2. 王子と石像
「レオ様、起きてください。」
カーテンが開かれ、眩しい朝の光が部屋に差し込む。
「あと五分だけ……」
ふわふわのベッドに沈み込みながら呟くと、メイドはため息をついた。
「それ、さっきも言いましたよ。五分待ちました。起きてください。」
顔なじみのメイド――レイナだ。
やれやれといった顔で僕を見下ろしている。
仕方なく、重い体を持ち上げてベッドから起き上がる。
「今日の予定は、午前中にマナーのレッスン。午後は特に予定はありません。」
レイナが淡々と告げる。
彼女は僕の専属メイドで、生まれたときからずっと世話をしてくれているらしい。
つまり、母親代わりだ。
身分に関係なく、わがままを言えば容赦なく叱られる。
まあ、そのおかげで生活が堕落しないのはありがたいが……
この世界に来てからの三年間で、なるべく怒らせないのが賢明だと学んだ。
⸻
「うん、上手になりましたね。まだ、気品さがたりませんが、及第点と言ったところですね。」
マナー講師を言う。
マナーの練習は、面倒だが、そこそこ好きだ。
僕でも人並みにできるし、覚えることは多いが、覚えてしまえば、特に困ることはない。
気品さはどうやって出すのかは分からないが、及第点ならいいだろう。
講師が退出し、部屋に静けさが戻る。
僕は椅子から立ち上がり、少し伸びをしてから、廊下へ向かった。
⸻
午後の予定は空いている。
もし剣術や魔法のレッスンを取っていれば、今ごろ兄や妹と顔を合わせていただろう。
二人が嫌いなわけじゃない。
むしろ、あの才能には素直に感心している。だが――同じ場に立つと、自分の凡庸さがいやでも突きつけられる。
それは、ちくりと胸を刺す感覚。
できる限り味わいたくはない。
だから僕は、いつもの秘密のスポットへ向かう。
そこなら誰も来ない。
昼下がりの空気と、ひとときの安らぎが、僕だけのものになる。
そう思いながら、壁際に隠された小さな穴へ近づく。
苔むした蓋をそっと持ち上げ、周囲を一巡り見渡す――人影はない。
蓋を脇に置き、身をかがめて抜け穴をくぐると、城の外壁に隣接した古びた建物の庭に出た。
陽の光がやわらかく差し込み、風に揺れる草の香りが鼻をくすぐる。
鳥のさえずりだけが響く、静かな場所だ。
ここに立つだけで、胸の奥がふっと軽くなる。
だが、この庭は立ち入り禁止とされている。
理由は知らない。
けれど、人は「ダメ」と言われると、なぜか余計に足を踏み入れたくなる――僕もその一人だ。
初めてこの抜け穴を見つけたときは、入るつもりはなかった。
けれど、覗いた先に広がるこの静寂を見た瞬間、もう後戻りはできなかった。
本当なら誰かに報告すべきなのだろう。
でも、誰にも邪魔されず、心をほどくことができるこの庭は、僕だけの宝物だ。
だから、今もこの抜け穴のことは誰にも話していない。
⸻
いつものように、ひび割れた古びた噴水の縁に腰を下ろす。
澄みきった空気が肺に満ち、遠くで鳥のさえずりが小さく響く。
やはり、この場所は落ち着く――そう思った、その時。
足元の地面に、丸い窪みがあるのに気づいた。
しゃがみこみ、土を手で払い落とすと、金属の蓋が現れた。
よく見ると、小さな取っ手がついている。
試しに引いてみると、驚くほど軽く、あっさりと持ち上がった。
蓋の下には、石で組まれた階段。
その先は、薄暗い通路へと続いているようだ。
胸の奥で、好奇心がふつふつと沸き上がる。
なにより、暇つぶしには、ちょうどいい。
――光が届く手前までなら、危なくないだろう。
自分にそう言い聞かせ、階段をゆっくり降りていく。
ひんやりとした空気が頬をなで、足音が石壁に反響する。
通路の入り口まで来たとき、そこで――人影が見えた。
「うわっ!」
反射的に声を上げる。
見つかった、と思った瞬間、頭の中は言い訳を探し始めていた。
「ご、ごめんなさい!間違えて入っちゃったんです!わざとじゃないです!」
自分でも呆れるほど苦しい言い訳だ。
だが、相手は一向に反応しない。沈黙だけが重くのしかかる。
胸がざわつき、もう一度よく見てみる。
それは――人ではなかった。
精巧に作られた石像だった。
それも一つだけではなく、通路内にはさらに三体の石像が並んでいる。
まるで生きているかのような、肌の質感や表情。
思わず手を伸ばし、指先でそっと触れる。
次の瞬間、石像がぐらりと揺れ、重心を崩した。
あっ、と息を飲む間もなく――
ガシャンッ!
乾いた衝撃音とともに、石像は床に倒れ、真っ二つに割れた。
僕は見て、思わず固まった。
もしこれが、とても貴重で高価なものだったらどうしよう――焦りが胸を締めつける。
そんな考えが頭を巡っていると、突然、
「……ゴホッ、ゴホッ」
という咳き込む音が耳に飛び込んできた。
音のする方を見ると、真っ二つに割れた石像の間から、ゆっくりと裸の人影が現れ、激しく咳き込んでいる。
まさに石像の姿そのままに、背丈は小さく、整った中性的な顔立ち。
石像のときにはわからなかったが、深い紫色の髪が闇に溶け込むように艶めいていた。
その瞬間、僕の体は凍りついた。
彼は呼吸を整えながら、静かに口を開いた。
「んん……君が、僕を助けてくれたみたいだね。ありがとう……この借りは必ず返すよ。でも……その前にここから……」
咳き込みながらそう言うと、彼は通路内に並ぶ他の三体の石像を次々に壊し始めた。
すると、中からまた人が現れる。
僕は何が起きているのか、まったく理解できなかった。
⸻
「ふぅ……君の名前は?」
中性的な顔立ちの彼?彼女?が尋ねる。
「レオ……。」
「僕はルク。また近いうちに会いに行くよ。」
そう告げると、ルクは咳き込んでいる他の三人に手を触れ、次の瞬間、赤い稲妻が一瞬走ったかと思うと、煙のようにふっと消えてしまった。
目の前で繰り広げられる怒涛の出来事に、僕の脳は処理を停止していた。
そこから自分の部屋に戻るまでの記憶は、ほとんどなかった。
まるで心ここにあらず、ぼんやりとした意識のままだったのだろう。
部屋に戻ると、ようやく頭がはっきりと回り始めた。
彼らは一体何者なのか。
なぜあの場所にいたのか。
なぜ石像なのか。
なぜ、なぜ、なぜ……。
考えれば考えるほど、答えは見つからなかった。
そもそも、あの者たちは城の者ではないだろう。
侵入者だったのかもしれない。
そんなことがもし本当なら、大問題だ。
思考に没頭しているうちに、外はすっかり日が暮れていた。
とりあえず夕食を済ませて、ゆっくり休もう。今日は疲れたのだ。
そう思うと、吸い込まれるようにベッドに入り、いつの間にか眠りに落ちていた。
⸻
後からレイナに聞いた話では、あの建物は王国ができるずっと前から存在する歴史ある場所だという。
内部では多くの遺物が見つかっており、とても貴重な遺産らしい。
しかし構造が複雑で迷う者や罠にかかる者が続出したため、やむなく立ち入り禁止になったのだとか。
取り壊すこともできず、国王自らが厳重に管理しているらしい。
⸻
そして、数週間が過ぎた。
特に何もなく、あの時の出来事はまるで夢のように思えていた――そんなある日だった。
マナーのレッスンを終え、自室へ戻ると、見慣れない影が部屋の中にあることに気づいた。
フードを深く被った人物が立っている。
咄嗟に暗殺者かと身構えたが、そのフードの下に見覚えのある顔を見つけてしまう。
あの時、石像から現れた人物だ。
「やぁ、待ってたよ。」
その声は、脱力したようでいながらも、耳にすっと入ってくる、不思議な響きだった。
思わず心臓が大きく跳ねた。
何故、ここに?
あの不可解な出来事は現実だったのか――混乱した気持ちが波のように押し寄せる。
「君はあの時の……」
言葉が震える。
あの時感じた不安と驚きが、鮮明に蘇ってくる。
「うん、そうだよ。約束の借りを返しに来たんだ。」
相手は落ち着いた口調で答える。
だが、僕の心はまだ揺れていた。
「その前に、まずは君たちのことを1から説明してほしい。君は誰で、なぜあそこにいたのか――全てを。」
中性的な顔立ちのルクが静かに問いかける。
「えっと……ああ、ごめん。何も言ってなかったね。じゃあ1から話すよ。僕の名前はルク。趣味は古代魔法の研究や魔法の創造だ。僕は何者かって聞かれると……うーん、犯罪者ってのが一番しっくりくるかな。」
そのあまりにストレートな自己紹介に、僕は思わず身構え、後ずさりした。
危険すぎる。
自分から犯罪者と名乗り、この城にバレずに潜入している――ただ者ではない、そう直感した。
「大丈夫だよ。君には絶対に危害を加えたりしないから。」
ルクは鋭い視線で僕の反応を読み取りつつ、そう言った。
だが、その言葉が逆に僕の警戒心を高める。
何か裏があるに違いない――そう思わずにはいられなかった。
僕の胸の中では、不安と恐怖が渦巻いていた。
震える声を必死に抑えながら、慎重に質問を投げかけた。
「なぜ、あんな場所にいたんだ? それに、なぜ石像になっていたんだ?」
ルクは少し考え込み、気だるそうに答えた。
「うーん、あの建物はアスセリア王国ができる前の旧聖オリオンド王国時代の遺構でね。依頼を受けてそこへ行ったんだけど、うっかりトラップに引っかかっちゃったんだ。あそこは即死級の罠ばかりでね。だから、死ぬ前に自分たちに石化の魔法をかけて身を守ったんだよ。でも問題は、その魔法は外部から壊してもらわないと解けないってこと。だから、ずっとあそこで石化してたってわけさ。」
その話を聞きながら、背筋に冷たいものが走った。
「誰も来なくて絶体絶命……そんな時に、君が来てくれた。つまり、君は僕たちの命の恩人なんだよ。」
あんな場所がそんな危険地帯だったなんて……知らずに日々を過ごしていた自分が怖くなった。
立ち入り禁止にするわけも分かる。
「で、何年そこにいたんだ?」
思わず聞いた。
「えーそれ聞いちゃう?数えてみたら、600年以上だよ。僕、600歳なんだ。笑っちゃうよね。」
その言葉を聞き、かろうじて動いていた脳が一瞬止まった。
うん、全然、笑えない….
つまり、こいつらは600年前の人間だったということだ。
「いやー、石化の魔法って物の保存には向いてるって分かってたけど、まさか600年も持つなんてね。僕の魔法作成の腕が良すぎたせいで、こんなことになるなんて、爆笑だよ。」
……うん、全然、笑えない。
頭の中は混乱して、ますます理解が追いつかない。
石化の魔法がこいつのオリジナル?
どんどん分からなくなっていくけど、今は一旦置いておこう。
「そ、それで、他にも石化してた仲間がいたような気がするけど、その人たちは?」
「あー、全員で来たらバレちゃうかもしれないから、僕一人で来たんだ。
今度、他の3人にはちゃんと挨拶させるから、それまで待っててよ。」
一通り話を聞いたけど、よくわからない。
分かっているのはこいつがただただ得体の知れない存在ってことだけだ。
「で、借りを返してくれるって言うけど、具体的には何をしてくれるんだ?」
「えっと、君は王子様だよね。君が王になるのをサポートするよ。つまり、僕たちが家来になるってこと!正直、かなり強いよ。」
正直なところ、断りたい。
こんな連中と関わったら、王子である自分凡人なのがバレるどころか、それ以上のトラブルに巻き込まれそうで怖い。
「ありがたい話だけど、お断りするよ。実は僕、王になるつもりはないんだ。本当にありがたいけどね。」
怖さから、念のため大切なことを二度言った。
「へぇ〜、王になる気ないの?変わった王子だね。
まあ、王にならなくても僕たちの力は便利だと思うよ。護衛とか、好きに使っていいんだ。どう?」
その言葉に、僕の胸はざわついた。
胡散臭すぎる。絶対に何か裏があるに違いない。
「な、何が目的なんだ……?」
ルクはため息混じりに肩をすくめる。
「……はあ、隠しても意味ないか。交渉、あまり得意じゃないからね。実は僕たち、かつて働いていた組織があったんだけど、600年前に無くなっちゃっててさ。だから新しい職場として、レオくんに雇ってもらおうかなって思ってるんだ。これは本当だよ。」
その言葉を聞いても、僕の疑心は晴れなかった。
むしろ、嘘に聞こえてしまうほどだ。
でも同時に、目の前にいる得体の知れない連中が怖かった。
「は、犯罪をしないなら、雇ってもいい。」
僕の声は震えていた。
怖さに屈した、僕の限界だった。
「わかった。悪いことはしない。
僕たちも犯罪をしたくてやってたわけじゃないんだ。
あの時は、あれしか方法がなかっただけだ。」
その言葉にはルクの感情が込められていて、初めて彼の本心を聞いた気がした。
こうして、四人の得体の知れない者たちが、僕の仲間になった。
……いや、正確には「仲間にせざるを得なかった」というべきかもしれない。
彼らが味方でいてくれるのは、きっと心強いが、
だが同時に、胸の奥に冷たい不安が大きくなっていくのを感じていた。