていた。
同じ学年に異様にかわいい顔の、エロい体付きの女がいる。
下品な話だが、そんな女と付き合えたら、どれだけいいだろう。そんなことを友人が語っていた記憶が文紀にはあった。
その時は自噴自身には関係のないことだと文紀は思っていた。
そんなうわさを聞いて、しばらくたった中学二年生の秋。当時は友達もそれなりにいた文紀が放課後、部活に所属している友人を待つために、暇つぶしとして本を読もうと学校のそばにある図書館に向かったところ、妙な音が聞こえたのだ。
近くの空き地から聞こえてくる、がさがさという葉擦れの音。
その時、文紀は学校から図書館に至るまでの最短の道を歩いていた。
その道は穴場で、文紀も友人から聞くまで、まるで知らなかった道である。
そして、その道には周囲の開発計画から外れ、だれも利用せず、だれも気付いてくれない忘れ去られた空き地が存在していた。
そんな空き地から響いてくる音に文紀は興味を引かれて、空き地の中に入る。
すると、そこには驚くべき光景が広がっていた。
そこには響歌と、響歌を取り押さえようとしている二人の男がいた。
「いや!」
叫び、逃げだそうとする響歌。
そんな響歌の細い腕を押さえ込んで、襲い掛かる二人の男。
その姿を見た瞬間、文紀は一瞬で頭に血が上ったのを覚えている。
その時、文紀は生まれて初めて暴力を振るった。
例えどんな時でも、最初は言葉で話すことを優先してきた文紀が、男の一人を横から首根っこを引っつかむようにして、殴りつける。
空き地に無造作に捨てられた粗大ゴミとぶつかって倒れる男。
突然の物音に驚いたもう一人の男が、文紀を見る。
咄嗟に文紀はその男を殴り飛ばし、響歌を自由にした。
「行け!」
そして、咄嗟にそう命令した。
その言葉を聞いて、戸惑う響歌。
「速く逃げろって言ってんだよ!」
もう一度文紀が響歌に叫ぶと、ようやく響歌は状況を理解したのか、走り去っていく。
その足音を聞きながら、文紀は前をにらみつけた。
目の前で激高した男がこちらをにらみつけてくるのを、同じようににらみつけて返し、文紀はちらりと倒れたもう一人の男の方へと目を向ける。
もう一人の男が気絶して起き上がってこないのを確認し、文紀は安堵する。
喧嘩など幼い頃の時以来の文紀にとって、二対一の状況など願い下げだった。
「――――」
目の前に立つ男がなにかをわめいているのが聞こえる。
文紀は確か、その男の口の動きを見て、だれだてめぇというような言葉を言っていたような気がしていた。
だが、正直、その時の文紀は頭に血が上っていて、相手がなにを言っているのかはっきりとは認識できなかったのだ。
そして、その後は結局、文紀ともう一人の男との一騎打ちになった。
文紀が一人目の男を気絶させられたのは、たまたまパンチが良い場所に当たり、倒れた相手が粗大ゴミに頭をぶつけたからという情けない理由だった。
だから、その後の戦いは結局、文紀が一方的に殴られるだけで終わった。
しばらくした後、響歌が連れてきた警察官によって、その男は取り押さえられ、文紀は顔の腫れがひどかったために病院へ向かうことになる。
しばらくの間、顔の腫れと熱が引くまでは安静にしていた方がいい。医者に言われたその一言が原因で、文紀は数日の間、学校を休むことになった。
事件は、そこで終わるはずだった。
しかし、文紀がその後、久しぶりに学校へ登校すると、その時、ふと周りの視線が今までと違うことに気付いたのだ。
その視線は好意によって裏付けされた好ましい視線ではなく、文紀のことを恐怖するような、嫌な視線だった。
「おはよう」
「ん…………あ、ああ」
今まで友達として一緒に遊んでいた人間が、文紀の挨拶に歯切れの悪い言葉を返す。
「どうしたんだ?」
友人の急激な態度の変化に驚く文紀。
「あ……いや、俺、ちょっとほかの連中に呼ばれているから……じゃあな」
そんな文紀のいぶかしむような視線に耐えられなくなったのか、席を離れる友人。
その変化が、周囲の変化に確信を持った切っ掛けだった。
そして、文紀は周囲の人間があからさまに文紀を避けていることに気付く。
その理由を知りたいと思った文紀は耳を澄ませながら、校内を歩き回ると、驚くべきうわさが聞こえてきた。
文紀が殴り倒した男こそが、響歌を救おうとした人間であり、響歌を襲ったのは文紀だという根も葉もないうわさが立てられていたのだ。
そのうわさによって教師に呼び出され、文紀は事情を問いただされる。
長い長い尋問にも似た質問攻めの後、文紀が真実を話したのかどうかを確認するために、被害者である響歌が呼び出された。
「あの、先生……一体なんなんですか?」
少し怯えているような態度で職員室に入ってくる響歌の視線が、文紀を捕らえる。
「あ……」
小さく声を漏らす響歌。
その時初めて、文紀は響歌の美しさをはっきりと正視することになる。
小さな体に艶の良い髪。健康的なハリを保つ肌に、だれもが憧れる女性的な丸みを帯びた肉体。
今でこそ、その美しさを隠そうと努力しているが、その当時の響歌は、自分の美しさがもたらす周囲の視線に気付いていなかった。
だからこそ、その魅力のすべてが、子供特有の裏表のない態度で周囲の目にさらけ出されていたのだ。そんな無防備な様子が、恐らく男に襲われるという結果に結びついたのだろうと、今の文紀は考える。
「響歌君。言いづらい事だろうが……」
数日前のことを、表向きは申し訳なさそうに尋ねる教師の声。
しかし、その目は響歌の魅力的な体に向けられていた。
そして、響歌はその視線の意味に気付き、怯えていた。
「…………間違いないか?」
文紀の言葉を元にした事実の確認を、そんな言葉で締めくくる教師。
だが、当の響歌はなにも言わず、ただ黙っていた。
「黙っていちゃ、わからないだろ!」
「ひぅ……」
いら立ち、声を荒げる教師に響歌が悲鳴を上げる。
「まぁまぁ、先生」
あの事件が切っ掛けになったのか、男に囲まれたこの状況を恐怖しているように見える響歌を見かねて、文紀が仲裁に入る。
響歌と教師、二人の視線が文紀に集まる。
「先生、今はあの事件があった直後です。それなのに男に、その事件の詳細を話せってのは、あんまりにもむごすぎるんじゃないでしょうかね」
「ん、あ……ああ」
その可能性に思い当たっていなかったのか、それともゲスの勘ぐりを指摘された恥ずかしさからか、教師がばつの悪そうな顔をする。
「すまない、響歌君」
「い、いえ……」
響歌は教師の追跡が緩んだことに、ほっとしたように息を漏らす。
「だが、教師の耳に聞こえるくらい、この問題がこの学校で大きな問題として取り扱われていることは事実だ……そのことに対して、しっかりと報告書を書かないといけないんでな……」
教師には教師の都合があるのか、そんな身勝手な都合を口から漏らす教師。
「あ、あの……だったら、私……きちんと話します」
そんな教師の苦悩に対して、見かねたように響歌がそう言った。
「おい……無理に言わなくたって……」
文紀は響歌を止めようとする。
「いえ、本当にいいんです。心配していただいて、ありがとうございます」
文紀の言葉に対して、響歌はきっぱりと拒絶する。
「そ、そうか……助かるよ……響歌君」
あからさまにほっとしたという表情を浮かべる教師。
そして、そんな教師に対して内心の辛さを押し隠しながらも、響歌は数日前に起こった事件のすべてを教師に語った。成り行き上、退室するわけにもいかず、文紀は襲われた女性に対して、その事件の詳細を話させるという、拷問じみた行為を見物することになる。
「これで終わり、です」
胸くそが悪い。胃がむかむかする。
文紀はそう思いながらも、なにも口を出すことが出来なかった。
響歌自身が辛いと、はたから見てもわかる状態なのに、彼女は自分でやると言ったのだ。
その意志を、尊重するべきだと文紀は思っていた。
しかし、なぜ。なぜ、目の前の響歌はこんな拷問じみた行為に耐えるのだろう。
それが文紀にはわからなかった。
文紀がそんな疑問を抱くころには、教師と響歌の会話は終わっていた。
「もう、戻って良いぞ」
その内容が文紀の語った内容と酷似していることを確認して、教師は二人に退出の許可を出す。
「失礼しました」
職員室の外にでる二人。ちなみに退室の際、挨拶をしたのは響歌だけだった。
「なぁ……」
授業中、人通りの少ない廊下を二人は歩く。
目の前で揺れる小さな体と髪。
その背中に文紀は言葉を掛けた。
「はい?」
返事をし、小首をかしげながらこちらを向く響歌の可憐さに、文紀は少しの間言葉を失う。
「…………?」
声をかけたのに、なにも言わない文紀を、響歌は不思議そうにその大きな瞳で見つめる。
小さな顔なのに、いっそアンバランスだと思うほどに大きな瞳に見つめられ、文紀は日本語を思い出せなくなりそうだった。
「あー、うー……ごほん」
せき払いをした後、文紀は響歌に改めて話しかける。
「あのさ、響歌さん……良かったの?」
「良かったの、とは?」
教師の前とは打って変わって、少し硬い言葉。
それが、男と二人でいるということに対しての警戒だとしても、文紀には気分のいいものではなかった。
「いや……思い出したくもないし、言いたくもないことだろ、普通。襲われた……なんてことはさ」
だから、ことさら言葉は軽快に。しかし、一定の距離以下には踏み込まないように気をつけた。
それが文紀に見せられる精一杯の響歌への優しさだった。
「だから、君が嫌だと思っているんじゃないかと思ってね」
「嫌だから、嫌……そう言って、なんになるんですか?」
しかし、文紀のその行為にはあまり意味が無いようだった。響歌から聞こえてくる声は依然、硬いままだ。
「結局、やるしかないことは、やるしかありませんよ」
厭世的、とでも言えばいいのだろうか。
響歌の言葉には、どこかやけっぱちな考えがあるように文紀には聞こえた。
「そんな事、言うなよ」
そう文紀は響歌の目の前に立ち、真っすぐにその小さな体を見下ろす。
「な、なんですか……」
怯えたように体を引き、こちらをにらむ響歌。そんな響歌に、真面目な顔から一転して明るい笑顔で、文紀はこう言った。
「怖いって、嫌だって言ったら……だれかが助けてくれるかもしれないだろ?」
毒気のない文紀の笑顔。真面目な顔から一転して変わったその表情の違いに、響歌はびっくりしているようだった。
その顔がまた今までの険しい顔から一転してかわいらしい顔であることに、文紀は満足する。だがしかし、響歌は驚いた無防備な表情を、自分が浮かべていることに気付いた瞬間、その顔を引き締めてしまう。
「そんなこと、あるわけない……」
それどころか、その奇麗な顔で文紀に対する侮蔑の感情を余すことなく表現して、響歌はこちらをにらみ付ける。
「なら……」
その顔に、文紀はある事実を突きつける。
「あの時、お前は確かに嫌だって言ってくれたよな」
あの時とは、文紀があの空き地に現れた時だ。
「俺はあの時、空き地の中になんて興味がなかった」
だから、もし響歌が悲鳴を上げなかったら。
響歌がなにもかもをあきらめて、抵抗すらしなかったら。
文紀はなにも知らず、目と鼻の先で起こった惨劇に気付きすらしなかったかもしれない。
「お前の声が、俺を呼び止めたんだぜ」
それは、まぎれもない事実だった。
「それは……」
口ごもる響歌。
「ありがとうな」
「え?」
そんな響歌に、文紀はそう言った。
「少なくとも、お前が俺を呼んだから。俺は……後味の悪い思いをしなくて済んだよ」
たとえ、その結果が面白半分にうわさを立てられ、今も友達を失い続けている状況であっても、文紀にとってはそれもまたまぎれもない事実だった。
「そんなの……!」
なにかを堪えるかのように俯いて、こちらに言葉を掛ける響歌。
そんな響歌を置いて、文紀は前へと歩いた。
これ以上、響歌に深入りするべきではない。
そう思ったのは、今の文紀の状況を響歌には知られたくなかったからだ。
特に、響歌に対するうわさには、出来るだけ気付いて欲しくはなかった。
こんなにも話をしてしまった後に、そのことに思い至るなんて。自分の頭の悪さに、文紀は苦笑を浮かべる。
「あと、さ……」
それは、ただの思いつきから出た一言だった。
「また……またなにか、嫌なことがあったら……だれかを呼ぶんだ。もし、俺にその声が聞こえたのなら、その時はまた……助けてやる」
その言葉が結局、その後の文紀自身をも救うことになった。
その後、結局文紀や自分に対するうわさを知った響歌は、そのうわさに対抗するためにある手段に打って出た。
「契約をしましょう」
そう言って、響歌が図書館で勉強をしている文紀に駆け寄る。
「あなたは私のそばに、私は……あなたのそばに」
場所は、かつての事件が起きた空き地の近くにある図書館。
人目を避けて勉強するために、図書館の角にある席に座っていた文紀に、響歌が迫る。
「私は今、ささやかれているうわさからあなたを守る。だから、あなたは私を……あの時のような事件から守りなさい」
そして、響歌が語り出したのはそんな契約の話だった。
「それは……?」
だが、その時、文紀の目を引いたのは響歌の腕についたひっかき傷だった。
「別に……今は、関係ないでしょ」
文紀の視線から、傷ついた腕を隠そうとする響歌。
そんな響歌の姿に、文紀は顔を険しくする。
「守るって……言ったよな」
「ええ」
文紀が反応を返したことが嬉しいのか、響歌が顔を綻ばせてうなずく。
「私があなたと一緒にいれば、あなたに立てられたうわさを否定する事が出来るでしょう?」
それは、確かにその通りだろう。
だれも、襲われた被害者が、加害者と仲良くすることなど想像のらち外にあるはずだ。
ならば、そこに理由があるはずだと人は考える。
それがどんなものになるかは別として、都合の良いように仕立て上げられたゴシップを打ち破るには不都合な現実が一番だ。
それは今もなお、愉快だと文紀に対する罵詈雑言をまくしたてる人々に対する確かな有効打になるのかもしれない。
「その代わり、あなたには私と一緒にいてもらう」
「そして、お前を守る……って訳だな」
響歌の言葉を遮って、文紀は一言つぶやく。
その言葉を聞いて、不安そうにこちらを見る響歌。
恐らく、響歌もまた気付いているのだろう。
被害者と加害者が一緒にいる。確かに本来ありえない状況だが、一つだけ、その状況を作り出せる可能性がある。
「俺がお前を脅迫している……そう思われたら、どうするんだ?」
文紀が響歌を襲った時に写真でも撮って脅迫したのかもしれない。
そう思われる可能性があった。
「それは……」
契約の問題点を言い当てられ、バツの悪そうな顔でそっぽを向く響歌。
「まぁ、その時はその時で考えればいい……わかった。契約を結ぼう」
そんな響歌に、文紀は契約を承諾する意志を伝えた。
「え?」
「言ったはずだろ?」
ハトが豆鉄砲を食らったかのように、目をぱっちりと大きく広げる響歌に、文紀は言葉を掛ける。
「呼んだら、助けてやる……って」
「あ……」
文紀の言葉を聞いた瞬間、頼りなく倒れる響歌を抱き留める。
「無理をしやがる……」
気を張って、必死にここへとやってきたのだろう。
図書館から文紀たちが通っている中学校は、近道を使うと近いものの、普通に歩けば丘の上にある学校と丘の下にある図書館という位置の関係上、かなりの距離を歩くことになる。当然、時間もそれなりにかかるものだ。
文紀は前回と同じ近道で歩いてきた。
ほどなくして響歌がやってきたことを考えると、響歌もまた同じ道を通ったのだろう。
自分が襲われた、危害を加えられた場所を再び通る。
それがどれだけ、この小さな体に負担を与えたのか、文紀には想像することも出来なかった。
倒れた響歌がゆっくりと目を開き、こちらを見る。
そして、自分が今置かれている状況を理解した瞬間、響歌は満足そうにほほ笑んだ。
「……っき……」
その潤んだ唇が、なにかをつぶやいたが、文紀の耳には届かなかった。
その時以来、文紀は響歌を守るために一緒にいる。
響歌の楽しそうな様子から当初、文紀が危惧していた周囲から向けられる疑いの目はなく、結局、今も文紀と響歌の関係は続いている。
文紀があの事件以来、男性恐怖症の気がある響歌を守り、響歌はそんな文紀を影ながらサポートする。
そんな関係を楽だと思う自分もいれば、そんな関係を歪んでいると思う自分もいた。
「文紀ちゃん?」
掛けられた言葉に、文紀は過去の回想から意識を現在に戻す。
「どうしたの? もう、チャイム鳴ったよ」
「うん……」
「うん?」
驚いたように目を見開く姫子。
その姿に、自分が今なにを口走ったのかと文紀は目を白黒とさせる。
「小学校以来だよね。そんな素直そうな言葉を使うの……」
とても嬉しそうな顔を浮かべる姫子に対して、自分の顔はさぞ苦虫をかみ潰したかのような渋面になっているだろうと、文紀は予測する。
「ふっふー」
自分が知るかつてあった今ではそうそう見られない、文紀の過去の片鱗に触れ、ご機嫌な姫子と連れ立って、文紀は図書室から出て行く。
放課後、部活動申請書を書いて庵に提出した後になって、文紀は改めて姫子を回帰倶楽部に加えたことに、メリットがあったことに気付いた。
この学校で部活を作るために必要なのは、顧問が一人。そして、部員が五人。
もし姫子を加えることになってなかったら、そもそも部活を設立するのに必要な人数が足りないところだった。
それに、メリットはそれだけじゃない。生徒会に所属する人間が部活内にいることで、周囲の目もまたそれ相応のものになるだろう。
つまり、回帰倶楽部が周囲の人間にとって良いことをしたのなら、そのうわさは問題児たちの更正に成功した証しとして、さらに学校側の利益になりやすくなるはずだ。
そして、それは回帰倶楽部に所属する人間全員の目的、偏見からの脱却に対する第一歩にもなる。