「チョーさんのある日」
その日は9月にしては涼しく、少し肌寒さを感じる日だった。
いつも開けっ放しにしてある窓も締まっていて、外音の消えた教室はいつにもまして静かで、些細な音でもよく響き、チョークの音や椅子の軋む音がいつもより目立って聴こえた。教師がチョークを置くと一層教室は静かになって、そんな時に誰かのお腹が鳴ったりすると小さな笑いが起こった。そんなのいつもと変わんないじゃん?と言われればそうかもしれない。けど、何でかその日は変な緊張感が教室全体に漂っていた。
「ぷぅ」
それは高くて少しフラットな、か細い音だった。絶対音感を持った者でさえ、音階で示すのは困難だと思う。
「えっ?」
クラス全体が緊迫した空気に包まれた。
「嘘だろ?」教室にいた誰もがそう思った筈。そしてみんな気づいた。視線が動く音がした。そして、
「ぷぅ」
2度目が響いた。
瞬間、顔を伏せて口を塞いだ。みんな大体似たような動きをしたのだろう。あちこちから制服が擦れたきぬ擦れ音が聴こえた。それはあまりにも残酷な時間だった。けどこんな時、頼れるのは時間だけでもある。時間だけが冷静さを取り戻させてくれる。なんとか堪えて伏せた顔をゆっくりと上げた。そして右斜め前に視線を向けた。チョーさんの席だ。今、手を上げているのを見れば、多分俺の横隔膜は崩壊してしまうだろう。いや、もう既に痛かった。危うく吹き出してしまいそうになったが、顔を伏せて必死で堪えた。もし吹き出してしまえば、それは今まで築き上げて来たC組の絆を壊してしまう事になる。それほど今の状況は切迫していた。前方に気配を感じて、ゆっくりと顔を上げた。前の席には吉田が座っている。吉田の肩が震えていた。吉田はさっき、その音が響いた瞬間に声を出した奴だ。俺は聞き逃さなかった。クソ純粋な「えっ?」だった。慌てて口を塞いだから良かったものの、危うく戦犯になってしまう所だった。
吉田は日頃からダメな奴だと思っていたが本当にダメな奴だ。約束は守らないし、人を揶揄う時は限度を知らないし、こんな奴に絶対弱みなんて絶対握られたくない。こんなダメな奴は見た事ない。いくら読みたい漫画があろうが、もう吉田の家に遊びに行くのはヤメよう。
俺は吉田に矛先を向ける事で何とか冷静になる事が出来た。込み上げてくる笑いをかき消した。吉田は言うほど悪い奴じゃないし、面白い漫画もよく貸してくれる。ただ後でキツく言っておく必要はあった。吉田を視界に入れないようにして顔を下に向けた。今は些細な挙動でさえも命取りになる。ふと横に目をやった時、隣の席の服部と目が合った。俺と服部は同じラグビー部で、親友と呼んでもいいくらいの関係で普段から仲がいい。お互いの笑いのツボもよく知っている。危うく横隔膜が破けそうになったが、何とか堪えて無言のまま今の状況を確認しあった。
(こんな事今まであったか?)
(いや、ない。さすがにコレは始めて)
服部も必死に耐えているのがわかった。俯いている服部はいつにも増して丸く見えた。俺は自分の腹筋を二度三度と強く叩いた。また気配を感じて後ろを見てみると、斜め後ろの席に座っている本田が、下を向いたまま胸の前で両手を握っていた。なんかやけに姿勢がいい。
それは何だ?お祈りしてんのか?クリスチャンがご飯食べる前によくやるアレか?
いや違う。弁当を食べる時、頂きますと手を合わせる事もない奴だ。じゃあ何を祈ってんだ?こんな時だけ神様に祈って願いが通じると思ってんのか?
祈りを捧げている本田の後ろで井上が顎を出している。
なんだ?顎を出せば笑うの我慢出来るのか?
危うく全てを台無しにしてしまいそうになったが、ここも何とか乗り切った。
本田、井上も方法は異なるが各々のやり方で戦っている。そのまま本田達を見続けるのは不可能だったので、姿勢を戻して顔を伏せた。授業はまだ続いている。止まっていたチョークの音も、また一定のリズムを刻み始めた。
この時みんなの気持ちは一つになっていたと思う。
絶対に笑ってはいけない。
それは、今このクラスにいる全員の共通認識、共有事項だ。それは義務であり強制で、達すべき課題である。しかし、今になって思えば、その誓約が悲劇を招いたのかもしれない。
右斜め前に気配を感じて、ゆっくりと顔を上げた。足元が見えて、段々と上半身、綺麗な黒髪、そして真っ直ぐと伸びた手が見えた。可憐で凛々しい姿がそこにあった。後ろからではあったが横顔が少しだけ見えて、その凛々しさとは裏腹に頬が赤くなっているのがわかった。ただでさえ恥ずかしがり屋のチョーさんが、とても恥ずかしがっていた。胸が痛んだ。チョーさんも教室の空気には気づいていた筈だ。その事を思うと余計に居た堪れない。
俺は冷静さを取り戻した。その光景を目にする事で冷静になれた。よくよく考えれば何て事ない。ぼんやりと外を見て、漂う雲を眺めていればいい。全校集会のクソ長い話が学年主任から始まって、教頭、校長と続く時と同じように、ただ時間が過ぎるのを待っていればいい。俺たちはもう経験している。大丈夫だ。
チョーさんが手を上げる。気づいた教師が「どうぞ」と言ってドアを促す。それがいつもの流れ。今日のところは出来れば何も言わず促すだけでお願いしたい。下手に何か言って、噛まれでもされたら全てが終わる。
チョーさんに気づいた教師が無言でドアを促した。握っていた拳に思わず力が入った。それでいい。他のみんなもホッとしただろう。俺たちはもう大丈夫だ。
「パギィー」
それは何の前触れもなくやってきた。チョーさんが立ち上がろうした時、椅子を引く音が響いた。通常なら「ギィ」と鳴る筈の音が「パギィー」と鳴った。「ギィ」の前に「パ」が入った。「パギィー」だった。誰の耳にも「パギィー」だった。その「パ」の出所はわからなかったが、確かに椅子はそう鳴いた。俺は咄嗟に腕で口を塞いだ。両手だけでは防ぎようがなかったからだ。腕を強く噛む事でなんとか堪えた。痛かった。とても痛かった。血が出るかもしれない。いや、出してやろうと思った。この危機を乗り越えられるなら、どうって事ない。
乗り切った。
そう思ったのも束の間、吹き出してしまいそうになるのをごまかそうとしたのだろう、前の席に座っている吉田が咳払いをしようとして失敗した。文字で書くと「ぶふぃー」だ。およそ咳払いではない、ブタのような鳴き声だった。瞬間、教室が揺れた。ドッとした笑い声が起こった。
「吉田ぁ!」
「お前それはねーだろ?それはねーよ吉田!」
「完全に吹き出してんじゃん!」
「お前それ全然ごまかせてねーから!」
それまでの沈黙が嘘だったかのように、吉田を罵倒する声があちこちから飛び交った。1つになりかけていた教室の空気が全て崩壊した。飛び交う罵倒の中「パギィーがパギィーが」と吉田は繰り返した。
気づいた時にはもうチョーさんは教室にいなかった。笑い声の中そっと出て行ったのだろう。女子の誰かが立ち上がって言った。
「ちょっとみんな、いい加減にしなよ。凛ちゃん可哀想じゃん。教室戻り辛くなるでしょ?」
その言葉で冷静さを取り戻したのは確かだ。誰もチョーさんを傷つけるつもりはなかった。
「マジみんな普通にしてよう。何もなかったようにしよう」
反対する奴は誰もいなかった。けど正直に言おう。そう言ってしまった結果、チョーさんが戻ってくる間に、また変な緊張感が生まれてしまった。戻ってくるまでに授業が終わってくれればよかったのだが、時計を見るとまだ10分近く残っている。このまま戻って来なければいいのに。そう思った時、扉が開いた。思わず顔を背けてしまった。チョーさんの顔を見れなかった。笑ってしまうからとかじゃなく罪悪感からだ。申し訳ないし、可哀想だし。何より本人が一番辛いと思う。多分チョーさんも見られたくないだろう。けど、思い返して見て、考えが変わった。もしかしたらチョーさんは泣いているかもしれない。その顔を見ないと、心に刻まないと、また俺たちは同じ過ちを繰り返してしまうかもしれない。多分、これからもチョーさんは手を上げるだろう。体質なんてそう簡単に治るもんじゃない。俺たちは繰り返しちゃいけない。そう思って、思い切って顔を上げた。チョーさんの顔を見るために。刻み込むために。それを忘れないために。チョーさんは俯いたままで自分の席に近づいていった。やがて顔を上げたチョーさんは「えへへ」と照れ笑いを浮かべた。グッと胸が締め付けられた。制服の上から胸元をギュッと掴んだ。自分以外の誰かを本気で護りたいと思ったのはこの時が初めてだったかもしれない。ただただ可愛いと思った。
スッキリしてよかったね、チョーさん。
やがてチャイムが鳴って休み時間になった。友達と話すチョーさんはいつものチョーさんだった。
その日の放課後、男子で集まって話をした。チョーさんを「チョーさん」と呼ぶのをやめる事。そしてもう1つ。チョーさんをミスコンにランクインさせる事を決めた。反対する奴は誰もいなかった。




