1話前編 呪いを嗅ぎ分ける洗濯下女は後宮に立つ
私が後宮に来た理由は、端的に言えば借金の返済のためだ。
妹を妓女にするなんて、とんでもない。あの子だけは絶対に守る――そう決意して飛び出してきたものの、現実は厳しい。下女という危うい立場で、給金も雀の涙ほど。せめて、仕事内容だけは楽でいて欲しいと願うが、それも甘い期待だったらしい。
洗濯場では今日も桶が立て続けに音を立て、慌ただしい気配に満ちている。桶の中で衣服を揉み洗いしていた蘭彩は、隣で大きな溜息をつく朱鴉に目を向けた。
「どうしたの、朱鴉。溜息なんかついて……」
「いやさ、聞いた?」朱鴉は洗濯物を搔き出しながら声を潜める。「最近、後宮に来たばかりの女官が厳晨殿下に睨まれたって噂。」
「厳晨殿下って、確か皇太子様だったよね?」蘭彩が首を傾げると、朱鴉は妙に熱心に頷いた。
皇太子なんて自分にとっては一生縁もない存在だが、粗相をすれば命が危うい世界だ。最低限は知っておく必要はあると思っている。人の顔覚えるの苦手だけど。
「そうそう。その人だよ! しかも、なんかものすごく潔癖症なんでしょ? それで女官を見かけただけで、滅茶苦茶距離を取った上で睨んでたらしいよ?」
「なぜ距離を?」蘭彩は眉をひそめた。「厳晨殿下って、そんなに気難しいの?」
「それがねえ……聞いたところじゃ、厳晨殿下って女性と話すのも苦手らしいよ。だけど、子供の頃に亡くなった華蓮様にはすごく懐いてたって。」朱鴉は声を落とし、周りを気にするように続けた。「だから、華蓮様に似た顔立ちの女官を見ると、なんか怖いくらい無表情になるんだってさ。」
蘭彩は、桶の中で泡立つ水を見つめながら、朱鴉の話を聞き流していた。後宮の噂なんてどれもこれも眉唾ものだ。それでも、厳晨という名前は妙に耳に残った。
「やだぁ……もう」朱鴉は手に取った洗濯物の染みを見せて言った。「また誰か吐いたのかな? こういう汚ればっかりだとウンザリだよ。最近、華秀たちが呪いとかなんだかで体調が悪い人が増えてるみたい。」
「呪いねえ……」蘭彩は手を止め、眉をひそめた。「でもさ、呪いがどうとか言う前に、仕事の負担が増えるのは勘弁してほしいね。これ、落ちない汚れが多いし、日が出てるうちに干せないのも困る。」
「そうそう! わかる!」朱鴉は大きく頷いた。「私も前に洗濯担当してたとき、嘔吐物とか血の染みとか、本当に嫌だったもん。あれ漂白しても匂いが残るのよね。」
「そうなのよ。洗濯物を捨てるわけにもいかないし、どうしてこんなに増えるのか調べないと、休みもなくなりそう。まあ、稼ぎが増えるなら助かるけどね」蘭彩は静かに桶の中の衣服を絞った。「最近、同じ匂いがついてる洗濯物ばかりなのよね。」
朱鴉は首を傾げて聞いた。「どんな匂い?」
「薬の匂い。臭い的に麻黄じゃないかな? もしかして痩せ薬にでも使ってるのかな?」蘭彩が言うと、朱鴉は驚きの表情を浮かべた。「すごいね! 蘭彩! そんなのもわかるの?」
「実家で薬も扱ってるからかな?」頭を搔きながら蘭彩は答えた。
「ふ~ん、でもそのマオウって薬のせいでみんな倒れてるってこと?」
「少なくとも嘔吐とは関係あると思う。でも確証がないから、医局でに当てがあるから聞いて見るよ。」
「先生って、前話してた范先生……あのちょっと変わった人だよね。この前も医局に行ったけど、そんな人いなかったけどな……」
「なんでか知らないけど、あまり表には出てこないみたい。でも頼りになる人よ。」蘭彩は洗濯物をまとめると、医局へと足を向けた。
医局では、范 東来が棚の薬草を整理していた。蘭彩が入ると、彼は振り返り、満面の笑みを浮かべた。
「蘭彩、あんた! また来たの? 物好きね~。今度は何?」
「先生、麻黄の話を聞きたくて来ました。」蘭彩が洗濯場での出来事を説明すると、東来は腕を組み、真剣な顔になった。
「麻黄ね……そんなことが続いてるなら、過剰に摂取してる可能性が高いわねぇ。動悸や嘔吐を引き起こすし、体質によっては命にもかかわるわ。早く調査しないと……」
そう話しているとそばで聞いている他の医官が、余計なことをするなとでも言いたげな視線を送ってくる。その視線を蘭彩は完全に無視をして「やっぱりそうですか。」頷くと、東来は手を振りながら笑った。
「蘭彩、あんたやっぱり賢いわね。でも、これ以上犠牲者が出る前に何とかしましょ! じゃないと、あんたの仕事が増えるでしょ?」
「その通りです。」蘭彩は少しだけ得意げに笑みを浮かべた。「洗濯物が増えるの、本当に困るので。」
「そこがあんたのいいところ。現実的で素直でさ。」東来はにっこりと微笑んだ。「でもね、霍や介はあんまり動いてくれないのよ。占いだの何だのに夢中でね。」そういうとこちらを睨んでいた医官たちはわざとらしく忙しそうに手を動かしだす。
霍はおそらく年配の方の医官、介は若い方だ。二人ともこの国で大変人気となっている書に感化されてから仕事に影響が出ていると范は以前から愚痴を言っていた。
「霍先生と介先生は……頼れないんですね。」蘭彩は少し大きめの声で考えるように言った。「本人たちがいる前でそんな風に言うのは敵を増やすからおやめなさいよ?」范は蘭彩を気遣うように言った。
「ま、私がいるから大丈夫よ。」東来は胸を張った。「筋肉ムキムキの乙女に近づこうなんて、あんた! 勇気あるわねぇ! しかも、そんな奴がいきなり呼び捨てで呼んだら近づくの止めようって思わないの?」
「先生がそう呼ぶのに慣れましたから。」蘭彩は淡々と答えた。「范先生のこと、信頼してますし。そもそも下女と医官では、圧倒的に偉いのは医官です。」
「アタシと関わるとあんたが損しないか心配なんだけど? でも、まあ嬉しいわ。」東来の言葉で、そっちの心配をなぜするのかと蘭彩はきょとんとした顔になる。それを確認した東来は照れ臭そうに「じゃあ、あんたと私で後宮を救いましょう。年若い乙女が嘔吐してぶっ倒れるなんて、悲劇だもの!」
その時、奥から霍が声を上げた。「東来、お前、また勝手に動くつもりか?」
「ピーチクパーチク、うるさいわね、高級ニートの癖に……」東来は振り返らずに言い放った。「蘭彩と私が動けば問題ないわよ。あんたは占いでも見てなさい。」
「……まったく。」言われ慣れてるのか、何なのか医官二人の内、年若いの方……おそらく介先生は呆れたように首を振った。
「やらかしたら、今度こそ追い出すからな!」年配の方のおそらく霍が叫んでいるが、東来は蘭彩の腕を引いて立ち去ろうとする。
°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖° あとがき °˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°
麻黄は最近ダイエットにいいとされる防風通聖散や風邪の時に飲む葛根湯などに含まれています。
虚弱体質の人には合わなかったり、妊婦さんが使うには禁忌とされる漢方であったりします。
体質が合う場合に短期間飲むことで改善される症状も確かに存在しますが、気軽に買えるからこそちゃんと知っておいて欲しいと思い第一話で取り上げさせていただきましたm(__)m
病院で処方されるので安心して気軽に飲んだりしてしまう人も多いのですが、飲むタイミングを間違えてしまうと症状が悪化する場合もあるので漢方に詳しい薬局で是非相談してみてください。
なお、長期間飲み続けると健康な人でも肝機能に大きな負担をかけてしまうことがあるのでお医者さん・薬剤師さんに相談して飲む方が増えてくれることを願います。
飲み合わせで麻黄の摂取上限を超えて飲み続けてしまう場合もあるので、「エフェドリン」という成分についても重複したりしていないかも確認していただけると幸いです。
この作品では健康や美に関しての豆知識や占いについてを物語と一緒にお届けできればと思っています。誰かの未来の健康や幸せに少しでもプラスになる作品を目指してまいりますので、応援の程よろしくお願いいたします。