恐怖に打ち勝て
「お食事でございます」
ガンっと勢いよく置かれた食器には、冷めた具材のないスープが入っていた。
そのそばにはカチカチに乾燥したパンもあり、これがリリィのいつもの食事である。
――この時間が苦痛だった。
「早く食べてもらえます? さっさと片付けたいので」
「…………」
「――返事もできないのかよ」
ボソッとつぶやかれた言葉に、そっと顔を伏せた。
結婚したばかりの時は、これでも努力したのだ。
この屋敷の使用人たちに女主人として認めてもらおうと、彼らと対話することを諦めなかった。
けれど彼らの中にはもう、エラがいたのだ。
この屋敷の前の女主人である、前伯爵夫人であるマルクの母。
彼女もまたエラを愛していたらしい。
自身の娘がごとく彼女を溺愛し、ゆえにリリィを嫌っていた。
結婚式の日も目を合わせることもなく、こうして伯爵家にやってきてからは別邸から出てくることはない。
そんな義母の代から仕えているらしい使用人たちは、見事にその認識を受け継いでいる。
だから彼らは、はじめからリリィを嫌っていた。
特になにかをしたわけではないのに、結婚式を終えてやってきた時にはもう全てが決まっていたのだ。
リリィを女主人であると認めることはせず、エラとの差を徹底的なものとした。
リリィの言うことは聞かず、全てエラに指示を仰ぐ。
はじめのころはちゃんと話そうとした。
叱ったりもした。
リリィは女主人としてここにいるのだと。
エラはただの客人だと。
だというのに使用人たちの態度は変わらず、さらにはエラに告げ口までしたらしい。
マルクと一緒にやってきたエラは、泣きながら言った。
「義姉さまが女主人であることはみなわかっています。これからは心を入れ替えるとみんな約束してくれました。……だからどうか許してあげてください! みんな辞めさせられたら行く当てがないのです」
「辞めさせる? 一体なにを……」
「自分の言うことを聞かない使用人を辞めさせようとしたそうだな」
そんなことしていないと首を振ったが、マルクが話を聞いてくれることはなかった。
使用人がかわいそうだと涙をポロポロと流すエラを支えながら、マルクが強く睨みつけてきた。
「しばらく食事は一人でとれ。自分の醜い心と向き合う時間をくれてやる」
それだけ言うとマルクはエラを支えながら部屋を出て行った。
その後ろ姿を呆然と眺めていた時のことを思い出す。
あれから全てを諦める癖がついてしまったのだ。
どうせ言っても聞いてもらえないとわかったから。
リリィの意見なんて誰も求めていないのだ。
あれから一年近くは経っているが、結局今も一人で食事をとっている。
どんどん惨めになっていくその食事を眺めつつ、大きくため息をつく。
するとそれを聞いていた使用人のアメリアが、リリィの前からスープの入った皿を取り上げた。
「ため息つきたいのはこっちだっての! こんないるだけの女に仕えなきゃいけないなんて……最悪!」
まだ口をつけてもいないのに、アメリアは皿をあっという間に片付けてしまう。
勢いよく皿を持ち上げた際に転がり落ちたパンを指差し、アメリアは笑う。
「女主人としての役目の一つもできない女なら、それがお似合いよ。ちゃんと食べなさいよ」
部屋を掃除してくれる使用人なんていない。
だからリリィ自身が掃除をするが、毎回綺麗にできているわけじゃない。
ゆえに床に転がったパンは埃と土まみれ。
それを食べろなんて正気じゃない。
だがこれを逃すと今日は一日食事にありつけないのだ。
だからリリィは立ち上がると汚れたパンを手にとり、もう一度ギシギシと音の鳴る椅子に座った。
固いパンを半分に割り、汚れていない中だけを食べる。
するとそれを見ていたアメリアがくすくすと笑うのだ。
「なっさけな! それでも元侯爵令嬢なの? 恥ずかしくないわけ?」
「…………」
なにも言わない。
なにを言っても彼女を喜ばせるだけだから。
新しいのを持ってくるよう命令しても、お願いしても答えは同じ。
欲しいならマルクに願えと。
彼がリリィの望みを叶えてくれるはずがない。
だからもう、我慢するしかないのだ。
ただ静かに時が過ぎるように、と。
アメリアは涙を拭いながら楽しそうに部屋を出て行った。
これがこの伯爵家での、リリィの立場だ。
ただの乳母の娘であるエラにすら敵わない哀れな女。
女主人としての仕事すらできない可哀想な女。
「――失礼します。……ご主人様がお越しです」
「――」
けれどそんなリリィにしかできないこともある。
突然のマルクの訪問に、食べていたパンが喉につっかえた。
慌てて近くにあった水を飲みながらも、その手はブルブルと震える。
体が拒絶しているのだ。
心が怖いと叫んでいる。
――けれど行かねば、もっと酷い目にあう。
だから立ち上がった。
膝が笑っているけれど、それに気づかれないよう気丈に振る舞う。
呼びにきた侍女についていき、夫婦の寝室へと向かった。
部屋の扉を開ければ、そこにはバスローブ姿のマルクがいる。
彼は赤ワイン片手に、濡れた茶色い癖毛をかきあげた。
「……きたか」
「…………」
これだけは、エラにはできないことだった。
彼らがお互いを本当に兄妹だと思っているからなのか、これだけはリリィの役目となっている。
だというのに体が震える。
マルクのことは夫として愛していると思う。
だというのに……。
「…………はやくしろ」
「――はい……」
震える手でボタンを外す。
痛いのも苦しいのも嫌だけれど、本当にこれだけなのだ。
リリィが唯一、この屋敷でできることは……。
しゅるりと音を立てて服が落ちる。
その間も心の中ではずっと、大丈夫、大丈夫と繰り返していた。
彼の腕が伸びてきて肩に触れる。
思わずビクリと反応してしまったけれど、マルクが気を悪くした様子はない。
腕を引っ張られて、ベッドへと向かう。
あとはもう、天井を見つめていればいいのだ。
そうすれば全て終わるから。
だからきっと大丈夫。
「――」
覆い被さってくる大きな影に、リリィは静かに涙を流した。




