1. 凡人、王子に転生する
僕の名前は、佐藤拓海
どこにでもいる、ごく普通のサラリーマンだ。
頭脳・身体能力ともに中の中。
人付き合いも、悪くはないけど特別得意というわけでもない。
目立つことはなく、かといって地味すぎるわけでもない。
いわゆる「普通の人間」ってやつだ。
──けれど、よく考えてみると、その「普通さ」は、ある意味で特異だったのかもしれない。
何をしても平均。何を選んでも無難。
運が良すぎることもなければ、悪運が続くこともない。
可もなく不可もなく、ただ平坦に日々を歩いていく。
それが、僕の人生だった。
ちょっとおかしな話だけど、「普通すぎる」というのが、ある意味で僕の一番の特徴だったのだ。
特別な才能も、ドラマチックな過去もない。
日常に埋もれて、静かに、誰にも注目されずに生きていく。
こんな、平凡すぎる人生には──正直、嫌気がさしていた。
けれど、それが僕の人生なのだと、どこかで納得してもいた。
このまま、ずっと平凡で。
劇的な出来事もなく、静かに歳を重ねて、静かに終わっていくのだろう。
それが僕の未来だと、そう思っていた。
しかし──それは、思い違いだった。
⸻
それは、あまりにも突然だった。
地鳴りのような轟音が響き、世界が揺れた。
何が起こっているのかもわからないまま、目の前の建物が崩れ落ち──
気づけば、僕はその瓦礫の中にいた。
鉄骨とコンクリートの塊が無慈悲に押し寄せ、僕の下半身を完全に押し潰した。
──叫びたくても、声が出ない。
喉が焼けつくように乾いて、息を吸うたびに胸が痛んだ。
激痛で意識が遠のきそうになりながら、それでも僕は目を開け、ただひたすらに助けを待ち続けた。
だが、誰も来ない。
時間の感覚はとうに狂っていた。朝なのか夜なのかも分からない。
狭く暗い空間の中、僕は瓦礫に埋もれたまま、じりじりと体力と意識を削られていった。
やがて、押し潰された下半身の痛みは、何も感じなくなっていた。
麻痺なのか、それとも死んでいるのか。確かめることすらできない。
喉の渇きは限界を超え、空腹で胃がよじれるように痛む。
人の声も、機械の音も、一切聞こえない。
あるのは静寂と、自分の荒い呼吸音だけ──。
孤独だった。
ただひたすらに、誰にも見つけられず、誰にも救われず、
ひとり、瓦礫の中で死んでいく。
そんな最後が、あまりに現実味を帯びていて、
僕はただ、諦めるしかなかった。
──こうして、僕の人生は終わった。
平凡なまま、何もできず、何も残せず。
そう、思っていた。
だが、それもまた思い違いだった。
⸻
「……お坊ちゃま、起きてください。朝ですよ」
ふいに、誰かの声がした。
優しくて、どこか柔らかな声だった。
……え?
薄くまぶたを開けると、眩しい光が差し込んでいた。
あれほど暗く、息苦しかった空間は、どこにもない。
真っ白な天蓋付きのベッド。
広々とした部屋。ふかふかの枕。
そして目の前には、メイド服を着た見知らぬ女性が、微笑んで立っていた。
「……ここは……?」
思わず口に出したその言葉に、自分自身が驚いた。
喉が、乾いていない。
身体に痛みもない。
……いや、それどころか、自分の声が、なんか……若い? 子どもっぽい?
「大丈夫ですか? 変な夢でも見ておられましたか?」
メイドが優しく顔を覗き込む。
その表情は心配そうだったが、どこか慣れた様子でもある。
──夢?
……そうだ、これは夢に違いない。
あんな瓦礫の下で、死にかけて……。
そのときに見ている、死ぬ間際の走馬灯みたいなやつだ。
「というか、死に際になぜこんな夢を……」
誰にも聞こえないように、そう呟く。
でも、空気の感触も、シーツの手触りも、あまりにリアルだった。
夢にしては、五感がはっきりしすぎている。
「では、お召し替えのご用意をいたしますね」
そう言って、メイドは慣れた手つきでクローゼットに向かう。
衣擦れの音。引き出しの開閉音。
そのひとつひとつが、現実味を帯びていた。
僕は、ゆっくりと体を起こして部屋を見渡す。
豪華な調度品、絹のカーテン、磨き抜かれた床。
──これは、貴族の屋敷? いや、それ以上に……王宮のような……
……いや、違う。
これは夢なんかじゃない。
こんなディテールまで、自分の想像力で作れるはずがない。
体が軽い。違和感がある。
鏡を見ると、金色の髪。整った顔立ち。
そして、3〜4歳くらいの……美少年。
「……誰これ?」
いや、これ、今の“僕”だ。
声も体も、何もかもが、前の人生とは違っていた。
──最初は、死の間際に見た妄想かと思った。
もしくは、都合のいい夢か幻覚か。
けれど、時間が経つごとに、僕の中でその感覚は崩れていった。
痛みも、眠気も、空腹も、すべてがあまりに生々しい。
ベッドの重み。床の冷たさ。メイドの吐息。
あらゆるものが、夢の中のようにぼやけることなく、鮮明に迫ってくる。
……これ、現実なんだ。
そう、理解するまでに、さほど時間はかからなかった。
──そしてその日、僕は知ることになった。
自分が、この世界の国の1つ――アルセリア王国の第三王子として、生まれ変わったのだということを。
⸻
転生したその日の夜。
ふかふかの天蓋付きベッドに体を埋めながら、僕は困惑の中で、自分の置かれている状況を少しずつ整理していた。
どうやら、僕の名前は──レオ・エルナ・アルセリア。
この国、アルセリア王国の第三王子だという。
年齢は4歳。
けれど、意識も記憶も、完全に“前世の僕”のままだ。
ミドルネームの“エルナ”は、母親の姓から来ているらしい。
“エルナ家”は、このアルセリア王国でも指折りの由緒ある名家で、その名を耳にしたメイドたちが一瞬だけかしこまる様子からも、それがよく分かった。
けれど、母親のことになると、彼女たちは途端に口を閉ざす。
はぐらかされるような言い回しが多く、詳しく聞こうとしても、なかなか教えてはくれなかった。
……けれど、彼女らの様子から何となく分かった。
──僕の母親は、既にこの世にはいないのだと。
そしてメイドたちは、僕を悲しませまいと、その事実をなるべく口にしないようにしているのだろう。
けれど、だからといって、今の僕が不自由な生活を送っているわけではなかった。
体は小さく、手足もまだ短いけれど、動かしてみた限り健康状態は良好だ。
食事も与えられ、着る服も立派で、召使いは複数人ついている。
現実味がなさすぎて、いまだに夢や妄想、あるいは死後の走馬灯なんじゃないか、という気がしてならない。
それでも──
「……あの崩落の下敷きになった僕が生きているわけがない」と、心のどこかで確信している。
だからこそ、この“転生”という非現実的な状況を、だんだんと受け入れつつあった。
自分はいままで、平凡な人生を送ってきて──そして、これからもそうあり続けるのだろうと、どこかで諦めていた。
しかし突然、まるで漫画やアニメでしか見たことのない“異世界転生”という展開が、そんな僕に訪れたのだ。
平凡な生活に嫌気がさしていた僕は、戸惑いよりも、ほんの少し嬉しさを感じていた。
もしかすると、よくある“チート能力”が授かっているかもしれない。
いや、たとえそうでなくても、王族の血を引いているのなら、それなりに優秀な資質を受け継いでいるはずだ。
そう思うと、胸が高鳴った。
今度こそ、自分の人生が何か特別なものになるかもしれない。
そう信じて、新しい世界に希望を膨らませていた。
──そして僕は、心の底からこう思った。
「神様、本当にありがとう」
……だが、転生させた神様は、そこまでお人好しではなかった。
⸻
「くっそ……なんでできないんだ……」
思わず、口をついて出た言葉だった。
この世界に来てから、気づけば三年が過ぎようとしていた。
転生後の僕は、外見こそ変わっていたが、内面は前世とまったく同じ。
相変わらず、僕は平凡だった。
魔力の素質は特に高くも低くもなく、魔法の威力も発動速度も、まさに「平均値」。
剣術にしても同じで、動きは基本通り、力も速さも並み。
稽古をすればそれなりにこなせるが、際立った成長は感じられない。
学問の理解力も平均的で、難しすぎれば理解できず、簡単すぎれば眠くなる。
どの分野でも「できない」と言われるほどではないが、
「すごい」と言われることも絶対にない。
つまり僕は、全てにおいて平均的で、特筆すべきものが何一つない人間だった。
僕は、“王族”という肩書きだけを持った、中身は平凡人間だった。
その現実を知った瞬間、僕の中の期待はあっけなく崩れ、心は沈んでいった。
それに引き換え、兄たちはというと……。
長男は幼い頃から剣を握れば敵なし、天才と称され、すでに王国騎士団の目に留まっている。
次男は計算力、記憶力、論理的思考に優れ、王国随一の若き戦略家として英才教育を受けている。
さらには、末の妹でさえも、強力な魔力の資質を持ち、王宮の魔導士たちに目をかけられているという。
せっかく非凡な人生が始まると思ったのに、これじゃ前世と何も変わらないじゃないか。
むしろ、比べる対象がハイスペックすぎて、劣等感のインフレが止まらない。
でも……それでも、考えてみれば。
この世界の僕には、衣食住が揃っていて、召使いもいて、誰にも虐げられない「王族」という絶対的な立場がある。
つまり──才能はなくても、「勝ち組」ではあるのだ。
だったら、やるべきことはただひとつ。
この地位を、なんとしてでも守り抜くこと。
……問題は、僕に何の才能もないことがバレたら、立場が危うくなるかもしれないということ。
たとえすぐに追放されるわけではなくても、「使えない王子」だと烙印を押されれば、何かと面倒だろう。
僕の中に、静かに決意が生まれた。
「だったら──有能に見せかければいい」
フリだけでいい。
実力がないなら、実力が“ありそう”に振る舞えばいい。
とはいえ、演技も下手だし、口がうまいわけでもない。
話せばすぐにボロが出るのは目に見えている。
だったら、なるべく喋らず、なるべく動かず、
ただ“沈黙する”のが一番安全だ。
──こうして、僕の“有能なフリ”人生が始まった。