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N(ニュートラル)

作者: 山本賢二

この作品は小説であると同時に地域振興への思いも寄せて制作しています。

各地に出てくる地名や道の駅等、またCVや喫茶店など、物語の製作に関し多くの方にお世話になりました。

ストーリーの流れは前作の書籍『Usagiランナバウト』山本賢二/文芸社の継続作品となります。この作品はバイクの旅に特化した内容でしたが『N』は小説が本来持つヒューマンドラマを主軸に作成したものになります。

   「(ニュートラル)


                     山本 賢二 





序章





 “青春 ”とは何だろう………中学や高校の部活、或いはそれら学生たちの未だ確定していない人生の姿――――――


 今日、僕の本が刊行される日だ。そこに書かれるのは僕という人間の青春の形…


 これをバイクのギヤに置き換えれば“ニュートラル ”という位置が適切かもしれない。

自分の意志で走り出すことを選択できるポジション…………


そんな自由な立ち位置の人生も “Usagi ”ウサギ(バイク)と一緒なら可能なのかもしれない。



10月 1日  AM0時45分


                                            賢太







第一章 「帰 還」






 大学の二回生になった頃、僕、宮前賢太は“Usagi”というバイクを同郷の学生、(ひとり)(のぞ)()から譲り受け、それによって新しい自分へ大きく変わろうとしていた。




 お盆の最終日の夜、僕はウサギと共に無事にアパートまで辿り着いた。

 言い方を変えれば「上手く漂着できた」、になる。


 元々、全然体力のない僕が、ウサギ(バイク)でここ吹田から郷里の愛媛松山―――片道約480㎞近い距離の往復をしたこと自体が冒険と奇跡だった。



 時間はまだ遅くない。僕は携帯を開いてウサギの譲り主である(ひとり)(のぞ)()のメールアドレスを探した。

 実家へ帰る途中、松山市北条の道の駅で再会したとき交換した真新しいメールアドレス………


僕は短文でメールを打った。


 『ブジ、カエル。ケンタ』


メールを送信すると僕は服を脱ぎ捨て浴室へ入り、シャワーを浴びた。

 

 浴室から出ると腰にタオルを巻き、エアコンの風に当りながら冷たいものを飲み、スナック菓子をかじる。TVを見ながら携帯の着信を気にしていたがその日、返信は無かった。









 翌朝、携帯を見るとメールの着信があった。望美さんからだ――――



 『ケンちゃん、お疲れ様。こんな時間にゴメンね、私は今、帰って来たところ。

 また時間がある時にUsagiと走った時のこと聞かせてね♡』



 着信時間を見ると夜中、僕が寝ていた時だ。


 僕は服を着ると大学へ行く準備をした。今日の午前は講義が入っている。

 手っ取り早く食パンを口に入れると冷蔵庫で冷やしてあるコーヒー牛乳を口に注ぎ込んだ。


ヘルメットとグローブを取り、玄関を出た。


膝や手首に突っ張った感じが少し残っている。僕はウサギのカバーを取ると乗る前、簡単にホイールやタンクに付いた埃をウエスで拭きとってやった。真白な機体にブラックアウトされたエンジンやフレーム、ホイールが強いアクセントを放っている。

以前は全てにおいて面倒なことが嫌いだった僕が少しずつ変わり始めている。


ヘルメットとグローブを付けてウサギに跨ると大通りへ向けて走り出した。


ここ吹田市の岸辺からK大学まで3~4km、大阪のベッドタウンでもある吹田市はマンションや住宅が密集している。初めてこの地に来た時、すごく遠く感じたが2年経った今、その距離感は補正されている。


大通りに出てしばらく走ると大学に着いた。ウサギを駐輪場に置くと学舎内へ入った。

講堂の椅子へ着いて間もなく、担当の横林教授が入って来た。度の強い太い黒縁メガネを掛け、髪は白髪交じりでバサバサ、口元には深いシワがある。眉毛は太く鋭い目つきで受講者を見渡した。


僕が感じるイメージは教授というより、陶芸家や芸術家がハマる。


今日聴くのは商業システムデザインについてだ。実家のマンション経営の在り方を勉強させるために両親は僕をここへ進学させた。自分は特に何も考えてなかった――――というか考えが固まっていなかった。






講義は昼前には終わり、講堂を出ようとした僕を横林教授が引き留めた。


「宮前君、最近バイク乗ってるんだって?」

「ごく最近ですよ」

「バイク通学の申請出しといたか」

「もちろん………でも何で教授がバイクのことを……?」


横林教授はメガネを掛け直すと壁にもたれて腕を組んだ。


「去年、内にバイク部が新設されたの、君も知ってるだろ」

 僕は即座に答えた。

「いやです!」


「ふぁ? まだ何も言ってないけど」

 「部員募集とかでしょ! 僕は面倒なのが嫌いなんです」

 

 「ウム……確かに、その通り。うちのの大学は法科が強いから―――部員が集まらないそうだ」

 「機械工学科の学生が居るじゃないですか! 僕は社会システムデザインだし……」


 言いかけている所に背の高い男子が割って入る。





第二章 「バイク部と太田夏音」 





 「すみませんね、横林教授。引き留めてもらって」

 (引き留める?)


 その背の高い、ちょっとインテリ風なメガネを掛けた自分より年上の男子は僕と向かい合った。

 「4回生の向井啓介だ。バイク部の部長をやってる、専攻は化学・物質工学――――うちの学内は広いから会うのは初めてかな?

 2回生の宮前君だろ、最近バイクに乗ったって聞いたんだ。君のバイク見せてくれないかな」


 「いいですよ。だけど入部はしませんよ」

 僕はハッキリ言った。



 僕は向井という人を連れてウサギの所へ戻った。


 向井はウサギの方へ行く途中に携帯で誰かと話した。

 「悪いな、太田。来てくれ………頼む」


 「向井さん、誰と連絡を………」

 「ああ、ゴメン。うちの副部長をね………君のバイクは珍しいから一緒に見てもらおうと思ってね」



 僕は彼とウサギの前に来た。

 「まあ、好きなだけ見て下さいよ。僕のウサギ」

 「ウサギ……か。ペットネームだね、君が考えたの?」

 「このバイクは譲ってもらったんです、同郷の人から。その人が付けていた名前なんです」


 向井は「フム……」という感じで僕のウサギを見ると淡々と話し出した。


 「このバイクは韓国KRモータースのHYOUSUNG・GT250R、型式はMJ55B。エンジンはVバンク角75度、2気筒の空油冷エンジン。DOHCで出力は30ps、トルクは2`3kgm………海外では通称COMET250Rの名称で出ている。

 このメーカーは国内大手のSUZUKIと技術提携していた経緯があるんだ」

 「ヒョースン……それがこのウサギのメーカーなんですか?」

 向井はフッと短い溜息をつくと言った

 「宮前君、自分のバイクのメーカーくらいは―――」



 彼が言い終わる前に駐輪場の横の建物の影から女の子が現れた。


 「遅くなりまし――――うわあぁっ、凄い、このバイク‼ これ本当に250ccですかぁ⁈」

 女の子は僕の許可を得ずにウサギを覗き込む。どうやら僕は目に映らなかったようだ。

 向井は女の子に注意した。


 「太田、持ち主の許可なしで1メートル以内に入るな。両親に教えてもらわなかったのか」

 「あぁ、ゴメンなさい。珍しいバイクって聞いていたから、つい夢中に……」

 (両親が、何で?) 僕は不思議に思った。

 「宮前君、紹介するよ。彼女は太田夏音、バイク部の副部長なんだ。君より一つ下だけど―――専攻は商学科だ」


 紹介された女の子、太田夏音を僕は再度確かめた。

 背は自分と同じか少し低いくらい、髪はショートで整った目鼻立ち―――一般で言うところの美人顔の黄金比とでも言えそうだ。年が近い割にはメークの仕方も上手な感じで、何より性格が明るく感じた。



 「じゃ太田、あと頼むわ。オレ昼から受講だから………宮前君、何か分らないことがあったら太田に聞いてな」

 

 「ちょ―――聞いてって、どういう事⁈」


 完全に向うのペースにハメられた感じがした。


 彼女は近寄ると僕の周りをグルリと回る。

 「フゥ~ン………フ~ン」

 「あの、太田さんだっけ? 観察するみたいに見るの止めて」


 彼女は僕の言うことに意を介さず、次のように言った。

 「賢太さん、痩せすぎ! もう少し体鍛えた方がいいよ、今の体格だとGT大きすぎるよ」



 「(何なんだ、この子)………僕は帰るよ」

 「私も家に帰るんだけど、お昼どう………一緒に」





 幼稚園か小学生低学年の時以降、僕にはこういうシチュエーションは無かった。正直、こういうのは苦手だ。


 「僕じゃないといけないのか?」

 彼女は大きく頷く。

 (………飯だけなら……問題はないか)



 彼女の家、実家は吹田市内にある。千里山田のマンションに家族と住んでいた。

 両親はメディア関係の仕事をしている。特に不自由もなく比較的裕福な家庭だった。

 彼女はそんな中で困ることもなく過ごしてきた………いや、もし困ることが無かったというのなら、それは彼女自身の明るい性格と、今は僅かにうかがえる前向きな姿勢があったからだろう。


 もう一つ、彼女の家族には特筆するものがある。両親と彼女、県外に出ている姉を合わせて全員がバイク乗りだった。


 家で彼女から紹介され、彼女の家族とお昼を摂った。初めて来た僕を彼女の両親は嫌な顔をせず、むしろ歓迎してくれた。


 そんな中、僕が彼女の両親から聞いたバイクの話は単に思い出や旅の話に止まらない――――バイク(二輪)のビークルとしての有用性や生活に与える影響にまで及んだ。


 「バイクは生活の足であると同時にスポーツだよ。身体を動かす分、車より腰痛になりにくいし―――コーナリングで上半身を…背中をイン側へ弓なりに曲げて行くだろう。あの動作って健康にいいんだよ。

 バイクが健康や身体能力の維持に寄与していることは科学的に立証されているからね。それから―――旅のツールでもあるし、優れたコミュニケーターだ」


 彼女の両親との話はしばらく続いた。



 僕が太田夏音の実家を出る時には彼女が何で僕を実家に招待したのか―――などの疑念は無くなっていた。




 アパートに帰った時、日は大きく傾いていた。


その日にあったことは今まで経験のないことだった。愛媛からここ吹田市に来て二年、大学へ通い、その日があまり変わらずに終わっていたのに………

僕が同郷の女性、(ひとり)(のぞ)()から譲ってもらったバイク “Usagi”に乗り出してから、色んなことが起きる。


僕は携帯を開いて待ち受け画像を見る。そこには先週、帰省した時、途中岡山で知り合った女の子、山内洋子とのツーショットの写真があった。

元レーサーだが主人と喧嘩をして家を飛び出していた彼女………しかし、彼女が途中までエスコートし、最後に色んなアドバイスをしてくれなければ僕はきっと郷里の松山へ着くことはなかっただろう。








数週間後、僕は誰に誘われるでもなくバイク部の門を叩いていた。


バイク歴が始まったばかりの自分にとって、ウサギと長く安全に付きあって行くには知らなければならない事は沢山ある。そんな中、バイク部への入部は有効と思うようになっていた。


バイク部にはエンジン、車体などの機械工学やECU―――エンジンコントロールユニットなど、車載コンピュウターのプログラミングを修学するためのレース科とバイクを社会的ビークル(乗物)として、その有用性と交通システムを研究するためのツーリング科の二つが在り、僕は後者を選んだ。



入部申請を終えると僕は部長の向井啓介と副部長の太田夏音の他、数名と顔を合せた。


「見ての通り、ツーリング科の科員はこのくらいしかいない。年間を通して何回かツーリングをしたり研究会を開いたりするのが

目標なんだ」と向井は言う。

「目標……やっているんじゃないんですか?」

「しばらくは楽しくやりたい。宮前君、内の部員を紹介するよ――――そっちから自己紹介な」


向井は指さして促した。


何人かが自己紹介を終えて最後の人になった。3回生の朝生(あそう)(ひろし)――――ビッグマウスとでも言いたくなるくらいの喋り方に僕は少し抵抗を感じた。

彼はレース科から一年前、部が新設されて少しの時にツーリング科へ移籍してきたようだ。




取り合へず僕と部員の紹介は終わり、みんな部室を出て行き四人が残った。


「宮前君、メールアドレス教えといてよ、連絡に使うからさぁ」と向井。

「あぁ、いいですよ」

「オレにも教えろよ」と朝生が寄って来る。


副部長の夏音には本人からの要望でこの前教えている。



自分を含めて三人が頭を寄せ合う中で携帯を開く。

(やりにくい―――近い!)


待ち受け画面が出ると朝生がいきなり携帯を引っ手繰った。

「いきなり何するんですか‼ 返してください」


僕の声が耳に入らないのか朝生は携帯の画面を見て固まっている。


「何やってんだ、朝生」

そう言うと向井は朝生から携帯を取り上げ画面を確かめた。


「ウッ………」と、向井は声を詰まらせた。

「何でこいつの写真があんだよ⁈ おまえ、こいつの何なんだっ‼」朝生は興奮した感じで僕に迫った。

「朝生‼ 宮前君は関係ない、ちょっと席を外せ!」向井が言うと朝生はクソッ、という感じで部屋を出て行った。



「ゴメンな、宮前君………あいつ、去年レース科の方で初めて内から出たライダーで結構いいところまで行ってたんだ。


予選ファイナルでこの写真の子にS字コーナーで押し出されてコースアウト―――リタイヤしたんだ。この子、山内洋子だろ……」


(洋子ちゃん、結構メジャーな選手だったんだ……)

「ええ、そうですけど……8月のお盆、帰省の途中で色々助けてもらったんです。彼女が何か?」

「いろいろなぁ………」向井は額に手を当てると俯いた。

「?」


「この件に関して主催者側から危険判定は出なかった。それに怒ったあいつがこの子のチームへ文句を言いに行ったんだ」


これ以上聞くのは自分にとって面倒な事になりそうだ、そう感じた僕は結論を急いだ。


「こじれたんですね、向こうと」

「まあ、そんなところ。本人と掴み合いになって――僕も止めに入ったんだけど………」

(向井さんもレース科だったんだ……)


「レースじゃよくある話じゃないんですか―――こういうの」

「まあな、そういうことがあって朝生も僕もレース科から外れたんだ……悪いね、つまらない話で。忘れてくれ」


僕は腕を組むと短い溜息をついた。確かに良い話じゃないし、こういったややこしさは他の人でも敬遠したくなるものだ。



僕は部長に挨拶をして部室から出た。




その日、家に帰り着くまで、僕は山内洋子のことを考えていたような気がする。

それは彼女の『幸せ』について――――短い時間の間、僕と関わってくれた彼女はレースをしていた時、本当に幸せだったんだろうか……


この時、人生で初めて真剣に自分以外の人に思いを抱いた気がした。



しかし、僕が持っているのは携帯の写真だけで住んでいる所の情報の交換まではしていなかった。


彼女は携帯を家に置いて来ていたので写真のデーターをメモリにコピーして渡した―――それだけだ。






第三章 「親 友」





面倒なことが嫌いな僕は必然的に友達は少なかったが、全くいない訳でもなかった。


僕がお盆で実家の松山へ帰省するまで、ウサギに慣れるためにランナバウトしていた時期に彼に出会った。


大学での彼の専攻はシステム理工学部の機械工学科だ。




大学の受講を終えた僕は自転車でJR吹田駅の近くを走っていて信号待ちをしていた時、いきなり話しかけられた。少し崩れた服装で痩せた感じだが目つきは悪くない。


「君、K大やろ⁈ オレ、理工学部なんや―――悪いけど摂津まで後ろに乗せてくれへん……」


当然、何だ、こいつは、と僕は思った。信号が青になったので僕は通行の邪魔にならないよう自転車を歩道の端へ寄せた。


「……何で自転車か電車で帰らんの?」

「電車で来たんやけど――金が無いんや。全部これに変わった」


彼はそういうと両手に持ったビニール袋を僕に突き出した。何かの景品か………食べ物の箱やぬいぐるみ、キーホルダーが透けて見えていた。

「パチンコかスロットか………」

この時、学生のくせに‼ と本気で腹立たしく思った。


「ゲーセンや」  ※ゲーセン:ゲームセンターのこと

「えっ?」

「ゲーセンで使い切ってしもうたんや」

(バカなんか、こいつは!)


「ちったぁ、残しとけや!」  ※ちったぁ:少しは


頭に来た僕は田舎の言葉が出た。


「チッ、しょうがないな……乗せたらぁ、その代わりコケても知らんぞ!」

「すまん、頼む」

(僕はタクシーなのか⁉)


「言っとくけどチャリで2ケツは反則だからな!」



吹田市摂津の彼の家の前で自転車を停め、彼を降ろした。


走っている最中にパトカーや白バイに出くわさなかったのは運が良かったとしか言いようがない。


「ここか、お前ん家?」

「そうや、ありがとな」


「もう2ケツはしないからな!」



彼は自宅の玄関の方を向いたが思い出したように振り向き、僕に言った。

「自己紹介してなかったな、オレもK大―――理工学部。2回生の如月(きさらぎ)敬之(たかゆき)や」

「じゃあ如月、何で僕がK大って分かった?」

「呼ぶときは敬之でエエでぇ―――大学の駐輪場に白いバイクと一緒に居ったやろ、目立つバイクやったから持ち主の顔もよう覚えてる」


(それでか……)

「僕は社会学部のシステムデザイン科、宮前賢太、同じ2回生だよ」


彼は持っていた袋の中からゲームのキャラクターのソフトラバー製のキーホルダーを取り出し、僕に渡した。


僕は高校の時、将棋部に居て―――実質それはゲーム部と化していたが、みんなが手持ちのゲーム機を持ち寄ってゲームをしているのを僕は後ろから眺め、ゲームの途中に何回かあるイベントを見て楽しんでいた。


ゲームをすることに興味はなかったが、そこに登場するキャラクター達は好きだった。



彼のくれたキーホルダーのキャラクターは自分も特に気に入っている奴だ。

ゲームやアニメのグッズを売っている店で買えば普通に千円以上はするだろう。


「これを―――僕に⁉」

「ああ、今日のお礼やけど………こんなんでエエかな?」


僕はそれを受け取ると彼の肩に手を置き、軽く揺すって言った。


「ありがとう、十分過ぎる!」






これが彼、如月敬之との出会いだった。


これも“Usagi ”ウサギがいなければ起こらなかった事かもしれない。






松山から吹田に戻って来てから暫く―――敬之からメールが入る。


「市内で遊ばないか―――」という誘いのメールだ。



僕は自転車で彼の家へ向かうと彼は外で待っていた。


僕は敬之と一緒に吹田駅の方へ向かう。旭通商店街のゲームセンターの前で自転車を降りた。




自動ドアの風除室を抜けると色々な電子音が周りの空間を包んでいた。様々なゲーム機が並んでいる。格ゲー(格闘ゲーム)や音ゲー(音響ゲーム)、シミュレーションゲーム、シューティングゲーム、他………



敬之はそれらのゲーム機には目もくれず、あるゲーム機群の方へ進んだ。

一般に言うところのUFOキャッチャー。


アームで景品を掴むものや、フックで吊り上げるクレーンゲームのようなもの、アームの代わりにカッターの刃が付いていて、景品を吊った糸を切るものなど様々なものが置かれていた。


その中で敬之はクレーンゲームの前に立った。景品は外国製の清涼飲料水のようだ。瓶の上にはクレーンのフックが掛かる輪っかが付いているが―――それは決して大きくない。



コレを見て僕は難しいと感じた。景品の配置を見ると一回で取れないのは素人目にも明らかだ。


敬之はコインを入れてボタンを操作する。先ず水平方向、続いて前方にスライド、ボタンを放したところでシリンダーが下がり先端のチェーンとフックが景品の輪っかに近づく………クレーンのフックは―――やはり掛からなかった。


「やっぱり―――難しいかな……」と僕。


敬之は悔しがるわけでもなく2回目の態勢に入る。そしてゲーム機に集中したまま、僕に言った。


「機械のストッパ―の精度は分かった。一回目は勉強代……」


そして二回目、クレーンのフックは見事に景品を吊り上げた。僕はこれを偶々(たまたま)、運が良かったのだ―――そう見ていた。だが―――――



驚くことに二回目以降の失敗は無かった。しばらくの間で景品は袋一杯になった。

ゲームを終えた敬之は解放された感じで僕を見ると次のように説明する。


「賢太お前、最初これ偶然思てたやろ……」

僕は無言で首を縦に振る。


「違うで……この程度の状況は技術でカバー出来る。本当の偶然は人の力では――――どうしょうもない」



台詞のニュアンスに彼らしくない部分が顔を見せたので、僕は彼に聞いてみた。

「お前、何かあるのか? 最後辺りの話、らしくないな」

「いつも脳天気みたいに言うな! 人間やさかい色々あるわい」



僕たちはゲームセンターを出て隣にあるファーストフード店でお昼を摂ると再び自転車を走らせた。


僕はそのまま吹田市の南高浜へ走り、ウサギを買った『稲葉モーターサイクル』へ立ち寄った。この時期、各メーカーから矢継ぎ早に250ccの新型が発表されていたからだ。


店頭にはHONDA、Kawasaki、YAMAHA、SUZUKIのフルカウルのモデルが並んでいた。


奥から店長が出てきて僕たちを迎えてくれた。


「よぉ~、宮前君。今日は自転車やね、バイクの調子はどんな?」

「調子は良いですよ。特に問題は無いです」

「今日は友達も一緒やね。コーヒーでも入れるからゆっくりして行って―――」


僕たちは店の奥へ入り、コーヒーを頂くと店頭に置かれたバイクに見入った。


「買い替えるんか、賢太?」と敬之。僕は即座に否定した。

「違う! 見に来ただけ。僕のウサギとどう違うのか知りたいから」

「お前のバイク、ウサギ言うんか?」

「正式名称とは違うけどね…ウサギは愛称だよ」


同郷の女性、独望美がこのお店にウサギを売り、その直後、僕がウサギを買い取った時はまだフルカウルモデルは店に並んでいなかった。

ここに並んでいるバイクはその後に出た新型だった。同じ250で初めてウサギと比較できるバイクだった。


どのメーカーのバイクもコンパクトな車体で、跨って手を降ろすとそこにハンドルがある様な自然なライディングポジション………軽量な車体に必要十分なシングルディスクブレーキなど簡素な装備ながら性能は良さそうだ。

価格はウサギの新車と比べても高い―――特にHONDAのCBRは先進技術を多く導入している分、価格は少し前の大型バイクが買えそうだ。


僕は自分のウサギがどんなバイクなのかを再確認した。


大きな車体とワンサイズ大きなタイヤ、フロントは倒立フォークでブレーキはWディスク、灯火類ではハザードが標準で装備されるなど決してチープな感じはしない。

国産と大きく違うところはライディングポジションだった。ハンドルが離れていて低く前傾がきつい―――高速でタンクにベタ伏せなら丁度いいのだが、一般道では………お盆に帰省した時のしんどさはこの辺にあったのかも知れない、同時に自分の体力の無さを情けなく思った。



僕がバイクを見ている中、敬之はさほど興味を示さない。理工学部なら「へぇ~」とか「ふぅ~ん」とかのリアクションを期待していたのだが………


「帰ろうか…」と僕。

「ああ…」








彼の家の前まで来て彼の方を向くと、彼は顔を曇らせていた。


「敬之、具合でも悪いのか?」

「ちょっと……な」

「景品の袋は僕が持ってやるけん家の中へ入ろう」

「入るんか………まあ、ええけど」


平屋のそう大きくない家の引き戸をガラガラと開け、僕は挨拶した。

「こんにちは! お邪魔します」

返事が無い代りに敬之が僕の後ろで言う。


「誰も居れへんで、オレだけや」

「両親は―――兄弟は居るん」

「居・ら・ん」


彼は廊下を通り奥の自分の部屋へ案内する。何となく(すす)けてカビのような匂いがする……恐らく掃除や家その物のメンテナンスが長い間されていないのだ、僕はそう感じた。

実家の借家業で僕は小さい頃から父とメンテナンスで借家を回っており、家の中の匂いで、建物がどんな状態なのか判断できた。


今頃は化学建材が多く使われていて匂いも余りしない。だとすると、自分が今立っている、この家は相当古い物なのかも知れない。


廊下の奥の部屋のドアが開かれ、僕は中へ入った。6畳ほどの京間を見たとき、それは思った通り―――壁は至るところが膨らんで剥がれ落ち、何ヶ所かは土壁が露出していた、畳も擦り切れている。


敬之は端っこにある本の山に埋もれた小さな机の上に置いてある白い包みの中から何種類もの薬を取り出して仰ぐように飲んだ。


「薬飲むの忘れとったわ。悪いな、こんなとこ見せて……」


僕はそんな事はどうでもよかった。

「お前……具合悪いなら何で早よ言わんのぞ! その薬の量は―――どこが悪い⁉」


僕はかなり興奮していた、意図せずに田舎の(なま)りが飛び出す。


「大声出すな、阿保か! 人間やさかい悪い所の一つや二つあるわい」


敬之は少し間を置いてから落ち着くとこう言った。

「持病って奴や、薬飲んでるから心配要らへん」

「お前一人で大丈夫なんか……家で誰か看てくれる人は居らんの?」

「居らん」

「何で―――」


今までの自分なら絶対に聞かないレッドラインを越えていた。


今までそれを越えなかったのは相手に対して踏み込んではならないという思いなのか、或いは自分の臆病さや自分には何もできないという諦めなのか……



親父(おやじ)はオレが小学生の時に事故で死んで、お袋は蒸発()えた……」

「なっ⁉」

(しまったっ―――聞くんじゃなかった‼)


僕が落ち込んでいるのを察してか、彼は今日の獲物を少し分けてくれた。

「心配すんな。時々、親戚の人が見に来てくれよる……賢太、今日はありがとな。これやるわ―――また一緒に行けると嬉しいな」



僕は敬之がくれたキャラクターのぬいぐるみを受け取ると無理に造った笑顔でこう答えた。


「いつでも行ってやるけん、今度は薬忘れるなよ!」


そう言って僕は―――心の中では逃げ出すように彼の家を後にした。







その日、僕が家に帰ってから落ち込んだのは言うまでもない。


それは今まで自分の身の回りで起きたことのない出来事だった。自分の両親や兄弟は健在で田舎へ帰るとそこには安心して居られる実家がある。また、自分の周りでは病気や亡くなった人が少なかった。

歳を重ねて行けばいずれは人の不自由や病気、死を目にするのは自然な事かも知れない。只、今はそういうことが起きていない………それだけの話だ。


人と比べるつもりは無い。だけど………僕の心は痛んだ。



人を知ると言う事、関りを持つ事は同時に責任を負うことなのだと今日僕は悟った。

たとえ、それが面倒くさいこと―――でもだ。


僕は彼からもらったキャラクターのぬいぐるみをそっと抱いた。







第4章 「望美さんと夏音と僕と」






僕がバイク部に入部してからというもの、太田夏音はバイクの技術講習という名目で僕に付きっ切りとなった。


大体は食事に誘って、食べながら技術講習―――だがそれが数分で終わり後は他愛もない話が続く。

度々、家にも誘って良くしてくれるが――――実際、時間が勿体ないというか………


(ちゃんと技術講習やってくれるといいんだけどな……何のために時間割いてんだか―――)



「太田さん…」

「何、賢太さん?」

「いや、そのね………もっと技術的な―――」


正直、ストレートには言いにくかった。

「ゆっくりでいいんだ、その話。もっと乗り出せば自然に分かることもあるし―――今は賢太さんと楽しく過ごしたいな」


(コレ……ただのお茶会だな)







その日、自分の住むアパートに帰るとウサギの埃を簡単に落し、カバーを掛けて4戸一棟の内、自分の部屋の戸口を開けた。


バッグを投げ出すように放ると僕は床に腰を落した。


ジャケットの胸ポケットに入れた携帯を取り出して画面を開いた。気にはしていたが望美さんにメールを送っていない。お盆に松山の実家から戻って来てしばらく経つ。


思い切ってメールを打つ―――送信‼


内容は大したものじゃない。もう一度会って話がしたい、それだけだった。


お盆に松山へ帰省した時、偶然、松山市北条の道の駅で望美さんと出会った。

彼女も実家へ帰る途中だったのだ。自分にとって嬉しい偶然だったのかも知れない。


吹田からウサギに乗って四国愛媛の松山を目指し、その間、同じバイク乗りの山内洋子や、もう一人、サイドカーに乗った壮年の奥村正路に出会い、短い時間の中で色んなことを話した。

途中、大雨にやられ体力もギリギリ――――北条の道の駅に何とか滑り込んだ時、一番逢いたいと思っていたのは望美さんだった。



(それは “Usagiウサギ”を譲ってくれたから―――違う、そんなんじゃない)




二つ年上の彼女は学生をやりながらモデルの仕事もしている。そんな彼女に僕は魅かれたのかも知れない。そう、望美さんは自分よりずっと大人だった。








夕方、望美さんからメールが着信した。


僕は恐る恐るメールを開いてみた。


『ケンちゃん、お久ぁ~♪ 今度の日曜日どお? 私の仕事もオフだし一日空いてるから何時でもいいよ。(^-^)


時間決まったら返信してね、またイヌで迎えに行くから』


文中にある “イヌ ”は望美さんが乗物を表すときの隠語で車を指す。

イヌは長距離ランナーなので車を表す適切な言葉だ。そしてバイクは “ウサギ ”―――草食動物のウサギは短距離ランナーながら、すばしっこく運動能力も高い。スポーツ性も高く、燃料もあまり喰わないバイクを表すには良い言葉だと思う。



僕はこの日が空いているか日程を確認した。受講は入っていない。バイトもこの日はナシだ――――OK、行ける。


僕が望美さんに返信を打とうとした時、携帯が鳴った。



僕は作業を中断して回線を開き、携帯を耳に当てた。

「はい、宮前です―――」

{夏音です、賢太さん……}

「あぁ、太田さん―――どうしたの?」


{今度の日曜日、バイクでどこか行こうよ。賢太さん、その日はオフでしょ}


部活と受講の時間を調整する名目で太田夏音は僕の受講の日程と、加えてバイトなどプライベートな時間も聴き出していた。



「……チョッといま手が離せないんだ。折り返し電話するから―――」

そう言うと僕は一端回線を閉じた。手は空いていたが即答は出来ない。


僕はここで少し考えを巡らした。先ず優先順位―――望美さんと会う事、次に太田夏音と部活………



僕は机に向かうとパソコンを開きマップを展開させると、それを見ながら暫く考えた。


休みの早朝なら車の通りも少ない………昼から出るよりは安心して出られるし車が混みだす時間になる前に帰ってくればいい―――



一日の中で用事を二件入れる必要はなく、後で連絡が来た太田夏音の方を断ればよかった―――だが、何故かその日に両方の約束をしないといけないような気がした。


それは断り切れない自分の弱さなのか、或いは太田夏音に対して自分が気が付かない所で何かを思っているのか――――若しくは単に時間が勿体ないだけ……



僕は望美さんに会うのを午後からとした。ウサギで早朝から出て、午後二時には戻って来れる場所を探した。

神戸方面は基本的に交通量が多いのでパス、後は………僕は画面の少し右上にカーソルを動かしそこの情報を開いてみた。


「大津湖岸なぎさ公園………」


そこは一度も行ったことのない所だった。が、グーグルのストリートビューで調べてみると景観もよく、太田とバイクで行くには―――初心者の自分にとっても行きやすく感じた。


時間を稼ぐために当然高速は使う―――これで決まりだ。



直ぐに太田夏音に電話を掛けた。

「―――あぁ、太田さん、さっきはちょっとゴメン。日曜だけど朝、少し早くていいかなぁ?  予定としては14時くらいに帰る。


何か、仕切っちゃって悪いんだけど――――」



この日、別の用事が入っていることは伏せた。忙しいと思われたくないのと気を遣わせないためだ。


{そんなことないよ―――じゃ、細かいことは会った時に……ありがとう、賢太さん。またね}


そう言うと彼女は電話を切った。同時に僕は望美さんへメールを打つ――――日曜日、14時半に迎えに来てもらうことにした。



太田との約束が先になってしまったが、それでもその日、望美さんと会う重要性は太田との約束より重く感じた。










その週の金曜日、僕は敬之と(しゃべ)りながら学内の駐輪場に向かっていた。


話していたのは日曜日の太田夏音とのランナバウト(ツーリング)についてだった。


事情を話すと敬之はこう言う。


「その子、お前のこと好きなんちゃう……大体、二人っきりなんかで走りに行かへんやろ。

それに本当にバイクの練習に行くんやったら――――部活でやっとんなら相当イヤイヤやってる思うで。特に女の子はな、二人やで!」


 「そうか…太田には迷惑掛けてんだなぁ。僕は運転下手だから」


 僕は駐輪場に着くと自転車のカギを外した。家まで2~3kmなので毎回ウサギばかりではない。

 

 僕は敬之と別れると家路に着いた。周りの景色を見ながら敬之と話していたことを考えていた。

 

 (イヤイヤか……もう何か面倒くさくなってきたな、今度会ったら断ろうか……)

 

 この時、敬之が話の前半に言ったことは気にもしてなかった。

 

 

 家に着いたがまだ、日は高い。時季は十月に入ろうとしているが暑さはまだ残っている。

 僕はウサギのカバーを取った、今から喫茶店へ行く。


場所は千里山田にある喫茶店『キャンドル』―――ここはウサギを譲ってもらった時に望美さんがウサギのタンデムシート下の小物入れにハンカチを置き忘れていたのをバイク屋へ知らせ、そこで会った後、車でお茶に誘ってくれたところだ。


僕はウサギで出ると府道14号を東に進み千里丘七丁目のT字交差点のコーナーを左折し北へ上って行く。更に山田名神下交差点で左折しそのまま緩い坂道を600mほど進むと『キャンドル』に着いた。


昭和レトロな雰囲気の漂うその店に僕は時々来ていた。何より、その雰囲気がとても好きだった。


ファミレスほど、ざっとした感じではなく、コーヒーのチェーン店のようにシステム張ったところもない、丁度いい感じ……



お店に入るとマスターが声を掛けてくれた。

「いらっしゃい―――暑いねぇ、賢太君。学校の帰り?」


「一回家に帰りましたよ。暑いんで涼みに―――」

言い終わる前に一人のスーツ姿の男性がお店に入って来て、店内をぐるりと見回すと僕と目が合った。

 

 三十代くらいの男性は僕の向かいの席に腰をゆっくり下ろした。

 

 「ここ、いいかな」と男性。

 

 案内のタイミングを逸したマスターは僕がどう出るか見ている。僕自身も座ってしまったものを、回りの席が空いているから他所へ行け、とは言えない。

 

 「どうぞ、空いてるので…」と僕。その後、マスターがオーダーを問った。

 

 男性はゆっくりとした口調で僕に話しかけてきた。

 

 「表に置いてあるバイク、君のだね」

 「?…まあ、そうですが―――何か?」

 「あれ、譲ってもらったんだろう―――望美君に」

 

 「エッ‼ 何で知ってるんです⁉」

 

 僕は相当狼狽(うろ)えていたのかも知れない。思ってもみない言葉が全く見ず知らずの人の口から出たからだ。相手が学生ならまだしも―――。

 

 「あぁ、自己紹介をしてなかったね」

 

 そう言うと男性は名刺を取り出し僕に渡した。僕は軽く頭を下げると名刺を見た。

 

 (MIG(マテリアルイメージガール)プロモーション、何の会社? 名前――(さき)(おか)(すすむ)。誰なんだ?)

 

 「脅かすつもりはなかったんだ、ゴメン。宮前君だね、望美君から聞いている」

 

 

 やっと僕は理解した。望美さんが行ってる会社の人だと。

 


 「望美君が持っていたバイク、あまり見かけないから直ぐに分かったよ。それに色がね―――とても綺麗だ」

 

 「あの、望美さんとどういう……」

 「宮前君は彼女がモデルをやってるの、聞いてるよね。」

 「はあ…」

 「望美君のマネージャーをやってるんだ」

 

 

 望美さんがウサギを手放した理由は仕事の関係上だ。最初に望美さんに会った時、こう言っていた。

 

 仕事の規約上―――それとマネージャーからウサギに乗ることを注意された――――と。それに加えて両親の反対があったようだ。



自分の前にいる崎岡という男性が望美さんをウサギから引き降ろしたのか………そして今、ウサギに乗っている僕がその男性と居る。

 

 

 「崎岡さんが望美さんをバイクから降ろしたんですか?」と僕。

 「望美君はそう言っていたかい……」

 

 男性は少し背を起こすと真面目な表情で次のように話した。

 

 「望美君の同意はあった、むしろ進んでバイクを降りてくれたんだ。私はマネージャーとして彼女にいい仕事をしてもらいたいし、社内でも優先的にいい仕事を回してもらっている。」

 

 崎岡の仕事の話にはあまり興味は無かったが望美さんに対して仕事の熱の入れようは伝わってきた。

 

 僕は話の方向を変えた。

 

 「崎岡さんはこの辺りに何か用事だったんですか?」

 「ああ、この辺りは大学が多いからね。K大やH大――うちの会社に登録している学生さんも多いんだよ」

 「スカウトですか?」

 「いや、内は基本スカウトはしないんだ。募集は掛けるけどね――仕事の連絡だよ。現場の注意事項や衣類のサイズとか本人に合わせてもらわないといけないから」

 

 「衣類?コスプレ…」

 「会場とかでメーカーのロゴの入ったコスチュームを着た―――キャンペーンガール知ってる?」

 「ああっ! そっちの方ですか。僕はコミケかと…」

 「アハハッ―――そういう仕事もあるね、ゲームショウとか」

 

 

 

 

 

 

 夕刻、アパートに戻った僕はキッチンで簡単な食事を作りながら、崎岡との話を思い返していた。

 

 望美さんのことについて崎岡に聞くのは敢えて控えた。彼女が学生と並行してモデルの仕事も精一杯やっている、それで十分なのだ………僕は何度も自分にそう言い聞かせる、そう、何度も。

 

 そういう自分の裏側で、望美さんを知り過ぎることを恐れている自分もいる。例えば誰かと付き合っているとか――――

 

 

 

 たった一台のバイクが僕の周りを大きく変えていく、色んな人が僕の前に現れ、いろんな言葉を言い残す。

 

 ( “Usagi(ウサギ) ”が全ての始まりなんだ……)

 

 出来上がった食事をリビングへ運ぶと僕はTVで明日の天気を確認した。

 

 太平洋高気圧の中に列島はスッポリ入っている。降水確率は見る必要もなかった。

 

 明日、行く場所「大津湖岸なぎさ公園」をもう一度、マップで調べた後、少し早めに就寝した。


 

 

 


 

 

 

 翌朝、まだ日が上がりきらない東の空がやっと薄明るくなって来たころ、僕はすでにウサギと共に山田南にあるCV(コンビニ)の駐車場にいた。

 早朝、夏のような暑さは既になくなっている。そよぐ風がバイクで走るにはちょうどいいかも知れない。

 

 千里山田の方から軽快なエグゾーストノートを響かせながら下って来るバイクがある。

 車体は赤、黒、白、部分的にカーボン調のガンメタが入った攻撃的な色―――HONDA CBR250RR、直ぐに太田夏音のバイクと分かった。

 

 太田はバイクを横に停めると、降りてヘルメットを取った。簡素だが綺麗に整えたショートヘアーに綺麗な顔立ち、目はいつも笑っている。

 

 「ゴメンね、ちょっと遅れちゃった。テヘッ…」

 「大丈夫、一〇分、一五分は僕には誤差の範囲だから。それじゃ、今日の予定を説明するね―――」

 

 

 僕は手短に要点を伝えた。初心者の自分が仕切るのは何か悪い感じがしたが、今迄の経緯から彼女に任せていたら恐らく望美さんと会う約束は果たせない。

 

 太田夏音はここ大阪府周辺や京都方面は走り慣れている様なので彼女に先頭を走ってもらい、後を僕がウサギ(GT)で追う。

 

 

 時刻は5時、2台は揃ってCV(コンビニ)を後にした。休みの早朝、車はあまり走っていない。

 

 先頭の太田夏音は府道14号を軽快に走って行く。僕は後ろから彼女を見ていたが、さすがに慣れているだけあって無理のない自然ないライディングだ。

 僕はというと―――相当もたついている感じで信号など加速の際に距離が開いてしまう。平均60km/hも出ていないのに、だ。

 

 

 

 茨木市に入り国道171号に合流し、茨木IC(インターチェンジ)から名神高速道路へ上がる。

 僕がバイクで高速を使うのはこの前の松山の実家から吹田市へ帰る時、山陽自動車道の赤穂ICから龍野西ICで降り、第二神明の手前、明石市魚住町まで加古川バイパスを高速道路並みのスピードで走った―――それ一回きりだ。


 僕のウサギはETCを付けていない。料金所を通過する際、太田夏音はゲートを出た所で、僕が通行券をウエストポーチに入れ、バイクを動かすのを待ってくれている―――そう、彼女のバイクはETCの他、必要と思えるものは全て付いていた。

 

 本線に合流する。後方の安全を確認するとアクセルを勢いよく開ける。

 二台のバイクはアスファルトを蹴るように加速していく。同じ間隔を保ちながら、後方左に着ける僕は太田夏音の背中を見ている。


 こうして並んで走るバイクは航空機(戦闘機)が編隊を組んで飛ぶ姿とダブる。ウサギの戦闘的な前傾姿勢や身に着けているウェアやヘルメット―――― 

 

 (ライダー……いや、パイロットなんだ‼)

 

 

 太田夏音はこの辺の交通状況や取り締まり、オービス(自動速度取締機)の配置や交機の覆面パトカーの事をよく知っている。出せるスピードを抑えて法定速度+10km/h以内に保つ。

 

 

 しばらく走り続け、途中、桂川PA(パーキングエリア)で小休止を取った。

 

 彼女は売店に走ると飲み物と記念スタンプを押した紙を僕に渡した。

 

 「ありがとう―――太田さん、いつも悪いね。あまり気を遣わなくていいよ。お金も掛かるし……」

 「心配しなくていいよ、お茶代は部の活動費から少しだけ出してるから」

 「そっか、ならいいけど……いつも家に招待してくれるだろう、あれ、家の人に迷惑掛かってないかな……」

 

 彼女は「ん?」といった表情で少し首を傾げると次のように言った。

 

 「掛かってないよ、全然。うちのパパやママも賢太さんのこと、“珍しい好青年だね ”って言ってたよ、私も来てくれると嬉しいし―――」

 

 (僕は好青年に見えるのか?)

 

 自分でさえ自身のことがまだよく分かっていない。外側から見られた時、どのように見えるかなど思いもしなかった。

 

 「そうなんだ……」

 

 僕はそれ以上、話を長引かせなかった。目的地にはまだ着いていない。ここで万一こじれるような話が僕の口から出ればお互いに気分が悪くなってしまうだろう。

 

 再びバイクの人になり僕たちは走り出した。

 

 

 

 

 名神高速道路を上って行き、大津ICで下道に降りて県道56号を琵琶湖方面に向かって走ると程なくして目的地、大津湖岸なぎさ公園へ辿り着いた。

 

 僕と太田夏音は公園の中に幾つかあるレストランやカフェの中で、左側から二番目に位置する喫茶店へ向かった。

 デッキスペースで開店時間になるまで時間を潰そうと思ったが開店時間の表示は九時だった。

 

 (時間のことまで調べてなかった……七時過ぎ、一時間以上もあるな)

 

 

 取り敢えず僕は近くの自販機で冷たい缶コーヒーを買い、太田夏音に渡した。

 

 「太田さんゴメン、時間まで調べてなかったんだ」

 

 すると彼女は缶コーヒーを一口含むと口を閉じたまま、フッ、フフッと肩で笑った。

 

 「賢太さん、私、そういうのが好きだからバイクで走ってるの。そういうことがあれば逆に色んなことが出来そうだから……」

 

 「ふ~ん、イレギュラーなことが好きなんだ」

 「プチ冒険って奴―――」

 「僕はお盆にウサギで実家に帰った時が冒険だったかなぁ……色んなことが初めてだったから―――ランナバウト」

 「ランナバウト? ツーリングって言わないんだ」

 

 「色んな所をあっちこっち行ったり来たりするからね。だから僕はそう呼んでる、」

 

 「そう……」太田夏音にはどちらでもいいようだ。


 「ゴメン、つまらない話で―――今日も休みなのに僕のために時間使わせて悪いと思ってる。休みの日ぐらい部活は無しにすればいいのにね」

 

 

 「…………」夏音は黙った。

 

 「?」

 

 会話が途切れ、大きな間が空く。

 

 

 「賢太さん………今日はここまでだったけど、今度また一緒に走ってくれる…」


太田夏音は目を合わせず、ずっと向うを見たまま僕にそう言った。


この時、僕は彼女の言葉に全く注意を払わなかった。


「僕のことで太田さんに無駄な時間は使わせたくないんだ。もう個人授業は止めよう―――今度どこかに行く時は部の皆と行こう」











大津湖岸なぎさ公園から吹田に戻って来るのにさほど時間は掛からなかった。

向うでお茶を飲み太田夏音と少し話した後、僕は帰途に着いた。彼女は向うで用事があると言うので帰りは僕一人だった。



11時過ぎにはアパートに戻って来れた。



僕は急いでウサギの原状復旧を行い、次のランナバウトで気持ちよく乗れるようにするとカバーを掛けて保管した。この保管の仕方だが――――


僕は面倒くさがりなので時間のかかる水洗いはしない。細部までウエスやブラシで埃を落すと、艶出しと防錆を兼ねて溶剤を含んでいないシリコンスプレーを吹きかけ徹底して磨く。


更に傷が付かないように古いバスタオルやTシャツをタンクやカウルに掛けておく。最後にカバーは二重に掛け、下は動物(猫)が潜り込まないようにカバーの縁を包んで洗濯バサミで留めておいた。



面倒で何もしなかった僕が、こういったことを出来るようになったのもウサギのお陰かも知れない。同時にのめり込んでいるような感じ――――というか自分自身が露わになって行く、それは今まで見たことのない自分だった。





僕は服を着替えて望美さんを待った。


14時を少し過ぎて望美さんは迎えに来てくれた。軽快なエグゾーストノートを奏でる “イヌ ”は中古車だがイギリス製のロータスエリーゼだった。

ロードゴーイングレーサーとも称されるこのイヌは4輪版のバイクと言っても差し支えないだろう。


ドアを開けてもらい、屈んで膝を折るようにしてパッセンジャーシートに乗り込んだ。



「ゴメン、ちょっと遅れたかな?」望美さんの開口一番の言葉だった。


「えっ? ほとんどジャストだったよ、遅れたとしても1、2分くらい―――」

「ゴメンね、バイト(モデルの仕事)の癖で時間には細かいの」

「僕には誤差の範囲だけど……」




一〇分も経たない内にイヌは喫茶『キャンドル』に着いた。


店内に入り、向かい合わせに座る。


ウサギのタンデムシートの小物入れの中に置き忘れたハンカチを返そうとした時、望美さんが誘ってくれた店に再び僕と望美さんはいる。


(何を話そうか………)


「どうだった、お盆は。楽しかった?」

「‼ あっ、いや―――その……結構楽しかったよ。」

「どんなことがあったのか教えて!」




僕はお盆の帰省の途中で色々な人に会ったことや望美さんに会えたのが一番うれしかったこと、その後に学内のバイク部に入部し、知り合いが多く出来た事を話した。


その中で今日の出来事も話した。


望美さんなら話しても大丈夫、彼女は自分よりずっと大人なんだから普通に聞いてくれる(はず)―――それが(はなは)だしい自分勝手な思い込みだと分かったのはその後だった。



「ケンちゃん……それ良くないんじゃないかな。確証があって言う訳じゃないんだけど―――その太田さんって子、ケンちゃんのこと、好きなんじゃない? 多分だよ……」


望美さんの言ったことは、親友の敬之が言った事と同じで僕は今、やっとその時の言葉を記憶の中から拾い上げた。



「向うで帰る時に用事を作って一緒に帰らなかった……のかも」


「そんな……僕と太田さんは普通のバイク部員としての仲だ」

「休みの日に女の子が気のない人とドライブやランナバウトはしないよ」

これも敬之が言ったのと同じ。




次に望美さんは僕が自分に対してどう思っているのかを聞いてきた。



僕は正直に自分の胸の内を吐いた。



「北条の道の駅で一番逢いたかったのが私……か。それと私がケンちゃんよりずっと大人だから―――気持ちは嬉しい、けどね……その理由」



望美さんは飲物を一口ふくむと窓の外を見た。


「私がモデルのバイトを学業と並行してやっているからと言っても――――大学を出て社会人になれば、皆大人になるのかしら…」


「?(言おうとしていることが分からない)」


「私が言いたいのは仕事や社会的な知識で“大人 ”が決まるわけじゃないってこと……」


「じゃぁ……何?」

「…難しいね―――私もはっきりは分からんけん、ケンちゃんと二つしか歳、違わんじゃろ」

「そうじゃね、たった二つじゃけんね!」


お互い、田舎の言葉が出たので思わず笑ってしまった。




店を出て僕たちは再び車上の人になった。


車中、望美さんは運転の傍らで僕に言う。それは今、僕に目を向けてくれている人(太田夏音)を大切にして欲しいという話だった。



「ケンちゃんと太田さんいう子が仲良くなっても、私とケンちゃんの繋がりが終り、いうことじゃないけん………そんなんで終わるんなんか淋しいじゃろ―――何かあったらいつでも連絡してエエよ」



図らずも望美さんがそう言ってくれたことで僕の気持ちはすっきりした。

それは繋がりのあり方として自分が一番望んでいた形だからだ。理想論かも知れないが、一般的に三角関係で二人の内どちらかの繋がりが切れてしまうのを自分は望まなかった。




アパートの近くで車を停めてもらった。


「お姉さん、今日はありがとう」

「気にせんといて。また今度―――頑張ってね、ケンちゃん!」



手で合図を交わすと望美さんはイヌを出し、走り去った。

「頑張ってね……か」


僕は直ぐに太田夏音へ連絡を取った。








第5章 「喪失と終焉」






ウサギに乗り始めて二年。僕は学業の傍らで、ここ吹田から四国の愛媛松山の実家を何度も行き来するようになった。


半日で走ることの出来る距離と行った先で安心して腰を下ろせる実家が在ったからだろう。

大学の講義のない日や土曜日曜。その回数は月に三回以上に及んだ―――これは週一で松山へ帰ったことになる。


その間、太田夏音と一緒に松山へ帰ったことも屡々(しばしば)―――


最初、彼女が僕を自分の実家に招いてくれたと同じように僕も彼女を実家に招き両親に紹介した。


彼女と会ってから現在―――最初の時のように部員同士の仲ではなかった。


彼女に会って最初に食事に誘われた時の僕の言葉。



“僕じゃないといけないのか? ”



今も少しだけそれはあるかも知れない。最初から僕へ向けられていた彼女の思いに僕は気が付かなかった。そんな無神経な自分に彼女、太田夏音の存在はあまりにも過ぎたこと、そう思っているからだ。


親友の敬之も少し羨ましそうだった。彼には―――持病の事もあるのかも知れない。そして家………違う‼

比べること自体に違和感を覚えながら、僕は気持ちに自制を掛ける。



先のことは分からない、ただ――――今を大切にして行こう、今を………





バイク部の部活では部員たちとマスツーリングを行ったり研究会を開いたりした。


その中で僕にバイク部を紹介した部長の向井啓介は既に卒業して社会人となっており、当時、3回生だった朝生弘も今年に入って卒業していた。

現在は三回生となった夏音が部長を務めており、何故か役職を持たない僕が彼女のサポートをしていた。


部の運営費の収支や申請、運営の方針に沿って揃える機材の検討の他、ツーリング(ランナバウト)の下調べを行う。




9月、夏の暑さがまだ尾を引いている土曜の休み、僕は卒論の準備のため、資料を集めていた。

アパートやマンションの賃貸業を支え、発展させていくためのシステムデザインを模索していた。


僕はパソコンのモニターに向かいマウスのスイッチをカチカチと鳴らす。


「厚生労働省と地方自治体が発表している年齢人口の推移……」


フ~ッ、と大きなため息を吐くと僕は椅子の背もたれに仰け反り天井を見た。


(少子化は加速して高齢者ばかりになる……借家は空く一方だ)



机の上に置いた携帯が鳴ったので僕は作業を中断した。


「はい、宮前です―――あぁ、(のん)ちゃん、どうした?」

現在は太田夏音のことを“(のん)ちゃん”と略して “ちゃん ”付けで呼べるまでの仲になっていた。


{再来週の3連休のマスツー(マスツーリング)の下調べに行こうと思って―――賢太さんも一緒にね}

「岡山の方だよね。行くところ……ブルーライン(県道397号)の黒井山グリーンパークか一本松展望園」

{うん…}


「僕は実家に帰る時、何回も通っているからこの辺りの状況はよく知っている……僕が計画を立てようか?」

{ゴメンね、賢太さん忙しい時に。じゃあ、宜しく―――}



僕は回線を閉じて携帯を再び机の上に置いた。




僕にとってこの辺りのツーリングの計画を組むのは、そう難しい事じゃない。

ウサギでランナバウトした2年間に渡る交通状況の蓄積は安全に大きく寄与していたからだ。





 ◆






次の週に入ると台風が接近し記録的な大雨を降らせていた。


コースの下見に予定していた土曜日までに過ぎ去ってくれれば、後は台風一過で晴天を見ることが出来る。

今まで雨にやられたのはウサギで最初に松山の実家に帰った時の豪雨と、今までランナバウトの途中で降ってきた通り雨くらいだ。

最初に相当やられている僕は以降、TVの天気予報で気象配置図と降水確率を必ず見るようになっていた。



前日の晩には予想通り、台風は過ぎ去り近畿圏から離れた。



土曜日の朝、僕は夏音とともに岡山へ向けて走り出した。所々濡れていた路面も日が上がると同時に乾いた。



行きは下道を走り、帰りは山陽自動車道を経由し吹田まで戻る算段だ。

早朝から出た僕たちは一〇時半には岡山の県道397号、通称ブルーラインを走っていた。元々、有料道路として在ったその道路は信号もなく快適に走ることが出来る。





一本松展望園に着いた僕たちはバイクを降りると売店の前のベンチに腰を下ろした。


「ありがとう、賢太さん。いい感じで走れた―――」

「当日は先頭を(のん)ちゃんが走って……僕は副部長の境野(さかいの)君と皆を最後尾でサポートするよ。全部で17台くらいになるからもう少しスピードは落した方がいいかな、1年の天野さんは初めてだからね」



夏音は脇に置いたバックパックを開けると箱を取り出した。そして顔に笑みを浮かべながら言った。


「これが有れば何か起きた時でも、直ぐ連絡できるよね」


夏音は箱を開いてインカムを取り出した。


「エェッ、この前、備品購入の申請出したんだけど、もう買っちゃったの⁉」

「これは私が個人で買ったの。私と賢太さん用で」

(のん)ちゃんと僕用で―――ありがとう、結構しただろ、コレ?」


「うん……でもいいんだ。賢太さんと一緒に楽しめるなら―――」


「音ちゃん……」


互いに顔を見つめ合い、その後の言葉は必要なかった―――顔を近づけると目を閉じて軽く唇を重ねた。


二年前、ウサギに乗るまで自分にこんなことが起きるなんて想像出来ただろうか―――僕はそれまでずっと独りだった。






道の駅でお昼を済ませると僕たちは帰路に着く前にインカムを装着した。


国道2号を戻り、相生で山陽自動車道に上り吹田を目指す。初めて付けたインカムは走りながらコミュニケーションを取るには最適なものだった。


県道260号から国道2号に入ると夏音はスピードを上げ始めた。ウサギとの距離が開いて行き、遂にコーナーで彼女をロストした。


「音ちゃん、スピードを落して‼ ウサギじゃ付いて行けない」


{インカムで会話の出来る距離は保っているから―――賢太さんはゆっくりでいいよ}


「音ちゃん、互いが確認できる位置に居て―――聞こえてる?」


{賢太さん、私に追いついてみてw――――}


(クソッ、調子に乗って―――)



{ドガシャッ、 ザッザザ‥}

 

 今まで聞いたことのない大きな衝撃音がインカムを通してはっきり聞こえた。

「‼――何だ⁉どうした、(のん)ちゃん、音ちゃん―――応答して!」

 

 

 嫌な予感……今まで感じたことのない不安と恐怖が僕を包んだ。


 「音ちゃん―――夏音(かのん)っ‼」




 国道2号に出て姫路方面へ走って直ぐの所にトンネルがある。「三石第一隧道」―――僕はその入り口を見て直ぐに異変を感じた。トンネルの照明が消え、真黒な穴がそこに在ったからだ。

 

 

 僕はトンネルの入り口でウサギを停め、夏音の名前を呼びながら中へ入ろうとした時、出てきた人とぶつかりそうになった。

 

 出てきたのはバスガイドの女性でのようで、少し離れた所に三角表示板と発煙筒を焚き、地面へ置いた。

 

 「何があったんですか⁉」と僕。

 

 女性は構っている暇はない、と言わんばかりに携帯を開いて、どこかと連絡を取り始めた。


 「もしもし、警察ですか⁉ 事故です、国道2号の三石第一隧道―――トンネルです。

 バスにバイクが突っ込みました、直ぐに救急車を呼んで下さい‼」

 

 (なっ…‼)頭の中が真っ白になった。

 

 僕は無意識にトンネルの中へ駆け出していた。

 

 照明を失った暗いトンネルの先でハザードランプが点滅している、バスのハザードランプだ。

 そこへ走り、近づいた時に何かに思いっきり蹴躓(けつまず)き、僕は激しく路面に転んだ。

 「いっ、痛いっ‼―――痛たた…何だ⁈」

 

 暗がりの中、バスのハザードの点滅で路面に浮かび上がる影がある。僕は目を凝らしてそれを確認した。


 (CBR‼ )見覚えのあるカウルの色でそうと分かったが原形を留めていない―――鉄の塊と化し部品の一部や砕けたプラスティックが散乱、辺りにオイルとガソリンの匂いが漂っているのに気が付いた。




 

 





 

 

 何が起こったのか理解できない状況で無意識が自分を動かしていたらしい。

 

 気が付くと僕は岡山市のとある救急病院の一室に居た。横には……夏音の両親と会ったことのない女性―――誰だ?何で音ちゃんの両親がここに――――‼

 

 

 (彼女(かのん)は―――事故で亡くなったんだ‼)

 

 

 両親の横にいる見た事の無い女性は彼女の姉なのだろうか。皆、崩れそうな表情だったが、この結末に対して想定が出来ていたのかそれ以上、悲嘆に喘ぐ様子は無かった。

 

 夏音の父が僕に近寄り肩に手を置く。

 「賢ちゃん、夏音の事で走ってくれてありがとう…」

 「?」

 

 今の自分には理解できない―――走ったとはどういう事だろう?

 

 夏音の姉らしき人が僕に頭を下げた。

 「あなたが事故の後、ずっと夏音に付いてくれていたから……妹も寂しい思いをしなくて済んだと……」

 

 そう言うと女性は決壊したダムのように両手を顔に当てその場に泣き崩れた。

 

 

 僕はベッドに横たわる者の顔に覆いが掛けられているのを見た。それに気が付いた夏音の父は覆いを静かに取った。

 

 そこに在ったのは物言わぬ置物? のようになった夏音だった。

 

 「家族は皆バイクに乗っている……だから……こうなる可能性も知っていた……だけど、夏音が選んだ道だから…」

 

 「(のん)ちゃんは……自分でバイクに乗ったんですか?」

 

 夏音との付き合いは二年になっていたが、その事は知らなかった。いや、家族の勧めがあったのだ―――そう思っていた。

 

 

 「バイクは人に勧められるものじゃない……勧められて乗る物でもない……夏音は自分から乗ると言いだしたんだ…」

 

 

 

 

 その日、僕は病室で一夜を明かした。夏音の亡骸が病院を出るまで――――その後、自分がどのようにアパートに帰ったのか分からない。それは酔っぱらいが、どうやって家に帰ったのか分からないのに似ている、頭の中は壊れていたのかも知れない。

 

 

 僕は自分で自覚できない程の精神的なダメージを負っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 四日後に夏音の葬儀が執り行われ、参列者の中には元部長の向井啓介と今年社会人となった朝生弘の姿が在った。

 

 「彼女の事は本当に残念だ……だけど、宮前君、君は何も悪くない。二輪に乗っていればこういうことも起きるんだ、辛いけど前を向う」と向井は言う。

 

 それとは対照的に朝生は僕を責めた。

 

 「賢太、お前、太田と仲が良かったのなら何でもっと注意してやらなかった! こんな事になるなんて―――クソッ……チクショウ!」

 

 僕は何も言えない、彼の言い分も自分の気持ちの中にある。

 

 

 バイク部の部員たちも夏音の死を悲しんだ。

 

夏音は部員から慕われていた、正直さやいつも絶えることのない笑顔、部員を思う気持ちは誰が見ても手に取るように分かった。


「先輩、太田さんの…部長の事は不慮の事故です。自分を責めないでください」と、3回生の副部長、境野は僕に近づいて言う。



(不慮の事故……これが、か⁉)


夏音の事故は幾つもの偶然が重なって起きていた。それも狙ったように―――もちろん夏音自身もスピードを出していたのも原因の一つかも知れない……



調査ツーリング前日の記録的な大雨は山や傾斜地の土砂崩れを誘発しやすい状態だった。そしてそれは実際に起こった、事故の現場の近くで……


その際、送電用の電柱が押し流され、ケーブルが切断、電気の供給が途絶えたトンネル内は照明を失ったのだ。


ほとんど同時に夏音はトンネルに入ってしまった。



更に良くなかったのはエンジントラブルでトンネル入り口から15~20mの間にバスが停まっていたことだ。


(何でこの位置にバスがいたんだ‼)


人間の目が暗さに慣れるまでコンマ何秒か掛かるが、照明の落ちたトンネル内では視界は完全に奪われたと言っていい………


僕はトンネルに入った時の視力の回復時間のことを知っていたし夏音も知っていた筈だ。

だが、それはトンネルの照明が機能しているのが前提だった。



(土砂崩れ、照明、バス……クソッ、クソ、クソ…そんなことはどうでもいい! 夏音をっ、夏音を―――返せっ‼)



僕は人の運命に対して心の底で(わめ)いていた。





この後、自分にとって良くないことが追い打ちをかけた。



今回の件で大学側の部活動運営委員会がバイク部のツーリング科の活動停止処分を決定したのだ。僕がバイク部に入部してから二年、部員の数も増えてきたところだった。僕は新しく入った部員たちにどのような顔をして謝ればいいのだろう……


それと親友の敬之が入院したことだ。元々、(てん)(かん)の持病があり状態が悪化してしまったのだ。恐らく―――しばらくは病院で過ごすことになるかも知れない。


彼の見舞いに行ったとき、夏音の事故を聞いていたのか、彼は次のように言ってくれた。


「賢太……本当に辛かったな。すごい残念や………あの子はええ子やったからな…」


ベッドで横たわる敬之には精一杯の言葉だったに違いない。こんな状況でも声を掛けてくれる親友がいることを有難く思った。今までの自分なら独りで苦しんでいただろう。



夏音の死と部活道の停止の後も学業は通常通り進んで行く、自分が激しく落ち込んでいても、学業のカリキュラムは知らぬ顔で進んで行くのだ。



卒論を完成させなければならないが、とてもそんな気持ちにはなれない。

夏音が亡くなった後、僕を襲ったのは彼女の死を受け入れることの出来ない“戸惑い” とその後に来る“後悔 ” 自分がもっと注意していれば―――そして、言葉には表しにくい怒りだ。



(何で夏音が死ななきゃいけないんだ⁉ 何でトンネルの照明が落ちた⁉ 何でバスが居ちゃいけない所に居たんだっ‼ クソッ、クソ、クソ、クソ―――)



精神的に不安定になった僕は全てのバイトを辞めた。実家から仕送りで全てを賄うために生活を切り詰めた。電気代や水道代、食費までも―――


だがこの中で切り詰められないものも在った。


ウサギでランナバウトすること。夏音が亡くなった後、僕はウサギで走ることが更に多くなっていた。


今の状況から逃げ出したいのか、或いは何も考えたくないからなのか……






今期、三月に卒業を控えた僕は何としてでも卒論を完成させなければならなかった。

そのため、落ち込み、思考力を欠いてしまった現在の状況から少しでも打開策を見出そうと、僕はウサギを譲ってくれた(ひとり)(のぞ)()に連絡を取った。


彼女はH大を卒業した後、同大学院に進んでいた。モデルの仕事も学業と並行して続けていて、最近になって本や雑誌に載るようにもなっていた。



望美さんは忙しい中、時間を作ってくれた。いつもの喫茶店(キャンドル)へ行く。

「ケンちゃん……まだ辛い、彼女のこと」

望美さんには既に夏音の死は伝えていた。


「ずっと尾を引いている……どうしたらいいんだろう、僕は…」


「…辛いよね、私だって未だ身近にいる大切な人が亡くなったことが無いから……ケンちゃんの場合は彼女だからよけいに…ね」


望美さんは、僕の心の辛さを決して否定するようなことはしなかった。が、今の辛さはやはり自分自身でしか理解できないのかも知れない。


「私にできることは……ケンちゃん、卒業したらどうするの、就職?」

「いや、そのまま家の会社を継ぐよ……お姉さんは?」

「私は今の大学の研究室で働こうと思ってるの。博士号の前期後期の課程も終わってるから」


「そうか…お姉さん、研究者になるのが夢なんだよね……」


本当は嬉しい話のはずだが、僕の気持ちは浮かなかった。何処か遠い外国の話の様に聞こえた。



望美さんはそれを察したのか直ぐに話題を変えた。


「ケンちゃん、三月頃はフリーになってるかな?」

「うん……普通に行けば二十日以降は―――田舎へ帰る準備をしているかも。時間はあるよ、多分ね」


「その時期、22日に南港のインテックスでモーターサイクルショウやるの。私も海外メーカーのキャンギャルで出るから―――ケンちゃんに見に来て欲しいな」

「行くよ、だけど今の自分じゃ……何か忘れそう。日が近づいたら連絡して」





その日、自分の思うような進展は無く、かえって望美さんに無駄に時間を使わせたような気がした。


結局、沈んだ状態であろうが、ケツを引っ叩いてでも僕自身が動かなければどうにもならなかった。





卒論の提出期限には何とか間に合った。しかし、ホッとしたのも束の間で僕は担当の横林教授から呼び出された。


教職員棟へ行き、事務所に入ると教授は手招きをして僕を呼んだ。


「何か用ですか?」と僕。

「……宮前君、君の論文だが―――」


何か注意でもあるのかと僕は身構えた。


「面白いね。これ……ただ、これを実現するにはこのシステムを採用してくれる企業が必要なんだ。

君は家に帰って会社を継ぐんだろう―――君の成績なら大手にも行けるんだがなぁ……」


(そういうことか……)


教授の言う通り、確かに学業は真面目にやっていたし、自分で言うのもアレだが良い成績は残していたと思う。


「この大学に入ったのも最初から両親とそういう約束で入りましたから―――」


「そうか。まあ、君ならどこへ行っても頑張るだろうから、あまり心配はしてないけど、少し残念かな…」


大学側として見れば、大手に入って活躍してくれた方が学校の評価の面では良いのかも知れない。





教授とそんなやり取りの後、僕は大学の帰りに敬之を見舞った。病院の中に入ると消毒の匂いが夏音の時の記憶を呼び起こす。


五階に上がると敬之はロビーのソファーに座っていた。


「元気かぁ、敬之」

「おぅ、賢太―――どないしたん?」

「どないも、こないも――見舞いに来たんよ。調子はどんな?」

「頑張り過ぎで、よけい悪うなった。何とか卒論も出せたし、卒業試験もパス出来たしな」

「家に帰っとったんか?」


「少しの間な……無理したさかい今度は養生する。賢太、多分オレ……卒業式には出れん。

だから言うとこうわい……ありがとな、楽しかった」


「まぁ~た、弱気なこと吐きよるな。卒業しても遊びに来るけん退院しとけよ、ウサギでタンデムしてどこか行こうや!」



僕は自分の持てる気持ち全部で敬之を元気付けようとした。きっと、自分の周りで誰かが欠けて抜け落ちていくのを恐れていたのだと思う。



家に帰った僕は簡単な夕食を済ませると郷里へ帰る準備を進めた。


ここへ来た頃は、ほとんど何もなかったが日を追うごとに物は増えて行った。衣類や食事に使うコンロ、電子レンジ、冷蔵庫、他―――洗濯機やTV(テレビ)PC(パソコン)……

そして更にウサギに関係するウェアやヘルメット、バッグ他―――特にウェアは各シーズンに合わせて幾つも揃えている。

そのため、専用に簡易なスーツロッカーをホームセンターへ行き、購入している。


これらの物を実家に持ち帰るには最低でも軽トラか普通車の1BOX車が必要だ。


片付けている時に机の上に置いた写真が僕を見ている。夏音の写真………僕はフォトフレームを手に取るとしばらく見た。


(君は一番最後―――僕と一緒にここを出よう……夏音…)











3月20日、大学の卒業式を終えた僕が次にすることは何もなかった。

家に帰る準備も終わり、実家と連絡を取り合い今月の末、両親に実家のトラックで来てもらい、荷物を運び出してアパートを引き払う予定だ。その際、僕はウサギで出る。



その日の晩に望美さんから携帯に電話があった。22日に大阪南港のインテックスでモーターサイクルショウがあるので見に来て―――とのことだった。

チケットは既に望美さんからもらっていたが、電話があったのは幸いで僕はモーターショウのことをすっかり忘れていたのだ。





当日、僕は少し早めにアパートを出て南港へと向かった。


僕がウサギに乗って大阪市内を走ったのは数回―――車の混み合う吹田市から南側へは下った経験が少ない。そのため、環状線を走っている内に、自分が走っている位置が分からなくなることが屡々(しばしば)あった。

僕は携帯のナビを使い、周囲の車の流れに注意しながら何とかインテックスに着いた。

臨時の駐車場には既に沢山のバイクが並び、大勢の人がたむろしている。


バイクを停めて会場へ行くと早くも40メートルほどの列が出来ていた。警備員もあちこちに立っており、全国規模のモーターショーであることを(うかが)わせている―――もちろん僕は初めてだった。



開場時間が迫っているがゲートは一向に開かなかった。入場者の列は既に80メートルを超えていた。


時間が来てやっとゲートが開かれると列は動き出したが、雪崩を打つようなことはなく整然と会場内へと入った。


(望美さん、海外の何て言うメーカーだったっけ…)



会場は広いので入口で(もら)ったマップを広げて確認した。海外メーカーと言ってもメジャーなBMWやDUCATⅠ、HDを含め出展ブースは相当な数だ。


検討が付かない僕は一つずつ確認して回った。それはモーターショウを見に来たというより、望美さんを探しに来た、が正しい。





海外メーカーのブースを回り続け、カナダのBRPというメーカーのブースで、やっと望美さんを見つけた。

黒い革の短パンとブーツ、上はライダースジャケットを羽織り、ファスナーを開放してワイルドに着こなしている。周りにはカメラを構えた人が大勢で壁を作り、僕は近づくことが出来ない。



僕は望美さんの方へ手を振ってみた。望美さんは僕に気が付いたのか、手を振りはしなかったがウインクでアイコンタクトを取ってくれた。


カメラを構えている人達はモーターショウを見に来たというより展示ブースに居るキャンペーンガールを撮りに来ている様にも見えた。

望美さんはカメラを構えている人達の要望に笑顔で答え、色々なポーズを取る―――このとき僕は思った。


(モデルの仕事って……容姿を売り物にするってこういう事なんだ)


いつもの望美さんを僕は知っている。だけど、今日の彼女はさらに輝きを増し加えていた。磨きを掛けたダイヤのように―――

そう感じた理由までは理解できなかったが、一つだけ確かなものがあった。


“ここに在る命で今を懸命に生きる ”


そんなニュアンス……いや、メッセージが伝わって来る。





時間は過ぎて行った。その日、望美さんと直接話すことはなかったが僕は彼女の仕事を―――精一杯に今を生きている姿を見たことで十分だった。

それは望美さんが僕に送った、言葉では形容できない励ましだったのかも知れない。











いよいよ、ここ吹田市を発つ日が明日に迫った。


初めてこの地に来て、慣れない学生生活を始めた日、そして望美さんから譲ってもらった “Usagi(ウサギ)”と共に過ごした月日を追憶したとき、僕はこの地に来たことを心から感謝した。


僕は自分が出逢った一人ひとりに会いに行き、感謝と別れの言葉を告げて回った。



望美さん、敬之、夏音の両親、大学の先輩だった人や担当の横林教授、バイク部の部員たち、バイク屋「稲葉モーターサイクル」の店長(社長)、喫茶「キャンドル」のマスター、他………



大勢いた中で言葉を告げられない者もいる―――夏音。



(もし君がここに居れば………きっと一緒に松山へ行こうって…)



彼女が亡くなった時、僕は涙を落さなかった、いや、出なかった。



初めてウサギで愛媛の松山に帰省した時、宇野高松間のフェリー乗り場で出逢った壮年のサイドカー乗り、奥村正路も長年連れ添ったパートナーを失った時、やはり涙が出なかったという。


(僕も同じ……なのか)



だが、今―――張り詰めた思いが破れたのか、僕は声を出して泣いていた。








 

翌日、出発の時は来た。


昨晩、両親は家のトラックで僕のアパートに着いていた。両親と僕はトラックに荷物を積み込むと早めに就寝し、翌朝を迎えた。


3月の末日はまだ日が昇るのが遅く、寒い。両親は既に起きていて、母はコーヒーと簡単な朝食を用意してくれた。



AM8時半過ぎ―――アパートの部屋を出た。丁度その時、アパートの敷地に入る人影があった。


夏音の両親だった。僕の両親に気が付くと歩み寄り、頭を下げた。


「宮前さん、賢ちゃんには(かのん)がお世話になりました…今日は賢ちゃんの見送りに来ました」

「ありがとうございます。太田さん……うちの賢太には本当に過ぎたお嬢さんでした。これからを楽しみにしていたのですが………」



僕が夏音と付き合い始めて、一緒に吹田と田舎の松山をウサギで行き来している内に両親の方でも連絡を取り合うようになっていた。


僕の父は言葉が途切れた。掛けるべき言葉が見つからないのかも知れない。



「宮前さん、ありがとうございました。気を付けて―――賢ちゃんも」

「ありがとう太田さん。では私たちは出ますので……どうかお元気で」と僕の父。


僕も夏音の両親に挨拶をした。

「今までお世話になりました。僕はここで過ごした日を忘れません。ずっと…」そう言うのが精一杯だった。僕は溢れ出る感情を懸命に抑えていた。



 僕の両親はトラックに乗り込み、僕もヘルメットを被り、グローブを着けてウサギに跨った。

バイクを出す前にウェアの内ポケットに入れた写真に手を当て、心の中で言う―――


(行こう、夏音。僕と一緒に…)



ウサギは走り出し、僕の住んでいたアパートと夏音の両親はミラーの奥へ遠く消えて行った。



 

この日を最後に僕の学生生活は終焉を迎えた。






第6章 「挫折と転機」






実家に戻った僕はゆっくりしていられなかった。普通なら大学卒業後、就職する者は入社の準備や引っ越しなどで慌ただしく動いていた筈だ。

自分は家の会社を継ぐため、そう慌てることはなかった。自分の住むところも働く場所も用意されている―――そう安心していた。



しかし、帰って実家の会社の状況を聞いた時、僕は安心しては居られなかった。

うちの持家―――借家の実に一割近くが稼働していない。何れも老朽化と入居者がいない為に大きなマイナスを出していた。


僕は父の仕事の手伝いで、この借家の老朽化について早くから進言していた。が、父は―――青二才の僕の言う事など聞いてもくれなかった。

確かに父に限らず、実務経験が無い中高生の言うことを真摯に聞く大人は少ない。



僕は大学の授業で学んだことを両親に話した上で、一度家族全員で会社のことを話し合おう、と勧めてみた。



僕の提案は一応、父に受け入れられ会社に携わる両親と兄弟の兄達に集まってもらった。



僕は一同が会するその席で、借家や建物について自分なりの考え方をハッキリと述べた。しかし――――


両親や兄たちの反応は好ましくなかった。


「賢太、お前が言よるん……それ、家なんか?」と兄。

「こんなんはぁ、家じゃないけん、フフッ…」父は笑いながら一蹴する。


僕が両親や兄に語ったのは先進材料で造られた小型の住居や設置が簡単で移動が可能なトレーラーハウスの類だった。


日本は三回に(わた)る大地震に見舞われている。阪神淡路と僕が小さい頃に起きた東日本、九州熊本の大震災だ。

ここで着目されたのは被害を免れた先進材料によって造られた小型住宅と救援のために運ばれた多数のトレーラーハウスだった。


前者は軽量で高断熱と衝撃吸収性の高い化学材料で出来た小型の住居、後者は移動が出来、設置も容易で震災の影響で家が傾いた場合でも比較的簡単に復旧が行える特徴を持っていた。



現在の工法の建物では、もし、基礎ごと傾いてしまえば、個人での復旧は粗、不可能で専門の業者を呼んでも時間と莫大な費用が掛かってしまう。




その日、僕は家の者に運用の方法も含めて力説したが、結局 “家 ”に対する考え方の温度差はまったく埋まらなかった。


今まで、どちらかというと大人しく言うことに従っていた自分だったが、ここまで考えを通す自分は見たことがない―――




いずれにしても僕は家の者と考えの上で大きく衝突する事になった。

家の会社とはいえ、僕は社会人として早くも頓挫したのだ。










家の者と思いを共有できない状況だったが、それでも会社で自分の出来ることはしていた。それは決して積極的なものではなかったが―――




そんな感じで時間だけが経ち、数年はあっという間に過ぎて行った。


そうした中、僕はウサギで頻繁に走りに出た。自分の中の足りない何かを探すように―――そして今も忘れられない夏音を偲んで。



夏音の命日には必ず事故現場を訪れ、献花した。岡山まで近いとは言えない距離だが更に大阪まで足を延ばし夏音の両親を見舞った。

また親友の敬之にも必ず会いに行った。しかし……


彼は大手の重機メーカーに就職をしてはいたが体調の維持が難しくなっており休職していた。会うところは病院の部屋が多くなった。


僕はウサギに積んできた松山のお土産を渡し、いつも同じことを言った。


「敬之、早く元気になれよ。お前とウサギに乗れるようになるまで―――ずっと来るからな」








ずっと同じことをしていた気がする。僕は……



そんな中、実家では僕の両親がどこから引っ張ってきたのか見合いの話を持ち出した。


両親の知り合いが話を持ってきたらしい―――だが僕は断った。松山へ帰って、もう何年も経つが依然として僕の脳裏には夏音が居た。


その話が出た年の夏音の命日、僕は毎年のように事故現場を訪れ献花した。

夏音が横たわっていた路面に手を伸ばし、手のひらで摩る……(あたか)も彼女が居るかのように。



しばらく、そこで佇んだ後、僕は再びウサギを走らせ大阪の吹田市へ向かった。



吹田市山田の太田家に着くと僕は夏音の両親に深く頭を下げた。


その日、夏音の両親は僕に家で泊まって行くように勧め、僕もそれに応じた。

夕食を終えた後、お酒を飲みながら遅くまで夏音の両親と話し合った。そして、話の終わり方に両親は僕に言った。



「賢ちゃん、今まで本当にありがとう……私たちもそろそろ前を向かなければならない……


賢ちゃん……夏音のことはもう十分してくれた。今度は君自身のために時間を使いなさい」と夏音のお父さんは言う。



夏音のお母さんもこう言ってくれた。


「賢ちゃんが次にここへ来るときは家族で来なさい。貴方が結婚して家族を持つ姿を見ることが出来れば―――きっと夏音も喜んでくれると思うの」




この言葉を聞いて僕はやっと状況を理解した。


今まで夏音を偲んで、また両親を見舞うためにずっと僕は同じことを繰り返していた―――けど、それは夏音の両親と自分自身を夏音が亡くなった日に縛り付けていたのだと。



僕は気が付いた。もう前を向かなければならないことを……



翌日、僕は太田家を出て、敬之の居る病院へ走った。


彼が居るのは吹田市の総合病院―――しばらくの間、連絡は取っていなかったが居るかも知れない、居なければ家に帰っている、僕は単純にそう考えていた。

何故そう思ったか………携帯が繋がらなかったからだ。




病院の駐輪場にウサギを滑り込ませると僕は総合案内へ向かった。



「すみません、如月敬之は何号室ですか」

「キサラギ タカユキさん、ですね。しばらくお待ちください……」



案内係の女性はPC(パソコン)に名前を打ち込んで検索を始めた。


「…あれぇ?……名前が出ませんね」

「しばらく会ってないんです。去年から―――連絡も4か月くらい前から取れなくて…」


「去年は入院されていたんですね…ちょっと待ってください。去年のデーターを調べてみますから…」




「去年…あった。現在までの入院の履歴を調べてみますね」


女性は途中でPCのキーを打つのを止め、画面を見入ったまま固まった。



「退院したんですか?」と、僕は詰め寄った。

「ここには……居ません」

「だから――退院したんですか⁉」的を射ない女性の答えに対し僕は再度問い詰めるように聞いた。


案内の女性は僕の方を見ると衣を正して答えた。


「如月敬之様は今年の6月に当院で亡くなられました」

「エッ?」

「今から4か月前に当院で亡くなられました」




僕は脱力した。夏音だけじゃなく敬之さえも――――自分が大切にしているものが自分から消えて行く。


僕は病院を出ると敬之が住んでいた摂津へ向かった。しかし、そこで見たものは更に僕を失意の底へ落した。



家はそのままだったが門の真ん前に立てられた看板の文字―――



“売り物件 ”



(売り物件……そんな…敬之)


僕は握り締めた手の中にあるウサギのキーを見た。それは敬之と最初に出逢った時に彼がくれたアニメのキャラクターのキーホルダーだった。


門の前にある草だらけの植え込みに腰を落すと、僕は俯き両手で頭を抱えた。気がおかしくなるくらい激しく心が痛んだ。




“……偶然は人の力では――――どうしょうもない ”


前に彼が言っていた、その言葉に対し僕は……



「偶然だってのか、コレが………夏音もお前も…クソッ‼」




僕が松山へ帰ったのは―――三日後。突然の出来事で混乱していたのか、そのまま家に帰れなかった。



三日間は事実上、放浪だったのだ。






その後、借家業の事は両親と兄弟に譲り、僕は家の会社を辞めた。


真面目にやってはいた。しかし、僕の気持ちの中でどうしても前向きな気持ちになれないものがあった。


生きて行くには嫌でも働かなければならない部分もある。しかし今、自分にはリセットが必要なのかもしれない……


「この歳で無職……か」


この時から職業安定所に通う日が始まった。


両親は会社を出たことを腹立たしさと残念に思いながらも、僕を心配してか時々、住んでいるアパートに顔を出してくれた。


借りているアパートは家の会社の空いている物件で、その賃料を実家に渡していた。


「賢太ぁ、どんなん? 仕事の方は見つかったんか」と父。

「簡単には見つからんよ。今焦ってもしょうがない…」


「大学は無駄じゃったかな……」

父は少し残念そうに言ったので、僕は次のように言った。


「お父さん、全然無駄じゃなかったよ……あそこでは色んなことを知ったから―――勉強だけじゃないけんね」



そう―――それは夏音や敬之、望美さんや他、大切な人との出会いだった。

今はこんな体だが、それでも彼らとの出会いがなければ現在の自分は無い―――そう言い切れる。



父は帰る前に一言。

「お前、結婚せんのか?」


「仕事も無いのに―――」

「そうじゃない!」と父は僕の口を制した。



「結婚は社会的な責任の部分もある、じゃけん信用も付いてくる。責任が先じゃけんな―――それとお前自身……


太田さんもお前のこと、ずいぶん心配しとったぞ」

「何でお父さんがその事を―――」



「人の繋がりは……簡単には切れん。賢太が大切にしとった子の親じゃけん…

 

仕事見つかったら連絡せえよ。ずっと前に話した見合いの話、あれ、今でも保留じゃけんの」



父はドアをバタンと閉めると帰って行った。



(何じゃら…)











2か月後にやっとそれらしい仕事が見つかった。


仕事の内容は自治体から委託されている検診(健康診断)業務だ。委託を受けている団体から僕に提示された要求はPCでワードやエクセルなどの事務系ソフトが使える事と大型車の免許が必要だと言う。


PCのソフトのことはともかく、大型車の運転免許は持っていない。僕がその事を告げると、幸いにも人員を絶対確保しなければならないのは一か月半後で先方はそれまでに大型免許を取得してきて欲しいと言ってきた。


(恐らく、運転系の仕事は運送を軸にして人材不足なんだ―――何年も前から予測されていた事だが……)



取り合へず内定は取った。



僕はそのまま、市内の教習所へ走ろうとしたが立ち止まり、実家へ連絡した。


「僕じゃけど―――仕事見つかったけん!」


出たのは母だった。

「賢太、夕方、家に寄りや、お父さん、話があるってよ」

「夕方……分かった、行くけん。その代り、ややこしい話はせんといてよ―――じゃあね!」





その日、自動車教習所で申し込みを終えるとそのウサギで実家へと向かった。


狭い駐輪場に大きなウサギをねじ込むようにして置くと僕は家の玄関へ入った。


「ゴメン、少し早なったけど……」と僕。

「かまわんよ、全然気にしてないけん。まあ、入りや」


そう言って母は僕を中へ通した。


「お父さん、賢ちゃん来たよ」

「来たか…賢太お前、まだバイク乗りよんか。危ないけん気を付けんといかんぞ」

「そうよ、私なんか賢太が大阪から帰って来るとき夜も眠れんかったんじゃけん!」



父は一言注意したが、母が更に追加した――――父の言葉でチクッと針で刺された感じだったが母が言ったことで、それはドスッと刺さる五寸釘になった。正直、気分が悪い…



「で―――話って何?」と、つっけんどんに聞く僕。

「知り合いの人がお前に会って欲しいってよ」


そう言うと父は脇に置いていた封筒を僕に渡した。


「釣書……今時こんなん有りか」


「どんな? 会うてみるか」


僕は中を確認せず封筒をウエストバッグにしまい込んだ。

「分からん…期限は?」

「もう大分経っとるけんな――三日以内には返事せんと。以前、お前に言うてから暫く保留してくれとったけん」


「三日以内じゃね…」と僕は再度確認した。





 

 

僕は実家を出るとウサギを走らせ、伊予市の双海にある道の駅へ着くと駐輪場のガードパイプに腰を落し何時間も海の方を見ていた。



それは過去を振り返ると同時に、まだ見ない時間の先を想っていたのかも知れない。







第7章  「新たなステージ」






僕が大学を卒業し、郷里の松山へ帰ってから長い年月が経った。



38歳―――22歳で大学を卒業した僕は4年後に(やしろ)恵美(えみ)という僕より三つ年下の女性と結婚し一女一男を儲けた。

上の女の子は香音(かのん)、下の男の子は(たか)(ゆき)………そう、僕は結婚した今でも夏音や敬之の事を忘れられなかった。


結婚した今でも僕の机の上のフォトフレームには夏音と敬之の写真があり、更に携帯の待ち受け画面には、ウサギで初めて四国へ帰った時に出逢った山内洋子の写真があった。僕は恵美さんと初めてデートした時、その写真を見せると彼女は嫌な顔一つせず、それを持つことを許してくれた。


普通であれば、前の彼女の写真や知らない女の写真を持つなど到底受け入れられない事だろうと思う。


そんな彼女の懐の深さに僕は魅せられたのかも知れない。




こうして恵美さんと結婚した僕が最初に行ったことは、大阪の夏音の両親に会い、約束通り夏音の遺影の前で報告し手を合わせた事だった。

ここに於いて僕と太田家の関係は同じウサギ(バイク)乗りとしての仲となった。


同郷で僕に“Usagi ”を譲ってくれた女性―――別な言葉で言えば、僕の人生に大きな転機を与えてくれた人、(ひとり)(のぞ)()は今でも吹田市に在住し大学の研究室で主任を務める傍ら、モデルの仕事も続け、最近はTVのCMでよく見るようになった。


今でも交流は続き、大阪へ行った時は喫茶「キャンドル」で色んな話をする。それは僕が“Usagi”を譲ってもらった最初の時のように………





結婚すると同時に僕がウサギで大阪へ走りに出る回数は大幅に減って行った。


家庭を顧みる時間が多くなった―――一般的に言えばそうなるが、深い部分では違う。


ウサギで走りに出るランナバウト(行って帰って来ること)には必ず帰巣本能が伴う。僕が大阪に居たとき愛媛の松山へ数えられないくらい往復出来たのは、実家という腰を落ち着かせる場所があったからに他ならない。

 

今、腰を落ち着かせる場所となった家庭の外へウサギで遠方へランナバウトすることが少なくなったのも当然かもしれない。




それでも僕はフィールドを四国に移し、ウサギでランナバウトする理由があった。



理由は仕事―――恵美さんと見合いをする直前に見つかった仕事は大型の車両、検診車を地域の公民館や集会所、或いは小学校へ運ぶのが主な作業になる。


実家では4トンのトラックも運転してはいたが、それより大きな10トン以上の車両を操るには車両感覚の慣れと現場の状況把握が欠かせなかった。


仕事現場となる公民館や集会所は古く狭いところが多い、そこへ大型車をねじ込むのだ。国道の移動より現場に近づいてからが本当の仕事であり、パイロット(操縦者)の腕が試される。



僕は運転の不慣れをカバーするため、自分の足で現場を訪れることが当たり前になっていた。


土曜、日曜日が来れば僕はウサギで走りに出る―――そう、理由は違うが、昔大阪と愛媛を行き来したように。


こうして走れることが幸せだった。仕事は口実でもいい……



土日が来ればウサギで走りに出る僕を恵美さんや二人の子供たちはどう見ていただろう………


元々、インドア派の恵美さんはウサギ(バイク)にはほとんど興味を示さず、家でTVを観たり本を読んだりするのが好きだった。特に不満も言わず笑顔で僕を送り出してくれた。


そんな恵美さんに僕はホッとしていたのかも知れない。


(何かあるのなら自分だけでいい……)


17年前の夏音の時のような悲しい思いをしなくても済む―――この時、これが自分勝手な考えであることに僕は気が付かなかった。



二人の子供たち、香音と貴之は小さい時こそウサギに興味を示し、タンデムで走ったりもしたが小学校の年高になるとウサギを見向きもしなくなった。

家内の恵美さんと同様、僕は変な安心感を抱いた。




ウサギで走るエリアは四国圏内がメインだが、年二回は近畿圏へ走りに出かける。

ランナバウトの途中、何ヶ所か落ち着いて休める喫茶店も見つけた。


大阪吹田市の『キャンドル』を始め、愛媛の国道196号沿いのドライブイン『OutThere』、今治市海の駅舎内にある『ターミナル01』、愛媛県南予の鬼北町の国道320号沿いに在る『ON&OFF』、他多数のCV。



最近ではしまなみ海道の大三島井口にある、国道317号沿いの喫茶『クルーザー』を新しい休憩ポイントとして加えた。


自分では余り行くことが無く、また各島々に途中下車ということもなく、ウサギで走る際も本州へのルートの一部くらいにしか思っていなかった。

だが、仕事で長く島々を訪れるようになり改めて瀬戸内の自然や島の歴史遺産に目を向ける機会となった。



その時は去年の5月に訪れた。2週間にわたる島々の地域検診で丁度、大三島へ行った時、宗方、野々江、宮浦、盛、井口、瀬戸崎を検診車で巡回して行った。

宿泊は地元の旅館や民宿を使う。午後3時には仕事は終り泊所へ戻るのだが天気が良ければ部屋でじっとなんかして居られない。

スタッフ各人、歩きに出たり、カメラを持って写真を撮りに行ったり色々なことをした。


スタッフは6~9人でその中の一人がチーフ(責任者)だ。

 

 

 僕が部屋を出ようとした時、チーフが近くの喫茶店を教えてくれた。

(ここからそう離れていないな…)


僕は一端、道の駅多々羅しまなみ公園まで歩き、軽く身体を動かした後、教えてもらった喫茶店へ向かった。


(情報では河口近くの川沿い……国道317号から80m程西のログハウス風のお店――――あれかな?)


先の方に、それらしい建物を見つけた。中にそのまま進まず、立ち止まってお店の外観を眺める。


ログハウス風の建物で年季が入っている。


(いい感じ…)



僕は中へ入ると幾つかあるテーブルの一つに行き、椅子に腰を下ろすとカウンターの向こうから女性がやって来てオーダーを問った。

背の高いスラッとした女性で歳は恵美さんに近い―――


「アイスコーヒーをお願いします」

「はい、(かしこ)まりました。アイスコーヒーですね……お客さん、ここ初めてですか、自転車?」


ここ、しまなみ海道は近年、自転車やバイク―――二輪の聖地として、よく雑誌やTVで取り上げられていた。


「いえ、仕事で来ています。会社の人から好い喫茶店があるって聞いたので…」

「ワァ~、ありがとうございますぅ。ゆっくりして行って下さいね」


女性は一端、カウンターの奥へ消え、しばらくしてから注文の品を運んで来てくれた。

アイスコーヒーをテーブルに置いた後、小さなノートを僕に手渡した。


「これは?」

「ここを訪れた人たちが思いを書き記したサイクリングノートです―――良ければあなたも何か書き残してください」



僕は差し出されたボールペンを受け取ると、先ずノートを開いて見た。


ここを訪れた人は国内に限らず海外からも沢山来ているようだ。


それぞれに自分の思いを書き綴っている―――――


(僕は何を書くべきなんだろう……)


しばらく腕を組んで考えた後、顔を上げた。そしてペンのキャップを外しノートに向かった。




“サイクリストとは行って帰って来る人のことだ ”

 

              KENTA・MIYAMAE



そう書き記した。

それはウサギ(バイク)に乗る人間としての信条だったかも知れない。






第8章 「閉ざされた時間の中で」






ある年の2月上旬、風は冷たく所によっては雪が降るような季節の中、僕はいつも通りウサギで仕事現場の調査に出ようとしていた。


プロテクターの入った重防寒装備のウェアを身にまとう。これらのウェアを着るだけでも一仕事だ。暖房の効いた部屋の中では汗が流れるくらいだが、ウサギで走り出せばそれでも体は熱を奪われて行くだろう……


僕が一階のリビングに降りると上の子の香音が恵美さんと一緒に朝食を摂っている。下の子の貴之はまだ寝ているようだ。


「賢太さん、今日は早いんじゃね」

「今日は松野町の方、遠いけんね……香音も一緒に行く?」

「今日は家で遊ぶ」

香音はパンをかじり、TVを見ながら素っ気なく言う。


「冗談だよ寒いのに………じゃあ恵美さん、行ってくるけん――― 夕方には帰る」


「夕方じゃね……絶対帰って来てよ、遅れたらご飯無いかもよ」

「うん、必ず帰って来る‼」


僕は頷くと壁のキーボックスからウサギ(HYOUSUNG GT250R)のカギを取ると家の外へ出た。吐く息が白く、室内で温まったヘルメットのシールド内はアッと言う間に曇る。


門の外には準備しておいたウサギが朝日に照らし出され、ニュートラルホワイトのボディが眩しく輝いていた。





 ◆






その日、大洲市から国道197号へ入り、肱川、城川を経て、鬼北から国道320号へ入り広見町から国道381号を通って松野町へ入った。

途中、県道106号に逸れて奥野川本村集会所へ到着した。そこは小高い丘の上に建てられた集会所で、最も問題になるのはそこへ上がる登坂路。勾配もあり道幅も狭く、途中で切り返しが出来ない部分がある。頭から入って、途中からバックで侵入しなければならない。

車両のデパーチャーアングルはエアーでリヤをリフトアップさせてもギリギリのように思えた。



僕は写真を撮り、注意事項をメモ帳に記した。






用事を終えた僕は国道320号に戻り、宇和島市内を目指した。


松野町から三〇分くらいで宇和島市内へ入り、道の駅の手前にある宇和島自動車道の高架下の広い交差点へ入った。



僕は右折、交差点中央で道の駅から直進して来る車が通り過ぎるのを待っていた。

そこへ黒塗りの大きな1BOX車が僕の左側に覆い被さるように横へ付けた。


(僕が中央に寄り過ぎたのか⁈)


次の瞬間、1BOX車は凄まじいスキッド音を発して僕の横を離れた。


( ‼ )


バンの影から出た僕とウサギを別の影が覆う。



確認する間は無かった――――



ドガァァッ‼



大きな衝撃音を伴って僕は宙に舞い、横にはウサギのチギれたミラーが同じ様に宙に浮いている。



かなり飛ばされた後、僕は路面に叩きつけられた。


僕の目の前に転がったミラーを巨大なタイヤが踏み潰し、砕け散ったプラスティックやガラスの破片がヘルメットのシールドに当りパチッパチッと音を発てる―――



ここで僕の意識は途絶えた。


 

 

 

 

 ■



 

 

 

 朝、僕はいつものようにウサギに乗り、吹田のアパートを後にした。

 

 これから自分が行こうとしている所………遥か遠くであり海で隔てられている。

 

 

 (本当に着けるんだろうか……)

 

 

 目的地は “海を渡る”以外は何故かハッキリ理解できなかった。

 

 

 僕はウサギを走らせ低い山間に囲まれた湖の前に出た。記憶の中では岡山の県道260号のようだが………

 その湖は大きくはなかったが湖面は絵の具を溶いたような淡い水色をしていた。

 

 僕はウサギを降り、横にあったベンチに腰を下ろして美しい湖面を眺めていた。

 時間は昼過ぎ、いや14時くらいなのか日差しは10月か11月にかけて照らす太陽のように眩しく感じ、大気は乾いている。


時折緩い風が吹き抜け、さながら黄昏を誘っているかのように思えた。



しばらくそこに居て、僕は何を考えていたのだろう…




ふと後ろから声を掛けられた。どこかで聞いた懐かしい声――


「賢太さん、どこへいくの」


振り向くと夏音が居た。バイク用のウェアを着ていた。僕は夏音の周囲を探したがバイクが見当たらない。


(のん)ちゃん、CBRは? 何でここに…」

「バイク コワれちゃった  いまからとりにいくの」

「えっ、歩いて⁈ ウサギで送ろうか」 


そう言って振り向いた時、ウサギは消えていた。


「アレッ……ウサギが、僕のウサギが無い‼」



「おまえのうさぎも  こわれたんや」

 

 

背後で夏音以外の声に驚いた僕は、驚いたネコのように身体をビクッと震わせた。

ゆっくり後ろを振り向いた時、夏音と敬之が一緒にいた。



(…何でこの二人が一緒に……)


敬之は親友だが、夏音と一緒になることは今までなかった。


(じゃあ…何故?)


「何で夏音と敬之が一緒なんだ?」


「ぐうぜんハ ヒトのちからでは  どうしょうもない」


 敬之は言ったが、その言葉には思念のようなものが感じられない。


「おい…何言ってんだ……何か――――変だぞ⁈」



“ケンタさんハ   ゆっくり デ いいヨ ”



理由は分からないが冷たい汗が額から頬を伝って落ちた。


「……」


二人の名前を叫ぼうとした時、僕は船の上に居た。真っ暗な海上を進むフェリーのオープンデッキのテーブルで誰かと話していた。


ここは――――確かに見覚えのある風景……そうだ‼


今、自分が居るここは初めてウサギで松山へ帰省した時―――宇野高松間のフェリーの中―――前に居る二人は山内洋子と奥村正路だった。僕がウサギに乗って初めて出会った仲間…


ここで僕は何か大切な話を…


 

 

山内洋子は途中で席を立ち化粧室へ向かった。その後、奥村は僕に語りかけ、次に僕はこう質問した。


「ランナバウト……いや、ツーリングで大事なことって何ですか?」


「人それぞれだからなぁ――――賢太君、ツーリング……今、君が言いかけた“ランナバウト ”って何だと思う」


このあと僕は何となくボヤけた感じで答えたはずだ―――だが今、確信をもってハッキリこう言った。




 

“行って帰って来ること‼ ”



 

全てが光の中に溶け込み、次に目が覚めた。




 

 ▲



 


照明の落ちた暗いどこかの部屋のベッドの上なのか……天井の照明器具には補助の灯りが点っている。

身体を動かそうとしたが思うように動かない。至るところが包帯で巻かれ、電極やケーブルと繋がれていた。



横目でベッドの脇を見ると半身をベッドにうつ伏している恵美さんとソファーで寝ている香音が居た。


「恵美さん…恵美さん、恵美さん‼」


出す声も小さ過ぎるのか起きてくれない。仕方なく僕は身体の動く部分を探す―――幸い右腕は動く。

包帯で巻かれ何かで固められた右手首ごと恵美さんの頭をゴンッと叩いた。


起き上がった恵美さんは僕の方を見ると慌てて部屋の外へ出て行く。



そして先生、先生―――と叫ぶ声が聞こえた。







第9章 「 “Usagi(ウサギ)”の記憶 」







日が上がり明るくなってから恵美さんは事の次第を語り始めた。


僕は信号無視で突っ込んできた大型トラックに()ねられ重傷を負い、病院で三週間昏睡状態だったらしい…


外傷は左半身に集中しており、昏睡の原因になったのは左側頭部の強打だった。頭蓋が僅かに陥没していたが脳内の圧迫や出血が無く、また頸椎や脊髄の損傷が無かったのは不幸中の幸いだった。


だが、左半身に集中した合計8箇所に及ぶ骨折の完治には最低でも半年以上掛かると言われた。



しかし――――問題はそんな事ではなかった。



意識もはっきりして食事も取れるようになった頃、ウサギが世話になっているバイクの大手量販店RBの店長が見舞いに来てくれた。


「宮前さん、今回は本当に大変でしたね……」

「すみません、村田さん。わざわざ来て頂いて―――ウサギの入院は―――直るまでどのくらい掛かりそうです?」


「実は――その事です……」


村田は持っていたバッグからタブレットを取り出し、ウサギの写真を僕に見せた。


「宮前さん、本当に申し訳ないけど―――直すことが出来ません、再生は…不可能です」


「……そんな…」



僕が独望美からウサギを譲ってもらい、既に18年が経過している。メーカーからの部品供給は、どこのメーカーでも発売から約9年くらいで終了する。

僕はその事を見越して消耗品以外で必要なパーツをストックしていた。

耐久年数が近づいた部品を定期的に交換し安定して走行できる状態を保っていたのだ。しかし……


写真に写っているウサギの姿は部品を交換する意味を失っていた。


外装のカウルは無いに等しく、フレームは潰れ、エンジンブロックやクランクケースは割れてホイール、フロントフォークやリヤアームも激しく損傷していた。恐らく、ウサギは大型トラックの下に巻き込まれたのだ―――


 


僕は店長にタブレットを返し、ウサギの廃車手続きをお願いすると、今日のお礼を言い、その場を引き取ってもらった。



 「恵美さん……悪いけど独りにして…」

 

 恵美さんは僕の方を心配そうに見ながら部屋を出る。上から吊るされたスライドドアはプァスッと小さな音を発し閉じられた。

 

 

 僕は少し起こされたベッドの背もたれに身体を預けると上を見た。どこかに焦点が定まっている訳でもない僕の目は何かを見る訳でもなく、ただ涙を流し続けた。

 

 ウサギこそが現存する自分の今までの人生の記憶でもあった。

 

 

 今、それが無くなったと思うと―――それは自分自身を失った感じがした。

 

 学生時代、社会人、そして結婚―――語り尽せないほどの大切な記憶が刻まれていたウサギ……


 

 

 

 ◆


 

 

 

 リハビリを続けていた僕はある事を決意した。

 

 

 それは“Usagi”の記憶を本にすること!

 

 

 自分がバイクに乗り始めた瞬間を確かな記録として残して置きたかった。

 初めてバイクに跨り大阪から郷里の愛媛県松山へと帰った―――そう、今に続く全ての始まりの日を。

 

 


 

 この事を恵美さんに話したとき彼女はあまり好い返事をしなかったが、それでも僕は嘆願した。

 

 

 恵美さんは腕を組み背を向け、しばらく考えていたが次のように言った。

 

 「貴方がバイクで走りに出て行くとき…どう思ってた」


 「行って必ず帰って来ること――」

 「そんな当たり前なことは聞いてないわ。賢太さんはきっとこう思ってた―――何かあれば自分だけでいい、って。違う⁉ 賢太さんの両親や………私たちが……どれだけ…………心配したか………分かってるのか‼」


涙を流し、抗議にも似た感じで体と声を震わせながら彼女は訴えた。そして僕に近寄ると顔を俯かせたまま拳で胸を叩いた。

 

  これを聞いた僕は激しく胸が痛んだ。同時に実家の母が言っていた僕への心配事が思い出された。

 

 

 

 “――私なんか賢太が大阪から帰って来るとき夜も眠れんかったんじゃけん! ”

 

 

 (自分の事しか……人がどう思うかなんて……考えてなかった………)

 

 

 「賢太さんがどうしても、って言うのならいいわ。だけど私にも条件があるの――――バイクには二度と乗らない、約束してくれる?」

 

 

 僕はこの条件を飲まなければならなかった。自分の事で周りにどれだけ心配と迷惑を掛けたかと思うと、次もバイクに跨るとは言えなかったのだ。

 

 

 その日からリハビリと本の執筆が僕の仕事になった。

 

 もうウサギには乗ることなない…そんな辛さも手伝ってか、執筆には日を追って力が入る。

 だが、リハビリの結果は目に見えた回復が少なく職場への復帰も危ぶんだ。

 

 

 

 

 その年の8月、お盆の時期が来た。

 

 僕は杖を突きながら病院の6階ロビーに来た。ここからは街のメイン通りの車の往来がよく見えるからだ。 

 

この時期、バイク乗りなら休みを利用して、それぞれが旅に出かけているだろう。身体の自由とウサギがあれば自分もきっと………以前のように――――――――


それが叶うことのない儚い希望でも、今の自分には無いよりはましなのだ――――そう言い聞かせる。


自分の気持ちを(なだ)めた後、僕は自分の病室へ戻った。


 ドアが開いていたので、中に入ると恵美さんが封筒を持って待っていた。

 「あぁ、恵美さん――――その封筒は?」


 「賢太さんがお願いしていた―――Wordデータをコピーしたやつ…」そう言うと恵美さんは封筒からA4のWord原稿を取り出した。

 「本の原稿か、ありがとう。棚の上に置いといて」

 

 本の執筆は思っている以上に早く進み、約半分を書き終えていた。

 

 「少し読ませてもらったけん……」

 「無理して読まんでもエエよ。多分、恵美さんには……バイク乗ってない人には分からんと思う、危ないこと以外は――――」

 

 僕は普通に言ったことが、恵美さんにはどう伝わったのだろう。

 

 多分、イヤミか宛て付けの様に聞こえたのかも知れない、恵美さんは無言で部屋を出て行った。

 

 (……つまらんことしたな)

 

 

 

 

 リハビリの期間は当初予定されていた以上に長引いた。その年の11月になって、やっと自宅療養が許された。

 

 自宅でも自分で出来るリハビリに専念し、執筆の方も残り半分に力を注いだ。



 仕事の方は年明けには何とか復帰できそうだったが今までのように、いきなり重たい機材を運んだりは出来ない。少しずつ元の状態へ戻さなければならなかった。


 

 

 

 ◆


 

 

 

 翌年の3月、本の原稿は完成し出版B社に本の製作を依頼した。


自費出版のため費用は掛かったが、もう二度とバイクに乗ることが無いと思い、ウサギの部品代や維持費として貯めた預金を全て本の製作費に充てた。

 

 予定では校正を何回か繰り返し本の外装やデザインを検討して今年の9月には製本された物が何冊か僕の手元に届く。そして正式な刊行は10月1日に決定となった。

 

 本当は嬉しいはずだったが僕の気持ちは何故か晴れない。

 

 相変わらず仕事の現場調査は車で行っていたが、それはウサギと違い全く面白味の無いもので、加えて燃料代も高く付いた。


 車を悪く言うつもりは無い……だが、僕には四方を囲まれ空調された快適な運転環境での移動は極めて退屈だった。全てが受動的……


 

 バイクの場合、それ自体が趣味とスポーツであり、社会的には軽便な足となってくれる。また、旅先では様々な出会いもありコミュニケーターとして機能した。

 長距離のランナバウトに於いては自身への試みでもあり、それは社会的環境に居ながら冒険的要素も含んでいたのだ。

 

 バイクは能動的な乗物で、精神的、身体的にも大きく寄与していたはず――――――

 

 以前、夏音の両親から聞いた話――バイクが生活に寄与することもウサギに長年乗り続けて今は理解しているつもりだ。

 

 それだけに今、この状態は耐え難いものだった。

 

 感情が身体に現われているのか、仕事場でもイメージが前より落ち着いたとか、老けたとか言われた。

 

 家に居ても似たような事を子供たちから言われた。

 

 

 (乗りたくても乗れないんだっ―――クソがぁっ!)

 

 

 怒りたくても怒れない―――そんな気持ちが日増しに大きくなって行く。

 今までこんな気持ちになるのは何回もあったがウサギで走っている内に自身に対して冷静になれた。

 

今まで気が付かなかったがウサギと過ごした時間はストレスの解消にもつながっていた。

そして生活の確かな型としてウサギは在ったのだ。







終章  「Usagiランナバウト」






4月の末日、GW(ゴールデンウィーク)が始まろうとしていた。自分の部屋に入ると恵美さんが完成した原稿を読んでいた。メガネを掛け直し原稿に顔を近づけて見る表情は今までに見たことがないくらい真剣? だった。


「面白い?」と僕は聞いてみた。


「……何て言ったらいいのか分からないけど―――――この先が読みたいな……だから賢太さん、ちょっと話があるの」


「ふぁ?」


何の話なのか、とにかく僕と恵美さんは椅子に腰を下ろした。



「もう一回……乗ってみない? バイク」

(マジか‼)


「恵美さん、エイプリルフールは過ぎてるけど――」

「冗談なんかじゃないっ…真面目に言うとんよ!」



恵美さんは少し膨れっ面をして僕に迫った。



「恵美さん……君は僕にバイクは乗るなと言った。今更何で? 正直に答えてみて」


「それは………」


恵美さんは少し斜め左に視線を落とし、再び僕を見た。


「だって、あなたバイク乗ってないと恰好悪いから―――――」


「ハァ?」

(褒めてるのか、それ? 何か、すごい微妙…)






4月も過ぎてGWの真っ只中、僕はバイクの大手量販店RBの展示場にいた。僕の前にはGT250R・EFIシリーズの2回目のMC(マイナーチェンジ)モデルが用意されていた。

前のウサギのようなニュートラルホワイト色は国内では既に無くなっており海外仕様で用意されていた同じ色を特別に用意してもらった。


事故で廃車になった僕のウサギはEFI(電子燃料噴射装置)式の初代で目の前にあるのはサスペションやECUエンジンコントロールユニットやカウルの形状が見直された奴だ。


 「宮前さん、わざわざ来店して下さってありがとうございます。基本的には前と同じですがサスやエンジンの制御は前より良くなっています。

 慣らし(運転)が終わるまでは優しく扱ってやってください」

 

 店長の村田はそう言うと僕にバイクのキーを渡した。

 

 受け取ると僕はズボンのポケットから前のウサギのキーに付けていたキーホルダーを取り出し新しいキーに付けた。

 

 「何かのキャラクターですか?」と村田。

 「ええ…形見の様なものです。前のウサギと友人(敬之)の――――」

 

 

 

 新しいウサギのキーにキーホルダーを付けると僕はRBを後にした。

 

 

 

 

 (結局、僕は………バイクが好きなんじゃないか)




 

 普通なら事故を起こし、家族に心配をかけた僕が恵美さんの勧めに乗ってはいけないのかも知れない。普通に考えれば……


 恵美さんがバイクにもう一度乗ることを勧めたのも正直なところ僕が落ち込んでいる姿を見かねてのことだったらしいのだ。大概、分かってはいたが僕はその勧めに乗ってしまった。

 

 だが、乗ったから良くなるか悪くなるかなど、時間の先を見ることの出来ない人間にとっては分からない………また、運転そのものが上手い、下手とかでもない。



 

 

 

 (夏音……僕は今もこうしてバイクに乗り続けている)


 

 

 

 ◆




 

 

 5月から8月にかけて何回も本の校正を重ね、9月に入って綺麗に製本された本、数十冊が寄贈用として僕のもとに届いていた。


 それはとても手触りの良い表紙カバーで表紙を飾る写真には前のウサギがアップで鮮やかに載っている。

 

 

 そして今日、10月1日―――僕の本が正式に刊行され書店に並ぶ日だ。


僕は机の上にある時計を見た。零時半を過ぎたところ……今日も仕事の現場調査に行くが、その前に確かめておきたい―――少しワクワクしながら僕はその日の思いを日記に記すと就寝した。






*********



 

 


 翌朝、僕は開店時刻に合わせ、新しいウサギで書店に走った。

 

 着くと同時に待っていたかのように入口が開かれた。

 

 

 H書店の中に入ると僕は出版B社から知らされていた通り、郷土書コーナーへ向かった。

 しかし、そこへ辿り着く前、コーナーへ入る入口に僕の本は置かれていた。そこは誰もが一端足を止めるところ―――それも平積みで。

H書店の粋な計らいだったと思う。数えきれないタイトルの本を書店内に展示陳列するには自ずからスペースに限界があり、売れているならまだしも、名もない自費出版の本がこうして平積みで展示されることはない。


 

 僕はまだ、客が疎らな中でその本を取り上げ眺めた。

 

 本のタイトルは『Usagiランナバウト』、著者名は “山本賢二 ”―――どこにでもある分かりやすい名前だ。

僕は自分の名前、宮前賢太の一文字「賢」を著者名の中に入れた。


 

 僕は腰帯に目を移し、そこに書かれているキャッチコピーを見ると口元を少し緩ませる。

 

 

 本の確認は終わった。僕はウサギへ戻る前に家に携帯をかけた。


 「――――あぁ、恵美さん。本が‥……うん、うん……ありがとう」


 僕は携帯を切るまえに一言添えた。




 「恵美さん……愛してる」




 携帯を畳み、ウサギに戻ると僕は走り出した。今日は愛媛県愛南町まで行かなければならない。

 大通りに出るとウサギをシフトアップさせる。


 

 

 2速――3速―――4速――――5速‼



 

 

 ウサギ(GT250R)の空油冷Vツインは軽やかに回転を上げ、同時に僕の気持ちもドンドン加速していく。


それはエンジンの回転が軽く吹け上がるように――――それはニュートラル‼




 僕とウサギを風が包み込む。


それは過去と未来への思いを纏っているかのように―――――本のキャッチコピーには、こう書いた。


 


 『走り出せ、思いを乗せて!』


 

 

 僕の人生はウサギと共に―――――これからも!


 いつも側らにバイク―――――生きる喜びと悲しみも一つの風に乗せて


側にバイクがあり、走らせることで自身を知り、また見つめ直す‥‥それは社会や生活から切り離されたものではありません。

数多くのスポーツの中でバイクというスポーツは生活の中に存在し乗る人の思いを記憶するメモリーの様なものです。別の言葉では動く日記帳と言ってもいいかもしれません。

その思いの記憶は生きる上で嬉しい事、悲しい事も含めて様々でしょう‥‥


とりわけ、バイクに乗った最初の日はきっと大切な思い出として残っているに違いありません。


本編『N』(ニュートラル)はバイクに乗って遠くへ出た最初の日を記した本、『Usagiランナバウト』が出来るまでのお話です。


この作品がバイクに乗られている方、リターンでバイクに乗られている方に読んで頂ければ幸いの極みです。

この作品に訪れて下さった方の人生がより深く豊かなものとなりますように。

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