九月一日の教室で
今日は九月一日。
ニートの私には何でもない毎日のうちの一日にすぎないのだが小中高生の誰かからすると来ないでほしいと願う一日でもある。今もこの日本のどこかで悩んでいる子がいるだろう。
ネット上でも学校に行きたくないという声が多く見られ、ニュース番組では九月一日は自殺が多いことをテーマにした討論が行われていた。
私自身も長期休み明けの学校の重さを感じていた1人だし大小あれどみんな経験はあるのではないだろうか?長期休みに限らずインフルとかで学校を休んだ休み明けの教室に入る時の謎の張り詰めた空気、ドアを開ける瞬間のあの圧力は少し怖かった。日常へ戻るプレッシャーもある。
友達同士のグループの配置が少し変わっていたり、久しぶりに会う同級生にも緊張感がちょっと出る。数分経っちゃえば慣れたりもするがやけに新鮮に感じる教室に馴染めるか不安になる子も多いだろう。
学生の時は教室の中の世界が全て。大人になれば人間関係が変わるのも当たり前だし色々な世界、色々な人生があるのだが、当時は教室の中での人間関係が人生を大きく左右しているように感じていた。
死を選ぶのなんて人間誰しも怖い。なのにそれを選ぶのはもうこの世界を生きることがそれ以上に苦痛だと思っている証拠だ。生きているより死んだ方がましだと自殺を選ぶ人は皆思っているのだろう。年齢で決めるものでもないがやはりニュースで若い子の自殺を目にするとなんとも言えない気持ちになる。
まだ見たことない世界がたくさんあって、生きていれば何が起こるかわからないからこそ絶望のままこの世を去るのではなくてそこを乗り越えた素敵な世界も見てほしい。
このアニメの最終回気になるなとか推しを作るとかなんでもいいからこの世界の輝く何かを見つけて生きる理由を見つけてほしい。
生きてる理由なんて誰にもわからないし皆いつかこの世からいなくなる。なぜ生まれてきたのか、自分はなんなのか、死の世界はあるのか何もわからない。この世界には解けない謎も多い。
ただ一つ言えるのは、嬉しいのも幸せなのも辛いのも悲しいのもほぼ全てが人間関係に直結してくることだ。人との関わりは時に重く、逃げ場をなくすこともある。愛された記憶も傷ついた記憶も、全部人との間に生まれる。
しかし同時に、苦味があるこそ人生に深みが生まれ甘さが際立ち、絶望があるからこそ希望は鮮やかに見えそこにしかない味わいが宿る。
得意不得意は人によって違うし人前に立つのが死ぬほど嫌だという人もいれば、人前に立って自分の意見を言うのが大好きみたいな人もいる。少しずつ違うからこそ気持ちが分かり合えないこともある。ちょっとした出来事がきっかけで良い方向にも悪い方向にも大きく人生が変わることもある。
討論番組ではモザイク越しで子供が不登校児だった母親が自殺をこの時期にほのめかして止めるのに必死だった過去を話す。
その声は涙に震えながらも、同じ思いを繰り返させたくないという切実さに満ちていた。
けれど同時に、母の必死さが支えである一方で、止められることで苦しみが倍増していたのではないか―—そんな問いも残る。
本当に止めることだけが正義なのだろうか。生きることと死を選ぶこと、そのどちらにも重くのしかかる現実が突きつけられていた。
誰かの人生にやいのやいの言う権利は他人にはない。本当に無理ならこの世界から去ることも一つの選択肢だ。
ただ、それでも願わずにはいられない。
どうか、この世界に少しでも長く留まってほしいと。もしもあと少しだけ踏みとどまる余白があるのなら、その中で出会う景色や人との瞬間に、まだ知らない輝きが潜んでいるかもしれない。
どうかその一瞬を、ほんの少しでも未来に委ねてみてほしい。




