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ギャップ's  作者: ヴルド
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第三章 反逆と新生

 第三章 反逆と新生


 家の中、いつもなら生徒会のために真っ先に家を出るはずの姉を呼び止めるために早起きする。

「姉さん」

「え?」

 信じられないと言わんばかりに目を開きながら、姫子がこちらを振り返る。

「文紀、ちゃん?」

 その視線がじっと自分に注がれているのを感じ取って、文紀は頭をかく。

「悪いけど……今度、頼みがあるんだ。聞いてくれるかな?」

「え、あ……」

 呆然としたまま、文紀の言葉を聞く姫子。

「……姉さん?」

 あまりにも長い間、放心している姫子を見ていて、文紀は心配になる。

「う、うん。いいよぉ? え、で、でも……どうしたの? 急に私を頼るなんて……」

 その声が聞こえたのか、ようやく、文紀の言葉に返事を返す姫子。

「昨日のことでちょっと、考えが変わってね。姉さんにも協力してほしいことがあるから、今の内に頼んでおこうと思って」

「え、あ……うん、うんうん! で、どんなお願いがあるの? お姉ちゃん、文紀ちゃんのためなら頑張っちゃうよ!」

 薄い胸を精一杯張って、勢い込んで答える姫子。

「あー、いや、姉さんはもう時間がないだろ。だから、後でいいよ。俺もほかの連中に話さないといけないこともあるし……」

「うん、わかった! じゃ、今日の昼休みにでも、文紀ちゃんの教室に行くね!」

 たった一人の弟が、ようやく更正すると決心してくれた。

 そう思っているのか、姫子は何度も何度も、文紀の言葉にうれしそうにうなずいた後、スキップでもしかねない勢いで外に出ようとする。

「姉さん、話は放課後で! 場所は後で話すよ!」

 姫子の背中に声をかけ、その言葉に姫子がうなずくのを確認して、文紀は一息つく。

 生徒会に所属していない文紀と違って、姫子の朝は早い。

 そのことを計算に入れて昨日は早めに寝たはずだが、用事が終わり、手持ちぶさたになると再び眠気が文紀を襲った。

 しかし、文紀はその眠気をこらえ、部屋に戻り、ある手帳を広げた。

 そうして、文紀は生まれて初めてこれからやることの予習に挑戦し始めた。

 

 眠い。

 何度も何度も湧きあがるあくび。

 これは朝、学校内にある適当な蛇口で顔を洗う必要があるなと思いながら、文紀は学校への道を走る。

 その前方、いつもの集合場所に回帰倶楽部の面々がいることに気付いて、文紀は足を緩めた。

「よ、皆」

「おはよう、文紀」

「おはようございます、せんぱい」

 文紀の姿を見て、すっと頭を落として挨拶を返す響歌。

 それに少し遅れて、顔をほころばせて挨拶する音貴が続いた。

 礼香だけは不機嫌そうな顔で挨拶せず、手で軽く反応を返してくる。

 礼香は低血圧で、大抵はいつも朝は不機嫌そうにまゆをひそめている。

 そうして朝、生徒のほとんどに必ず不機嫌な姿を見せるということが原因で、礼香が不良であるという偏見は覆しがたいものになっているのだろう。

 実際は頭がぼんやりして、なにをしてしまうかわからない不安感から必死に意識を集中して、頭をはっきりさせようとしているだけらしいが、そんな実情はうわさを好むような人間には関係のないものだ。

 礼香の手にあわせて、自分の手を軽く挙げて文紀はこたえる。

 あくびをかみ殺す文紀。

 そんな文紀を見て、響歌が声をかけてくる。

「いつもと違って……少し、眠そうだよ? 大丈夫なの? 文紀」

「ああ。ちょっとな。始めて予習ってやつをやってみたんだよ」

 苦笑しながらそう文紀が言った瞬間、ほかの三人が三者三様の驚いた反応を返してくる。

 まず、響歌は文紀が予習と言った瞬間に軽く目を見開いた。

 音貴は文紀の言葉を理解できていないのか、首をひねり、礼香は呆然とした頭のままで皮肉げに笑ってみせる。

「はっ……あんたが予習? どうせ、ゲームの……ふぁ……とでも、オチをつける気でしょう?」

 礼香はいつもより間延びした声で突っ込む。

 あくびのおまけ付きだ。

 その言葉に先程の苦笑をより濃くしながら、文紀は笑って返事をする。

「おう。ま、あながち間違いとは言えない考えだな、礼香。少し考えていることがあって……皆には放課後の時にでも話すさ」

 文紀の急な提案に、回帰倶楽部の面々は一様に首をかしげる。

 それがおかしくて、文紀は少し笑った。

 その笑みを見て、おそらく文紀の冗談なのだろうと判断した回帰倶楽部の一同は、いつも通りの笑顔をその顔に浮かべる。

 しかし、文紀の計画はこの時にはもう始まっていた。


 放課後。いつもの集まりに更に姫子を付け加えた集団を前にしながら、文紀は声を出す。

「ちょっくら、俺の計画に付き合わないか?」

 その時、文紀は出来るだけ真剣に話を聞いてもらえるように全員の顔を見渡した。

 少しの間を置いて、文紀はまた語り始める。

「昨日のことで考えたんだ。俺たちは幸か不幸か、だれもが特別な事情を抱えている」

 回帰倶楽部と呼ばれる原因にもなった、各々が中学時代に起こした事件。

 それらを思い出しているのか、響歌や音貴、礼香の顔が苦虫を噛み潰したかのように歪む。

「そのせいで、先生……っていうか教師陣にもにらまれている」

 文紀は確認の意味を込めて、姫子へと視線を送る。

 回帰倶楽部の面々に囲まれていることで、肩身の狭い思いをしているのだろう。

 体を丸めて、出来るだけ小さくなろうとしていた姫子は、文紀の言葉を聞いてうなずいた。

「それに、ほかの生徒には回帰倶楽部なんて呼ばれている。この言葉の意味は、ようは新しい人間関係を築けず、色々な事がうまくいっていた子供時代に回帰しようとしている連中だって…………侮辱されているわけだ」

 それは事実でもあり、あるいは間違ってもいるのだろう。

 少なくとも、四人。それだけの人数がいるのだ。

 全員が同じ理由で動くはずもない。

 だけど、少なくともこの面々で集まることは、そうした意味合いを持っていると周囲の人間に誤解されても仕方のないことではあるのだろう。

「それで、俺はこう思ったわけだ」

 その時、文紀の顔にふと浮かんだ表情。

 それは笑みだった。

「回帰倶楽部、大いに結構。言わせるだけ言わせればいい」

 その笑みを浮かべたまま、周囲の人間を見渡す。

 だが、文紀の言葉を聞いて、回帰倶楽部と呼ばれる面々が浮かべる表情は皆、同じように困惑の表情だった。

 多かれ少なかれ、回帰倶楽部という蔑称で呼ばれていることに不満を持っていたのだから、それを肯定しようとする文紀の言葉は、彼らにとって予想外のものだったのだろう。

「……なにを言っているの、文紀ちゃん?」

 特に弟が更正し、これからは問題を起こさないであろうまともな人間になるのだと思っていた姫子の戸惑いようは、見ていて哀れに思えるほどだった。

 そんな姫子の眼前に突きつけるように、文紀はある紙を取り出す。

 その紙は「部活動設立申請書」という名前が書き込まれていた。

 新しい部活を作るための書類。それを差し出し、周囲の人間に見せる文紀。

「へぇ……」

 その紙を姫子の隣からのぞき込むようにして見た響歌が、部活名の枠に書かれた「回帰倶楽部」という文字を見て、声を漏らす。

「なるほど……文紀、あなたらしいわ」

 楽しそうに響歌が笑う。

 どうやら、響歌はもう文紀がやりたいことを理解しているらしい。

 これだけの情報で自分がやりたいことがわかるなんて驚きだ、と目を見張る文紀。

 そんな文紀に響歌はわかっている、とでも言うかのように静かにほほ笑みながらうなずいて見せた。

 文紀の意図を理解するのが早かった響歌とは違い、ほかの面々はまゆをひそめて頭をひねっている。

 彼ら、彼女らに説明するために、改めて文紀は書類を掲げた。

「回帰倶楽部っていう名前の部活動を作る。活動の内容は遊びみたいなものもあるけど、勉強、ボランティアなんていうような、いわゆる……点数稼ぎもやるんだ。活動目標は、偏見からの回帰」

「偏見からの回帰?」

 音貴が口にした言葉に、文紀は大きくうなずいてみせる。

「ああ……俺たちは今、確かに問題児として扱われているけど、元はそうじゃなかったはずだ」

 子供の頃は普通に生活出来ていたものの、二次成長期が始まると同時に女性的な外見や肉付きがコンプレックスとなった音貴がその最たる例だろう。

「だから、周囲の目を見返して、その偏見を無くしてやろう。やるべきことをやって、やりたいことをやれるようになるために」

 その言葉を発言した瞬間に、文紀は礼香の方へと目線を向けた。

 礼香は意志の強い人間だ。しかし、やりたい事をやっているだけなのに、その外見や性格から不良と勘違いされ、偏見の目に晒されている。

 その目を見返す。それは礼香自身もまた望んでいたことではないだろうか。

「だから、まるで悩みなんてない子供の頃のように、満ち足りた日常に回帰する。そのための部活、回帰倶楽部を作ろうぜ」

 きっとだれもが、幼いころにはこう思っていたはずだ。

 未来に希望はあるのだと。夢だとか、そういう大層なものではなくても、明日が当たり前に来て、明日が……当たり前のように昨日よりも楽しい。

 そんな期待が出来る日々。

 そんな日常。

 それを今、回帰倶楽部とあだ名され、偏見の目に晒されている自分たちが再び手に入れるための部活動。

 それが、文紀が企画する回帰倶楽部の内容だった。

 文紀の説明を聞いて、こくん、と響歌が首を縦に振る。

 誇らしいと言わんばかりに文紀へと向ける視線とほほ笑み。そのすべてに勇気づけられて、文紀は周囲を見渡し、こう告げた。

「それで、俺のこの案になにか反対があるやつはいるか?」

 軽くそう言い放った後、周りの人間が考えて反論をまとめる時間を空けるために少しの間を置く文紀。

「あのー、文紀ちゃーん?」

 そんな文紀に、姫子が手を上げて質問する。

「なんだい、姉さん」

「それで、あの……私は何で呼ばれたのかな?」

 心底不思議そうに、肩身を狭くしながら問い掛けてくる姫子に、文紀はほほ笑む。

 その顔を見て、姫子の額に小さく汗が伝うのを文紀は見て取った。

 姫子の肩を軽くつまむようにして、逃げ出さないよう捕獲する響歌。

 響歌のそんな行動に更に不安感を大きくした姫子は、もう目に涙すら浮かべていた。

「姉さんは生徒会長だろ? だから、書類の受け取りと……先生との交渉での糸口になってほしいんだ」

「わ、私には無理だよぅ……文紀ちゃん」

 先生との交渉。その言葉を聞いた瞬間、ぶんぶんと首を振る姫子。

 響歌の手が掛かっている姫子の肩とは別の方の肩を優しくつかみ、文紀は語りかける。

「出来るさ。俺も協力するし、それにこの部活を作るっていう案は、部活に所属する俺たちだけじゃなく、生徒会、それに教師陣にとっても悪くない提案なんだ」

「え?」

 不思議そうに涙を浮かべた顔をかしげる姫子。

「部活ってのは、生徒会や教師陣には問題児を一括で管理することが出来るっていう体の良い名目になるだろう?」

 言葉の一つ一つを丁寧に声に乗せ、文紀は姫子に視線を合わせる。

「けど……二つ、問題があってね」

 優しく丁寧に、あるいは楽しそうに語りかけながら、ゆっくりと語気を強くしていく文紀。内心、詐欺、あるいは脅迫をする時とはこういう気持ちになるのだろうかと文紀は呆れながら、姫子に最後の問題を提示する。

「このままじゃ、絶対にこの申請書は通らない」

「え?」

 ぽかんとまるで、ハトが豆鉄砲を食らったかのような顔をする姫子。

 よくよく見れば、周囲にいる回帰倶楽部の面々も同じような顔をしていた。

 肩をすくめながら、軽い口調で文紀は追加の説明をする。

「俺たちの普段の評価。それは言わずもがな、ここにいるだれもがわかってくれると思う。だから、そんな評価の俺たちがただ部活の申請書を出しても、通るはずがない…………それに、俺はこの部活を作る理由に、教師受けする言葉を書けないんだよ」

「え、え?」

 文紀の言葉を聞いている全員が、頭の上に何個もクエスチョンマークが飛び交っていそうな顔をした。

「俺がこの回帰倶楽部を思い付いた理由は簡単だ。俺たちを見くびっている、見下している連中を…………見返してやりたい。ただ、それだけだ」

 そして、シンプルな理由であるだけに、文紀は部活を設立するために必要な、教師受けのいい理由が思い付かないのだ。

「元々が侮辱するためのあだ名だったからか、回帰なんて大仰な言葉を使われているからな。それだけに、そんな言葉を使う必要のある部活動が思い当たらないのさ」

 あだ名など簡単なものなら、その人の名前をもじったものであったり、ちょっとしたその人の口癖であったり、たまたま読んでいた漫画に似たキャラや設定があったりして決まるものだ。

 しかし、悪意によって付けられるあだ名は、時に驚くほど大袈裟な言葉が使われることもある。

 回帰倶楽部もまたその一つ、いや、その典型的な例と言えるだろう。

「だから、俺たちの評判に加えて教師受けのするような部活設立の理由を書けないこの申請書は、まず間違いなく許可が下りないだろう。理由も書類としての不備もなく、隙のない書類を書かなきゃ駄目だ。それに、部活を設立するなら、もう先生と直接話して、職員会議での渡りをつけてもらう必要性もある

「あの……だったら、名前、変えれば……」

「確かに適当な名前に変えて、それ相応のお題目を書き込んでおいてもいい」

 たどたどしい口調で、意見を言う姫子に一度そう答える。

 だがしかし、文紀は言葉を付け加えた。

「でも、それじゃ最初の問題は解決しない。俺たちの評判からして、学校に書類が通らないだろうって問題はな……だから、先生の一人にきちんと俺たちの言葉を代弁して貰わないといけないんだ。それに、俺としては回帰倶楽部っていう名前だけは変えたくないんだ。この名前を背負ってこその名誉挽回だと思うしな」

 文紀が口にした理由で部活名を変えないとなると、途端に部活を設立するための理由付けが難しくなる。

 昨日の夜と今日の授業中、文紀は考え込んだが、回帰なんて言葉を使う必要性がある部活は思い付かなった。

「それで、ダメもとで聞くけど、姉さんやここにいる皆は回帰なんて大げさな言葉を部活に使う、教師受けのいい理由、思い付くか?」

 半ば期待などせずに、軽く聞いてみる。

 文紀の言葉に、響歌の回帰倶楽部の面々が首を振った。

「だよな。だから、姉さん。悪いけどある先生に話を通して欲しいんだ。あの人ならその理由付けも出来そうだし、協力もしてくれると思う」

「ある先生って、だれに?」

「長谷部庵先生に」

 そう言った瞬間、全員が息を飲む音が聞こえた。

「あいつに……? 正気か、文紀?」

 昨日見た時のいら立ちより更に激しい怒りを示して、礼香が文紀に噛みつく。

 その言葉をある程度予期していた文紀は、ただ黙って礼香を見つめた。

「……わかってくれ。あの人を抱え込むのが一番、効率がいいんだ。じゃないと、お前に対する偏見への対処が間に合わない」

「……………………チッ」

 文紀の言葉を聞いた瞬間に、礼香は口を閉ざした。

 この中で、最も偏見から脱するための時間が少ないのは礼香だ。

 この中で姫子と同じく三年生である礼香。

 その礼香を偏見の目から解放するためには、出来るだけ早くから行動する必要があった。

「貸し、イチだからな」

 自分のためだけに、最も効率のいい方法を選択しようとしている文紀。

 その配慮をくんで、礼香は貸しと言ったのだろう。

 礼香のそうした気配りに文紀こそが貸しだと思いながら、改めて話を進める。

「そんなわけで、姉さんなら今からでも先生に話を付けられるだろ。別に、具体的な内容は俺が話すから、姉さんはただ先生を呼んでくれればいい。職員室の中に俺たちが入って、交渉に不利な条件を付け加えたくないからな」

「え、でも……」

 渋る姫子に文紀は、改めて頭を下げた。

「頼むよ、お願いだ。姉さん」

 文紀の姿を見て、少し怒りながらそっぽを向く姫子。

「…………ん、もう」

 けれど、最終的に姫子はうなずきを返した。

 頼まれれば断れない。それはまぎれもなく、姫子の性格の一端を表す言葉であろう。

 子供の頃から、姫子はそうだった。

 だからこそ、家族である文紀はそのことを良く知っている。

 それを知っていて、姫子にものを頼み込むことがどれだけ卑怯なことなのか、文紀は知っていながら、それを口にしたのだ。

 正直な所、文紀は姫子に軽蔑され、ひどく嫌われることも覚悟していた。

「わかったよ。しょうがないなぁ……文紀ちゃんは。文紀ちゃんの頼みなら、私、断れないもんね」

 だがしかし、姫子はしょうがないなぁと苦笑を浮かべるだけで、文紀の要求を受け入れた。

 文紀はそのことに罪悪感を抱いているというのに、姫子はむしろ文紀に頼られることがうれしいのだと言わんばかりに笑っていた。

 後ろを振り返り、職員室へと向かう姫子。

「私は、お姉ちゃんだもんね」

 そう小さくつぶやく姫子の後ろ姿に、文紀は黙礼した。

 程なくして、姫子を先頭に回帰倶楽部の面々が職員室にたどり着く。

 文紀は姫子が職員室の中に入ったのを確認して、後ろを振り返った。

「……なぁ、別に教師との話し合いは俺がするから、お前らは帰ってもいいんだぜ?」

 その視線の先で回帰倶楽部の面々が周囲の生徒から集まる視線に身をよじり、居心地悪そうにしているのを見かねて、文紀が話しかける。

 文紀たち回帰倶楽部の面々があの踊り場でいつも待ち合わせをしているのは、こうした奇異の視線を避けるためでもあった。

 文紀の言葉に、少し辛そうにしながらも回帰倶楽部の面々は顔を横に振る。

「ったく……無理するなよ」

 意地っ張りな身内に呆れながらも、文紀は中からお目当ての先生が出てくるのを待つ。

「姫子のお嬢ちゃんに呼ばれて来てみたら…………昨日は呼び出しをすっぽかしてくれたおめぇが、俺に何の用だい?」

 声の主の名前は、長谷部(はせべ)(いおり)という男だった。

 背が高く、体が細いモデル体型。

 その顔立ちははっきり言って童顔そのものだが、迫力不足を補うためにうっすらとひげを生やし、それがまた優男な外見と合わさって男前さを引き立てている

 教師としてはかなり奇異な人間で、いつもつばの広い帽子を被っている。

 口癖は「俺はハードボイルドの道を生きているのさ」という極めて頭の痛くなるような言葉で、教師のくせに明るい色ではなく黒を基調としたスーツと帽子を手放さないことからも、その道に対する酔狂さが見て取れる。

 非常勤の雇われ教師で、担当する教科は英語。昔から海外を飛び回っていたらしく、その発音は流暢で、元々男前の声から、奇天烈な言動をしなければ美男子だと評判の男だ。

 文紀がこの男を回帰倶楽部の顧問にしようと思った理由。

 それはまず、文紀たちのようないわゆる不良に対してもその「ハードボイルドの道」とやらから寛容なこと。

 そして、庵が文紀自身の担任でもあり、海外を飛び回った経験から回帰なんて大仰な言葉を部活動に使う理由を考えつくのではないかと思ったからだ。

「で、おめぇら。がん首そろえてどうしたってんだ? この時期に部活動の申請書を取り寄せるってことは……また、なんか悪さでも思い付いたか?」

 どうやら、文紀たちが来た理由に部活が関わっていることは最早、お見通しであるらしい。

 その顔には悪巧みをする子供のように、あくどい笑みが広がっていた。

「ええ。実は先生に相談がありまして……」

「先生、ねぇ……」

 文紀の言葉に、庵は不快そうに肩をすくめる。

「おめぇ、基本的になにか用件がない限りは他人に関わらない主義だろう。だから、そんなおめぇがそういう丁寧な言葉遣いになるってことは、俺になんか悪事の片棒を担がせる気かい?」

 口を曲げ、苦笑を浮かべながら、壁にもたれかかる庵。

 その後ろでほかの教師が庵をにらんでいるが、そんな視線を意に介さず庵はじっと文紀を見ていた。

「やだなぁ、先生。それはつまり、俺が先生に話を持ちかけるくらいの用件があるってことなんですから……そう邪険にしないでくださいよ」 

「ふむ。そう言われてみれば、そうだな。まぁいい。さっさと用件を言ってもらおうか。時間が惜しいから、手っ取り早く済ませよう」

「それじゃ、本題なんですけど……」

 庵のペースに飲み込まれないように気をつけながら、文紀は語り出そうとする。

「まぁ、待ちな」

 あごをしゃくり、庵は職員室の隣にある小さな部屋を示す。

「そこで話そう。レディを立たせたままなのは、俺の道に反するからな」

 軽口を口にしながら、庵は文紀の言葉を遮って歩き出す。

 職員室に併設された小さな部屋。応接室には様々な資料と、そして外来の客と話す時のために設置された黒い革張りのソファが二個、対になって置かれていた。

 回帰倶楽部の面々の全員がソファに座る。

 庵はというと、奥にあるパイプイスを持ちだし、そこに座っていた。

「レディを一人でも立ったままにするのは……」

「ハードボイルドの道に反する、ですよね」

 わかってきたじゃないか、と文紀の言葉にうなずく庵。

 そんな庵に文紀は回帰倶楽部という部活動を申請したいこと。それがもたらすメリット。そして、今現在わかっている問題のすべてを話した。

 それらすべてを聞き終えた後に、庵は斜めに座るようにして椅子の背もたれにひじを突き、頬杖を突く。

「ふむ……確かに、おめぇの話は悪くない」

 悪くないという言葉。それは文字通りに受け取れば、肯定的な意味合いだと取っていい言葉だろう。

 けれど、庵の態度はその言葉とは裏腹にどこか懐疑的なものだった。

 庵は文紀に対して、不満げな表情を向けていた。

「なにが言いたいっていうんだよ、アンタは!」

 その顔を見て、思わずと言った素早さで噛みつく礼香。

 そんな礼香を初めて見た文紀は驚き、動きを止めてしまう。

 礼香は不機嫌そうに見えても、普段、人に怒鳴り散らしたりすることなど絶対にない女性だ。不自然だった。礼香が庵を嫌っているとは知っていたが、ここまでの反応を示すとは、文紀は予想だにしていなかった。

 そこには絶対に、それ相応の理由があるはずだ。だというのに、その理由に文紀は思い至ることが出来ない。

 自分はなにを知らないのかがわからない。

 だから、どうすればいいのか。それを決めることが文紀は出来ないでいた。

「礼香ちゃん!」

 そんな文紀をしり目に、姫子が礼香を止める。

「今は先生と文紀ちゃんがお話しているの。だから、ね……お願い。今は抑えて、ね?」

「……チッ」

 姫子の懇願に、露骨に舌打ちしたもののおとなしく座り直す礼香。

 文紀が、礼香と姫子から庵の方へと視線を戻す。

 すると、礼香の姿を見る庵の視線がやけに寂しげなものであることに、文紀は気付く。

 はっと、庵は文紀に見られていることに気付き、顔をすぐに引き締めた。

 だが、文紀がそんな庵の弱みを見せられて感じていたのは、ただの罪悪感だった。

 良くも悪くもお互いに利益のある交渉、今までの話し合いはそうであったはずだ。

 けれども、今後、庵が見せた弱みをお互いが意識しないのは無理だろう。

 文紀は礼香と庵の関係に対して、邪推するつもりはない。

 けれど、庵はそのことを危惧する。公正な交渉がきな臭いものになる前に、文紀は話を進めたかった。

「ん、んん……ごほん」

 庵のせき払いを聞いて、文紀は居住まいを正す。

「話を戻すぞ……」

「…………はい」

 小さく息を吸い込み、頭を切り換えて庵の言葉を聞く文紀。

「俺が言いたいことは一つ。おめぇ、明らかにこの案にデメリットがあることを知っていて、俺に話しちゃいないだろう?」

 その言葉を聞いて、文紀は苦笑する。

「確かに。そうです」

 庵の言葉に肯定する文紀。

 礼香、音貴、姫子。響歌以外の全員から、自分が聞かされていた説明がすべてではなかったのか、という文紀の真意を問いただそうとする視線が突き刺さる。

「悪い。俺もこの問題点に気付いたのは、さっき……廊下で先生を待っている時だったからな。話す暇が無かったんだ」

 その視線に謝りながら、文紀は語り始める。

「さっき、廊下で先生を待つ間ずっと、俺たちに視線が集まっていただろう?」

 周りを確認し、回帰倶楽部の面々がうなずくのを見てから文紀は続ける。

「あの視線……ほとんどのものが教師のもので、やっぱりなにかやったのか。そんな視線だったように俺は感じたんだ」

 おおむね、ほかの皆も同じように感じたようだ。

 特に反対の意見は出なかった。

「つまり、おめぇらは常にそうした問題を起こす可能性があると見られている訳だ」

 改めて、周囲からどう思われているのか事実を突きつけてくる庵。

「そんなおめぇらが……部活動で集まることで、どんな悪企みをするのか。そのリスクを背負う顧問がそういるとでも思っていたのか?」

 それが、文紀が語らなかった回帰倶楽部のデメリットだった。

「ええ……けど、もう解決策は思いついてあります」

 そして、その解決策を文紀はすでに考えていた。

「庵先生。あなたが……俺たちが作る部活、回帰倶楽部の顧問になっていただけませんか?」

「はぁ?」

「はぁ?」

 礼香と庵、二重奏での言葉だった。

 被ったことを気にしているのか、お互いに視線を合わせた後、気まずそうに身じろぎする礼香と庵。 

 二人の姿を視線に収めながら、文紀は再び語り出す。

「回帰倶楽部の目的は、そうした偏見の目を見返すこと。つまり、はたから見れば、優等生に見えるようにするということです」

 あの廊下での居心地の悪い視線。

 その視線をもう二度と受けないようにするための革命。

 その第一歩が、回帰倶楽部の設立だ。

「これは顧問になった先生にとって、不良学生の更正に成功したということになって、利点になるとは思いませんか?」

 文紀はあくまで庵に職員会議での援護だけをお願いするつもりで、実際の顧問にはこのメリットから生徒指導の先生を説得するつもりだった。

 けれど、先程の一連の出来事が文紀の心に引っかかっていた。

 もし、礼香の硬い態度の裏に何かがあるのなら、それは目の前にいるこの人が関係しているはずだと文紀は考えた。

「ふん、何を言うかと思えば……」

 その言葉を聞いて、鼻を鳴らして庵は首を振る。

「たとえそうだとしても、それは俺には関係ないね。元々、俺は教師の仕事にそこまで執着はないんだからな」

「それは……嘘ですね。庵先生」

「ほう?」

 興味深そうに庵が文紀へと視線を向ける。

「あなたは自分一人の道を生きている。けど、それだけじゃないはずだ。道は説くためのもの」

 文紀の言葉に、庵は目を見張る。

「あなたはきっと、その道で得たなにかをだれかに教えるために、非常勤でいいからと、教師になったんじゃないんですか」

 文紀の言葉を聞いて、深く、深く庵は考え込んでいるようだった。

 時折、視線がこちらをにらみ付けているかのように強く向けられる。

 その視線を受けながら、これ以上言葉を繰り返すのは脅迫じみているだろうと文紀は口をつぐみ、先程、庵に怒りを向けた礼香の様子をうかがっていた。

 礼香はイライラとした様子で、時折舌打ちすらしながら庵をにらみ付けている。

 この二人はなにか深い関係を持っている。それがどのようなものかはわからないが、もし部活の顧問を庵が受け持ってくれたのなら、そのわだかまりを解く機会があるはずだ。

 そう思いながら礼香の顔を見ていると、文紀の視線に礼香が気付いた。

 いらついた様子のまま、こちらを見てくる礼香の顔に文紀はただ苦笑を浮かべる。

 肩の力を抜けよ、と言外に伝えるための苦笑だったが、それはうまく伝わったらしい。

 ふん、と首を振って文紀や庵を視界の外に置き、礼香は椅子にふんぞり返る。

 文紀が視線を戻すと、その先で庵が文紀へと感心しているかのような目を向けていることに気付く。

 その視線の意味を問いかけようとした瞬間、庵は笑ってうなずき、こう言葉を漏らした。

「なるほど……礼香ちゃんの様子を見るに……悪くないねぇ、ほんと」

 帽子を手で押して目深に被り、庵は言葉を続ける。

「いいぜ、文紀。おめぇの依頼を受けてやる」

「依頼?」

 文紀の不思議そうな言葉に、庵は笑う。

「ハードボイルドって言ったら、やっぱ……探偵だろ? 探偵が頼まれるっていうなら、それは以来と相場が決まっている」

「あんたは教師でしょうが……!」

 思わず、といった様子で今まで沈黙を保っていた回帰倶楽部の面々も含めて文紀たちは突っ込んだ。

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