間違って王太子殿下におビンタかましたら、なにかに目覚めたらしい
「このブタやろう!!」
パッシィィィィィィン……。
乾いた音、転がり落ちるメガネ。
鉄仮面の二つ名が嘘のように、驚き見開かれた男の目。
いまさらながらに痛みを訴えるてのひら。
そして、すごい勢いで青ざめていく私の顔。
や、やや、やってしまったーーーーーーーー!!!!
怒りに任せて伯爵の頬をひっぱたいたつもりが。
私の手はあろうことか、この国でもっともやんごとなきお方。
“王太子”セルスト殿下の頬におビンタをかましてしまったのでした。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
我慢ができる子。
私の家族はみんな、私のことをそう呼んだ。
その夜、月に一度催される上流貴族の夜会で、私は奇異の目にさらされていた。
無論、本来であれば私のような貧乏子爵家の小娘が顔を出せるような場ではないことは、重々承知している。
「私の前に立つなミリラ!! この役立たずめ!!」
べろんべろんに酔っぱらったデイモス伯爵は、なじりながら私の頬をぶった。
「……申し訳……ございません」
頬がじんと熱を帯びる。
しかしどんな仕打ちを受けようとも、私がこの男に刃向かうことは許されない。
来月、私はこの男の妻になるからだ。
「貴様には私の婚約者としての自覚が足りないのだ! 妻は主人の所有物だ! 物は物らしく私を飾り立てろ!」
婚約とは名ばかり。
私は、この男の奴隷だ。
しかし私には伯爵に抗えない理由があった。
去年、父が亡くなってからすぐのこと。
我が家はデイモス伯爵から圧力をかけられるようになった。
稼業の販路をことごとく奪われてしまった我が家の存亡は、いまやこの男が握っている。
「せいぜい私への態度には気をつけることだなミリラ=エルーシア」
「……心得ております」
同じ手口で多くの側室を囲い込んではボロ雑巾のように使い潰す。
そんな伯爵の黒い噂は、上流貴族のゴシップに疎い私の耳にも届いていた。
もちろん母や使用人たちは大反対し、兄も烈火のごとく怒り狂った。
しかし現実的に、父が遺したエルーシア家を守る方法は生贄しかなかったのだ。
大切な家族の行く末が、この男の気分ひとつにかかっている。
私がこの男の仕打ちに我慢してさえいれば、せめて家族の生活だけは守れるのだから。
「……む? なんだこれは?」
「っ、それは……お父様の……っ!」
頬をぶたれた拍子に、転げ落ちてしまった私のロケットペンダント。
ずっと昔、亡き父からもらった――
――今の私の、たったひとつの、心の支え。
「まだこんなものを隠し持っていたのか。まったく忌々しい女だ」
デイモス伯爵の革靴がペンダントを踏みつけようとしたそのとき、私はとっさに手を伸ばした。
手の甲に硬い革靴の底が擦りつけられる。
「痛っ……!」
「貴様ァ! 誰が痛がってよいと言った!? その手をどけろ!」
さすがに騒ぎが大きくなってきたからか。
守衛や他のフロアにいた貴族たちも、ぞろぞろと集まってきた。
「いったいなんの騒ぎだ」
「これは、伯爵の……いつもの癇癪でございます」
「殿下のお心を煩わせるようなものではございませんわ」
デイモス伯爵はしょせん親の七光りでしかないが。
これでも代々王国に仕える重鎮一族の現当主だ。
だから明らかな暴挙だとわかっていても、誰も咎められずにいる。
止めに入れば次は自分の番だと、みんなわかっているからだ。
「どういうことだ、説明しろ」
「嫁いだばかりの小娘がデイモス伯爵の勘気に触れたのですわ」
「これは家中の問題です。殿下がわざわざご仲裁なさらずとも……」
「そうはいくまい」
頭に血が上った泥酔伯爵は、野次馬に見せつけるように、なおも私の手を強く踏みつける。
「なァにが“お父様”だ、私の慈悲に生かされていることを忘れるな! 貴様の主人は誰か、そのお父様とやらに向かって言ってみろ、ミリラァ!!」
痛い。苦しい。悔しい。屈辱的だ。
それでも。
心と体を傷つけられても、家族のことを思えば、私は我慢できる。
だけど。
「……私の……私の、主は…………私です……」
「なんだとミリラァ! この、一家そろって家畜の分際で生意気な!!」
亡き父との思い出を。家族という心の拠り所を。たったひとつ残された尊厳を。
こんな下衆に――
――穢されて、たまるか。
「このっ…………このブタやろう!!!!」
「おいやめないか伯爵、彼女が苦しんでいるだろう」
パッシィィィィィィン……。
怒りと悲しみと、私のちっぽけな勇気をのせた渾身のビンタは。
こともあろうに。
「ぐっは……!?」
伯爵の蛮行を諫めるべく、さっそうと私たちの間に割り込んだその人物の。
この国でもっともやんごとなき頬にぶちかまされたのであった。
カッシャーンと音を立てて転がるメガネ。
衝撃で乱れたブロンドの前髪。
見開かれたブルーの瞳。
信じられないといったその視線が、私の涙目と交わる。
「殿下ッ!」
「セルスト殿下ァッ!!」
「貧乏貴族の娘がいったいなんてことを!!」
セルスト=ヴァンクローデン。
完璧超人。冷酷無比。氷の王子。鉄仮面。国の至宝。聡明なる次代の王。
そんないかつくも華々しい名で形容される、我が王国の王位継承第一位。
私とデイモス男爵の間に割り込んだのは、そんなやんごとなき王太子殿下その人であった。
「あ……ああ、あの…………」
やって……しまった……。
なんという運命のいたずらか。
はたまた悪魔のみちびきか。
私は、いずれこの国を背負って立つお方に。
歴代最高の王になるだろうと噂されているお方に。
我が家のような貧乏子爵家どころか、デイモスの伯爵家だって鼻息ひとつで吹き飛ばせるほどのお方に。
全力の“おビンタ”をかましてしまったのだ。
固まっている場合ではない!
私は急いで殿下のメガネを拾い上げると、もうこれ以上下がらないところまで頭を下げて殿下に差し出した。
「ももも、申し訳ございません!!」
かつてこれほどの大失態を犯した者がいただろうか。いや、いない。
「ミリラ、だったか」
セルスト殿下は私からメガネを受け取ると、たった一言だけそう呟いた。
けして溶けない氷のように、どこまでも冷たさを感じさせる声。
「は、はひィ……」
名前を呼ばれただけだというのに、返事をするのもやっとだ。
いっきに血の気がひいた私の全身には、たぶんもう血なんて一滴も残っていない。
目の前はぐるぐると回り、立っているのもままならないほどに、足元がぐらつく。
「この件は私が預かる」
殿下のたった一言で、夜会に訪れていた貴族たちも一人残らず呼吸を止められてしまったようで。
先ほどまで私にぶたれた頬を心配していた者たちまで、彫像のように固まっている。
セルスト殿下なる傑物が周囲からどのように畏れられているか。
怒らせるとどれほど恐ろしい人物なのか、嫌でもわかるというものだ。
ただひとり、唖然としていた伯爵だけが、ブタのようなだらしない体を震わせ情けない声で鳴いた。
「わわ、私じゃない……! そそそ、その女が勝手にやったことだ!!」
「……デイモス伯爵。彼女は君の婚約者なのか?」
メガネをかけ直すと、セルスト殿下は伯爵に冷たい目を向ける。
レンズの奥から覗く殿下の鋭い目は、見る者すべてに“絶対的な支配”を感じさせた。
きっとその瞳に映る伯爵と家畜にさしたる違いはないのだ。
「こっ、婚約など知ったことではありません! そんなものはただの口約束! 私とこの女はもはやなんの関係もないのです!! 殿下、私は被害者なのですぞ!!!!」
デイモス伯爵はもはや動物のいななきに近い声で叫んだ。
すべての責任を私ひとりに押しつけて。
「伯爵、その言葉に嘘偽りはないか」
「は……ははっ! 左様にございますぅ!! 私とその女は無関係であります!!」
「そうか、わかった」
でかい図体をぎゅうぎゅうに縮こまらせて、土下座する伯爵。
それとは対照的に、場の空気を凍りつかせるような威容を放つ殿下が、私のほうにゆっくりと歩み寄る。
思わず頭を下げられるだけ下げた私の後頭部から、並々ならない圧を感じる。
こうして近くでお目にかかるような機会はもちろん初めてだが、今はとてもお顔を拝見できるような心境ではない。
「すべて私が悪いのです……だから、か、かか……家族、だけは……なにとぞ……!」
「ミリラ嬢、あなたに話がある」
心臓が、凍った。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
放心状態のまま、あれよあれよと謁見の準備が始まった。
険しい顔の侍従長に、身なりのことでさまざまな小言を浴びせられ。
半泣きの酷い顔のままでは会わせられないと、侍女たちに顔や髪をいじくりまわされ。
衛兵長には、王族との謁見に必要な形式上の書類に何枚もサインをさせられて。
王族というものは、他人と話すだけでこれほどまでに手続きが必要なのかと。
ようやく殿下への謁見準備が整ったころにはずいぶんと夜が更けていた。
「執務室で殿下がお待ちです。何度も申し伝えましたが、けして……けっして失礼のないように。淑女としての礼節をうんぬんかんぬんくどくどくどくど……」
「はい、心得てます」
そりゃあ殿下の頬をひっぱたいた大罪人が殿下ご本人に拝謁するのだ。
どんな粗相があるかわかったものではないと、侍従長も気が気ではないのだろう。
私も一応貴族のはしくれではあるが、王族と歓談する際のマナーなんてものには一生縁がないものと思っていたわけで。
侍従長から付け焼き刃の礼儀作法を叩きこまれ、わずか数時間で耳にタコができてしまった。
しかし逆にこの数時間で、私は覚悟を決めることができた。
どのような刑罰を宣告されようとも。
たとえ殿下御自ら私の息の根をお止めになられようとも。
今度こそ家族だけは守るのだと。
「聡明なるセルスト=ヴァンクローデン殿下に拝謁いたします。仰せつけの通り、ミリラ=エルーシア子爵令嬢をお連れ致しました」
殿下の執務室に入ると、その張り詰めた空気に、またしても背筋が凍った。
私の覚悟も、底なしの冷気にあてられて縮こまっていく。
「……ふむ、随分かかったな」
セルスト殿下は執務室の椅子に腰かけたまま、氷のような目で私たちを一瞥する。
その重圧に思わず声をあげそうになったが、家族の顔を思い浮かべてなんとか耐えた。
「……ミリラ嬢、教えたとおりに」
「は、はいっ。ミリラ=エルーシア、罷り越しました。えっと……セルスト殿下……」
侍従長の言葉に合わせて、畏敬の念を込め、さんざん叩き込まれたお辞儀をする。
関節はガチガチに固まって、とてもスマートな淑女とはいえない敬礼だったことだろう。
ちょっと小綺麗になったこともあって、いまの私はさながら油をさし忘れたカラクリ人形のようだ。
頭を下げていれば殿下と目を合わさずに済む、というのが唯一の救いか。
「侍従長、君は下がってくれ」
「しかし……っ、かしこまりました殿下。私は部屋の前に控えております」
「それでいい」
胃が痛そうな顔をしながら執務室を出て行く侍従長を、私は頭を下げたまま横目で見送る。
行かないで一人にしないでと念を送るが、王太子命令の前には小娘の願いなど届くはずもない。
しかし殿下が放つ猛吹雪のようなプレッシャーを、私一人で我慢しろというのは無理な話なのではなかろうか。
「ミリラ嬢、そう畏まる必要はない。楽にしてくれ」
「は、ハッヒ……はいィ……」
私はギッチンガッチンと、殿下にすすめられるまま、用意された椅子に腰をおろす。
そこでようやくセルスト殿下と目が合った。
雪に覆われた山脈の北風を思わせる、どこまでも冷たいブルーの目。
脊髄を直接突き刺されるようなメガネ越しの視線が、私の体をよりいっそう硬くさせる。
文武容姿すべてにおいて、我が国はおろか大陸中に比類なき俊英。
完璧という言葉をそのまま型に流し込んだような人物がいま、文机を挟んで私だけを見ている。
「さて、自己紹介は……必要かな」
「だいっ、だだだいじょぶです!」
猛スピードで鼓動を刻む心臓が痛い。
刑が執行される前に緊張で死ぬ、死んでしまう。
「そうか。では私から話す前にひとつだけ確認させてくれ。あなたはデイモス伯爵とは無関係……ということで間違いないか」
殿下のメガネがぎらりと、研ぎ澄まされた刃のように燭台の明かりを映す。
きっと答えを間違えればその時点で私の首が飛ぶのだろう。
私はガチガチの喉を振り絞り、なんとか「はい」とだけ答えた。
「そうか。それは……よかった」
セルスト殿下はふうと息を吐くと、背もたれに体を預けて天井を仰いだ。
相変わらず表情の変わらない殿下だが、重圧は少しだけ和らいだような気がする。
椅子に深く座り直すと、殿下は言葉を続けた。
「ミリラ嬢、君への沙汰についてだが……」
「はい、心得ております。私はどのような罰でも受けます。国外追放でも死刑でも。だからどうか私の家族と父の名誉だけは……」
「落ち着いてくれ、ミリラ嬢」
プレッシャーなんかに負けてたまるか。
覚悟を決めたのだ、思い出せ、私は我慢できる子だ。
もはや家族の命さえ助かれば私自身の命はどうなっても構わない。
そんな気持ちで祈りを捧げる私の言葉を、殿下が遮る。
「あなたは、私が罰を与えると思っているのか」
「はい殿下の仰る通りです。絞首刑でも火あぶりでも殿下のお気持ちが済むまでなさってください。……でもこの際だからお願い申し上げます……なるべく優しく殺して……」
「ちょっと待ってくれ」
セルスト殿下は相変わらずの鉄仮面だが、少し困っているようにも見える。
しまった、処罰に前のめり過ぎて逆に困らせてしまっただろうか。
殿下は手を組み、じっとりとした視線だけを私に向ける。
「ふむ、しかし客観的に見ればたしかにそうか。王族に手をあげて処罰を免れたとあっては名分が立たないな……」
「はい、なので今すぐに首を刎ねるのがよいかと存じます」
「判断がはやいな」
殿下は、はあと息を吐く。
「“お願い”をしようと思っていたのだが。……やめた」
殿下の目が鋭さを増した。
それと同時に部屋の温度が10度ほど下がった、ような気がする。
「あなたに、相応の罰を与える」
殿下はそう言いながらタイをはずした。
伝統的な付け襟ではなく、細くて長い紐のようなやつだ。
じつに殿下らしい、合理的な選択だと思う。
殿下はそのタイを、首絞め縄のようにパシンと張る。
どうやら私の処遇は決まったらしい。
やはり殿下は御自らの手で私を亡き者にしようということか。
首を絞められるのは苦しいらしいが、たぶん我慢できると思う。
「……わかりました。ではそれを使って……」
「私を縛れ」
………………………………。
……………………。
…………。
「…………………………………………はい?」
縛れ? 私の首ではなく、殿下を?
「いまなんと仰いましたか?」
思わず聞き返してしまった。
いやこんな命令されたら罪人じゃなくても聞き返すと思う。
「私を縛れと言った」
「殿下を? 私がですか?」
「そうだ。縛った上で頬をぶて、先ほどと同じように。罵声を添えるのも忘れるな」
どういう罰なんだろうかそれは。
それはもう罰を受けているのは殿下のほうなのではなかろうか。
「どうした。はやくしろ」
「おま、おままま、お待ちください殿下!!」
さきほどまでガン決まっていた私の覚悟はどこへやら。
この異常事態を、私の中の常識が止めに入る。
「正気ですか」
「見ての通り至って冷静だ」
いったいどの角度から見たら冷静なのだろうか。
「私にもう一度あなたをぶてと」
「一度ではない。私がいいと言うまでだ」
冗談じゃない。
一度ひっぱたいただけでも即刻首を飛ばされかねない暴挙だというのに。
縛り上げたうえで罵声を浴びせながら何度もぶったりしようものなら。
家族どころか使用人や親戚はおろか、隣に住んでいるペンシル夫妻までまとめて首が飛ぶだろうに。
巻き込んでごめんなさいペンシルさん。
「これは、私への罰ですか?」
「あなたを救うための罰だ」
「……私を?」
きょとんとする私に、縄を持った殿下が歩み寄る。
そして私の手に縄を握らせながら言葉を続ける。
「王族に手をあげたものは死罪。それが慣習だ。と……そのように主張する者もいるだろう。少なくとも、デイモス伯爵はそう言っている」
なんてこったあのブタ伯爵。
どこまで腐っているんだ。
きっとそんな感情が私の顔に出ていたのだろう。
セルスト殿下は、おそるおそるタイを掴んだ私の手を握りながら言う。
「すまない。部外者のことを思い出させてしまった。しかし今ここは謁見の場だ。ミリラ嬢、私を見てくれ」
「それも私への罰ですか」
「私の願いだが、そうとってくれても構わない」
縛れという王太子命令もさることながら、殿下の意図がまるで読めない。
しかし誰しもが畏れ敬うやんごとなきお方の真意を、私ごときが推し量るのもはばかられる。
だけど。
「もう一度言う、今は私を見てくれ」
殿下の目は真剣そのものだった。
夜会で伯爵や周囲の者に向けられていたような、畏怖によって人を支配する者の目ではない。
その整った顔立ちとすらりと高い背丈も相まって。
視線に射抜かれた者たちが否応なく敬意や恋慕を抱き、自ずから支配されることを望む。
そんな強い魅力を帯びた目だ。
この目を向けられて逆らえる者がいるとはとても思えない。
それでもなお、殿下がいまだ独り身でいらっしゃるのは、魅力よりも畏怖が勝るからだろう。
「……かしこまりました」
魅力と畏怖。
私の心がそのどちらに従ったのか、自分でもよくわからない。
けれど殿下の目は、まっすぐに私を見ていた。
それだけはわかる。
だから王族の命令だからとか、神経質そうだけどちゃんと見ればすごく美形だからとかではなく。
いや、たぶんそれもあるんだろうけど。
それ以上に、私は殿下の真剣な目に応えたいと思った。
「今は、殿下のことだけを考えます」
「感謝する、ミリラ嬢」
これは罰だと殿下自身が仰ったのに。
律儀に感謝するだなんて、意外と不器用なお方だ。
「私は慣習などというものに則って、あなたの命を奪うべきではないと思っている。ゆえに、今からあなたを……“私をぶってもいい者”にする。さあ、縛ってくれ」
これは私を救うため。
たしかに殿下はそのように仰った。
殿下が私のために覚悟を決めていらっしゃるのであれば、もはや致し方あるまい。
私も家族ではなく、今度は殿下のために、改めて覚悟を決めるしかないだろう。
「わかりました! 私、縛ります!」
縛るぞ!
縛ってビンタかますんだ私は!
やんごとなきこのお方を!
もうどうにでもなれ!
しかし言ってはみたものの、人の縛り方なんてまるで知らない。
私は慣れない手つきで、殿下の手を後ろに回すとぐるぐるとタイを巻いた。
「痛くありませんか殿下」
「気遣い無用だ。痛くなければここまでする意味がない」
「殿下ひょっとして、痛いのがお好きなんですか?」
ぴくりと、殿下の肩が動く。
失言だっただろうか。
罵れとも仰っていたので少し口が軽くなってしまっているかもしれない。
しかし殿下は私の予想とは裏腹に、怒るわけでも、不快感を示すわけでもなかった。
「好きというわけではない……と思う」
「だったらなぜ、こんなことをなさるのですか」
「私に必要なことだからだ」
必要な、こと。
誰もが認める完璧超人であらせられる殿下に、これ以上なにが必要だというのだ。
「初めてだった」
大きな背中の後ろでタイと格闘している私には、殿下の表情は窺い知れない。
きっと無表情で怖い目をしているのだろう。
だがその声は、私の背筋を凍りつかせるようなものではなかった。
むしろ精いっぱい、私を怯えさせないように気を遣ってらっしゃる、そんな気がした。
「父にも、母にも、養育係にも、誰にも殴られることなく。私は、今の私になってしまったのだ。挫折も失敗も経ず、誰にも弱さを見せずに、ここまできてしまった」
「私も家族に殴られたことはありません。兄とはよく喧嘩しますけど」
「喧嘩か。羨ましくない、と言えば嘘になるな。そこにはきっと、愛がある」
私は一心不乱に手を動かす。
お望み通りの緊縛もって、殿下の言葉を肯定する。
「私は父のような、優しく、国民から愛される王になりたい。しかし人は弱さを知らない者を、私を恐れる。強き者は畏怖されこそすれ、愛される者にはなりえないのだ」
タイをきつくしめあげると、我慢できずに漏れてしまったような吐息が聞こえた。
あとで簡単にほどけるよう、結び目をこしらえると、私は殿下の正面に回る。
次は、ぶつのだ、この美しい顔を。
人に畏れられ、人に愛されたいと懇願する、このお方の御尊顔を。
「ミリラ嬢、私に弱さを教えてくれ」
「それが罰なら、謹んで」
腕を振りかぶりながら、私は思う。
そうだ、このお方は強いんだ。
周囲から強さを期待され、応え続けて、誰よりも強くなったんだ。
王族たる者、人の上に立つ者は、すべてにおいて強くて当然。
誰よりも優れていることは、ただの事実でなくてはならない。
そんな当然を、律儀に守り続けて。
想像もつかないほどの重圧と、真面目に向き合い続けて。
セルスト殿下は、周囲すべてから畏れられるほど完璧な人になったんだ。
でも。
だからこそ、いなかったんだ。
弱さを認めてくれる相手が。
完璧な自分にも、弱さがあるということを、誰かに認めてもらうこと。
それがきっと。
このお方にとっての“愛される”ということなんだ。
「手加減は無用だ」
「わかり……ました!!」
私が認めるんだ。
このお方の、完璧じゃないところを。
怒りに任せたものではない。
しかし最大限の気持ちを込めて。
全力の愛を、殿下の頬に、ぶつける!
「この……っ、ブタやろう!!!!」
バッッッシィィィィィィィィィン!!!!!!
メガネが宙を舞った。
それと、ほんの少しの水滴。
「殿下! なにがあったのですか殿下!!」
「誰も入るな!」
扉の前で叫ぶ侍従長を殿下の一言が制する。
もしこんなところを他人に見られようものなら、私はいったいどうなってしまうのだろうか。
殿下の頬と同じ色に、じぃんとそまった手が震える。
痛みや恐れからではない。
私の知らない感情が、私の手を震わせている。
「続けてくれ、ミリラ嬢」
「仰せのままに、セルスト殿下」
私は殿下をぶった。
何度もぶった。
そのたびに乾いた音と殿下の苦悶の声が執務室に響き渡り。
部屋の外では侍従長がわめく。
「外野のことなど気にするな……っ。今は、私だけを見ろ……っ!」
「見ろですって? 殿下、まだあなたは人を命令で従わせようとするのですか」
ペシン!!
「……ミリラ嬢、あなたの言う通りだ。私を見てくれ、頼む」
「ご安心ください。あなたしか見ていませんよ殿下。よくできました」
ペシーーーン!!!!
私はぶった。
頬だけじゃなく、いろんなところを。
支配し、恐怖されることでしか人と関われない、このお方の孤高を。
魂にこびりついてしまっている、孤独を。
丁寧に、丁寧に叩き落としていく。
「殿下、やっぱりこうされるのがお好きなんですか?」
「ばかを言うな、私はいずれ国を背負わねばならない身だ。俗物的な快楽に溺れている暇などない」
「じゃあ我慢ができるいい子にはご褒美をあげますね」
パシーーーーーン!!!!
「かたじけない!」
「そしてこっちは素直になれない悪い子への罰!」
「感謝する!!!!」
バチーーーーーン!!!!
ああ、いけないことを、している。
思えば。
今まで私は、いろんなものを我慢してきた。
いつだって自分自身ではなく、自分が大切だと思うものを優先してきた。
だけど。
今は私の中からあふれ出てくるものを止められない。
いや、止めなくていいんだ。
欲しがってくれるお方がいる。
喜んでくれるお方がいる。
大切なものと、自分自身が、共存できる。
このお方には、なにも我慢しなくていいんだ。
思う存分、与えていいんだ。
愛を、もっと深く、もっと強く、もっと大きく。
――全部、与えて、いいんだ――。
「はぁ……はぁ……!」
手の痛みに限界がきたころ、私はようやく手を止め、殿下の自由を奪っていたタイをほどいた。
赤く腫れあがった私の手を、殿下の手が包む。
きつく縛って血があまり流れていなかったせいか、ひんやりしていて、とても気持ちがいい。
「すまない、無理をさせた」
「いえ、お気遣いなく……!」
本当は殿下の頬を冷やしたほうがいいのだろうが。
なんだろう、こうして腫れた手を握られていると。
包まれているのに、お互いに包み込んでいるような。
なんだかそんな、不思議な感じがする。
「殿下、お気に召しましたか?」
「ああ堪能し……いや、素晴らしい授業だった。改めて感謝する」
どう見てもなにかに目覚めていたような気がするけれども。
殿下が目覚めていないと主張されるのであれば、仰せのままに。
そのとき、執務室の扉が開かれた。
「セルスト! お前たちはいったい何をしているのだ!」
「国王……陛下……!!」
上気した頬からささーーっと血の気が引いていく。
国王陛下、この国の最高権力者にしてセルスト殿下の御父上がいらっしゃってしまった。
その後ろにはあの侍従長が続く。
おそらく入室を止められた侍従長が国王陛下にことの次第を報告したのだろう。
セルスト殿下の王太子命令を覆せる者など、このお方しかいないのだから。
「陛下、これは違くて、あの……!」
いますぐに平服したい。
大事なお世継ぎをしばき回してごめんなさいと、床に這いつくばってお詫び申し上げたい。
しかし、殿下が私の手をぎっちり掴んで放してくれないではないか。
国王陛下は私とセルスト殿下の顔を交互に見比べる。
慌てふためく私とは対照的に、殿下は国王陛下の顔をまっすぐ見つめていた。
「……セルスト、この父に説明せよ。わしには傷害事件の現場に見えるのだが」
「はい、この者はエルーシア子爵家のミリラという娘です」
殿下の手が、私の手を、ぎゅっと握り直す。
「彼女を、私の妻に迎えます」
なん、ですと。
私も、国王陛下も、侍従長も。
その場にいた殿下以外の全員が、口をあけて驚愕した。
「……正気なのかセルスト」
「ご覧の通り至って冷静です」
「わしが知る限りでもっとも冷静さを欠いているように見えるのだが……」
それはそうだろう。
乱れた前髪、腫れた頬、皺だらけのシャツ、切れた息。
どこをとってもセルスト殿下は冷静ではいらっしゃらない。
そしてあろうことかこの私を妻に迎えるなんて、気の迷い以外のなにものでもない。
「すまない、本当はあなたの意思を確認してから伝えるべきだった」
「いえ、あの、どういう」
「言っただろう。“私をぶってもいい者”にすると」
そんな意味で捉える人はこの世界に一人もいないと思いますよ殿下。
「伯爵もあなたも認めていたではないか。あなたと彼はまったくの無関係だと」
「それはそうですけど……!」
「では尋ねよう。あなたと私は無関係なのか?」
「~~~~~~~~~~~~!!」
たしかにもう関係ないとは言えないかもしれないけれども。
なにか反論しようとした私の口は、ぱくぱくと声を発することができずにいる。
あまりの急展開に、目がぐるぐると回る。
だけどひりひり痛む私の手は、殿下と私がもう無関係な間柄などではないと訴えていた。
私はもう、知ってしまった。
完璧を演じ、氷の眼差しで他者を制するこのお方の弱さを。
孤独を抱きしめ、我慢することなく愛を注ぐ悦びを。
困惑する私に、殿下は鋭い目を向けて仰った。
「これからも……弱い私を、どうかよろしく頼む」
ボッコボコにされた殿下は、少しだけ。
ほんっっっの少しだけ、微笑んだように見えた。
楽しんでいただけましたでしょうか。
ご感想など、お待ちしております!