第五章 自分が自分であるために(第一部)
誰にだって、逃げたい時はやっぱりあって。
でも、戦わなきゃいけない時もあって。
逃げてもいい時と逃げてはいけない時の見極め方があるとするなら、それは———。
☆☆☆
(私は、ニセモノ)
「お嬢!?」
よろめいた金髪の少女の身体をクィーゼルが支えた。
「大丈夫!?」
スウィングの言葉に、少女はクィーゼルの腕に支えられたまま答える。
「平気だ……。スウィング、貴方をがっかりさせたな、私は……」
自分はスウィングの探していた少女ではなかったのだから。
『エルレア』と呼ばれることが、今は辛い。
その名に込められた心を。
その圧倒的な存在感を知ってしまったから。
「え……あ、でも、一方的に僕が君かもしれないと思い込んだだけだし、もしかしたらグリーシュの遠縁にあたる人かもしれないから」
遠縁にあたる人。
(遠縁……!?)
『この家系図を見て、おかしな所に気付いた……?』
その時は気付かなかった。
考えてみれば、あまりにも不自然な事。
何千年の歴史があるグリーシュ家には、普通の家にあるはずのものが欠けていた。
「貴方の会った“エルレア・ド・グリーシュ”は、グリーシュの遠縁ではない……」
何故なら。
「グリーシュに、親族は存在しない」
本家本元の一家———コーゼス、ハーモニア、セレン、そして養女の自分だけが、現在“グリーシュ”の姓を名乗っている。
一般的に、由緒ある一族であれば、数十の家で構成されててもおかしくないはず。
受け継がれる旧リグネイ帝国皇室の系譜。
幾千年の歴史を持ちながら、広大な領地を持ちながら、その血を継ぐ家は常に一つ。
『全ては、天が私達一族に下された罰』
それが、罰?
そうでないとしても、親族がいないという事は“エルレア・ド・グリーシュ”は確かにここに居たことになる。
この、グリーシュの本家に。
ならば彼女は今は一体どこに居るのだろう。
どうして私が、“エルレア・ド・グリーシュ”の名で。
緑の瞳の少女は、自分の指が震えている事に気付いた。
(これは……恐怖?)
恐れているのか? “エルレア・ド・グリーシュ”を。
その痕跡を追うに従って、明らかになっていくその輪郭を。
自分には到底かなわない、そう確信してしまいそうで。
消されてしまいそうで。
(怖い)
「私は……本邸に戻る」
以前の名は、とうの昔に忘れてしまった。
(“エルレア・ド・グリーシュ”の名を失えば、私には何も残らない)
セレンも養父母もクィーゼルもニリウスもスウィングもシャルローナも、“エルレア”としての自分が知りえた人間だ。
奪われたくない名前。
知りたいと思ったのは間違い?
目を閉じて、耳を塞いで、手を伸ばすのをやめればいい。
何も失わずに済む方法。
本邸に戻って、何事もなかったかのように過ごそう。
———終わらせよう。
「旅の無事を祈っている、“殿下”」
殿下。
その呼び方に、スウィングが目を見開く。
「待って、エルレア!!」
逃げるように去る背中に、スウィングの声が届いた。
だが、少女は振り返らなかった。
雨の音だけが、静寂を埋めた。