第二章 揺らぎの朝(第一部)
僕は信じてるよ。
君たちなら乗り越えられる。
どんな苦しみだって、どんな過去だって。
☆
朝日が差し込むベッドの上に、紅の髪が広がっていた。
左手はベッドで眠る皇子の手を握ったまま、つっぷしたようにその左手に頭を乗せて眠っている人物。
(この人らしくもない。)
だが無理もないだろう。普段身の回りの世話をする侍女も連れずに皇宮の外に出てからの二日間が、あれだったのだから。
そんな事を考えながら、淡い金の髪の少女は向かいの部屋から取ってきた薄い毛布を、赤い髪の少女の肩にかけた。
視線を皇子に移すと、少女はその枕元に近づく。
「貴方は……勝手すぎる。一人で何もかも背負いこんで……。」
はっきり理由を聞いていない。
初めて会ったときに剣を抜いたわけも、無茶をしたわけも。
人身売買の組織の館で自分を見つけてくれた時だって。
頬に手を触れられたとき、いっそ怒りをぶつけてくれた方が楽だった。
「それに、あの部屋に私を残して一人で戦いに行くつもりだったのなら、何故……。」
(何故……抱きしめた……?)
離れていく距離が、数倍のものに感じられて。
残されるものの。
「辛さが、増すだけだ……。」
その時、少女の声が聞こえたのか皇子の瞼が薄く開かれた。
しかし、依然として意識は深いところに眠っているようだった。
「スウィング……?」
ぼんやりとした青の瞳が、金の髪の少女を映す。
その瞳に垣間見えた、安堵の色。
「……そこに、居たんだ……。」
それは夢うつつの不確かさで。
けれど、とても愛しげな囁きで。
ゆっくりと瞳が閉じられる。
「……エルレア……。」
胸の辺りを、皇子の声が通り抜けた気がした。
今呼ばれたのは、果たして本当に自分なのだろうか。
(違う……。)
スウィングは今、自分ではない誰かの名前を呼んだ。
それは、確信に近づきつつある恐怖。
「……エルレア・ド・グリーシュ……。」
少女は、自分のものであるはずの名を繰り返した。
『エルレア・ド・グリーシュを、知っているか?』
「知らない。」
少女は、繊細な模様が描かれている壁に力なく体を預けた。
憂いの表情が、少女の顔をかすめる。
(分かってはいたんだ。)
けれど、それを口に出すのがこんなにも苦しいとは。
「私は、エルレア・ド・グリーシュでは、ない……。」
(では、私は誰なのだろうか?)
☆
オパール邸の奥の回廊で、クィーゼルは一枚の絵画を見上げていた。
そこに焦った様子で駆けてくる少年。
「やっぱりここに居たのか、クィーゼル!」
「……ああ。」
「もうすぐ昼食だってのに、嬢さんがどこ探してもいねえんだ!」
切羽詰ったニリウスの言動など気にも留めていない様子で、クィーゼルは受け答えする。
「お嬢なら、本邸に行くって言って朝早くに出てったぜ。」
「本邸?」
「何か、調べたいことがあるんだってさ。でも皇子の様子が気になるから、今日中にはこっちに帰ってくるらしい。」
「なんだ、そうか、いや~、びっくりしたぜ~。」
袖で汗を拭うニリウスは、クィーゼルが見つめている絵画を見た。
後ろから差し込む光の中を、鳥の影が横切っていった。
二人、何も言わずに。
共に遠い日を想うように。
「なぁ、ニリ……あたし、今でも思うんだ。“なんであいつが”って。」
「……。」
「バカだよな……会いたくてたまらないんだ。」
クィーゼルの横顔は、哀しみとも寂しさともつかない感情を宿している。
(昔とは大違いだ。)
いつの間に幼なじみは、こんなに大人びた顔をするようになったのだろう。
あいつと居た頃は、刃物のように鋭い瞳をしていたのに。
(あいつと居た頃は……。)
ニリウスは目を閉じて、通り過ぎた時間に思いを馳せた。