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第三章

 高濃度酸素溶液が排出された。肺の中に残った液も加圧されていない条件下ではあっという間に気化して、肺から喉を通じて体外へと霧散していく。高濃度酸素溶液は少しわさびに似た匂いがするため、慣れていても目尻に涙がにじんだ。

 それは関根にとって、時としてありがたい特性だった。

 操者を収納するコクーン内の換気が終わると、扉が開いて眩しい光が差し込んできた。外気が入り込み、少し肌寒く感じた。機器の熱暴走を防ぐため冬でも冷房している上に裸であれば、それも仕方ないことだった。

 関根は扉が開いても丸山がセンサーの類を外すまで身動きせずにじっと待った。下手に動くとセンサーのコードが絡まって外すのに余計に時間がかかる。

 華やかな世界から引き戻された後にあるリンク解除作業はいつも関根を惨めにさせた。

「いっそのこと、ずっとマリオネットの中に入れたらいいのに」

 毎回、そんな愚にもつかないことを真剣に考えてしまう。そんな考えがますます自分を惨めにしてしまう。

「おつかれさま。もう動いて大丈夫だよ」

 センサーを外し終わった丸山が関根にバスタオルを渡した。関根は受け取ったバスタオルを腰に巻き、そそくさと調整室を出て隣のシャワー室に向かった。

 一畳ほどの大きさの脱衣所でバスタオルを外し、電話ボックスのような狭いシャワー室に滑り込んで、折りたたみのドアを閉めた。

 関根が蛇口をひねると熱いシャワーがノズルから噴き出し、狭いシャワー室はあっという間に湯気で満たされた。シャワーといえども、冷えた身体には温かいお湯はありがたく、寒さで蒼白に近かった肌が赤みを帯びて生気を取り戻した。

 関根は身体に残っていたセンサーを取り付けるためのジェルの残骸を丁寧に洗い流した。

 身体を洗っていると、自然と関根自身の身体が目に入った。不摂生で醜くだぶついた腹。脛毛に覆われた短い足。十分前の身体とは大違いであった。

 関根は見慣れたはずの身体であるが、湧き上がった嫌悪感に自分の身体から目を背けた。

 ジュリエットが素晴らしい造形美を誇っているだけに落差は大きかった。シャワー室の壁にはめ込まれた鏡の湯気を太く短い指ばかりの手で拭った。

 湯気を拭われた鏡は少しぼやけつつもはっきりと関根の顔を映した。

 白いものがちらほら混じる髪はシャワーでボリュームを失い、頭皮と額にへばりついていた。太い眉毛は男らしいと言われるが、野暮ったさが滲んでいる。一重で垂れ気味な目は、優しげと言われることもあるが気弱である。大きな鼻は男性シンボルが大きい証拠というが、それが俗説である証明をしているに過ぎない。隆起した頬骨、張ったエラ、大きく厚い唇。どれも男前とは無縁な造形をしていた。

 気持ち悪いとは言われないが、ただそれだけのこと。女性にもてたことなど一度もない。

「慣れたと思っていたんだがな」

 美形ぞろいのマリオネットと自分の顔とのギャップは意外にも操者に精神的苦痛を与える。その苦痛を克服できなければ、操者としてやっていけない。関根も克服しているつもりであった。

 関根は小学校の時にすでに自分の容姿が人並みよりも下であるという認識は十分させられていた。本人も男前に生まれなかったことを恨んだこともあったが、中学に行く頃にはそれも達観していた。

 そんな関根が役者を目指そうと思ったのは、高校生の時に見た演劇がきっかけだった。

 その舞台はぶさいくな役者が主役で、迫真の演技で観客を沸かせていた。最後の方ではそのぶさいくな役者がかっこよく見えた。関根だけではなく、他の観客、それも女性たちも同じ感想だったらしく、カーテンコールの時には黄色い声で役者の名前を叫んでいた。

「ぶさいくでも女の子にもてるかもしれない」

 関根は不純な動機ながらも演劇の世界に踏み込んだ。そして、その動機はどうでもよくなるほど演劇にのめり込んでいった。

 演技をしている時は、自分がどんな不細工でも超がつくほど美形になれる。もちろん、容姿は変わらない。気持ちの上だけであるが、それでも得もいえぬ快感であった。その快感は関根を虜にした。

 関根の役になりきるような演技は劇団でも評価され、公演でも役が回ってくることも多くなった。他の劇団から客演を依頼されることもあった。

 順調に役をもらうようになり、最初は関根も顔の良し悪しは役者に関係ないと豪語していた。しかし、いくら演技力を磨こうが大きな舞台では脇役どまり。顔のいい後輩の役者が先にテレビドラマなどでよい役をもらっていたこともあった。

 よほどの事がない限り関根のような顔の悪い役者に主役が回ってくることはなかった。

「結局、人間、顔なんだよな」

 厳しい現実を再認識していた頃、劇団の同期に人形劇への転向を誘われた。

 そして、演技力とマリオネットの操作が全ての人形劇は関根に合っていた。

 めきめきと実力をつけ、マリオネット操者として業界ではそこそこ名が知られるようになっていった。特に扱いづらい癖の強いマリオネットでも自在に操る能力は高く評価されていた。

 おかげで、生身の役者をしていた頃のようにバイト三昧という生活から、操者のギャラで生活できるようにはなった。

 だが、容姿への劣等感を内に抱えていた関根には、自分とマリオネットの容姿のギャップは想像以上の苦痛であった。克服には少し時間がかかったが、最も簡単で確実な方法――慣れで吹っ切った。ここ数年は苦痛に悩まされることはなかった。

 だが、ジュリエットと出会い、それが錯覚であったことを思い知らされた。

「一級品のマリオネットは格が違う」

 できのいいマリオネットはレンタルするにも高価であるため、低予算の舞台では使われることはない。日本を代表する演出家の舞台であるから“ジュリエット”のような超がつく一級品のマリオネットが使えるのであった。

 関根は大きくため息をついて、強制的に気分を立ち直らせた。これは“ジュリエット”のマリオネットを操り始めて、毎日の日課のようなものであった。

 関根はシャワーを上がり、脱衣所に置いている私服に着替えて調整室に戻った。調整室では丸山が“ジュリエット”の整備を始めていた。

 関根はその“ジュリエット”を、自分が幽体離脱して自分を見ている錯覚がよぎりかけて、激しく頭を振って妄想を追い出して、別のことを考えるようにした。

「どうかな?」

 関根は主語を省いて丸山の背中に聞いた。

「あまりよくないね。右足首の人工腱が少し炎症を起こしているようだね。交換するとなると、どんなに急いでも明日の昼までかかるけど、どうする?」

 丸山は整備を一時中断して関根に向き直った。丸山は事前に右足首の炎症は見つけていたので、重点的に検査していた。

「公演が終わるまで、もちそうかな?」

「『ロミオとジュリエット』がアクション劇でないんなら大丈夫だと言い切れるけど」

 動きの激しい細川演出の『ロミオとジュリエット』では確約できないと言外に言っていた。

「交換して調整。馴染むのを入れれば、明日と明後日がつぶれるな――明日からは舞台で通し稽古があるしな……自覚症状もないし、交換なしでいきたい。薬で抑えられないか?」

 交換すれば感覚が変わるのでそれを把握するだけでも時間を費やしてしまう。稽古も山場で、自分自身も乗っているこの時に一時離脱はどうしても避けたかった。

「わかった。でも、判断するのは石山さんだからな。一応、君の意見は伝えておくけど、交換になっても恨まないでくれよ」

「わかっているって。舞台監督に逆らうつもりはないよ」

 マリオネットの管理は舞台監督が責任者である。石山の決定には演出の細川でも逆らうことはできない。

「でも多分、石山さんのことだから、君がそう言うのなら交換はないと思うけどね」

 マリオネットに関しては技師と操者の意見が尊重される場合が多い。特に石山はその傾向が強い。「餅は餅屋」という考えであった。

「練習でなるべく負荷をかけないようにすれば大丈夫だと思う。約束できるかい?」

 任せてもらっているとはいえ、石山に交換をせずに続けると言うにはそれなりの対策は必要である。丸山は技術者としてできることはするつもりだが、最大の不安要素は操者にあった。

「約束は無理だけど、努力はするよ」

 練習のしすぎを指摘され、関根は複雑な笑みを浮かべた。丸山の方もその顔の意味するところを知って諦めに近い表情でため息をついた。

「まあ、もし本番でいかれたら、ロミオ様に助けてもらえよ」

「な、なんでロミオ様がそこで出てくるんだよ」

 関根は顔を赤くして思わず大声をあげた。

「なんだよ突然? いかれる可能性が高いのはダンスのシーンだから一番近くにいるのはロミオだろう?」

 丸山はハトが豆鉄砲を食らったように目を丸くして怪訝な表情を浮かべた。

「あ、そういう意味か……」

 関根はばつ悪そうに顔を赤らめると頭をかいてごまかした。

「どういう意味と思ったんだよ。マリオネット操者同士で通信もできるんだ。やばかったらフォローを頼めば何とかしてくれるんじゃないか? ロミオの操者も一流なんだろ。それに、仲がいいって評判なんだし」

 ロミオとジュリエットの仲の良さは技術者の丸山にまで知られるほどこの舞台の関係者には有名であった。

「それはそうだけど、何しろ、“ロミオ”の操者は僕の知らない人で初顔だからな」

 関根は困った表情を浮かべた。実を言うと“ロミオ”の操者が誰かわからないというのは、以前から気にかかっていたことであった。

「本当か、それ?」

 丸山は正真正銘に意外そうな顔をしたが、関根ははっきりと首を縦に振って肯定した。

「まあ、初顔であそこまで息が合うというのも信じられないかもしれないけど、本当だよ。この世界、広いようで狭いからね。名前が公表されてなくても、ある程度は演技の癖とか、休憩時間の雑談で誰だかわかるんだよ」

「そうらしいな」

 マリオネット操者の名前を公表しない禁忌があるとはいえ、蛇の道は蛇――同業者なら言わずともわかるし、噂も流れていた。昨今ではネットなどで出演リストが流れることもあり非公開は有名無実になりつつあった。

「“ロミオ”のマリオネットもジュリエットに負けず劣らず癖のある機体っていう話だろ? それであの演技力。心当たりのある人間なんて限られているんだけど……」

 関根はそこで言葉を止めて肩をすくめた。

「該当者なしってわけか」

 丸山の言葉に関根は苦笑で答えた。

「それだと不安だよな」

 丸山が心配そうに顔を曇らせた。直接舞台に上がらない関係者だろうと、舞台を成功させたいという願いは操者に負けるものではない。

「そう不安でもないよ。誰かわからなくても、“ロミオ”の操者は一流だっていうのは間違いないからね。それだけで十分だよ」

 関根は丸山を安心させるように笑うと、丸山は苦笑を浮かべた。

「操者を不安にさせては技師失格だね」

「そんなことないよ。“ロミオ”が誰かわかったら、丸山さんにもこっそり教えてあげるよ」

「いや、いいよ。タブーだろ?」

 今朝のことを思い出して、もうこりごりだと丸山は笑いながらわざとらしく口の前に指でバツを作った。

「“ジュリエット”はそう言うだろうけど、僕は気にしないから」

 関根は笑って答えて調整室を後にした。


          *     *     *


 関根が劇場の練習所を出ると空には星が瞬いていた。時計を見ると十時を少し回っていた。月はすでに西の空に沈んで、暗い夜であったが等間隔に並んだ街灯が灯っているので夜道に不安はない。

 劇場がある公園は夜となれば恋人たちが愛をささやく格好の場所となる。普段は人通りが少なく静かで雰囲気のあるところだが、今は舞台の関係者が大勢出入りしているために妙な賑わいがあった。

「お久しぶりです、関根さん」

 関根は不意に声をかけられ振り返ると、少しちゃらけた青年がニコニコして立っていた。

「久しぶりって、青木。先週も会ったじゃないか」

 ため息混じりに答える関根に「そうでしたっけ?」ととぼけながら青木は関根の腕を引っ張った。連れていかれそうになっている場所を見ると、関根の想像通りの人物たちが集まっていた。

「やれやれ」

 予想通りとはいえ、関根はそう言わずにいられなかった。

「関根さん、確保しました」

 集合場所に到着すると青木が集まっているメンバーの中で一番大柄の女性に報告した。

「よくやったわね、青木。では、久々の再会を祝して飲みに行きましょうか、関根君」

「久々って、一昨日飲みに行きましたよね? 早乙女さん」

 関根は無駄とわかっていても一応抵抗した。明日から舞台での稽古が始まる。気力充実するためにも今日はゆっくり休んでおきたいのは本音であった。

「細かいことを気にすると禿げるわよ。それとも、あたいと飲むのは嫌かい?」

 早乙女は関根の肩に手を置いて迫力のある笑顔を向けた。子供ならば絶対にお漏らししているだろう。関根は降参とばかりため息をついた。

「嫌じゃないですよ。本気で嫌なら、青木を蹴り倒して逃げてます」

「そうしても、追いかけて捕まえるけどね」

 早乙女は豪快に笑うと関根の背中を力いっぱい叩いた。叩かれながら、「どこの肉食獣だ」などと思ったが、それを口にするほど馬鹿ではなかった。

「なんか、早乙女さんがそういうと、サバンナの肉食獣みたいっすよね」

 ……馬鹿がいた。関根を拉致した青木という青年は、「愛の抱擁」と名付けられた相撲技、鯖折りで教育されることとなった。しかし、これまでも散々、教育されても青木の馬鹿は治る気配はないのだが。

 こんな馬鹿騒ぎがアルコールが入る前からできる面々に関根は苦笑をしながらも心地よいものを感じた。

「もしも、ジュリエットであり続けたら、こういうことはできないだろうな」

 関根は三十分ほど前に詮無きことを考えていた自分を軽く笑った。関根義孝であることも悪いことばかりではないと当たり前の事に気がつき、心が少し軽くなった。

 そんな事を考えていると、祝宴の会場を探しに移動を始めた一行に少し遅れた。

「関根。早く来ないと、あたしと腕組んでラブラブで歩いてもらうことになるわよ」

「それは謹んで遠慮させていただきます」

 関根は早乙女の申し出に慌てて集団に追いついて一行の笑いを誘った。

 五分ほど歩くとだんだんと看板が明るく灯る店が増えてきた。居酒屋の呼び込み店員が声を張り上げている。ほろ酔い加減のサラリーマンたちとすれ違い、暇をもてあましてたむろしている学生たちを横目に一行は全国チェーンの値段が安く味はそこそこで量の多い居酒屋の暖簾をくぐった。

 威勢の良いアルバイト店員の声とそれ以上に騒々しい酔っ払いたちの声が店内のBGMに混ざって一種独特の雰囲気を作っていた。厨房から漏れる料理の匂いと各テーブルから漂うアルコールの匂いが混じり合って胃袋を刺激した。

 勝手知ったるチェーン店。関根たちは席に着くのもそこそこにメニューを見ずに注文を店員に伝えた。

 付け出しとともに持ってこられた、ビールに焼酎、酎ハイなどが全員に行き渡るのを見ると、早乙女がやおら立ち上がり乾杯の音頭をとる。

「貧乏暇なし、猫灰だらけ。もっと楽な生き方があるのに、わざわざ七転八倒、艱難辛苦の役者の道を選んだ馬鹿者たちの明日の不幸を祈って、乾杯!」

 最初の乾杯から酒宴はいきなりクライマックスに突入した。アルコールもそれほど入っていないのにもう何杯も飲んでいるようであった。さすがは役者たちというべきだろうか。

 注文していた枝豆や出汁巻き卵、から揚げなどがテーブルに並べられるころには飲み物は二杯目、三杯目となり、酔った演技が本物に切り替わりつつあった。

 関根はから揚げを口に放り込んで、ビールジョッキを傾けた。実際に身体を動かしているわけではないが、マリオネットを操縦し終えて、リンクを切ると空腹感が強烈に襲ってくる。学者の説明では、マリオネットの操縦で脳が活性化され、脳の栄養素である糖分をかなり消費するらしい。それを利用してマリオネットダイエットというのもあるそうだが、関根は自分を含めて目の前で馬鹿騒ぎしている操者仲間を見て、そのダイエットが有効かどうか大いに疑問を抱いていた。

 関根はどうでもいいことを考えながら、馬鹿騒ぎを肴に飲んでいると、早乙女が関根の隣に腰を下ろした。

「今日はいつもよりマシな顔していたわね。いいことあった?」

 早乙女は関根の先輩で、マリオネットの操縦で最初に手ほどきしてもらった、師匠といえる存在だった。

「そうですか? いつもと変わりませんけど」

 関根はとぼけてビールを口に含んだ。もし、そうだとすると、さきほど仲間を見て「関根義孝も悪くない」と思ったことだろうが、そんな事を口にするのは操者として恥ずかしい。

「まったく。あんたは妙に心閉ざす。もっと、オープンになれば楽なのに」

 早乙女はやれやれとため息をつきながら、ジョッキに入った焼酎を一気に煽った。一応、水割りだが、水など気休め程度にしか入っていないということを知っている関根は心の中で改めて「女傑」と早乙女の評価をした。

 早乙女は女性とはいえ、人形劇黎明期からのマリオネット専門の役者であり、演技、操縦共に定評があった。大きな舞台となると、なにかと出演しているベテラン操者である。今は所属する劇団が異なるが、才能ある関根を可愛がっており、なにかと気をかけてくれていた。

「それよりも、早乙女さん。今回はありがとうございます」

 関根はまじめな顔で軽く頭を下げた。

「そんなに飲みたかったの? それは誘った甲斐があるわね」

 焼酎のお替りを注文していた早乙女が怪訝な顔をしながらもニコニコと笑った。

「違いますよ。細川さんに推薦してくれたことですよ」

 今回の舞台、演出家の細川に関根を推薦したのは早乙女であった。細川クラスになるとオーディションを受けれる機会すら滅多にない。関根もこの舞台で認められれば、細川の次の舞台に声をかけてもらえるようになるかもしれない。今のところ、かなり好感触だけに機会をくれた早乙女に感謝しても感謝しつくせないでいた。

「なにより、ロミオ様に会わせてもらえたし」

 さすがにこれは口にはしなかった。しかし、関根はお互いに刺激し合える操者と一緒に舞台をしたいと常々思っていた。早乙女は確かに上手いが、色々な役を卒なくこなすタイプであり、関根の求めるタイプとは違っていた。

 今回、刺激を受けるような一流の操者と共演できて、それがかなえられただけでも、十分に嬉しかった。むしろ、細川の舞台に立てたことよりも嬉しいことだったかもしれない。

 だから、関根は早乙女に感謝しても感謝しきれない。

「なーんだ、そんなことか」

 だが、早乙女の方はつまらないとばかりにイカリングを口に運んだ。

「チャンスを物にしたのはあんたの実力じゃない」

 早乙女は豪快に関根の頭をこねくり回すように頭をなでた。

「で、でも、本当に感謝してるから」

 関根が頭を前後左右に振られながらも更にお礼を言うと早乙女はアルコール以外で顔を赤くして顔を背けた。

「何度もお礼を言われると恥ずかしいわよ」

 怒ったような口調だが、本心からでないのは容易にわかった。早乙女が意外と乙女な反応を示したことに、関根は自然と顔がほころんだ。

「こらっ! 今、笑っただろう、このバカ」

 早乙女は拳骨で関根のこめかみを圧迫してきた。こういう技をかけるのは、電光石火の早乙女と異名をとるほど早くて正確だった。

「い、いたいっ! 早乙女さん、マジで痛いって!」

 激痛に涙目になって関根が悶えた。それで早乙女も我に帰ったか、満足したか、関根を解放した。

「仲いいっすよね、関根さんと早乙女さん。二人はロミオとジュリエットっすか?」

 傍から見るとじゃれあっているように見えたのか、青木がからかうように関根たちのところにやってきた。かなりでき上がっているのか、顔は真っ赤で、目も少し眠そうであった。

「バーカ。関根はジュリエットだけど、あたしは乳母だって。見てたらわかるだろうが」

 ちょうどいい玩具が来たとばかりに早乙女は青木の頭をはたいた。

「えっ? そうなんすか? 全然気がつきませんでしたよ」

「気づけよ。関根はまだしも、あたしとは同じ劇団だろうが」

 青木は早乙女に先ほどよりも強く頭を叩かれて、「痛いっすよ」を繰り返していた。

「そういえば、似てるなーって思ったけど……ていうか、言っていいんですか、そんなこと?」

 青木は頭を叩かれながらも、操者の名前は公表しない約束を無視している早乙女に非難めいた視線を向けた。青木は見た目は軽い印象を受けるが、意外にも規則や規律にうるさい男であった。

「もう、そんな時代も終わるわよ。秘密にするって言っても、ネットで公開されているじゃない。有名どころの操者が出るとなったら、客を呼びたい関係者がネットにリークだってしてる。操者の名前を秘密にして日陰者にするなんて、完全に失敗してるからね」

 早乙女は酔いを少し醒まして真面目な顔で応えた。

「そうかもしれないけど、決まりは決まりっすよ」

「ねえ、青木。もう、マリオネットは日陰から出て行く時期なのよ。CDがレコードを駆逐していったみたいにね」

「例えが古いですよ、早乙女さん」

 早乙女に同意しながらも関根が苦笑した。青木の世代ではレコードが主流の時代を知らないだろう。それどころか、最近はCDよりもネット配信が主流である。案の定、青木は知識として知っているが、実感はないという顔をしていた。

「うるさいわね。とにかく、海外じゃ、元から操者を公表しているじゃない。海外の操者が客演できた時は公表してるでしょ」

 ジェネレーションギャップを強引に洗い流すかのように机を叩いて、話を元に戻した。

「海外の人だけだけどね」

「今やブロードウェイは八割は人形劇で占められているのよ。あっちじゃ、操者はちょっとしたスターよ。ジェームス・テイラー、トニー・ローレン、エリザベス・カーチス、ソフィア・ホフマン……。ねえ、あんたも名前は聞いたことあるでしょう?」

 早乙女は焼酎のお替りを持ってきた店員を捕まえて話を振った。店員はびっくりしながらも「名前ぐらいは……」となんとか答えた。早乙女はその答えに満足して、店員を解放した。

 関根は苦笑して店員に「ごめんね」と謝りながら、自分のビールのお替りを頼んだ。

「だから、これからはマリオネットが芸能界の主流になるのよ! わかってる、青木」

「わかってますよー」

 店員が去って早乙女の標的は青木に戻り、さっさと逃げなかった青木はヘッドロックなどされて遊ばれていた。早乙女は酔っていないように見えたが、ただ単に顔に出ていないだけであったようだった。

 青木は関根にアイコンタクトで助けを求めたが、関根は「無理」ときっぱり目で語った。

「いーや、わかってない! 関根、あんたもよ」

 お説教モードに入った早乙女が「ちょっと、そこに座りなさい」という勢いで机をたたき出した。こうなると話は長くなることはいつものことだった。早乙女を好いている操者仲間もこの時ばかりは近寄ろうとしなかった。

「だいたい、日本で操者は地位が低すぎるのよ。ギャラも安いし、食べていくのは大変なのよ。舞台の収入で食べれない人がほとんどなんて、職業としておかしいのよ」

 マリオネットのレンタル代、技師の人件費、設備の使用料、高濃度酸素溶液などの消耗品、電気代。人形劇はお金がかかる。それだけに操者のギャラが安くなるのは自然な流れであった。人形劇は比較的、客の入りがよいと言っても、経費を差し引けば生身の演劇とあまり変わらないことが多かった。

 もっとも、代わりにマリオネットを操る技術があるため、その方面のバイトは多く、報酬もよかった。それに容姿や体力が関係ないということから操者の中には定年後の第二の人生として操者になっているものも多かった。

「社会的地位も! 関根だってもっと評価されてもいいはずなのよ」

「でも、それなら最初から外国に行けばいいじゃないっすか。日本で待遇が悪いのはわかってることなんすから」

 青木は至極まともな意見を口にしたが、早乙女には認められず、机を叩かれた。

「あんたの言うとおり考えて、海外に行く操者も多いわよ。でも、はっきり言って、向こうで成功しようなんてどんだけ奇跡か」

 早乙女はシンデレラなんてお伽噺と鼻息荒く吹き飛ばした。

「言葉の壁もあるし、だいたい市民権がなかったらマリオネットを使わせてくれないのよ。市民権なしで使おうとしたら色々と面倒な書類が毎回必要なの。新人にそこまでしてくれる劇団なんてある? 操者になるより先に市民権を取らないと話にならないのよ」

 少しの間だが、海外に修行に行った早乙女が実感込めてその頃の苦労話を語った。

「でも、向こうのレベルを生で感じられていい刺激だったんでしょ?」

 何度も聞かされている早乙女の苦労話を早めに切り上げさせるために関根が口を挟んだ。

「そう、素晴らしかったわ! ブロードウェイのもよかったけど、ラスベガスのカーネル劇団! あそこは端役に至るまで操者がすごいのよ。去年も見に行ったけど、中でもソフィア・志穂・カーネル! 男役専門の女性操者って、あたしの憧れなのよ。もう、うっとりするなんて通り越して神々しいの一言よ」

 早乙女は関根の策にあっさりと乗り、夢見る乙女のように両手を組んで至福の表情で居酒屋の天井を見上げた。

「カーネル劇団オーナーの三女らしいですね。まだ若いらしいけど、凄い操者ですよね」

 数は少ないが、海外の人形劇はDVDが出ているものもあり、関根も見たことあった。デビューして数年でトップまで上り詰めた脅威の新人であった。

「世の中、天才っているものよね。あんたたちも一度、見てきたらいいわ」

「ラスベガスまで行くお金がないっすよ。日本公演があっても、チケットが手に入らないっす」

 青木が貧乏操者には無理難題と苦笑した。数年前に来日公演があったが、プラチナチケットはネットオークションでとんでもない値段をつけていた。

「ラスベガスまで行く価値はあるわ。ああ、あたしも一度でいいからあの舞台に立ちたい」

 早乙女が叶わぬ望みと羨望のため息を吐いた。

「そういえば、カーネル劇団って、操者だけじゃなくてマリオネットも凄い一級品らしいっすね。今回のロミオとジュリエット級を何体もそろえているって雑誌に載ってたっす」

「それだけに操縦は難しいらしいけどね。それこそ、ロミオとジュリエット並みに」

 早乙女は青木の言葉で現実を思い出してほろ苦い笑みをこぼした。

 今回の舞台で、早乙女はロミオとジュリエットの機体も挑戦した。ベテランらしく、普通に演技はできるが、細川の要求に応える演技までは無理であった。そこで悔しいが自分よりも操縦の上手い関根を推薦したのであった。

「それにしても、関根がジュリエットを取ったのはちょっとびっくりしたわね。あんた、普段はあんまり女役しないのに」

 早乙女がふと思い出したように前から少し疑問に思っていたことを口にした。

「僕がオーディションする時にはロミオ役は決まってたらしいですよ。ジュリエット役だけしか受けさせてくれませんでしたし」

 関根は早乙女から話を聞いたとき、本当はロミオ役を狙っていたのだった。

「だけど、あのロミオに勝てる自信はありませんよ。そういう意味で、ジュリエットに集中できたのはラッキーでした。両方受けてたら、中途半端で落ちてましたよ」

 肩をすくめる関根に青木は首をひねった。

「でも、関根さんの操縦はトップクラスなんでしょ? 俺、劇ではジュリエットと絡みはないけど、一緒に稽古してたら凄さはわかるっすよ。その関根さんにも負けを認めさせて、細川さんがオーディションをさせないほどって、ロミオって凄いっすよね」

「それよ。ロミオが何者か? この舞台で最大の謎なのよ。実力はホント、海外の一流操者並みよ」

 早乙女は腕組して首をひねった。関根は同感とうなずいて黙ってビールを飲んでいた。

「実は海外の一流操者」

 という噂もあったが、そんな格好の宣伝材料を今回の興行主が黙っているなどありえないと、その可能性は早々に否定されていた。

 ロミオの操者は、演技力もマリオネットの操縦も悔しいが自分よりも上であると関根は認めていた。だが、関根にとっては、実力よりもこれほど息がぴったり合うことの方が驚きであった。

 最初、関根はこの話が来たときはチャンスとしか考えていなかった。日本有数の演出家の舞台で主演を張って、それが成功すれば、今の一流半の立場からステップアップできる。それだけに気合が入っていた。

 だが、稽古が始まると、そんなことはあっさりと吹っ飛んだ。

 ロミオである。

 ロミオの凄さに衝撃を受けた。その立ち居振る舞い、舞台に対する情熱。関根は打ちのめされる思いだった。だが、黙って打ちのめされているほど関根も舞台に関しては大人しくない。ロミオに負けないジュリエットを演じようとした。そして、それはロミオを刺激し、ロミオもまたジュリエットに負けない演技をした。

 お互いがお互いを高めあう最高の関係が成立し、関根は計算抜きに『ロミオとジュリエット』に夢中になった。

「ロミオが誰かは知らないが、舞台ではそんなこと関係ないよ」

 気にならないといえば嘘だが、関根にとってはロミオが誰かなどどうでも良くなっていた。

 しかし、意外なところからその情報は飛び込んできた。

「あれ? 早乙女さん、関根さんも知らないんすか? 俺、知ってるっすよ」

 青木はいやに自信満々に胸を張った。先輩の二人に演劇関係で何か教えられるチャンスなどそうあることではないので嬉しいのだろう。

「本当? 誰? 白木さん? いや、加藤さんかな? 佐々木さん?」

 早乙女は日本の操者で実力者の名前をいくつか並べた。だが、それなら関根も早乙女も一緒に仕事したことがあるので、ある程度、予想がつく。

「へへー。実は、ロミオは――」

「断っておくけど、村上信二なんて言わないでよ」

 勿体をつける青木に早乙女が釘を刺した。それが図星だったのか、青木がメデューサに睨まれた蛙のように固まった。

「村上信二? あのアイドルのムラシン?」

 関根は脈絡のない人名に首をひねった。

 村上信二といえば、ちょっとワイルド系でかっこいいと評判のアイドル歌手であった。

 若い女性を中心にかなり人気がある。歌唱力はそこそこだが、ルックスとダンスでそれをカバーしている典型的なアイドル歌手といえた。インタビューなどで見せるクールなワイルドさだけではなく、バラエティーなどで見せる子供のような笑顔も人気の秘密といわれている。

「そのムラシンがロミオ様って噂があるのよ」

 早乙女が馬鹿らしいと焼酎のジョッキを傾けた。

「あれだけのルックスがあるんだったら、生身で舞台に上がった方がいいだろ? 人気があれば、大根でも看板で客が呼べるし、客も演技力を望んでないだろ?」

 青木の話に説得力がないと関根も眉に唾を塗った。

「そう思うっすよね? でも、ムラシンはそれでは気に入らないらしいっす。そこで名前を隠して――というか名前を出してはいけない人形劇で演技の特訓をして、演技力を身につけて、ドラマ、映画、舞台に進出しようという腹づもりらしいんっす」

 青木は自信満々に関根に向かって、そうしない理由を教えた。。

「なるほどな。そういえば、ムラシンがドラマや映画に出ているって聞いたことないな。しかし、アイドルといっても、いろいろ考えているんだな」

 青木の説は一応、筋が通っていると関根は納得した。だが、早乙女はそれが面白くないらしく、仏頂面のまま、皿の上のメザシを手づかみして、タバコよろしく口に咥えていた。

「アイドルのわがままよ。人形劇を馬鹿にしているとしか思えないわよ」

 早乙女は“ロミオ”が村上信二かどうかという真偽は別に、その考えに反感を持っているらしく、不機嫌なオーラをにじませた。

「でも、確かに最初は名前で客が呼べるかもしれない。けど、それも最初のうちだけだ。長い目で見るなら演技力をつけるために人形劇で修行するのは悪いこととは思えないですけど」

 関根は早乙女と逆に村上信二の考え方に共感した。確かに、人形劇を踏み台にしたような形かもしれないが、逆に人形劇を認めていなければできないことである。アイドルが特訓した人形劇ということで、客層を広げる可能性もあり、人形劇業界にもプラスになることかもしれない。

「俺もそう思うっす。今回の舞台の演出をしている細川忠則さんはムラシンが大ファンらしいっす。で、この舞台に出演させてほしいって盛んにラブコールを送っていたという噂なんすよ」

 青木が援軍を得たとばかりに息を吹き返して補足説明を付け加えた。

「週刊現代自身に載っていたわね、それ」

 早乙女はさらに不機嫌そうに鼻息を荒くした。オーディションもしないで役をもらおうなんて、役者として許せなかったのだろう。

 関根が知らないだけで、『ムラシンはロミオ様?!』というのは、大々的に週刊誌などで記事が掲載されてちょっとした話題になっていた。最近は芸能界のゴシップが少なかったこともあり、ワイドショーでも大きく取り上げられていた。

「最近、稽古に集中してたから気がつかなかった」

 関根は元々、あまりゴシップネタが好きではなかった。話題になっていたことを知らなかったことに恥ずかしそうに笑って誤魔化した。

「しかし、あれだけ演技できるとはアイドルも侮れないな。舞台慣れしているのを割り引いても凄いな」

「そうっすよね」

 関根と青木が感心しているのを見て、早乙女は面白くないと顔をしかめた。

「どうせ事務所の力で一流の専門のスタッフを集めて、集中特訓でもしたんでしょ」

 マリオネットの操縦は慣れの問題である。つまり、癖のある機体でも一流のトレーナーがついて長期間、集中して練習すれば、その機体限定だが自在に操れるようになる。

 大方、ロミオの機体をかなり前から占有して特訓していたのだろうというのが、早乙女の予想だった。

「それでもですよ。スタッフが一流でも演じるのは本人ですよ。それに早乙女さんもわかっているでしょ? あれだけ操れるようになるにはかなり努力しなくちゃいけないって」

 関根の言葉に早乙女も気に入らなくても、それは認めざる得なかった。

「でも、これで“ロミオ”がムラシンじゃなかったら大笑いっすよね」

 青木が発した言葉に関根たちは少しの沈黙後、「確かにそうだ」と大笑いした。週刊誌の記事がガセの可能性もあることをすっかり忘れていた。

 だが、関根たちは“ロミオ”が誰なのか? ガセであるかもしれないが答えを出してくれたことで気持ちが軽くなっていた。ロミオが村上信二であることを信じたくなるのは仕方ないことだった。


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