開幕の狼煙
そして訪れた皇女の誕生パーティーの日。
リリィは不思議なほど穏やかな気持ちで目覚めることができた。
この日をどれだけ夢見たことか。
昨日の夜は心臓が高鳴り、頰は高揚し、手が震えていた。
瞼を閉じればいつだってあの、死ぬ間際のエラの笑顔を思い出してしまう。
マルクのなんの感情もこもっていない表情もだ。
鼻の奥をツンっと刺激する血の香り。
水を吸って重くなるドレスの感覚。
動かなくなる手足に、最後に見た湖に差し込む日の光。
全部全部、昨日のことのように覚えている。
この腹を刺す痛みも……。
その全てをわすれなかったからこそ、今日という日を迎えられたのだ。
それも不思議なほど穏やかに。
朝日の優しい木漏れ日がカーテンから溢れ、鳥のさえずりが耳に届く。
まるでなんてことない一日の始まりのように、リリィは起き上がると身支度をし始める。
「おはようございます。皇太子妃殿下」
「おはよう。身支度を頼みます。――今日は皇女様のお誕生日パーティーですから」
決戦の日。
身に纏うのは最高の鎧。
ノアとお揃いの黒を基調としたマーメイドドレスには、ふんだんにブラックダイアモンドを散りばめた。
リリィが歩くたびシャンデリアの光が反射し、キラキラと煌めくドレスとなることだろう。
二の腕あたりまでの手袋には、孤児院の子どもたちが施してくれた花の刺繍がある。
ピンヒールの靴もドレスと合わせて、首元や耳元にも黒い宝石が光る。
――黒でまとめようと言い出したのはノアだった。
パーティーの日を、リリィ・マクラーレンの最後の日にしようと。
だから黒。
追悼の意味を込めたその装いで、リリィはエラとマルクと対峙するのだ。
能天気にパーティーに参加するであろう彼らの鼻を明かすために。
「――相変わらず俺の花嫁は美しい」
「……ありがとうございます。殿下も素敵です」
同じく黒を身にまとったノアから差し出された手に、己の手を乗せる。
「君ほど黒が似合う女性もいない。……また流行るだろうな」
「私としてはこちらの刺繍に注目して欲しいのですが……」
「大丈夫。どちらにしろ、今日という日は人々の記憶に残るのだから」
「――そうですね」
これから起こることを考えれば、確かにその通りだ。
孤児院の事業のお披露目としても、これほどいい場面はないだろう。
リリィはノアの腕にギュッと抱きついた。
「……不安か?」
「……いいえ。不思議と不安や恐怖心はないんです。失敗したらどうしよう、なんて昔なら絶対に考えたのに……」
今はそんな気持ちは一つもない。
まるで失敗しないことがわかっているかのように、気持ちが落ち着いているのだ。
昔のリリィなら、不安に震えていたはずなのに。
「……君は昔のリリィ・マクラーレンではないんだ。……彼女とはもう、決別したんだ」
「…………そうなのかもしれません」
もちろんリリィとしてここにいる。
それなのに決別なんて変な話だが、そうとしか言えないなにかがあるのだ。
「今日という日を待ち望んでいたからこそかもしれませんね」
「最高の舞台にしよう。――その一歩ではないが……」
ノアはなにやら楽しげに笑うと、リリィの耳元でこっそりと囁いた。
「ハルが帰っていた。――怪しげな男を連れて……な」
「――それじゃあ……!」
「証人が増えたな。ハルが尋問も終えてる。……ペラペラと口が軽い男のようだ」
ああ、まさかこんな最高のタイミングで戻ってきてくれるなんて。
「――ハルにはお礼をしないといけませんね」
「なら今度メキーラも一緒にお茶会をしてやるといい。……夢だったらしいからな。そういう女性らしいものが」
なんて可愛らしい夢なのだと、リリィはへにゃりと目尻を下げた。
そんなことでいいのなら喜んで準備しよう。
二人にはいつも世話になっているのだから、せめてものお礼だ。
「みんなのおかげで、最高の日になりそうです。……私は、人に恵まれていますね」
ノアを筆頭にハルとメキーラは皇宮でのリリィを支えてくれている。
それに加えて孤児院のほうではクレアとアーサーも。
たくさんの人の支えがあって、今リリィはこの場にいられているのだと痛感した。
「感謝しないとバチが当たりそうです」
「全て君が君だからだろう? 彼らだって君だから助けようと思った。……俺だってそうだ」
「……殿下に会えたことが、一番のしあわせです。こんな私の話を信じて……助けてくれた」
ノアの支えがなければ、きっとどこかで躓いていたはずだ。
昔のリリィと同じで、できないと諦めていたことだろう。
しかしここまでやってこれた。
それは全てノアのおかげだ。
だからお礼を言おうと開きかけた唇に、ノアの人差し指が当てられた。
「お礼は聞き飽きた。……それよりいつまで自分の夫を殿下呼びするつもりだ?」
「…………」
二人っきりの時はノアと名前で呼んでいたため、なんとなく人前では気恥ずかしさがあった。
けれど確かに言われてみれば、夫となったノアを殿下と呼ぶのはおかしい気がする。
「…………ノア」
なのでちょっと恥ずかしそうにそう呼べば、ノアは満足げに微笑む。
「最高の気分だ。このままベッドに行きたいくらいには」
「ダメですからね!?」
「わかってる。……行こうか。決戦の地へ」
差し出されたノアの手に己の手を重ねて、リリィは深く頷いた。
今、復讐の火蓋が切られた――。
「――はい」




