ダイニングバー『猫の尾』
「よぉ、ショーン。大怪我して動けないって聞いてたんだが。なんだ、元気そうじゃないか」
カランカランとドアチャイムを鳴らして、くたびれたトレンチコートの中年男が店に入ってきた。
ここは、『猫の尾』。
俺が住んでるアパートから2ブロック先の角、古ビルの半地下にあるダイニングバーだ。
昼は名物の具だくさんなシカゴピザがリーズナブルに楽しめ、夜はカウンターで酒が飲める。
尾を立てた猫の看板が目印な、地元の人間の溜まり場だ。
俺も常連客の一人で、この時間はいつもならカウンターでビールとつまみを楽しんでいるんだが。
今日の俺は、カウンター席で自慢の酒や料理を楽しんでいるわけではない・・・。
俺は中年オヤジのからかいを聞き流しつつ、カウンターの内側でショットグラスについた汚れをふきんで丁寧に拭った。
「おっさんこそ、あいかわらずお元気そうで。市警の刑事さんがノンキにバーで酒飲めるぐらいには街が平和でなによりだ」
「おいおい、客には愛想よくしろよ、バーテンさん。よく似合ってるぜ、そのシャツと黒ベスト。いっそブンヤは廃業してコッチに専念しちゃどうだ?」
俺の嫌味に正しく嫌味で返しながら、シカゴ市警の万年警部レザノフは古いスツールにドッカリ座った。
「お前さんの部屋に行ったら、かわいいお嬢ちゃんがココでまたバーテンやってるって教えてくれたぞ」
・・・あぁモニカがね。
レザノフのおっさんはニヤニヤ笑いながら煙草に火をつけた。
カウンターにコインをいくつか転がしたので、俺はビールを注いでおっさんの手の中にグラスを滑らせた。
このダイニングバーの経営者はうちのアパートの所有者、つまりモニカの父親だ。
カウンターの人間が足りないときに、普段でもたまにココを手伝っていたりする。
今回は払えない家賃の代わりに、このダイニングバーでしばらく働くことになったのだ。
「お前さん、廃棄衛星がマンハッタンに落っこちた時、ちょうど近くにいたんだってな。なんだってまた、あんな何にもない廃墟に?飢えた野犬だって寄り付かねぇトコだろう」
「そんなのきまってるだろ。取材だよ。無人の廃墟だろうが深海の底だろうが、必要があればどこにでも行くのが記者なんだから」
「取材ねぇ。うらぶれちまった自由の女神にインタビューでもしてたのか?」
「まぁね。そんなところだよ」
『マンハッタンへ取材に行く途中で爆風に煽られてケガをした』
皆に公言してる事実はこれだけだ。
月の編集長にもマンハッタンのドデカい花火で吹き飛ばされて負傷したと報告している。
事実を織り交ぜたほうが、隠し事はなりやすいもんだろ?
劉一族やデイビスのスキャンダル、モルガン財閥のアレコレやら、まさに爆心地から脱出したなんてことはもちろん誰にも話していない。
まぁ、たとえ話したところで信じるヤツなんかいないだろうけど。
「ちょっと。ギムレットお願い」
おっと、カウンターの端に座っている女性からカクテルの注文だ。
俺は冷やしたシェーカーにジンとライムジュースを注ぎ入れ、手早くシェイクしてカクテルグラスに流し込んだ。
「で?何の用?見ての通り、俺は忙しいんだけど」
女性には丁寧にカクテルを提供してから、俺はおっさんに向き直った。
クタクタのトレンチのポケットから引っぱり出された携帯端末が、カウンターの上を滑って俺の手元にやってきた。
おっさんは俺の質問には答えずに、旨そうにビールをあおっている。
俺は傷だらけの携帯を手にとって画面を確認した。
そこには路地裏の壁にチョークで落書きしている男の子や、飲み屋の店先に座っている女の子の画像ファイルが数十件入っていた。
すべて5歳前後の多種多様な人種の子供だ。
撮影場所や身なりからすると、このあたりの貧民街の子供たちだろうか。
「ここ最近、リバーノース地区で幼児が行方不明になる事件が多発してる。今月に入って俺の耳にはいってるだけでも30人以上。路上生活してる孤児なんざ周りが騒がねぇからな。実際はもっと被害があるはずだ」
リバーノース地区は、老朽化した超高層ビル群が放置されたミシガン湖岸の危険地帯。
『亡霊』と呼ばれる連邦戸籍のない貧民がひしめくスラム地区だ。
この地球連邦・北米州では、出生から1年以内に病院が発行する出生証明書とともに3000北米ドルを連邦政府に支払わないと、戸籍が発行されない。
戸籍がない人間は連邦の社会保障を受けられず、犯罪に巻き込まれても司法による保護はない。
同じ人間なのに、まるで亡霊のように彼の存在は無視され、社会から見捨てられる。
『亡霊』と呼ばれる無戸籍者とそれを容認する連邦市民制度は、宇宙世紀における最悪の社会構造だ。
「『亡霊』のガキが何人さらわれたって、この世の警察は動かねぇ。けど俺の目の届く範囲ではこんな無法は許しちゃおかん」
おっさんは溜まったストレスを吐き出すように、肺から煙のかたまりを吐き出した。
俺は労いを込めて、掃除した灰皿をおっさんの前に差し出した。
よれよれのトレンチに包まれたいつもの猫背が、ちょっとだけ頼もしく見えた。
まぁただの目の錯覚だろうけどな!
「わかった。俺もあたってみるわ。なんかつかめたら連絡する」
「おお。期待しないで待ってるぜ」
例の憎まれ口を叩くと、おっさんは短くなった煙草を灰皿を擦りつけた。
俺の協力を取り付けると、短い休憩は済んだとばかりにおっさんは席を立った。
年季の入った米松の扉を開けて、雑踏に消えるシカゴ市警の万年警部の背中を見送る・・・・
「おーい、ショーン。こっちビールくれや」
「俺も頼む」
「オイルサーディンとピクルス。ハーフロック1つ」
・・・暇もありゃしない。
つぎつぎオーダーが入りいつもの常連客で席が埋まって、にぎやかに夜が更けていった。