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占星の王座  作者: 著:吉未 名村(よしみ なむら) 構成協力:天軌(てんき)
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1話後編 呪いを嗅ぎ分ける洗濯下女は後宮に立つ

 医局を出た蘭彩は、長い廊下を歩いていた。何とも言えない疲労感が体にのしかかる。最近の仕事は思ったより重労働が続いていたのかもしれない。そんなとき、不意に影が目の前に差し込んだ。


「……華蓮?」

 聞き覚えのない男性の声が、静かな廊下に響いた。


 声の主を見上げた瞬間、蘭彩の体が強く抱きしめられた。


「――っ!」驚きで息を呑む。振り返ろうにも腕が鋭く締め付けてきて、動けない。


「どなたかとお間違いのようですね。」蘭彩は冷静さを保とうとしながら、静かに口を開いた。「できれば速やかに離れていただけると助かります。」


 その言葉に、男の体が僅かに震え、力が抜ける。蘭彩はゆっくりと振り返った。目の前にいるのは、黒い短髪に鋭い顔立ちをした男。冷たい印象を与えるその顔には、どこか寂しげな表情が浮かんでいた。


「すまない……失礼をした。」

 男は小さく頭を下げ、次いで言葉を選ぶように続けた。「貴女は……名を聞いてもよいか?」


 蘭彩は男の真摯な瞳を見つめた。その瞳はまるで人の心を覗き込むような深さがあり、一瞬でも視線を外したら吸い込まれそうな気さえする。


「蘭彩と言います。」蘭彩は短く答えた。勘違いだったのなら、これ以上詮索するのも不毛だろう。


 男は静かに微笑んだ。その微笑みは、冷たい印象の顔立ちをほんの少し和らげ、どこか温かさを感じさせるものだった。「蘭彩か……また、機会があれば会いたい。」


 彼の言葉に返事をする間もなく、蘭彩の視界の端で何かが動いた。廊下の柱の陰に、黒髪の大柄な女官の姿が見える。彼女はすぐに身を隠したが、蘭彩にはその様子がしっかりと目に入っていた。


(……陽瑶(ヤンヨウ)と言う女官だったか。噂になったら面倒だな……。)蘭彩は小さく溜息をつき、軽く頭を押さえた。


「それでは、失礼するよ。」そう言い残して男は廊下の向こうに歩き出す。その後ろ姿を見送りながら、蘭彩はその黒髪の男が一体何者なのかを考えていた。


 男の最後の一言が頭の中で繰り返される。


「また、機会があれば会いたい――」


 その言葉に込められた優しさが、どこか自分を追い詰めるようで落ち着かない。視線を向けられた時の吸い込まれそうな感覚もまた、自分にとっては未知のものだった。


(……これが勘違いを生む目つきってやつなのね。)蘭彩は心の中でため息をつき、再び足を動かした。


(っていうか、この後宮に入れる男性って言ったら……。)朱鴉との会話を思い出して、彼が厳晨なのだと蘭彩は考えた。


(あああああああああっ、さっそく粗相してしまった!? いや、それ以前に皇太子がこんなところ一人でぶらぶらしたりしないよね?)蘭彩はなかったことにして呪いの解決を急ぐのであった。


 厳晨が去った後、蘭彩はその場に立ち尽くしていた。抱きしめられた余韻がまだ微かに残る肩をさすりながら、どっと疲れが押し寄せる。


「蘭彩!」

 突然、弾けるような声が背後から響いた。振り向くと、范 東来が駆け寄ってくる。


「アンタ、厳晨様と顔見知りなの?」

 東来は目を輝かせ、まるで面白い話を見つけた子供のような顔で聞いてきた。


「厳晨っていうんですね。」蘭彩は素っ気なく答えた。「全然知らない人です。」と言いつつ蘭彩は粗相した相手が皇太子ということが確定して少し冷や汗をかく。


 その言葉に、東来は噴き出した。大げさに腹を抱えて笑い出す。


「何がそんなに面白いんですか。」蘭彩が眉をひそめると、東来はようやく笑いを収め、肩をすくめた。


「アンタ……あのお方がこの国の皇太子、厳晨様だって知らなかったの?しかも名前を呼び捨てって!」

「知らなかったんですから仕方ないじゃないですか。」

「様をつけなさい!様を!」東来は笑いながら注意する。


「范先生、本当に何がそんなに面白いんですか。」蘭彩が疲れたように聞くと、東来はにやりと笑い、急に少し小声になって耳元で囁いた。


「厳晨様はね……『男色家』って噂もあるお方よ。」


 その一言が耳元で響き、蘭彩は思わず固まった。「はあ……?」


「だからよ!」東来はまた笑い出す。「明日は絶対にアンタ、質問攻めに遭うわよ!覚悟しときなさい!」


 その言葉を聞いて、蘭彩はふと柱の陰に隠れていた女官らしき姿を思い出した。(ああ、絶対噂になる……面倒くさい!)


 心の中で絶叫しつつ、蘭彩は軽く頭を抱える。(数日身を隠してほとぼりが冷めるのを待つか……お暇でももらおうかな。)


 だが、驚いたことに、翌日になっても噂に上ることはなかった。それどころか、何事もなかったかのように日常が過ぎていく。


 一週間ほど経った頃。廊下を歩いていると、すれ違いざまにぼそりと声が聞こえた。


「厳晨様とどういう関係なの?」


 その声の主は黒髪の大柄な女官――陽瑶だった。小さな声だが、その一言が耳に届いた瞬間、蘭彩はハッと立ち止まる。(やっぱり見られてたのか……)


 しかし、噂にならなかった理由は何だろう。


「黙っていても良いことはないわよ。」


 そう言い残し、陽瑶はいつの間にか姿を消していた。


(幽霊……?)蘭彩はそう疑いたくなるほどの気配の消し方に驚きながらも、次第に興味が湧いてきた。(あとで范先生に陽瑶のことを聞こう……)


 その日の仕事は、蘭彩史上最速記録を更新するスピードで終わったのであった。


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