第一章
少し未来の演劇界。マリオネットと呼ばれる遠隔操作する人間そっくりなロボットが舞台演劇――『人形劇』をしている世界のお話です。
劇中劇の『ロミオとジュリエット』の台詞は、『シェイクスピア全集――ロミオとジュリエット』小田島雄志訳(白水uブックス)より引用しました。
そこは目を開けているか閉じているかわからなくなるほど暗かった。そして、異常なほど静かだった。
慣れていない者はこの暗闇と静寂の発する無言の圧力に参ってしまうのだが、関根義孝は慣れている者であった。
関根の周囲はほのかに温かい液体で満たされている。その液体が身体にまとわりつくのを彼は感じていた。特別、彼が敏感肌というわけではない。普段は感じないほど微かな感触でも、視覚、聴覚、嗅覚が外界から遮断されたことで触覚が敏感になっているのであった。
静寂の中、唯一聞こえる音といえば身体伝いに聞こえる心臓の鼓動ぐらいである。関根はその鼓動がかなり早くなっていることに気がついた。
「いつも、こうだな」
関根は苦笑を浮かべたくなった。回数を数えることも意味が無くなるほど、この暗闇に来ているが、いまだにここに来ると興奮してしまう自分が恥ずかしかった。
高濃度の酸素が溶けている液体で満たされた、この静寂の場所を母親の胎内とたとえる者も多かったが、そこに留まりたいとは誰も言わなかった。ここに来た者は、その向こうにある騒々しくも華やかで明るい世界へと一刻も早く飛び出したいという者ばかりであった。そこに多くの苦悩と苦痛があろうとも。
関根も彼らと同じ気持ち、いや、彼ら以上に早くこの暗闇を抜けて、明るい世界に――自分自身とは程遠い華やかな世界に産まれることを強く願っていた。
関根は興奮している気持ちを落ち着けるために深呼吸を三回した。高濃度酸素溶液が肺の中を満たして、液体で呼吸している今、それはさほど肉体的意味を持たない。だが、それが関根の儀式であり、精神的には十分意味があった。
深呼吸の効果でテンポを緩めて安定する鼓動を感じ、彼は口を開いた。声は出ないが、しゃべりたい言葉は喉などに取り付けられたセンサーが読み取り、外で待機している人間にスピーカーを通して伝えられる。
「お待たせしました。準備オッケーです」
しばらくすると明瞭だが、少し渇いた事務的な女性の声が液体を揺らした。
「CROS――チャンネル・リモコン・オペレーティングシステム。診断プログラム始動します――脈拍、血圧、血中酸素濃度……許容範囲内、正常。待機モード解除します。起動プログラム始動します。よろしいですか?」
「ユーザー名、関根義孝で承認。“ジュリエット”起動」
「……ユーザー名確認。生体情報再確認しました。関根義孝様。“ジュリエット”起動プログラム始動します。五、四、三、二、一……」
女性の声は最後まで聞こえなかった。その代わりに関根の耳には機械が作動する音や定期的に鳴る電子音、人の息遣い、さまざまな雑音が聞こえた。静寂に慣れた生まれたばかりの耳には少々うるさくもあったが、関根は逆にそれを安堵した。
関根はまだ目を閉じたままであるため周りは見えないが、背中の感触で硬いベッドの上に寝かされていることはわかる。関根は忌々しいあの暗闇の棺桶、“コクーン”から出られたことを感じて、心の底から喜びがこみ上げてきた。
「今度もうまくいった」
心の中で喜びをかみしめるように呟いた。失敗することは、長年の経験でも指折り数えられる程度に稀ではあるが、失敗すれば再調整に一日はかかる。そんなことになっては大勢に迷惑をかけることになるし、自分自身も辛い。
「ゆっくり目を開けてみてくれ」
安堵の気持ちを抱いていると、少し甲高い男性の声が関根に向かって話しかけてきた。その男の言葉に従って、関根はゆっくり目を開けた。
目を開けると少し眩しかったが、すぐに慣れた。そして、黒縁めがねの丸い顔の青年がにこやかな笑顔で覗き込んでいるのが視界に入った。
「んっ……っと」
関根はゆっくりとベッドから身体を起こすと、寝起きにするように腕を上げて伸びをした。そして、壁に取り付けてある大きな鏡を見た。
鏡に映っているのは、奇跡のように美しい少女であった。
その均整の取れた美しい身体は、服で隠してしまうことが神への冒涜のように思えるほど神々しかった。
ほんのり光すら放っているようにも見える肌の上に、極上の絹すらも色あせて見えるほどつややかな黒髪が流れていく。
身体だけではなく、顔も大きい黒い瞳に通った鼻筋、桜色に濡れる唇、ほんのり赤く染まり思わず触りたくなるような頬。整っていたが、どことなく幼さを残した愛嬌のある顔立ちは製作者の並々ならない愛情を感じずにはいられなかった。
これが今の関根義孝の身体、マリオネットの“ジュリエット”の姿である。
関根は鏡の中の自分に向かって「おめでとう」の笑顔をしてみせてから、改めて丸顔の青年の方に向き直った。
「おはようございます、丸山様」
花もほころぶ愛嬌たっぷりの笑顔とともに鈴を転がしたような愛らしい声で朝の挨拶をすると、丸山は少し顔を赤らめながら視線をそらした。
「おはよう、ジュリエット。気分はどうだい?」
丸山は猫なで声で“彼女”の調子で尋ねた。それは丸山の職務上、必要な質問だが、どちらかというとジュリエットの声を聞ける役得と思っていた。
「丸山様がきっちりと整備してくださるので順調ですわ」
少し上目遣いでベッドの上で軽くしなを作って答えると、丸山は男の生理現象を隠すために椅子にさりげなく腰を下ろさなくてはならなくなった。
「それはよかった。それじゃあ、悪いけど服を着てくれないかな? マリオネット技師がマリオネットに欲情したら笑いものもいいところだよ」
丸山は諸手を挙げてジュリエットに降参をした。
「まだまだ、修行が足りないですわよ。丸山様」
ジュリエットはくすっと笑って、ベッドから降り立つとクロークまで行き、そこにしまってある衣装を手馴れた手つきで身に着けた。
「まったくだ。だけど、正直、君が“ジュリエット”を操っているから不覚を取るんだ。他の操者ならこんなことは無いよ」
丸山はドレスを着たジュリエットに少しの安心と、多くのもったいなさを感じつつ言い訳を並べた。
「ふふ、ありがとうございます。そういっていただけるとお世辞でも嬉しいですわ」
ジュリエットは少し恥らうように頬を赤らめた。おろし髪が幼さを感じさせつつも、ドレスによって強調された胸元に女性の色香が漂う。
そのアンバランスな色香に毒されてか丸山はジュリエットが裸でいたときよりも顔を赤くした。そして、正気を取り戻そうと少し激しく頭を振った。
「参るよ。本当に。“ジュリエット”の中に入っているのが、関根君――男と知っていても、どきどきしてしまう。本当に――!」
不意に丸山の唇はジュリエットの人差し指に押さえられ、言葉を止められた。
その予想外の行動に丸山の心臓は止まるかと思ったが、ジュリエットは毅然としつつも寂しさを含んだ瞳を丸山に向けていた。
その瞳の色に気付いて、丸山が少しだけ冷静さを取り戻したのを見計らって、ジュリエットはそっと唇から指を離した。
「それは言ってはいけない禁忌でございましょう、丸山様。今の私はジュリエット。ジュリエット・キャピュレット。ジュリエット・モンタギュー。ロミオ様の最愛の人。決して、関根義孝ではありませんわ。いいかしら?」
両手を腰に当てて可愛く仁王立ちになったジュリエットは丸山に向かって冗談ぽく抗議した。しかし、ジュリエットの瞳にはまったく冗談の色は浮かんでいなかった。
「僕としたことが、すまん。悪かった」
丸山は素直に頭を下げた。
マリオネット操者の名前は原則、公開してはいけないという禁忌がある。だが、この場合、ジュリエットは「本名を呼んで、役になりきろうとしている役者の邪魔をしている」ことを注意していた。丸山はそのことに気がついて、そんな初歩的なことを忘れていた自分を恥じた。
「すぐにわかってくださって、私はこの上なくうれしいですわ」
ジュリエットは仁王立ちをやめて一息つくと、少し落ち込んでいる丸山の耳元に唇を寄せた。
「――本当のことを言うと、私、女性のマリオネットはそんなに経験がありませんの。しかもこの大舞台で主役でございましょう? マリオネットを起動させた時から役に入らないと不安になってしまいますの。許してくださいませ」
小さな声で告白すると、ジュリエットは丸山からさっと身を離した。装った強気を親しい人にこっそりと打ち明けた少女は照れ笑いを浮かべて、舌をちらりと出した。
丸山はしばらく心が揺れて言葉が出なかったが、はっとして、再び両手を挙げた。
「……本当に降参だよ。そのマリオネットをそこまで操るなんて、君にしかできないよ」
「あら? そんなことはありませんわ」
ジュリエットは謙遜しながらも、まんざらでもない顔で微笑んだ。
「その“ジュリエット”はシビアなコントロールを操者に強いる設定になってるんだよ。並みの操者ならすぐにオーバーアクションになって、そんな細かい表現はできないよ」
扱いづらいはずの機体を表情といい、仕草といい、自分の身体のように操る技術は、技師の丸山から見ても見事としか言いようがなかった。
「もったいなきお褒めのお言葉、感謝いたしますわ」
ジュリエットは丸山の言葉を肯定するかのように優雅に一礼した。そして、身体を起こすと華やかな笑みを浮かべた。
「確かに反応はタイトで遊びはないですし、バランスがシビアですけど、私は好きよ。私の想いを素直に伝えてくれるのですもの。なんだか、これが本当の身体みたい思えてしまいますわ」
ジュリエットは自分自身を抱きしめるように両手で自分の両肩を抱いた。抱きしめた手から返ってくる柔らかく芳醇な感覚にジュリエットは少し恍惚とした表情を浮かべた。
「扱いづらいが一級品。操り手を選ぶタイプの典型だね、“ジュリエット”は。……君みたいな人には一番あっているのかもしれないね」
関根ほどマリオネットを自在に操る操者は日本全国探しても十人もいない。自然と関根はジュリエットのような操り手を選ぶ機体を使いたいという公演に呼ばれることが多くなり、さらに技を磨く結果となっていた。
「ふふ。それでは、私が“ジュリエット”に愛想をつかされませんように、お稽古をがんばらなければなりませんわね」
「これ以上がんばるのはどうかと思うけどね」
誰よりも早く稽古場に来て、誰よりも遅く帰る稽古の鬼がこれ以上がんばってはたまらないという顔をした。
「ふふ。そんな顔されても、がんばることは変わりませんわ。それでは、いってまいります、ごきげんよう」
ジュリエットは丸山の渋い顔を軽くかわして会釈した。そして、そのままドレスの裾を翻し稽古場へと向かう扉を開いた。
* * *
マリオネット――人間が操縦する人型ロボットの総称。その用途は土木・建築現場や危険地帯の作業から福祉関係の介助、各施設のコンパニオンまで幅広い。いまやマリオネットによって現代社会は支えられているといっても過言ではない。
ここまで普及した要因は、人工筋肉や人工皮膚などの発明により、人間とほとんど変わらぬ外観と、人間以上のパワー、人間並みの器用さをもつロボットの製作ができるようになったこと。そして、それがコスト的に社会に受け入れられたことがあげられる。
しかし、操縦方法の革新があったことも大きな要因として忘れてはならない。
チャンネル・リモートコントロール・オペレーティングシステム――通称“CROS”。
今では当たり前になった、この操縦システムは操縦者の脳波を読み取り、ロボットを文字通り意のままに操縦することができる。また、簡単な手術は必要だが、ロボットのセンサーで感じた感覚を操縦者の脳にフィードバックすることもできる。
余談だが、このシステムが完成した時、普段は物静かなことで有名なロバート博士が『人間は第二の体を手に入れた』と廊下に飛び出して大声で叫んだとロボット史を紐解くと必ず記述されている。
ロバート博士の言葉を借りるわけではないが、確かに人間は『第二の体』を手に入れた。
マリオネットの使用により、危険な場所での作業に人間が赴く必要もなくなった。他にも重労働も楽にこなせるようになった。繊細な動きが可能になったことで体力と繊細さの必要な介護や看護の分野にも進出した。容姿を自由にでき、表情なども人間と見分けのつかないぐらい自然に作れるようになり、企業の受付やイベントのコンパニオンにも使われるようになっていった。
ある程度、繊細な動きをさせる場合も、職人芸のような熟練した操作をしなくてよい人間そっくりな機械。それが高齢化、少子化の進む先進国で普及していったことは考えてみれば当然といえた。
マリオネットは、容積的問題で電源を内部に搭載しないことがほとんどである。操縦の命令信号もノイズを低減するため有線とする場合が多い。もちろん、有線方式が多いというだけで。内部電源方式、非接触型電源供給方式、無線操縦方式など用途や目的に応じて様々な方法が採用されている。しかし、特に理由がなければ一番安価で信頼性の高い有線方式が最も多いのは開発当初から今に至っても変わっていない。
その電源供給やコントロールのコードは、人や物に引っかからないように天井からぶら下げていることが多い。そのコードがまるで、操り人形の操り紐のように見えることから、それらのロボットはいつのころからか、『マリオネット』と呼ばれるようになった。
最初はそれは蔑称であったが、いつしかそれが市民権を得て、一般名称の地位に上りつめたのは非常に面白いことである。
今では各業界でなくてはならないマリオネットだが、普及する際に各業界で様々な波紋を起こした。よいこともあれば、悪いこともあった。これは革新的な技術が普及する過程では当然のことであり、ほとんどの業界はその波紋を吸収してすぐに沈静化していった。
ただ、芸能業界はその波紋が大きく、嵐といってもよいものであった。
美男美女を好きなだけ作ることができるマリオネットはまさに芸能関係者にとって理想である。それだけにタレント、特に俳優たちはマリオネットの芸能界進出に猛反対した。俳優たちがストライキする騒ぎもあり、国会でも討議されるほどの大問題となったことは記憶に新しいだろう。
結局、マリオネットは舞台演劇のみ使用を認めるものとし、テレビをはじめとする映像メディアには演劇の宣伝以外では登場させないという協定が結ばれた。さらにマリオネットを操縦している人間――操者の名前は一般に公開しないことが取り決められた。
つまり、マリオネットを操る人間を日陰者にしてしまえば、操縦する人間などいないだろうと反対した業界勢力――主に大手プロダクションは考えたのだろう。
しかし、実際は『華がない』といった理由で演技力は認められているが、華やかな主役になれない役者たちが操者として参加するようになっていった。
確かに、マリオネットを使用した演劇は『人形劇』などと呼ばれ、当初は生身の人間の演じる演劇よりも格下と見られていた。だが、現在では理想的な美男美女の演劇を見れるとあって、観客に支持されて『演劇』を上回る盛況を誇っている。実際、顔がいいだけの大根役者の『演劇』よりも、演技力のある役者の操る『人形劇』の方が質がよかったことも大きな要因といえよう。
海外での波紋は日本よりも大きく、ハリウッドなどは今でもマリオネットの閉め出しを続けている。その一方、ミュージカルや舞台で有名なブロードウェイや、ショーが活発なラスベガスではマリオネットを積極的に取り入れて発展している。
その一番有名な例は、ラスベガスの『カーネル劇団』だろう。カーネル劇団はマリオネット演劇専門の劇団として発足し、今では世界各国で公演するほどの人気である。公演チケットは必ずプラチナチケットになり、そのチケットをめぐり犯罪が起こり、社会問題にされるほどである。
人気を博している『人形劇』だが、それに使用される演劇用マリオネットは年々改良が重ねられ、より細かな表情や動きを操作するために演劇用のマリオネットはCROSを用いても扱いが難しくなる傾向があった。ここ最近は役者兼業ではなく、マリオネットを操る専門の役者が操者として主流となりつつある。ちょうど、かつてのアニメや映画の吹き替えが役者から専門の声優になっていったように。
――長谷川健太郎著 『マリオネットと現代社会』より抜粋
* * *
「えーと……ここでロミオ様に手を取られて驚く……少しオーバーアクションかしら? でも、ジュリエットならそれぐらいの方が合ってますわね」
ジュリエットは台本を片手に、誰もいない稽古場で想像のロミオを相手に演技をしてみた。
『きゃっ! ど、どなた……』
驚きの表情を稽古場の壁一面に張ってある鏡で確認しつつ、表現や角度を変え何度か演じて自分の“ジュリエット”を作りこんでいた。
「やはり、その後のロミオ様とかわす台詞のためにも、ここは少し緊張感を持たせるべきですわね」
自分で納得したジュリエットは台本に要点を書き込み、床に置くと再び演技を始めた。
今のジュリエットにとってそこは稽古場ではなく舞踏会の会場で、今は名も知らぬ仮面の男性を探し回る少女となっていた。
人ごみを縫うようにステップを踏み、左右に顔を巡らせて、光輝く仮面を探す。求めるあの人は見あたらない。失望の色で輝く少女の美しさが夜露に濡れる月のようにかげる。そして、手を――
「きゃっ!」
本当に誰かに手を握られ、ジュリエットは飛び上がらんほどに驚いた。そして、握られた手を見て、安堵と喜びの表情を浮かべた。
ジュリエットの手を握ったのは短髪のブロンドが眩しい美形の青年であった。青年は一瞬、子供のように悪戯っぽく笑顔を浮かべた。そして、表情を引き締めた。
『聖者様。巡礼のこの手が無礼にもあなたの聖地を汚してしまいました。その謝罪に唇が聖地に口づけをして清めさせてください』
青年はジュリエットの手の甲にキスしようとした。だが、その寸前でジュリエットがそれを拒むように手を引こうとする。
拒絶の動きに青年の動きが止まって、ジュリエットを悲しげな瞳で見上げた。ジュリエットはその表情を否定するかのように首をゆっくりと振った。
『いけませんわ、巡礼様。それはあまりにも手に対するひどい仕打ち。巡礼様は信心深く、敬虔なお方。その振る舞いに何の無礼がありましょう。聖者の手は巡礼が触れるもの。指と指が触れ合う。それは巡礼の優美なキスと申します』
ジュリエットは握られていない手で胸の動悸を隠すように自分の胸を押さえ、戯れる小鳥のようにさえずった。
『では、聖者と巡礼に唇はございませぬか?』
悲しみは拭い去ったが、戯れる小鳥を捕まえることのできない若い鷹は、焦りと困惑を覗かせる。そして、小鳥を熱くまっすぐに見つめた。
ジュリエットにとって、その熱いまなざしは太陽の光であり、彼女の体温を上げさせた。
『いいえ。祈りを唱えるのに唇は必要です。聖者にも巡礼にも』
『では、どうか、今この時だけ、唇に手の役割を。信仰が絶望に変わらぬうちに。唇が祈りをささげます』
若鷹は立ち上がり、強引に小鳥を抱きすくめた。小鳥はなす術もなく、あっという言葉とともに若鷹の虜となった。
『聖者の心は動きません。祈りを受け入れようとも』
ジュリエットは隠している心が見えてしまわぬように、ゆっくりと目を閉じた。
『では、動かないで。祈りを受け入れるあいだ。あなたの唇でこの唇の罪が――』
台詞を続けようとしていた若鷹だが、そこで我慢の限界を迎えて、突然、小鳥から身体を離して笑い出した。
「もうっ! せっかくいい調子でしたのに。途中で笑い出すなんてもったいないですわ。もう少し続けてくださればよろしいのに。駄目なロミオ様ね」
ジュリエットは頬を膨らませてむくれたが、目は笑っていた。
「ああ、すまない。練習熱心なジュリエット。君があまりにも熱を入れて演技を続けるものだから、君が自分の胸に剣が突き立てるまで続けるのかと想像してしまってね」
笑いをこらえながらロミオは楽しそうに言い訳した。
「そんなわけありませんわ。ティボルトもマキューシオもいらしていないのに、最後まで通すことなどできませんわ」
ジュリエットは劇中で殺される重要人物を挙げて肩をすくめた。
「君の想像力なら二人ともこの場にいなくても簡単に殺せるよ」
「あら? それでは、あなたの想像力では、ティボルトは殺せなくて? パリス伯爵すらも?」
ジュリエットはロミオをじゃれるようにからかった。
「いいや。君が殺せというのなら、僕自身ですら殺してみせるよ」
少し芝居がかった台詞を何の臆面もなく口にするロミオに、ジュリエットは自分の顔が赤くなるのを感じて、回れ右してロミオから顔を隠した。
「そんなこと仰っていらっしゃるから、私一人置いて先立ってしまわれるのですわ。男の方って勝手ですわね。いつも一人で先にいってしまわれるのですから」
拗ねて機嫌を損ねたふうを装ってみせたが、ロミオにはその偽装は通じなかった。
「耳まで真っ赤で可愛いよ、ジュリエット」
ロミオはジュリエットを後ろから優しく抱きしめた。
ジュリエットの顔は臨界を迎えるほど赤くなり、ロミオの腕を振り払って距離を取った。そうしないと本当にマリオネットが壊れてしまって顔から火が出そうであった。
「運命だけでなく、君も僕を翻弄するのか。ジュリエット、僕は君をこんなに愛しているのに」
悲痛な運命に打ちひしがれ、絶望するようにロミオは床に膝をついた。
「もうっ! ロミオ様ったらいい加減にしてください」
ロミオの演技と分かっていてもジュリエットの鼓動は高鳴りをやめない。ジュリエットがいくら無理やり怒った顔をして、それを誤魔化そうとしてもロミオがそれを余裕の笑顔であっさりと受け流す。傍から見るとまさに――
「ラブラブだね。まったく、見ているこちらが恥ずかしくなるほどだよ」
不意にロミオとジュリエット以外の声が稽古場に響いた。ジュリエットたちが声のした方を見ると台本片手に細身の中年男性が苦笑を浮かべながら稽古場の隅で壁に背中を預けて立っていた。
「細川さんっ。いつからそこに?」
二人は顔を真っ赤にしてあたふたした。日本を代表する演出家の一人、細川忠則に自分たちの遊び半分の演技を見られた恥ずかしさよりも、恋人同士の語らいを知り合いに見られたような恥ずかしさが二人はこみ上げていた。
「巡礼のキスあたりからだが、気づいていなかったのか?」
細川は少し驚いて苦笑を濃くした。芝居に集中していたからか、二人の世界に没頭していたからか。そう思ったが、どっちにしてもあまり変わりないと細川は思い直した。
「まあ、いいものを見せてもらったというべきかな? 残念ながらキスシーンの直前で幕になかったがな」
からかうように細川は口にしたが、本音も少しばかり含んでいた。それほど、二人の演技は人の目を惹きつけるものであった。
「細川さんまで……」
だが、ジュリエットは恥ずかしさのあまり消えてしまいたいと小さくなった。
細川はその様子をひとしきり笑い終えると表情を引き締めた。
「さあ、他の連中もそろそろ来るだろうが、先に稽古を始めるか。開演まで時間がないんだ。ビシビシいくぞ」
細川の顔が演出家のそれに切り替わるのを見て、ロミオとジュリエットも役者の顔になり、本格的な稽古が始まった。
劇中劇の『ロミオとジュリエット』の台詞は、『シェイクスピア全集――ロミオとジュリエット』小田島雄志訳(白水uブックス)より引用しました。