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第六章

 公演前の最後の稽古が終わって調整室に戻ってきたジュリエットは少し表情を曇らせた。

「丸山様。足首の痛みが徐々にひどくなってきていますの。明日から三日間、大丈夫かしら?」

 おとといの右足首の違和感がはっきりとした痛みに変わってきていた。丸山は調整用のベッドに乗るように彼女に指示すると簡易測定器を持って足首を調べ始めた。

「うーん、炎症が進んでいるようには見えないが……。ちょっと触るね。これは痛い?」

 少し足を動かして様子を見た。

「いえ、そんなには」

「じゃあ、こっちは?」

 別の角度に足を動かす。

「あっ! そちらは少し痛いですわ」

 丸山は手を離して、簡易測定器の波形をチェックした。しばらく、画面をにらんでから顔を曇らせた。

「精密検査しないとはっきりと言えないけど、腱の内側で炎症が進んでいるようだね。困ったな。薬も利いてたし、冷却循環で十分だと思ったが、意外に重症だったな」

 丸山は自分の診断ミスに苦い顔をした。彼の名誉のためにいうと、内部の炎症はわかりづらく、現在もそのあたりの改良と診断方法が研究されているが、決定打は出ていない。この炎症は人工筋肉を使ったマリオネットの宿命であった。

「どうにかなりません?」

「変性反応が出ていないからまだ大丈夫だろうけど、三日六公演は正直、このままでは無理だな」

「そんな……」

 ここで腱の交換をしていたら、交換自体は公演に間に合うだろうが、ぶっつけ本番になる。しかも、ダンスのある舞踏会のシーンは序盤である。経験豊かなジュリエットでもかなり不安であった。

 結局、二人で考えていても仕方ないと演出の細川と舞台監督の石山、プロデューサーの小島を呼ぶことにした。

「きみぃ! 困るんだよ、そんなことでは! 整備は君の仕事だろう!」

 事情を聞いた小太りの男、プロデューサーの小島はマリオネット技師の丸山を茹でダコになりながらののしった。それも仕方ないことで、公演直前に主役の怪我など悪夢以外のなんでもない。

「まあ、小島さん。怒っても仕方ないことですよ。マリオネット演劇ではよくあることです」

 舞台監督の石山は山男のような大きくがっちりとした身体で、見た目どおりどっしりと落ち着いてプロデューサーをなだめた。

「すいません。僕が甘く見たばっかりに」

「それはもう済んだことだ。それに難しい判断だっただろうからね。で、私は技術的なことは専門外なので確認したいが、交換するとして問題点は?」

 細川が石山がプロデューサを抑えている間に話を進めた。

「交換自体は今晩徹夜ですれば、調整も含めて明日の昼公演には間に合います。ですが……」

「慣らしはできないからぶっつけ本番か」

 細川もさすがに不安な表情を覗かせた。普通の機体ならまだしも、扱いづらい“ジュリエット”をぶっつけ本番は乗りたくない賭けであった。

「それと明日の朝は『おはよう目覚ましズームイン』に出演して、宣伝の予定だからな」

 石山は更に渋い顔をした。

「そうだった。チケットは?」

「昨日のムラシン騒ぎがあって結構売れたが、当日券でもう少し稼ぎたいな」

 ムラシンがロミオ役かもしれないというワイドショーのニュースで問い合わせが殺到して、前売りの駆け込みがかなりあってほぼ完売した。だが、追加公演を狙いたいのが小島プロデューサーの思惑であった。

「当然だ。何のためにキミに演出を頼んで、超一流の高いマリオネットを用意したと思っているんだ」

 小島が再びわめきだした。正直に言うと、彼の企画した三日昼夜公演で稲川記念劇場大ホールは箱が大きすぎたのであった。値段的にも高いチケットであったので、前売り完売で十分成功だったが、売れればもっと儲けたいのは人情であった。細川としても追加公演は認められたという象徴でもあり、金銭はともかく興味はあった。

「丸山。交換以外に手はないのか?」

「強めの炎症を抑える薬剤を循環させれば、なんとか最終公演まで持ちこたえるかもしれませんが、正直、自信はありません。公演が四、五回なら大丈夫なんですが」

 丸山は自分の技術を全てつぎ込んでも、それが限界とうなだれた。

「ふむ……非常用のドーピングがあっただろう? 最終公演はそれを打てば何とかなるんじゃないか?」

 石山が何度か使った最終手段を思い出した。丸山もその薬は知ってはいたが、問題が多いことも知っていた。

「ええ、でも、あれは限界を超えないと使えないんです。炎症が限界まで達して、リミットがかかって腱がフリーの状態――つまり、ブランブランになってからでないと効果がありません。もともと、あの薬はリミットを越えて無理をさせる薬なので」

「つまりは、舞台の上でこけてから袖に運び込んで、ドーピングしてから舞台に復帰して芝居を続けるってことになると」

 細川はそのシーンを想像して苦笑した。

「はい。そうなります」

「そうだったな。前のときも先に負荷をかけてわざと限界にして舞台裏で使ったんだった」

 石山も今更ながらそのことを思い出して渋い顔をした。

「だが、仕方ない。今回もそれで行きましょうか」

「ただ、非常用のドーピングをした場合、おそらく脚一本分の人工筋肉はダメになります。そういう薬なんで」

 丸山は更にもう一つある問題点を示した。その副作用も知っている細川と石山は驚きもせずうなずいた。

「それも仕方ない。脚の一本ぐらいくれてやろう」

 人工筋肉は決して安くないが、ジュリエットの細い足ならそれほどでもないとタカをくくった。

「仕方ないものか! ジュリエットに使われている人工筋肉がいくらするか知っているのか! 脚一本? 興行を赤字にするつもりか!」

 小島は茹で上がり完了のタコのように顔を真っ赤にした。その発言に細川と石山が顔を見合わせて、丸山の方を見た。

「“ジュリエット”の人工筋肉は、ラゾルシーム社のゴルバティCS228です。ジュリエットが本気で蹴れば人間を簡単に肉団子に変えれますよ。まあ、安全装置はかけてありますけど」

 品質と性能と高価格のラゾルシーム社。その中で最高級のゴルバティCSシリーズといえば、マリオネット一体分の人工筋肉で豪邸が建てられるほど高価であった。

「どこのどいつだ……こんな酔狂なもの作ったのは……」

 細川は頭を抱えたくなった。演劇用のマリオネットにはオーバースペックもいいところである。

「とりあえず、そういうことなら腱の交換が一番だな」

 石山は不安を感じつつ苦渋の選択をした。しかし、細川がそれに異を唱えた。

「いや、交換しないでいこう」

「細川!」

「石山。舞台のクオリティーを考えるなら交換はなしだ。――ジュリエット。君の意見を聞かせてほしい。交換して慣らしをしないで舞台を踏めるか?」

 蚊帳の外に放り出されていたジュリエットは突然、細川に呼ばれて、しばらく返事に戸惑ったが答えは決まっていた。

「踏めというのであれば――でも、正直な私の意見を言わせて貰うのなら、自信はありませんわ」

「決定だな。責任は俺が持つ。危ない橋を渡ってくれ」

 細川はにっこりと微笑むと石山の肩を叩いた。

「まったく、お前というやつは。ジュリエットの万が一に備えてフォローできる体制を整えておくよ」

 石山は苦笑を浮かべて、肩の手を軽く叩くと調整室を出て行った。

「ドーピングは認めんぞ! 絶対認めんからな!」

「善処します、小島プロデューサー」

「認めんからな!」

 小島はまだ興奮気味に怒鳴り声を上げたが、細川に促されて、調整室を出て行った。

「というわけで、丸山。大変だが、そういうわけだ。やってくれるな?」

 調整室を出る間際に細川は丸山に確認した。

「ありがとうございます。やってみます」

「頼んだぞ」

 細川がドアを閉めると嵐の後の静寂が調整室に訪れた。

「さあ、忙しくなったぞ」

 丸山は気合を入れて、調整装置に向かおうとしたが、ジュリエットに袖口をつかまれた。

「ジュリエット、悪いけど、ふざけている時間はないんだよ。少しは炎症を抑えるように処置しないと」

 丸山は苛立ちをあらわに眉をしかめて、眼鏡の位置を直した。

「それはわかっていますわ。でも、その焦りで慎重さを欠いては何もできないのではなくて?」

 彼女は苦笑交じりに装置横手のスリットを指差した。最初、丸山は何のことか意味がわからなかったが、すぐにその意味に気がついた。

「カードを抜いていたんだった。すっかり忘れていた」

 丸山は自分のポケットからカードを取り出してスリットに差し込んだ。

「素人のプロデューサーが来るからスイッチとかを触られないようにロックしておいたんだった。忘れてたよ。ありがとう、ジュリエット」

 マリオネットはデリケートであるため、調整室の機器を下手にいじられるとマリオネットを操縦している人間が非常に危険であるため、技師以外が機械を触れないようにブロックする仕組みがあり、ロック解除するためのカードキーが備え付けられていた。

「生体認証だけにしてくれると楽なのにな」

 ロックをはずすためにはカード以外に手の静脈による生体認証が必要であった。

「ふふ。たぶん、今の丸山様のように頭に血が昇らないようにカードも必要にしているんじゃないのかしら?」

「まったく、返す言葉がないよ。それじゃあ、整備に入るからリンクを切るよ」

 降参と手を上げて、ジュリエットを関根義孝に戻す作業に取り掛かった。


          *     *     *


 全国放送の朝のニュース番組『おはよう目覚ましズームイン』は安定した視聴率を誇る長寿番組であった。

 大仏のような顔をしたメイン司会に、怪しい蝶ネクタイのアナウンサー、たどたどしいお天気お姉さんが番組を進行し、道路に面した壁がガラス張りのサテライトスタジオでの生放送であった。さらに、エレクトーンの生演奏によるBGM。何故かウサギのマスコットがスタジオをうろつくなど、ニュースよりもワイドショー的な要素が強い番組である。

「今日はお客様に来ていただきました。演出家の細川忠則さんと出演のマリオネットの皆さんです」

 司会者に紹介されて細川とともにロミオとジュリエットがスタジオに姿を現した。眩しい照明と複数のカメラが彼女らを追った。

 ジュリエットは右の足首に負担をかけないように金属フレームで固定された状態だったが、話すだけならば別に問題はないし、ドレスで足元は見えない。澄ました表情でロミオの傍らに寄り添っていた。

「細川さんは今回、今日から公演となる稲川記念劇場大ホールでマリオネット演劇『ロミオとジュリエット』の演出をされるらしいですね」

「ええ、こんな大きなホールの舞台で演出を任されるのは緊張しますね」

「手ごたえの方はいかがです? 『ロミオとジュリエット』といえば、昨年、和田智明氏が斬新な解釈で公演して話題となりましたが」

 司会者が番組を面白くしようと、少し挑発的な態度であった。しかし、それを軽く余裕の笑みで細川は受け流した。

「そうですね。私は彼のように独創力が欠けますから、オーソドックスなものですよ」

「また、そんなご謙遜を。それでは、主役のマリオネットさんたちにも一言いただきましょうか。今回の舞台の意気込みをお聞かせ願いますか、ロミオさん?」

 朝の生番組で時間が限られていることもあり、司会者はあっさりと別の話題に移した。

「皆さんよくご存知のスタンダードなお話ですから、少しでも期待に添えないと非難されそうで内心びくびくしています。ですが、そこにいらっしゃいます細川さんにみっちりとしごかれましたので、きっとお客様に満足いただけるものと思います。どうか、皆様、お誘い合せの上ご来場ください。お待ちしております」

 ロミオはそつのない返事を返してにっこりと微笑んだ。色男は口ではなく微笑だけで話ができるよい例だろう。

「では、ジュリエットさん。素敵なロミオ様ですが、思わず惚れちゃうことはありませんでした? 本物のジュリエットのように」

 アシスタント役の女子アナウンサーのずれた質問にジュリエットはしばらく真面目な顔で考え込んだ。そして、おもむろに答えた。

「ええ、それはもう何度も」微笑をこぼし、「なにしろ、毎日恋に落ちて、愛に死んでおりますもの。もう、すっかり慣れっこですわ。それに、私よりもロミオ様の方が私にメロメロですもの」

 いたずらっぽく笑顔を向けると蝶ネクタイのアナウンサーは顔をだらしなく伸ばしていた。

「そ、そうですか。それは失礼しました。えーと、時間がまだあるということなので、せっかくですから、ロミオとジュリエットのダンスをお願いできますか?」

 司会者のお願いに一瞬、三人の表情がこわばりかけたが、何とかそれをこらえて笑顔を保った。

 ダンスをするなど、打ち合わせにはなかったことである。もし、打ち合わせでお願いされていれば、間違いなく断っていた。本心はこの時間も“ジュリエット”を整備しておきたいぐらいであったぐらいであった。

 当然、ダンスなどできるわけがないと、細川は丁重にもっともらしい理由をつけて断ろうとしたが、その前にジュリエットが割り込んだ。

「よろしくってよ。でも、何を踊れば? チャチャ? サンバ? タンゴ? サルサ? まさか、ランバダ? できれば、ワルツをお願いしたいわ」

「ええ、もちろん。ワルツをお願いします。それでは時間もありませんし、早速お願いします」

 司会者の言葉にスタジオの中央がステージに変わる。その手際に、どうやら、ゲストである彼らが番組側にはめられていたことを再認識したが、今はそんなことを行っている場合ではなかった。

 ロミオは作られたスペースを見ながら、ダンスには少々狭いがステップさえ工夫すれば何とかなりそうだと判断した。しかし、ロミオにはそれよりももっと重大な懸念があった。

「いったいどういうつもりだい、ジュリエット」

 マリオネット同士にしか聞こえない通信でロミオはジュリエットの無謀を責めた。

「あら? 私をフォローしてくれるのでしょう? ぶっつけ本番よりも練習した方がよろしいのではなくて?」

 ジュリエットはロミオの手を握り、肩に手を置いた。ロミオもジュリエットの腰に手を添える。社交ダンスのオーソドックスなポジションを取った。

「忘れているのかい? これも本番だよ」

 音楽が流れ始めた。ゆっくりしたテンポのワルツの調べに合わせてステップを踏む。といっても、ジュリエットは周りに気づかれないようにロミオの手と肩につかまって、ほんの少し身体を宙に浮かせている。マリオネットの力があって可能な荒技だった。

「これぐらいの緊張感があった方が身が入るでしょ? 大丈夫。ダメっぽかったら、うまくごまかすわ。いきなり予定にないことを言ってきたんですもの。少々、痛い目にあっても文句は言えないわよ」

 文字通り、宙を舞うように踊るジュリエット。二人分の体重を支えていながら軽快に淀みのないステップを踏むロミオ。猥雑なスタジオに社交界の美麗な空気が漂う。

「ジュリエット。君にかなうものがいるとすれば、それこそ史上最強だよ」

 余裕が出てきたのか、ロミオは軽くジュリエットをターンさせてみたり、リフトしてみせる。

「あら? 私なんて、ロミオ様の愛の前にはただの無力な小娘よ。私が強いとおっしゃるなら、それはロミオ様への愛がそうさせているのよ」

 ジュリエットが笑顔とともにロミオにウィンクすると、フロアディレクターが『ダンス終了。次のコーナーに』の指示を書いたスケッチブックが目に入った。

 二人は音楽の止まるタイミングを読んで決めのポーズをとって、ダンスを終えた。スタジオに拍手が沸き起こり、そのあとは女子アナウンサーが当日券のあることや問合せ先をお知らせして、テレビ出演は終了した。

「まったく、ひやひやさせる! 寿命が縮んだぞ」

 控え室で細川はジュリエットをしかりつけたが、どこかしら口調は柔らかかった。

 それというのも演出家の和田智明は彼のライバルで、このテレビ局主催の舞台を何度もプロデュースしている。おそらくは予定にないダンスはそのあたりからの圧力なのだろう。プロデューサーの小島もこの番組への出演は半ば強引に取ってきたらしいので、そのあたりも反感を買っていたのかもしれない。

 しかし、それもジュリエットの無謀なダンスのおかげで逆によい宣伝になったわけである。

「でも、これで練習ができましたし、いつ足が不調になってもばっちりですわ」

 ジュリエットもそのあたりの裏事情を心得ており、細川の叱責を柳に風で受け流して、しれっと返した。

「君には負けるよ」

 細川はジュリエットの肝っ玉に完敗の意思を示した。ロミオもそれに同意してウンウンとただ頷くだけであった。

「恋する乙女は強いのですもの」

 ジュリエットはにっこり微笑んでだらしない男性陣に勝利宣言をした。


          *     *     *


 関根は劇場の裏口から外に出た。今夜は満月で月明かりが公園の照明に負けないほど明るく影を落としていた。

 警備員に挨拶をして公園を抜けて駅に向かう。生身の舞台なら打ち上げがあるのだが、マリオネット劇はそれがない。有名無実となっていても、建前上は誰が演じているかは秘密なのである。

「それも慣れてるはずだけど、こんなときは打ち上げできないのが悔しいよな」

 初日の公演は大成功に終わった。テレビの宣伝効果があったのか、当日券も完売して満員御礼の祝儀袋が配られた。プロデューサーの小島は、この調子で千秋楽までいけば、全員にボーナスを出すとまで言い出して、昨夜のゆでタコがえびす顔に変わっていた。

 もちろん、成功したとはいえ、トラブルがなかったわけではない。照明装置の一つが故障したり、舞台で使う剣の中に資料用で取り寄せた本物の剣が混じっていたり、おそらく新人なのだろう召使役が台詞を飛ばしたり、出の順を間違えかけて楽屋が大騒ぎになったり……。裏方、役者ともども大騒ぎであった。

 しかし、舞台は大成功。観客の鳴り止まない拍手が今も耳にこびりついている。

 関根はカーテンコールでロミオの傍らで手を振るジュリエットを思い出して、思わず顔がほころんだ。

「関根さん、いい顔してるね」

 不意に声をかけられ、関根は驚いて声の主を探した。声の主はコンクリート壁の上に腰掛けて楽しそうに笑っていた。

「志穂さん……こんな時間まで仕事かい?」

 関根は志穂と気が付くまで、少し間があった。というのも、志穂は昼間会ったときとは少し雰囲気が少し違っていた。昼間はどこか冷めたようであったのに、今はどことなく高揚しているような溌剌さがあった。

「ええ、そう。ついさっきまでね。それはそうと、舞台成功おめでとう」

「ありがとう。でも、よく知っていたね」

「あんなにいい顔していたら、誰だってわかるわよ」

 彼女は塀の上から飛び降りて、ネコのようなしなやかさで地面に着地した。

「そんなににやけた顔してた?」

 関根は思わず自分の顔を触ってみたが、緩んでいるかどうかなどわかるはずもない。

「それはもう、すごくね。絶世の美女に会ったようだったわよ」

「まあ、舞台で満場の拍手を浴びるのは、絶世の美女に会うのに負けず劣らず素敵な体験だよ」

 この麻薬のような快感が忘れられず、マリオネット操者となって役者を続けている。不安定な生活だろうが、多少の貧乏だろうが辞めるつもりはなかった。

「そうかもね」

 そう言いつつ、何か含みのある彼女の瞳に関根は心を見透かされているような気がして落ち着かなくなった。

「そうさ。そりゃあ、まあ、舞台は美男美女のオンパレードだよ。それも楽しいけど、終わった後の観客席が輝いて見える時は格別だよ。君も興味があったらどこかの劇団を見学しに行ったらどうだい?」

 愚にもつかない、不要な、いい訳じみたことを口にして、関根は自分の墓穴掘りにうんざりした。

「ふふ、機会があればね。それじゃあ、呼び止めてごめんなさい。おやすみなさい」

 彼女はにっこりと微笑んでぺこりと頭を下げた。そして、彼に背を向けて大通りの方へと歩き出した。

「ああ、おやすみなさい」

 彼は狐につままれたような顔で彼女を見送った。すると彼女はしばらく歩いたところで突然振り返った。

「ああそうだ。テレビのダンス、とっても綺麗だったし、素敵だったわよ。あと二日、がんばってね」

 大声でそういいつつ手を振ると再び大通りの方へと軽い足取りで去っていった。

「ありがとう。がんばるよ」

 彼は彼女の背中に手を振って大声でお礼を言って、ゆっくりと手を下ろした。

「そうか……ロミオ様ともあと二日なんだな」

 関根は先ほどまでの高揚した気分が奇妙に醒めて、ため息を一つ吐き出すと大通りとは反対の駅の方へと歩き出した。


劇中劇の台詞は『シェイクスピア全集――ロミオとジュリエット』小田島雄志訳(白水uブックス)を引用しました。


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