危ない
俺が奇妙な体験をしたのは、通学のためにほぼ毎朝訪れるいつもの最寄りの駅。
その駅のホームで、スマートフォンにダウンロードされた小説を読みながら電車を待っていた朝だった。
「危なぁい!」
いつもと同じだった朝は怒鳴り声で壊されてしまった。
いつの間にか駅のホームに到着していた電車が、両開きの口を開けて待っている事に気付いた俺は、降りる人が居ないことを確認して乗り込もうと一歩踏み出した。
その時に背後から現れたハゲオヤジに強く右肩を捕まれて怒鳴られたのだ。
「おまえは死にたいのか!」
何を大袈裟に喚いているのか、突然の大声で心臓が驚いて痛い。
手に持ったスマートフォンに目をやっていたのを咎められたのか、汗で光り、頭頂部も越えて拡がる額が振り向いた俺に迫る。
ハゲは加齢臭なのか体臭なのか、人から嗅いだ覚えのないキツイ臭いを身に纏っていた。
ハッキリいって頭痛がするくらい臭い。
糞!朝から苛立ってしまう。最低だ。臭すぎる。
「全く!最近の若者は何を考えているんだぁ!!」
臭いに怯み。反射的に下がってしまったところを素早く詰め寄られ、両肩を捕まれてしまった。
気持ち悪い離せよハゲ!
チープな台詞で捲し立てるんじゃねぇよ!
唾が飛んでんだよ!
内心そう叫んでも現実の俺は無言だ。捕まれた時に反射的に振り払おうとしたが、若者に金を強請盗られていそうな、貧弱で萎びたサマースーツ姿の癖してその力は強い。
肩が痛い。何か格闘技でもやっているのか?痣になったらどうしてくれるんだ。
「空想ばかりに耽りおってぇ!!現実を歩いている時はちゃんと現実を見て歩けぇぇぇぇ!!」
静かなホームにハゲの叫びが響く。恥ずかしい。周囲の視線を集めている気がする。忍び笑いが聞こえて来る。
この駅は各駅停車しか来ないから朝のラッシュでも人はあまりいないのに、今日に限って周囲を見なくても解るくらい人の気配。
ざわめきが聞こえてきた。
顔が赤く染まる。恥ずかし過ぎる。このハゲをぶん殴ってやりたいが、生憎とケンカに疎い、平和な人生を歩んできた俺にはそんな度胸は無い。
そもそも、両肩を押さえられているので腕が上がらないのだが。
あんぐりと口を開けたままの電車の扉を横目で見る。
「わかっ……わかりました!!すみません!電車が行ってしまうので肩を放してください!」
両肩の痛み。ハゲの勢いにたまらず心にもない謝罪をして、その場から脱げようと試みる。
このハゲが着いてきそうな今の状況で、逃げ場の無い電車内に行く気は無かったが、俺は口が回らないのだ。
「人の話を聞いていたのかぁ!?」
両肩の痛みが消えたと思ったら、頭をハゲの両手で左右から抑えられた。脂ぎった顔面が迫り視界がハゲオヤジに埋め尽くされる。
服越しだったので気付かなかったが、ハゲの手は濡れていた。手汗なのかヌルリとした感触に鳥肌が立つ。
気色悪い感触に侵され、側頭部から手足の末端まで拡がって行く悪寒に思考を停止した俺の視界の隅で、扉が閉まり始めたのが見えた。
「余所見をするなぁぁぁぁ!」
目の前で顔を真っ赤にして興奮した様子のハゲが絶叫している。
この時に俺は、混乱していると気付いた。
「こっちを見ろ若造が!」
毎日の朝の通学で寝惚けていた頭は、日々の慰めである、スマフォで読んでいた書籍の空想を堪能する仕事から帰還。この理不尽な状況で与えられていた恐怖を感じ始めている。
そう理不尽だ。この目はスマフォに余所見をしていたとはいえ、駅のホームと車両の間にある隙間には気を付けていた。俺は降りる人が居ないことをしっかりと確認してから、足を踏み出していた。
「動くな逃げるな!年上を敬えよもっとこっちの話をちゃんと聞ぇ!」
結局は余所見をして歩いていたのは間違いないが、これくらいの事は誰でもしているし、誰の邪魔にはなっていなかった。
なのになんで俺は朝っぱらから、こんなハゲに怒鳴られているんだ?
捕まれた肩は酷く痛む。鼻腔には頭痛と吐き気がする臭いが、頭を抑えるヌメヌメとした手の圧力と手を組んで頭痛を与えてくる。
感じている恐怖に怒りが込み上げ混ざり合う。
しかし、拳はあっても振り上げる拳を持ち合わせていない俺は、高校生にもなってストレスを涙に変えるしか出来なかった。
「「ははははははははははは!」」
忍び笑いではなく、コチラを嘲笑する複数の笑い声が周囲から聞こえてくる。恥ずかしい。俺の情けない姿を笑っているのだ。
嫌だ!嫌だ!明日も出会うかもしれないこの時間にこの駅を利用する客に、こんな形で印象に残るなんて!
「なんだぁ泣いてるぅ!?
いいぞもっと泣けよ!ほらもっとだ、泣き続けろぉ!人目を気にせず泣けよほらほら!!」
ハゲが弾む声で煽ってきても俺は何も出来ない。頭を揺すられ、手のヌメリを強く感じた。
涙が止まらない。逃げ出したいのに頭を万力のように捕まれて動けない。
動けない俺の代わりに扉を締めた電車が、ゆっくりと加速して駅のホームから去っていく。
「「ははははははははははは!」」
「見るなぁ!なけぇ!」
周囲から笑い声に混じって色んな音が聞こえてくる。幾つもの閃光が俺を照らしている。
聞きなれたスマフォのカメラアプリの音も混じるからには、画像や映像を撮影しているのだろう。
ネット介して様々なサービスに、この情けない姿がアップロードされるのかと思うと益々ストレスで涙が増えて、ついには幼児のように情けない嗚咽も混じり始めた。
フラッシュで照らされる度に、精神がガリゴリと削られ、痩せ細っていくのを感じた。
プシュッ。
気の抜ける空気の音が聞こえた。
涙と鼻水でグズグズになった顔を向ける。いつの間にかハゲの手から解放されていた。そこには去った筈の電車が、両開きの扉を開けて待っていた。
ヌメリが頭に残っているのか、そこだけ冷たく。扉の中は異様に明るく感じる。何故俺の周囲はこんなに暗いのだろうか?
「えっ」
「今だぁ!電車にのれぇ!!!」
ヌメる気味の悪い両手から俺の頭を解放したハゲが叫ぶ。
フラッシュが異様な速度で俺達を照らし、耳が痛くなるほど鳴り続けるカメラアプリの狂った撮影音が襲う。
この時、何かがおかしいと気付いた。
少しの不注意で見知らぬハゲオヤジに怒鳴られ泣かされる。
そんな現実的な理不尽よりも、何か得体の知れない理不尽に取り囲まれている。
夏だと言うのに周囲の異様な寒さに身を震わせた。
凍える身体は凍りついたようにその場から動かない。
「いけぇ!」
その場から動かない事に業を煮やしたのか、ハゲオヤジは服を掴み、俺の散々肩や頭を痛め付けた恐ろしい腕力で電車内に軽々と俺を投げ入れた。
「ぐひゅっ」
投げられた勢いで空中で逆さまになり、背中から車両の反対側の扉に派手にぶつかる。その衝撃で肺から空気が絞り出され、情けない音が口から漏れた。
見知らぬ他人に怒鳴られ、笑われた極度の緊張と恥辱で生まれたストレス。
止めに肺が空っぽになる背中の衝撃。俺の意識は電車内に崩れ落ちながら朦朧としていく。
意識が途切れる瞬間。
あれだけ人の気配を感じていた駅のホームに誰も居ない。俺を投げ入れたハゲオヤジすら姿が見えないことに気付くが、それに対して感情が生まれる前に俺は意識を手放してしまった。
目覚めると俺は病院に居た。
俺はハゲオヤジに理不尽に怒鳴られた次の日の早朝。車庫入れされた電車の中で発見されたらしい。
俺は酷い有り様で、車両を動かしに来て発見した鉄道会社の社員が慌てて救急車を呼んだそうだ。
目覚めたのは更に次の日。つまりは丸二日は寝ていた。
全身が酷く痛む。特に痛いのはあのハゲに捕まれた肩と側頭部だが、何故か全身に痣があった。
痣は強く握られた赤黒い手の形をしているのがゾッとする。
それが全身にあったのだ。
あの体験は幻覚とか夢だとか思っていたかったが無理だった。
何の気配も音もなく、駅のホームで俺を待ち受けていた電車に乗っていたら、どうなっていたのだろうか?
目覚めた後は、明らかに集団暴行な痕を身に付けているので、刑事が事情を聞きに来たり。
親や友人がお見舞いや冷やかしに来て俺の惨状に引いたり。
そんな状態で気付かず放置して申し訳ないと、鉄道会社の偉いさんが何人もやって来て、謝罪や色んなお詫びの品を置いていった。
どう考えても鉄道会社のせいではない。少しだけ申し訳無かったが、お詫びの品は遠慮なくもらった。お金もくれた。
買いたいものがあったので嬉しい。
怪我らしい怪我は全身の痣しか無かったが、俺は酷く衰弱していて、ベッドから降りるのも億劫の状態。ハゲオヤジからあの臭いが移ったらしく、嫌な臭いが自分からしていた。世話をしてくれる看護士はみんなマスクをしていていたのが地味に辛い。
俺はなんの臭いか皆目検討もつかなかったのだが、見舞いに来た友人の一人が「沈んだ生物が何匹も底で腐敗している泥沼の臭気を濃縮した臭い」と指摘した。
友人の父方の田舎には、足を踏み入れたら死ぬと言われているそんな泥沼があるそうだ。
歩けるようになって退院するまで三週間も必要だったが、それが終わると、ハゲから移った臭い以外は、何事もなくいつもと変わらない日常が戻ってきた。
唯一の変化は、駅やバス停など何かがやってくる場所では、スマートフォンを見なくなった事。通学はバイク通学に変わったくらいである。
どんなに身体を洗っても取れなかった臭いは、ハゲオヤジと遭遇してから二ヶ月後くらいに突然消えた。
あの体験の後、あの駅には近寄ることもあの駅を通る路線も利用していないが、耳に入った噂によれば……駅のホームでは奇妙な体験をする人、行方不明になる若者が続出しているらしい。
この話はフィクションです。
実在の場所や人物とは一切関係ありません。
夏のホラー2020投稿作品。