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第五章

「よーし! 少し休憩だ。二十分後に再開する。休憩が終わって同じ演技をしているやつはマリオネットの殻を剥いでやるから覚悟しておけ!」

 客席にいた演出家の細川が立ち上がると稽古は一時中断された。それと同時に安堵と緊張が舞台に走った。ダメ出しされている操者は休憩を返上して練習しておけなければ冗談抜きで細川ならマリオネットの殻――操者本体の収まった黒い筐体をこじ開けかねなかった。

 殻をこじ開けられると、操者本体に加わる強烈な外部からの刺激とマリオネットからのフィードバックで脳がパニックを起こす。へたすると精神障害が残るケースもある。マリオネット操者にとってこれほど恐ろしいことはない。

「それから、ジュリエット! 控え室まで来い」

 細川の追加の一声で、舞台にあった安堵の空気も緊張に変わった。

 誰が見ても完璧と思えたジュリエットが細川に呼ばれたということは、ダメ出しされなかった他の操者も合格点ではないということになる。余裕だった操者たちもあわてて台本や動きなどをチェックし始めた。

「何の用かしらねぇ? あたしの処女に誓って、ジュリエットの演技に問題なんてあるとは思えないけど」

 ジュリエットの傍にいた年老いた“乳母”が冷却用の循環体液を補給しながら首をかしげた。

「演技に問題がないなんて神様が口にしても不遜だわ。違うくて? 役者はその気になれば神様だって演じられるのですもの」

 ジュリエットは不安を隠しつつ冗談を口にして優雅に立ち上がって、一礼してから舞台を後にした。

 控え室は舞台の裏手から廊下を通って、階段を上がったところにある演出家や舞台監督が事務仕事をするための部屋であった。

 廊下は大道具や小道具、照明と音響のスタッフがあわただしく行き来している。操者は休憩でも裏方は仕事である。すれ違うスタッフに会釈しながらジュリエットは控え室に向かった。

 階段を上がると、踊り場のような短い廊下になっていた。そこに倉庫の入り口のような洒落っ気のかけらもないペンキを塗っただけの鉄製の扉が一枚。扉には『控え室』と書かれた紙がガムテープで適当に張っていた。

 ジュリエットは呼吸を整え、扉をノックした。中から応答があり、ゆっくりと扉を開いた。

「ジュリエットです。失礼いたします」

 控え室は十畳ほどの大きさがあり、さほど広くは無かった。両サイドの壁はコンクリート打ちっ放しで、奥の壁には大きな窓が作られていた。その窓から舞台裏が見下ろせるようになっているので、喧騒が窓越しに聞こえてきている。

 調度品と呼べるのは事務机が一つ、会議室用の長細い机が二つ、その周りにパイプ椅子が乱雑に並んでいる程度であった。壁際には書類やファイルを押し込んだと思われるダンボールがいくつか並べられていた。

 まったく無秩序で整理されていないわけではないが、全体的に野戦指令所を思わせる、どこかあわただしい雰囲気をかもし出していた。

 ジュリエットを呼び出した細川は事務机に浅く腰をかけ、機嫌が悪そうなオーラを隠しもしないで周囲の空間に振りまいていた。しかし、ジュリエットはそれに怯むことなく気品を保って微笑んだ。

「細川さん。何か私に御用でございますか?」

 細川は不機嫌な顔を崩さずに、黙ったままジュリエットを睨み続けた。ジュリエットも微笑みは絶やさずに見つめ返していた。

 沈黙のまま時は過ぎたが、休憩時間は無限にあるわけではない。やがて、細川が大きなため息とともに視線を外した。

「俺の言いたいことがわかるか? ジュリエット」

「申し訳ありません。私はジュリエットですもの。神様でも超能力者でもありませんわ」

 ジュリエットは困ったように首をかしげた。その仕草に細川は眉間にしわを寄せた。

「うまい言い逃れだ。それなら、ジュリエットとしてロミオの後を追って自殺するか?」

 ジュリエットの微笑が凍りついた。

「わかっているんだな。だが、改めて言っておくぞ。役に入り込みすぎだ、ジュリエット」

 細川の言葉にジュリエットは心臓に剣を突き立てたような衝撃を感じた。

 ジュリエット自身も細川に言われるまでもなく、役に入り込みすぎているのを感じていた。ロミオの演技に負けないようにしようとした結果とはいえ、役に飲まれるのは恥ずかしいことだった。

 ジュリエットは一度目を閉じて、呼吸を整えてから目を開けた。

「わかっていますわ。情熱に身を焦がしても芯は醒めた氷のように理性を保て。リアルは決して真実にあらず。虚構こそが人の目に真実」

 ジュリエットは細川が昔、演劇論で書いていた文章をそらんじた。

「――できるか?」

 細川の真剣な眼差しにしばらく沈黙が続いたが今度はジュリエットが折れた。

「できないなんて言ってしまったら、細川さんは今すぐにでも私の殻を割ってしまうでしょ? 私たちを守る殻はハンプティ・ダンプティの身体よりももろいですのよ」

 ジュリエットが冗談めかして言ってもその微笑みは儚げであった。その微笑みに細川はジュリエットの本当の心の内を感じたが、その言葉は飲み込んだ。そして、大仰に手を叩いて両手を広げた。

「ああ、その通りだ。よーく覚えておけ、間違っても狂気に染まるなよ。いい演技というのはその半歩手前だ」

「あら? 薄皮一枚だと仰っていませんでしたっけ?」

 ジュリエットは首を傾げて、先程引用した演劇論との違いを指摘した。

「規制が厳しくなったんだ。今月から」

 冗談半分、本気半分で細川は言うと、話は終わったと扉を指差した。ジュリエットは優雅にお辞儀をするとドレスの裾を翻して控え室を退場した。

 細川はその後姿を見つつ、心身ともに爆弾を抱えるジュリエットを降板させない自分自身も狂気に染まっているのだろうとため息をついた。


          *     *     *


 ジュリエットが稽古場に戻ると出演者たちの無言の視線が集まった。

 その視線の意味するところが、わかりすぎるほどわかるだけにジュリエットは内心苦笑をした。そして、軽く息を吸い込むと伸びやかな声を奏でた。

「どうなさったの、皆様? まるで死んだ私が生き返って戻ってきたような顔をして」

「皆、不安なのだよ、ジュリエット。君が姿を隠して何を企んでいるのか? どんな悪戯をするつもりなのか?」

 ジュリエットの声に答えたのはロミオであった。ジュリエット以上に動き回るロミオはシビアな操縦を続けて、操者はかなり疲労が蓄積しているだろうに表情にも声にもそんな色はまったくなかった。

「まあ! 私が悪戯を? とんでもない。そんな大それたことができる女に見えて? 十四にも満たない力もない私が、居並ぶ皆様に悪戯するなんて、とても考えられませんわ」

 ジュリエットは恐ろしいとばかりに神に祈りを捧げる。

「おお、神よ。この忘れっぽい娘に祝福を。パリスとの結婚を避けるために仮死の薬を飲み干して皆を騙した悪戯を忘れるほどに忘れっぽいとは! きっと、台詞はおろか、僕の名前ですら忘れているに違いない」

 ロミオの仰々しい嘆きの芝居に稽古場のくすくすと笑いが漏れた。

「名前を忘れる? 忘れるですって! ロミオ、忘れているのはあなた様。バルコニーの下で自分の名を捨ててしまったのではなくて? それとも、後でこっそり拾って帰られたのかしら?」

 やり返すジュリエットに隣にいた乳母が思わず噴出した。

「おお、その通り。僕はあなたの望むままに名前を捨てた。“恋人”という新たな名前を得たはずなのに、なぜだか、名を捨てることを望んだ人は本当に忘れっぽい。捨てた名前を呼び続けたので、あわてて地面に落ちていた名前を拾ったのです。全てはあなたの望むまま」

 一枚上手のロミオの切り返しに出演者はどっと笑い出した。ジュリエットは少し馬鹿にされている気分になって顔を赤くした。

「なんて意地悪なんでしょう! あなたは『蛇の心を持つ花の顔。美しい暴君。天使のような悪魔。ハトの羽をしたカラス。狼の心の子羊。高潔な悪党!』」

「ティボルトにも言ったが、『僕は悪党ではない』」

 ティボルトが殺された時にロミオをののしった台詞を使った決め台詞まで軽く台詞で返されてしまった。ジュリエットはそれ以上、先を繋げられず頬を膨らせて背中を向けた。

 ロミオはそれを見て、にこやかな顔をして他の出演者の注意を引くように小気味よく手を叩いた。

「さあ、あと少しで休憩はおしまいだ。準備万端整えて、ジュリエットにしたように観客たちを一泡吹かせてやろう」

 程よく引き締まった空気に戻り、練習再開に向けて準備を始めた。

「仲のいいあなたたちが喧嘩するなんて驚きよねぇ」

 尻尾を巻いて逃げ出したジュリエットに乳母が追いついて話しかけた。乳母を演じている早乙女はジュリエットの関根をよく知っているだけに、かすかな変化に気づいていた。

「喧嘩なんてしていなくてよ」

 ジュリエットは乳母に気取られないように、できるだけそっけなく答えた。

「でも、今日のロミオ様はなんだか妙にお嬢様に突っかかってくるから」

 乳母が不安そうな表情でジュリエットを見上げた。ジュリエットは少し困った表情を浮かべるしかなかった。

 乳母の言うとおり、他の人が気づかないところでジュリエットをサポートしていたロミオが今日に限ってはどこか突き放したようであった。ジュリエットと距離を置こうとしているのか、休憩時間もわざと避けているようにも見えた。そして、先ほどのやり取りである。

「見た目にはじゃれあいに見えていますのにね」

 ジュリエットは肩をすくめた。痴話ゲンカにも認めてくれない二人だけにわかる仲違い。派手に喧嘩するよりもストレスが溜まった。

 ジュリエットはロミオが心変わりしたのではないかと気が気ではなかった。だが、それを口にするのはジュリエットのプライドが許さない。

「離れていこうとするなら、惹きつければいい」

 ロミオの心を繋ぎとめようと自然にジュリエットの演技に熱が入っていた。恋焦がれるほどに。細川が今まで黙っていたのを、ここに来てジュリエットに注意したのは、その熱があまりに大きすぎたからであろう。

「何か思い当たることはございますの?」

 乳母はまるで親しい女友達を心配するような目をジュリエットに向けた。

「……そうね。多分、あれが原因だと思うのだけど……。すぐにはどうしようもありませんわ。でも、ばあや、安心してちょうだい。あなたのジュリエットは、ちゃんとしますわ。ええ、必ず」

 ジュリエットはおそらく、ロミオが先ほど自分が細川に言われたことと同じことを感じて距離を置いたのだと理解した。それ以外に理由は見当たらなかった。

「そうですか? それじゃあ、見守ることにしますが、ばあやはお嬢様の味方だっていうことを忘れずにいてくださいね」

 ジュリエットは乳母にお礼を言うと、乳母は自分の待機場所に戻っていった。ジュリエットは乳母の後姿を見送って、周囲に人のいないことを確認してから、小さな声でつぶやいた。

「ロミオ様のやり方はちょっと子供じみているけどね。でも、それがなんだかかわいく思えるって、これはかなり重症ね」


          *     *     *


 翌日――

 関根は昨日とあまり変わらない時間に家を出て、まだ誰も来ていない劇場の前にやってきた。早いといっても一般社会的には少し遅めの朝と言える時間帯であるため、公園には人影が少なくない。

 今日の稽古は午後二時から始まる予定である。昨日の稽古で見つかった舞台装置の不具合を直すために稽古の開始を遅らせることになっていた。

 何人かの操者は細川から特別稽古を受けるため呼び出されているようだが、ジュリエットは機体整備のために早く稽古場に入ることを禁止されていた。

「我ながら馬鹿げていると思う」

 関根が朝早く劇場にやってきたのは稽古のためではなかった。昨日、ここで見かけた人物がもう一度同じ時間に来るかもしれない思ったからであった。柳の下の二匹目のドジョウを期待するようなものだということはわかっていた。だが、そうでもしなければその人物に会うことができない。

 関根は昨日、村上信二が通った小道のベンチに腰掛けて、おそらくは来ないと思いつつ待っていた。

 待っている間、台本以外の本でも読もうと持ってきていたが、読む気も起きず、公園を何も考えずに眺めていた。

 暑かった夏は遥か昔のように感じる涼しい風が枯葉と共に公園を駆け抜けている。公園中央にある噴水は涼しさを通り越して寒そうであった。

 少し離れたところにある芝生広場で遊んでいるのだろう、楽しげな子供たちの甲高い声が聞こえてきた。

 見上げると澄んだ空に白い雲が浮かび、太陽は透明な光を公園に落としていた。日陰は肌寒かったが、関根の座っていたベンチは日向にあり、程よい暖かさであった。

 関根は大きなあくびを一つした。睡眠時間が短くても大丈夫であったが、連日の稽古疲れは確実に蓄積していた。しかも、昨日は稽古が長引き、家に帰ったのが深夜だった。眠気の一つが出ても誰も文句は言わない。

 関根は現実と夢が混ざったような半分起きて、半分寝ている不思議な感覚に沈み込んでいった。少し、マリオネットにリンクする時の感覚に似ていると、起きている関根は他人事のように感じていた。

 まどろみの海を漂っていた関根はどこかで女性の黄色い声が聞こえた気がした。錯覚かと思ったが、もう一度ひときわ大きく聞こえたので、そこで完全に目を覚ました。

 周囲を見渡すと、十数メートル離れたところに人だかりができているのを見つけ、目と耳を凝らしてみた。

「ムラシンーっ! こっちむいてぇー」

 どうやら二匹目がいたらしいと関根は飛び起きて、その集団の方へ駆け寄った。しかし、集団の側までやってきたものの、女性ばかりが十重二十重に囲んでいるとあっては無理やり分け入ることもできないでいた。

 躊躇していると黄色い声に混じって大きなだみ声が彼の耳に飛び込んできた。

「村上さん! 一言、お願いします」

 聞き覚えのある声。よくテレビのワイドショーで芸能レポートをしている名物レポーターの声であった。

「マリオネット演劇で武者修行を重ねているっていうのは本当ですか!」

 レポーターの質問に関根の体がびくっと反応して、耳に神経を集中した。

「へぇー、そうなんだ」

 ちょっと気だるい、やる気のない返事が聞こえた。間違いなく、テレビで聞いているムラシンの声である。

「武者修行が終われば、ついに映画進出ですか?」

 レポーターは相手の返答に関係なく質問を重ねた。さすが芸能レポーター、有名タレント相手でも物怖じはしていない。

「あー、そういう話もあるかもね」

「では、マリオネット演劇に出演されているのは本当なのですね?」

「さあね。どうだろう」

 はぐらかすような回答でありながら、ほぼ肯定しているような香りが含まれている。それを感じてレポーターのテンションは高まっていた。

「では、今度の細川忠則演出の『ロミオとジュリエット』に出演されると言うのも本当なのですね?」

「あたし、知ってる! ムラシン、ロミオ様なのよね! ジュリエットになりたーい!」

 興奮したのはレポーターだけではなかったようで、ファンの一人がそんなことを口走った。それを聞いた関根の鼓動が急に早くなった。

 ファンの女の子たちは、口々に「私もなりたい」「ジュリエットの人、うらやましい」など騒いでいた。まるで、村上信二がロミオであることが疑いようもない真実のように。

 騒ぎはなかなか収まらず、まるでジュリエット役のオーディションでもしているかのように、女の子たちは「自分こそがジュリエット」と熱く主張していた。

 関根はその様子に「僕がジュリエットと知ったら、殺されかねないな」と少し背筋に冷たいものが走り、後退りそうになったぐらいである。

「君たちなら誰でもジュリエットになれるぜ。バルコニーで愛の告白をしてくれればな」

 ムラシンのリップサービスにファンは悲鳴まがいの声を上げた。関根は鼓膜が千切れそうな破壊力ある高周波に顔をしかめながらレポーターの次の質問を何とか聞き取った。

「村上さん、ファンの人たちが言うとおりロミオ役という噂があるのですが、それについて一言!」

「おいおい。それは聞いちゃいけないし、言っちゃいけないタブーなんだろ? ルールは守ろうぜ」

 今度もはぐらかす返答であるが、これも肯定に聞こえなくもない。レポーターはそれで十分と判断したのだろう、人だかりを掻き分けて、早速つかんだネタをレギュラー番組の放送に載せるべく携帯であわただしく連絡を取りつつスタッフと共に公園を去っていった。

 残されたムラシンはファンを引き連れるように劇場の方へと歩いていった。関根はその後を追うのはやめて、もといたベンチに戻って身を投げ出すように腰掛けた。充実感と疲労感が心地よく混ざり合った気分に少し酔いしれていた。

 ムラシンに聞きたいことは図らずとも聞けた。関根にはそれだけで十分であった。

 高揚していた気分が幾分落ち着いた関根は隣に見覚えのある女性が座っているのに今更ながら気がついた。

「おはよう。また会ったわね、お兄さん」

 彼女はショートカットの髪が朝の日の光を柔らかに反射させ、今朝の天気のように爽やかな微笑みを浮かべていた。昨日、関根がムラシンを追いかけ、劇場のエントランスホールで出会った女性であった。

 関根は「おはよう」と返事をして、劇場に入るため、ついてきたファンの女の子達に別れの挨拶をしているムラシンの方を見やった。それから、ふと、隣の女性のことを思い出した。

「いいのかい?」

 関根は短く彼女に訊いた。

「なにが?」

「ムラシン。いっちゃうよ」

 ひときわ大きな歓声が聞こえた。ムラシンが、また何か言ったのだろうということは容易に想像できた。サイン嫌いの割にはそういうサービスは気前がいい。

「そうね。劇場に入るみたいね」

 彼女の答えは意外なほどそっけなかった。

「追いかけなくていいの? 君ぐらい美人ならサインもらえるかもしれないよ?」

 昨日は細川と一緒だったので遠慮したのだと勝手に思い込んでいた関根は、自分がムラシンを追いかけていたことも忘れて後押しした。

「別に興味ないし」

「そうなんだ」

 意外な返事に少し驚いている関根に、彼女は向き直って不機嫌そうな視線を向けた。

「村上信二って言えば、どんな女の子も夢中って思っているのよね。でも、それって大間違い。変なタレントを口にして、センス悪いと思われたら嫌だから、とりあえず『ムラシン』っていっとけば無難かなって娘も多いのよ」

「へぇ、そうなんだ。でも、男の僕が見てもかっこいいと思うんだけどな」

 関根は意外な事実を聞かされて驚きはした。だが、それ以上に彼女が不機嫌そうにしている方に興味が引かれて、会話を繋いだ。

「そりゃあ、かっこうはいいわよ。だけど、だからファンになるとは限らないでしょ?」

 彼女は欧米人がするように少し仰々しく肩をすくめた。

「まあ、そうだね」

 口では同意しているが、表情は同意しかねていた。それを見取ったか、彼女はこれまた、少し大げさにうつむきながら首を振った。

「というか、私はどっちかというと嫌い。だって、思いっきりナルシストなんだもの。そういうのって、私はダメ」

 最後は腕をクロスさせて眉根を寄せた。オーバーアクションではあったが、それなのに彼女の動きはごく自然で、よっぽど嫌いらしいことが良く伝わった。

 関根は自分がこの話を続けさせたことを棚に上げ、彼女がムラシンを拒否していることに対し心の中に漣が立った。

「でも、仕方ないんじゃないかな? あれぐらい男前ならナルシストにもなりたくなるよ」

 関根はマリオネットに入っているとき、自分のマリオネット姿に見惚れることもあると思い出して弁護した。

「でも、ナルシストってことは自分自身に欲情しているってことでしょ? ということは、ホモってことよね――お兄さん。ムラシンのファンみたいだけど、チャンスあったりして」

 彼女はなにやら必死で弁護する関根に笑いながらからかったが、言われた関根は顔を赤くした。

「からかうな! 何も知らないくせに!」

 関根は顔を赤くした恥ずかしさを隠すために怒ってみたが、余計にむなしく切なくなった。

「いや、そうじゃない。……そんなわけないだろう。ムラシンはムラシンぐらい男前だから自分が好きなんだ。僕みたいな醜男を好きになるわけないだろ!」

 昨日の稽古でロミオとの距離が生まれたことも思い出して泣きたい気分がこみ上げてきた。

「からかったりして、ごめんなさい」

 涙が滲むのをこらえていた関根に、彼女は本当に申し訳なさそうに頭を下げた。

「あなたのことを何も知らずに傷つけてしまって。ほんと、私はあなたのことを何も知らないのに」

 素直に頭を下げられてしまったために、関根は急に冷静さを取り戻した。

「いや、こっちこそ急に怒って悪かった。冗談を真に受けるなんて、どうかしてた」

 お互いが謝って妙な沈黙が二人の間に流れた。居心地の悪い空気に二人はほぼ同時に苦笑を浮かべた。

「お兄さん、朝ごはん食べてないでしょう? 私もなの」

 彼女は突然に話を変えたため、関根は鳩が豆鉄砲を食らったかのようにぽかんとした。

「ということで、朝食をご馳走してくださらない?」

「なんで僕が?」

「だって、悪かったって謝ったでしょ? なら、それぐらいしてくれてもいいんじゃない?」

 悪びれずもせずに彼女は言うとベンチから立ち上がって、くるりと関根に向き返った。

「だからって」

「まったく。女の子が勇気を振り絞って逆ナンパしているんだから恥をかかせないでよ」

 彼女はおませな女の子が精一杯背伸びした後にするように、恥ずかしさと不服で軽く口を尖らせた。

「えっ? あっ……」

「文句はないわね」

 半ば強引に彼女に腕を引かれ、関根はあれほど重たかった腰をベンチから上げた。

「私は志穂。お兄さんは?」

「ええと……関根。関根義孝」

 志穂は今日の天気のように穏やかに微笑んだ。関根はその表情に一瞬、鼓動が跳ね上がった。

「この笑顔。どこかで見たような……」

 関根がその記憶を思い出そうとする前に再び腕を強く引かれた。

「じゃあ、関根さん。行きましょう」

 志穂は行き先も聞かずに歩き出して、関根はその後を戸惑いながら追いかけた。

 腰を上げたはいいが、関根は小洒落た店を知っているわけでもなく、知っていたとしてもまだ午前中であるから開いている可能性は低かった。

 遅めの朝食、早めの昼食。微妙な時間と関根の経験値の低さが導き出した結論は、手近ないつもの店――公園内にあるオープンカフェであった。

「いらっしゃいませ。あっ、関根さん。おはようございます。今日も早いんですね」

「あ、ああ。ちょっとね」

 ウェートレスの佐代子に声を掛けられ関根は戸惑い気味に言葉を濁した。

「いつもの席でいいですか?」

「ああ、大丈夫。えーと……二人なんだけど?」

 関根は挙動不審に、少し後ろにいる志穂を視線で示した。

「大丈夫ですよ。というか、珍しいですね。誰かと一緒なんて」

 佐代子の軽い驚きに関根は居心地悪そうに視線を泳がせた。さすがに佐代子も何か気づいて、にっこりと微笑んで二人をいつもの席へと案内した。

「クラブサンド、あるかしら? フライドポテト付きの」

 席に座るやいなや、志穂はメニューも見ずに注文した。

「はい。ございますよ」

「じゃあ、それで。あと、ハムトーストも追加で。飲み物はブレンドコーヒーのホットをお願いね」

「かしこまりました」

 一礼した後、佐代子は迷ったように関根の方を見た。

 関根はいつもここで何か食べる時は十分すぎるほど時間をかけてメニューを選んでいる。そのことを知っている佐代子としては注文を聞いていいものか迷うのも当然であった。

「え、えーと……僕は、BLTサンドとホットコーヒーをお願いします」

 さすがに関根も女性を連れて、決断力のないところを見せるほど空気を読めない男ではなく、関根にしては即決した。

「かしこまりました」

 佐代子が少しほっとした表情を浮かべて、もう一度一礼して下がっていった。

 関根は何かしゃべらないといけないと思いつつも、ほとんど初対面の年頃の女性と共通の話題など思いつきもしなかった。

 志穂の方はそれを百も承知でわざと黙って微笑んでいた。その笑顔はまさに――

「ほら。ちゃんとエスコートしてみなさい。男の子でしょ」

 とでも言っているようなものであった。実際、その読みはまったく間違っていない。

 関根は猫にいたぶられて追い詰められたネズミの心境で冬にもかかわらず、嫌な汗が背中を濡らしていた。

「ちょっと、失礼」

 間が持たない圧力に耐えかねて関根はさしてもよおしてもいないのにお手洗いに向かった。

 テーブルで思いつかない話題がお手洗いで思いつくはずもない。関根は美女と同席しているとは思えない重い足取りで意地の悪い彼女の待つテーブルに帰ろうとした。

 その関根を佐代子が呼び止めた。そして、手を拭くための使い捨てのおしぼりを彼に手渡した。

「ありがとう……」

 茨でできた椅子に戻るのが少し伸びたことに心の底から感謝しつつ関根はおしぼりを受け取った。

「関根さん。何やってんですか! しゃべらないとだめじゃないですか。せっかくのチャンスなんですよ」

 佐代子は笑顔を崩さずこめかみに青筋を浮かべ、関根にしか聞こえないぐらいの小声で駄目出しをした。

「そんな事言ったって、君たちみたいな若い女性とおしゃべりするような話題は持ってないし、仕方ないじゃないか」

「あー、もうっ。世話の焼ける。いい? 関根さんにオシャレで小洒落た話題なんて全然期待してないから」

 はっきりと言い切られて関根もさすがにむっと来たが、それがあまりにも事実過ぎて一言も言い返せずに「うぐっ」と小さく唸るのがやっとの抵抗であった。

「だから、関根さんは関根さんの好きなことを話せばいいの。舞台とかお芝居とか。それで駄目なら所詮、高嶺の花って諦める。当たって砕けないであんな美人をゲットできるなんて虫が良すぎるわよ」

 ますますもって失礼千万だが、的を得すぎたアドバイスに関根は半ば打ちのめされて、逆に吹っ切れた。

「ありがとう。そうだね、がんばってみるよ」

 関根は穏やかな苦笑を浮かべてテーブルに戻っていった。

「あの美人をゲットするなんて発想、佐代子ちゃんに言われるまで想像もしていなかった。まあ、ゲットできないまでも、少しぐらい優越感に浸るのもいいか」

 関根はテーブルに戻る道すがら、そう思って気を楽にしていた。そんな後姿を佐代子は黙って見送っていた。

「敵に塩送るとは。男前過ぎるぞ、佐代子」

 佐代子と同僚のウェートレスが、後ろから佐代子の肩に腕をかけた。

「そんなんじゃないわよ。関根さんは頑張っているんだから幸せになってほしいだけなんだから」

 佐代子の声は少し曇っているのに気づいて、声をかけた同僚は横を見ないでおくことにした。

「そういうのを男前って言うんだぞ。あたしが惚れちゃうじゃない。責任とって、今日は仕事終わったら遊びに連れて行ってよね」

「わかった。……ありがとう」

「じゃあ、給仕はあたしがするから、ちょっと休憩しておいで」

 佐代子は黙ってうなずくと、小走りに奥の休憩室に下がっていった。

「しかし、鈍い人よねー。佐代子があれだけ好き好きオーラを出してるのに。報われないわ」

 佐代子を見送ると、注文のサンドイッチなどを用意しながら軽くため息をついた。

「佐代子にここませさせて、決めなきゃ男じゃないぞ、関根さん」


          *     *     *


 関根が席に戻ると美女の笑顔が彼を迎えてくれた。

 ただし、その笑顔の意味は「作戦会議は終わったかしら?」であったが。関根はその意味を意識的に無視した。

 関根は佐代子にもらった勇気が磨り減ってなくなってしまわないうちに口を開いた。

「正直な話、僕はあまりこういう経験がないんだ。何を話していいかよくわからない」

「そうね。あまり、モテそうには見えないわね」

 志穂は両肘をテーブルについて、組んだ手にあごを乗せ、楽しそうに関根の言葉に微笑んだ。絵面だけ見れば恋人同士にしか見えないのだが。

「はっきり言うね」

「海外が長いからかしらね。こっちに帰ってくるとよく言われるわ」

 志穂はわざとらしく外国人のように肩をすくめて小首を傾げて見せた。

「海外か。ブロードウェイにラスベガス。ヨーロッパのマリオネットオペラ。いつか、見て回りたいな」

 志穂が帰国子女と聞いて、それが本当か嘘かは別にして関根は前々から思っていたことを口にした。

「関根さんは演劇が好きなの?」

「好きどころか、役者だよ。これでもちょっとは名の知れたマリオネット操者なんだよ」

 関根は軽く胸を張って見せた。日本一とは言わないまでも、中堅では五指に入ると思っていた。

「日本ではマリオネット操者の名前は公表しないことになっているんでしょ? それなのに名が知れたなんて面白い事いうわね」

 志穂がからかうように指摘すると関根は一瞬、むすっとしたが、すぐにため息を吐いた。

「仰るとおりだよ。業界とマニアの間にだけだよ、名が知られているのは」

「不満ならアメリカに行けばいいのに。アメリカは名前を公開しているわよ」

「簡単に言うね」

 先日の青木と同じ言葉に関根は薄く笑みを浮かべた。

 彼女の短絡を笑ったというよりも、若さを羨んでの笑みであった。だが、それを見た志穂はそう受け取らず、馬鹿にされたと眉根を少し吊り上げた。

「簡単じゃない。今から空港に行って、ニューヨーク行きの飛行機のチケットを買って、飛行機に乗るだけ。十三時間後には憧れのニューヨークよ。パスポートとチケットを買うお金があればの話しだけど」

「それぐらいは持っているよ。それと、先に言っておくけど、英語は少しは話せるよ。通訳のバイトができるぐらいにはね」

 いつの日かブロードウェイの舞台に。そう思って、英語の勉強は続けていた。生きた英語を身につけるために、英会話教室だけではなく、ネットのチャットで海外の人間と話したり、通訳のバイトも定期的に入れていた。

「じゃあ、何の問題もないじゃない」

「残念ながら度胸がない。今、僕は日本で認められかけている。大きな失敗をしない限り、僕は生活に困ることはない。この安定した生活を捨てることを、正直怖がっているんだよ。不満はあるくせに臆病なんだよ」

 舞台に立てば、マリオネットを操れば、無限と思えるほど湧き出てくる勇気が生身に戻れば、意気地のない冴えない男になってしまうことを再確認して、悲しくなってきた。

「それは当然のことよ。臆病なんかじゃない。……あー、また、言い過ぎたみたいね。私はいつもこうだから」

 志穂は軽く自分を責めて、いつのまにか配膳されていたサンドイッチを一口食べた。

「いや、暗い気分にして悪かった。せっかく、天気のいい日の朝食なのに」

 関根も自分の分のサンドイッチを手にとって口に運んだ。

 それからは志穂の方から話を振って、他愛のない会話が続いた。サンドイッチもトーストもなくなり、コーヒーもあと一口ぐらいになった時、ふと志穂がまじめな表情をした。

「ロミオとジュリエット。もし、二人が出会わずに、お互いが別の人と結ばれていたら、幸せになっていたかもしれないわね。二人とも有力家の跡継ぎですもの」

 志穂はオープンカフェの正面にある劇場の方を見た。

「それはどうかな?」

 関根は志穂の言葉の真意を測りかねたが、自分の中のジュリエットを見つめて志穂の言葉を否定した。

「ジュリエットはロミオに出会えて幸せだった。彼女は、自分の身を省みずに彼への愛に生きた。たった十四歳、何も知らない少女の若さゆえのことかもしれない。でも、ロミオとの数日の時間は他の人が思うほどジュリエットにとって価値は低くないものだったと思う。それからの人生を引き換えにしても惜しくないほどね」

「でも、死んだら意味がないわ。生きてこそよ。ロミオがもし死んでからでも口が利けたら、ジュリエットの死は望まない。自分が死んでしまってもよ」

 志穂は語気を強めた。だが、今度は関根はそれをまっすぐに受け止めてまじめな顔でうなずいた。

「それはジュリエットも同じだよ。でもね、ジュリエットは先に死んでいるんだ。パリス伯爵と結婚するのは死んでもいやだと薬を飲んでいる。生き返れる薬としても、それが本当かどうかは確かめようがない。そんな薬をね」

「救われないわ」

「まったくだね」

 しばらくの沈黙が流れ、関根はコーヒーカップから最後の一口を胃へと流し込んだ。コーヒーの苦味が会話と同じように口の中に広がった。

「誰でも」

 志穂は不意に口を開いたが、一度考え込むように口を閉ざした。それから再び――

「誰でも、運命の人と出会ったら、それまでの生活どころか、命までも捨ててしまえるほど燃え上がるのかしら?」

 志穂の質問に関根の心臓が大きく跳ね上がった。だが、関根は無理やりそれに気づかないふりをして、とっくに空になっているコーヒーカップをあおってソーサーに戻した。

「人によるんじゃないかな? 僕はそこまで運命の出会いをしたことがないから何とも言えないけどね」

「ありがとう。変なことを聞いてごめんなさい」

 志穂の言葉に関根は首を振った。そして、おもむろに時計を見ると、そろそろ稽古の集合時間が迫っていた。

「慌しくて悪いけど、僕はそろそろ行かないと。志穂さんはゆっくりしているといい。注文を追加してもらっても、ここは僕のツケがきくから」

 関根はテーブルの上の伝票を取り上げて席を立ち上がった。その時にジャケットの内ポケットに入っていた封筒の存在を思い出して、少ししわのある封筒を取り出した。

「これ。昨日と今日のお詫びに。僕が出る舞台のチケット。暇なら観に来て」

 関根はスタッフに配られた『ロミオとジュリエット』の招待券が入った封筒を志穂に手渡した。

 志穂は封筒を受け取り、中を確認してから関根を見返した。さほど高くないとはいえ、会ったばかりの人から貰うにしては高価である。

「こんなの貰ってもいいの?」

「いいよ。どうせ、あげる相手を探してたんだよ」

 女役に抵抗はなかったが、知り合いに見られるのは少し気恥ずかしい。とはいえ、自分が主役の大きな舞台である。捨てるのも忍びない。それゆえにジャケットのポケットに入ったままになっていたのであった。

「じゃあ、遠慮なくいただくわ。ありがとう」

 志穂は丁寧にお辞儀をして、バックの中にチケットを仕舞った。

 関根は志穂に別れを告げ、支払いを済ませると劇場の方に歩き出した。

「お芝居、がんばってね。ジュリエット、期待してるわよ」

 志穂はにこやかに手を振って関根を見送った。


劇中劇の台詞は『シェイクスピア全集――ロミオとジュリエット』小田島雄志訳(白水uブックス)を引用しました。

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