化け物
突然死んでしまったところで、思い残すことなど何もなかった。
俺には、妻も子どももいない。彼女さえもいない。
俺の訃報に、両親は悲しむかもしれない。ただ、他方で「良かった」と胸を撫で下ろすだろう。俺の兄は医者で、妹も国立大の医学部に通っている。
死んだのが有能な兄妹でなく、兄妹で唯一不出来な俺であることに、両親はホッとするに違いないのだ。
――いや、待てよ。
俺は今死ぬわけにはいかない。
だって――
「まだ仕事が終わってない!」
俺は、目を覚まし、立ち上がった。
そして、デスクに山積みになっている書類を探したが――見つからなかった。
それどころか、今俺のいる場所は、オフィスではないのである。
おそらくオフィスのある池袋でもなければ、東京でもない。
そこは――
「……ジャングル?」
俺の既存の語彙に照らせば、そうなる。
とはいえ、実際にジャングルに行ったことはないから、本当にここがジャングルかは分からない。「森」ではなく「ジャングル」だと判断したのは、俺を囲っている木々が、見慣れないもので、異国風に思えたからである。
「早くオフィスに戻らなきゃ……」
時刻は午前零時を過ぎているのである。早くオフィスに戻って、仕事を再開しなければ、今宵も職場泊となりかねないのだ。
――いや、待てよ。
このジャングルには、照明器具などどこにも見当たらないのに、明るい。
見上げると、木々の隙間から太陽が照っていた。
もしかして――
「……もう朝?」
俺が気を失っている間に、朝を迎えてしまったということなのだろうか。だとしたら最悪だ。仕事がちっとも片付いていないことを、定時出勤してきた上司にこっ酷く叱られる。会社にも迷惑を掛けてしまう。
とにかく、一刻も早くオフィスに戻らねばなるまい。俺は、スラックスのポケットからスマホを取り出す。
そして、地図アプリを開き、ここから会社までの経路を調べようとする。
しかし――
「……圏外?」
アプリは一向に現在地の情報を読み込まず、その原因は、画面右上に「圏外」と表示されているがゆえに違いなかった。
クソ、俺は一体どうすれば……?
生きている以上は、仕事をしなければならない。俺は、仕事をするために生きているのである。
とはいえ、オフィスに戻れなければ、仕事をすることはできない。
スマホをパソコン代わりに使用する余地はあるかもしれないが、書類がなければ、仕事はできない。
……ん? そういえば、紙って木からできてるよな? このジャングルに生えている木を切って、そこから紙を精製して書類にすれば……
そんな風に社畜脳をフル回転させて考えていたところ、突然、あたりが暗くなった。
何かが太陽を遮ったのである。
そのとてつもなく大きな何かとは――
「化け物!?」
俺の既存の語彙では、そうとしか言い表せなかった。
そいつは巨大な虎のように見えたが、明らかに虎とは異なっている。なぜなら、巨大な翼が生えており、バサバサと羽ばたいているのである。そして、そのことと比べると大した相違点ではないかもしれないが、角も生えてるし、尻尾も八本くらいある。
その化け物は、俺を目掛けて飛んできていた。ギョロリとした目は、俺を捉えて離さなかった。
バサバサという羽の音は、どんどん近付いてくる。
化け物のサイズはアフリカ象くらいある。
俺は獲物にされるのだ――
そのことは分かっていたが、俺は、まるで足の裏から根が張っているかのように、その場から動くことができなかった。
リアル化け物を目の前にすると、誰しもがこうなると思う。
俺にできることは、断末魔の光景を見ないで済むように、固く目を閉じるだけであった。
バサバサ――
思い残すことなど何もない。
それに、仕事が片付いてないことを上司に怒られるよりも、ここで化け物に殺された方がマシである。
バサバサ――バサバサ――
「フルシフール!」
突然聞こえたのは、先刻に死を覚悟した時とは異なる、透き通った女性の声だった。
それに続いたのは、グゥオオンという獣の唸り声。
目を開けると、化け物は地面に横たわっていた。
そして、可憐な少女が立っている。
ピンク色のローブを羽織った少女の手には、細長い棒が握られており、そのキラキラと輝く先端が、化け物の方に向いていた。
少女が、再び透き通った声を出す。
「この男のことは諦めて。さもなくば、次はさっきの十倍の火力をお見舞いするよ」
化け物に言葉が通じるのかは分からなかったが、少なくとも少女の気迫は通じたのだと思う。
その証拠に、化け物は、クゥンと小型犬のような声を出すと、片足を引きずりながら立ち上がり、バサバサと羽を動かし、少女に背を見せる格好で浮き上がった。
そして、フラフラと上空へと飛んで行った。
化け物が豆粒ほどのサイズになるのを見送ると、少女は、やはり足の裏から根が張ったままであった俺の方を振り向いた。
はじめて少女と目が合う。
――正真正銘の美少女である。
どちらかというと俺の好みはキレイ系であり、この少女はどちらかというとロリ系であり、決してタイプど真ん中というわけではない。
しかし、それでも、ローブの色と同じピンク色の虹彩の目に、ドキッとする。
少女は、いかにも女の子らしい、バタバタとした走り方で俺の方に駆け寄ってきた。
そして、ニコリと反則的な笑顔を見せながら、言う。
「間に合って良かった」
と。