第三章 ここに居ない彼女(第三部)
コンコン。
ノックの音で目が覚めたニリウスは、扉を開けてごしごしと目をこすった。
うつむいて長い髪が顔を隠しているが間違いなく。
「クィーゼル……?」
呼びかけた声に反応して自分を見上げた幼なじみの顔には、いつもの様な気丈な表情は無かった。
(……泣きそうだ。)
ニリウスは、とっさにクィーゼルの方に手を伸ばした。
しかしその指はクィーゼルに触れる直前で止まる。
それはニリウスの躊躇いだった。
クィーゼルは、何も言わずにニリウスの服を掴む。
そして、その胸に顔をうずめると静かに泣き出した。
ニリウスは、やり場のない手をクィーゼルの頭に添えた。
「何か……思い出したのか?」
ニリウスの問いに、クィーゼルは何も返さない。
ニリウスはため息をついて、クィーゼルの髪を撫でながら「見なかった事にしてやるよ。」と穏やかに言った。
クィーゼルが泣き止むまで待って、ニリウスは口を開いた。
「散歩なら付き合うぞ。寝るのが怖ぇなら、落ち着くまで傍にいるから。」
そんな資格、ありはしないけれど。
きっと自分には、誰の傍にもいる資格は無い。
二人はそのまま、邸内のある場所へと向かった。
朝居た場所へと。
クィーゼルは肖像画の下に座り込んで、雨をじっと見ていた。
「会いたいんだ、あたし……あいつに。」
泣きつかれたのか、クィーゼルの声には力が無かった。
「もしも……まだあいつがここに居たら……あたしはやっぱり、あいつの笑った顔を見ては怒鳴ってたのかな。」
“あいつ”はいつも笑っていた。
それを見てクィーゼルが『へらへら笑うな』と呆れ顔で言う。
それはかつての“いつもの事”だった。
「剣も……もっと強くなってただろうな。」
「力勝負では絶対お前が勝つのに、剣ではてんで敵わなかったからな。」
ニリウスは、肖像画の横の壁にもたれて、どこを見るでもなく俯いていた。
「それはニリも一緒だろ。」
――――ケガしてない? クィーゼル。
剣の稽古の最中、後ろに飛ばされて植え込みに突っ込んだクィーゼルに駆け寄って、心配そうに尋ねたあいつ。
汗一つかいていない様子から、本気で相手をしていなかった事が分かった。
それを見て、クィーゼルが更に吠える。
「あたしまだ……許せないんだ。あいつがいなくなったの……。」
“もしも”
それはありえないこと。
こうなればよかった、ああなればよかった。それとも自分が、そうすればよかったのか。
考えるだけ無駄な、愚かな事。現実が変わるわけでもないのに、人は仮説を立てたがる。
一瞬の幻を求めてしまうほどに、人は弱い。
―――二人とも! こっちにおいでよ、風が気持ちいいよ!
朝も昼も夜も。
春も夏も秋も冬も。
三人で緩やかな時を今までも、これからも。
彼女が夢を語るひと時も。
彼女が誰かと永遠を誓う瞬間も。
彼女が幸せを手に入れる光景さえ、自分と幼なじみは見ることができたはず。
言って欲しかった言葉。言ってやりたかった言葉。行き場をなくした気持ち。
大昔に封印したはずのそういったものが一気に蘇って、ニリウスは溢れそうになる涙を唇を引き結んで必死にこらえた。