月乃の日常1
何の変哲もない一日が終わろうとしている。
「ただいま」
「お帰りなさい、月乃。……これ、恭ちゃんから預かってるわよー」
そう言って取り出す、一枚の紙。
「今回は早いね」
「恭ちゃん、ほら、人狼さん達のお手伝いしてるから」
「それで回してくれたんだ」
「そうなの。少し遠いんだけど、送る?」
紙を受け取って目を通し、肩を竦める。
「電車で1駅だから大丈夫だよ。それにまだ結構残ってるから」
「そう? ……何かあったら連絡頂戴ね」
「はい。さく姉は? 今日は家にいるって朝言ってた気がするけれど」
「一弥君から連絡があって、駅前で張り込みするって言って出かけたけれど」
「………さく姉、何をたくらんでるんだろう」
「多分、ただの口実で信司君とデートでもしてるんじゃないかしら?」
「お母さん、今日は平日……」
「あら。それなら信司君はまだ銀行ね」
「うん、流石に仕事サボってまでさく姉と会ったりしないと思うから。それじゃ、着替えて行って来ます」
「ええ、気を付けてね」
穏やかに微笑む母に頷いて、部屋へと向かう。日没までにはまだ時間があるがのんびりしていて帰宅が遅れるのは良くないだろう、ただでさえ問題が起きているのだから。
―――工事現場の除霊、か。SSランクの退魔師に回ってくる仕事とは思えないんだけど、自分の管理地だから仕方ないのかな…?
内心呟いて月乃は溜息を1つ吐き出すと、着替えるために母親から渡された用紙を机の上に置いた。
押入れを開いて腰を降ろすと、下段に入れてある箪笥の引出しを開いて洋服を取り出し、学校指定の制服を脱いで着替える。
制服が皺にならないようハンガーにかけてから、背伸びを1つ。
「さて、食事に行きますか」
++++++++++
てくてく、と。
アパートを出て、駅へと向かって歩く。
言う必要もないが、月乃は小さい。
12才、中学1年生、というのが月乃の身分だが、ハタ目には、小学校低学年にしか見えない。
父親―――正確には父の母、つまり祖母の幼い頃によく似ているらしいのだが、遺伝子の不思議の技か、童顔なのは母親譲りだ。それに合わせるように、足りなさ過ぎる身長も。それらのせいで、非常に幼く見られる。
だからと言って不満があるかと言われれば、答えはノーだ。
元より、見た目など、気にしていない。
他人からどう見られようと、その本質を自分が理解していればそれで十分な話だ。
それに月乃は真面目に興味がなかった。
自分の外見にも、他人の外見にも。
同じなど、ありえないのだから。
とはいえ、10才の誕生日を迎えた直後に幼稚園児と間違えられたのには、流石にむっとしたが。
てくてくてくてく、と。
躰のバランス的に足は短くないのだが、元々の身長のせいでコンパスはかなり短い。
本人は普通に歩いているつもりでも、それを表す擬音はてくてく以外存在しなのだ。
「……………ベアキャット。今日は電車に乗るんだけど?」
塀の上を付いてくるように歩いていた黒猫に向き直って、月乃は立ち止まった。
にゃぁ、と泣き声が返る。
言葉が理解出来るのか、同じようにして、金の双眸がじっと月乃を見下ろしていた。
「どこで知ったの? 確かに、方角は同じだけど、付いて来る気満々だね………。仕方ない、寄り道しようか」
苦笑しての科白に、にゃぁ、と満足げな声を返して、黒猫――ベアキャットは月乃の足元に降り立つ。
「お花買って行かないとね」
呟いて歩き出した月乃に、ベアキャットが続いた。
月乃とベアキャットは飼い主と飼い猫ではない。
強いて言うなら――人と猫だが――友人、だ。
2人の出会いは、1年と半年ほど前―――――小学6年生の春まで遡る。
ある意味で、2人にとって受け入れがたい現実が、2人を引き合わせた。
その後紆余曲折を経て、半年ほど前に再会してからは、半分、乃木家の飼い猫のようになっている。
半分というのは、基本的に野良猫と変わらないのに、月乃にやたら懐いていて一緒にいる姿を多々目撃されているからだ。
それは近寄り難い雰囲気を異常にかもし出しているのすら若干緩和するほど。
三叉路を駅とは逆方向へと曲がり、月乃は自然と天を仰ぐ。
「あの日も、こんな空だったね」
一般人からすれば快晴であろうそれも、月乃の目にはそう映らない。
ただでさえ青く重苦しいと感じる空は――心地よい青空、というのが普通の答えだろうが――、今、薄い緑の幕が覆っていて、嫌な感情しか込み上げてこないのだ。
問題が起きたためその対策として、父、恭一が己の管轄地に張り巡らした“出さない”ための結界。
そんなモノが見えなかったとしたら受ける印象は違ったのだろうかと自嘲するように口元を歪める。
否。
答えは否だ。
私が私である時点で有り得ない話なのだから。
「にゃぁ」
気付かぬうちに足が止まっていたようで、ベアキャットの声に我に返ると、
「ごめん。他の事考えてた」
足元に向かって小さく謝罪して再び歩き始める。
誰もが同じようにやってくる終わりの時は本来誰にも選ぶ事などできず、その人生でさえままならず、全てを自身の手で選び取れる者など極少数、ほんの一握りのだけだ。
その一握りに該当している身を喜ぶべきか哀しむべきか、月乃は自嘲する。
事情を知る者は、半分は畏怖の念を持ち、もう半分は同情的になった。知らない者も、見たままの現状を憂い同情的になる。
月乃自身にとっては、己が身を悲観する理由など1つもないのだが、周りはそうは思わない。だが2人を巡り合せた存在は、月乃が初めて出会う何も知らないのに同情しない人間だった。
基本的に他人に対して同じように丁寧で親しみやすい態度を取る月乃の姿は、幼いながらにも相手に伝わるのか、月乃自身に深く踏み込ませない部分があるからなのか、恐らく両方だろうが、特定の友人はいない。
控え目で、丁寧で、大人しい、薄幸の美少女。
それが他人が月乃に張ったレッテルである。尤も、本人的には、他人に興味がなく余計な労を負いたくないから口を開かないだけなのだが。
そんな月乃にとって、親友と呼べる唯一の存在が、藤井真由だった。
級友という関係だけなら小学3年生の時からだそうだが、特に親しくなったのは4年生になってからだ。
きっかけは、物凄く単純で、余りにも馬鹿馬鹿しいものだった。
真由が自宅で木登り――これもどうかと思うのだが――をしていて足を滑らせて落ち、腕を骨折したせいで体育の授業が見学になった。月乃は元々体育の授業など受ける元気はないから万年見学組だが、その日は体調もよかったから保健室ではなく、真面目に見学していた。
その時に、暇を持て余した真由が、話かけたのがきっかけ。
真由が普通の、年相応の、女の子だったら、多分、2人は親しくはならなかった。
ただ、彼女は、普通ではなかった。
だからと言って、非人間だったという訳ではない。ただちょっと、いや、かなり変わっていただけだ。
「乃木さんって、鋭利な刃物みたいに綺麗だよね」
開口一番にそんな事を言う、小学4年生がいる訳がない。例えが可笑しいし、親しい間柄でもないのに、失礼だ。
「洗練されてるって言うのかなー。こう、名刀みたいな」
可愛いとか小さいとか見た目だけを表した褒め言葉は月乃にしては割と聞きなれた単語なのだが、刀に例えられたのは流石に初めての経験だった。
内心かなり驚いてはいたが、顔にはほとんど表情の出ない月乃はそれでも、愉しそうに笑う真由を見つめ返してしまった。
「私、猫飼ってるんだけど」
次に出た科白が、それだ。
どこをどうやるとその前の科白と繋がるのか、月乃は思わず目を瞬いて。
「黒猫でね、名前はベアキャット。戦闘機から取ったんだけど。あ、お父さんが、そういうの好きでね、その影響で私も好きなの」
1人勝手にしゃべる真由。
十分、変わっていると言えるが、辛うじて、一般人の枠に入るかもしれない。
ここまでなら。
「それでね、そのベアキャットが、これまた頭のいいコでね~。あのコは人間の言ってる事がわかると思うのね」
変な電波に脳がやられているのかもしれなかった。
月乃はこの時になって初めて、距離を置くべき相手なのかどうか本気で思案した。
電波云々の話ではなく、本当に動物の言葉がわかるのだとしたら、確実にそっち業界の人間だからだ。
内心で警戒警報を鳴らしていた月乃に向かって、真由はくったくない笑みを浮かべ、
「あ、私はベアキャットが何言ってるかわかんないんだけど、もしわかったら、馬鹿な事言ってんなっとか言われてるかもしれないな~。通じなくて良かったぁ。でもね、ベアキャットも、乃木さんみたいに、すっごく綺麗なんだよ。私の自慢なのっ」
そう暢気に告げたのである、月乃が脱力したのは仕方ないのかもしれない。
その後は、延々ベアキャットの話を真由が――相手が人間だったら完全な惚気としか取れない内容で――続けて、体育の見学時間は終了し、2人の間には奇妙な友情が芽生えていた。
正確には、月乃の中に、藤井真由という人間に対しての興味が。
月乃は誰に対しても平等に丁寧な態度、真由は誰が相手でも全く物怖じしない態度、ある意味では2人は似ていたからかもしれない。親友と呼べる仲になるのに、そう時間はかからなかった。
それでも。
その関係には、終わりが用意されていた。本当に、突然に。
1年と半年、正確には1年5ヶ月前に、2人は言葉を交わせない関係になった。
真由が、交通事故でこの世を去ったからだ。
また明日、そう言って別れた後で、また変わらない明日が来ると疑わない子供に、振って沸いた別れだった。
人前ではなかったが、月乃は、生まれて初めて他人のために泣いた。
そして、その葬儀会場で、2人(?)は出会う。
他の級友と供に、式に出席するために来ていた月乃と。
懐いていた飼い主との別れを惜しむように、それでも人前に出る事はなく、物陰からこっそりと式を眺めていたベアキャットと。
何も聞いてなければ、そのままだっただろう。
それでも、淋しそうに遠巻きに式を眺めていたベアキャットに気付いた月乃は、自分から話かけた。
ベアキャット、真由の傍にいかないの? と。
驚いたのはベアキャットの方だった。自分に話かける人間が真由以外にいるとは思わなかった。勿論、真由の家族――藤井家の人間はペットなのだから声くらいはかけたのだが。
人間だったら呆けた顔になっていただろう、ベアキャットは、自分に話し掛けた姿をぼんやりと眺めた。
真由ってばこんな最後なのに、何も残ってないくらい幸せだったみたいだから。
そう続いた科白にベアキャットの呆けていた脳が警笛を鳴らし、全身の毛が逆立った訳でもないのに勘付いた月乃が苦笑した。
ごめん、自己紹介がまだだった。初めまして、ベアキャット。私は月乃、乃木月乃。あなたの話は真由から聞いていたの。
月乃、というのは真由からよく聞いていた名前だったから警戒を解くにはそれだけで十分だったのだが、乃木という姓でベアキャットは相手を理解した。
真由の友人なら声をかけることもあるだろう、例え何を言っているかわからなくても。だが乃木の人間であれば言葉が通じたり気配を察したりしても可笑しくはないのだ。
黒く列を作る訪問客からは姿が見えないよう隠れていたのに気付かれたのも仕方ないのだと納得した。
それで、傍にいかないの?
もう一度なされた問い掛けにベアキャットは低く、にゃぁ、と鳴いた。
哀しげに、頭を僅かに垂れて。
ベアキャットは黒猫なのだ。
藤井家の人間には飼い猫として可愛がられていたが、今は他人が数多く出入りしている。そんな状況で不吉と言われてる黒猫の自分が、傍にいける筈がないのだ。
弔問客をただ、ここから眺めるしか出来ないのだと。
それならベアキャット、私もあなたと一緒にここから見送る事にするね。
そんな事を言って隣に並んだ月乃に、どれだけ驚いただろうか。今となってはベアキャットにもその行動は理解できるのだが、当時は不思議で仕方なかった。
たかが猫にあわせるなど、有り得ない。例え乃木の人間だったとしてもだ。
私にとって1番の親友だったから、同じく1番だったあなたと見送った方が真由も喜ぶと思うから。
そう告げた月乃は、普段余り笑わないんだと真由から聞いていたのに哀しげな笑みを浮かべていた。
あれから約一年と半年。
時の流れはとてもゆっくりなようで実は早い。
たまたまタイミングが重なっただけなのだとわかっていても、それは最高の出会いと最悪の別れを暗示させる空なのだといつか話していた。
その際たるものは、唯一の親友を失った事だ。ベアキャットも同様に。
「この空は、哀しい事を思い出させるね」
溜息がちに呟やかれた声に、にゃぁ、と同意するような声が続いた。