一文無しとシカゴの午後
マンハッタンの騒動で、俺は怪我をした。
高所から水に落ちて全身打撲。
くわえて右上腕部と左手二指の骨折。
命があっただけでも感謝しなくちゃいけないことはわかってる。
けど一般庶民の俺にとって、両手を骨折したのはとんでもなくイタかった。
両手をつつむ不格好なギブス。
こいつのせいで、力仕事はもとより満足にキーボードすら叩けない。
風呂や炊事など日常生活にも苦労するという、ままならない状態で過ごすこと1ケ月。
それでも家賃、光熱費はかかるし、食事だってしないわけにはいかない。
もとより少ない貯金残高がみるみる減っていくが、なすすべなし。
少々焦りつつ、どうにもならないと開き直り、ひたすら回復につとめた試練の日々よ・・・さらば!!!
「ありがとう!ネルソン先生!さすが町一番の名医だ!」
俺はギブス取れたての青白い指で、薬品で肌荒れした老医師の筋張った手をがっちり握った。
これだけでは感謝の気持ちが伝わってない気がして、握った手をさらに大きく上下に振った。
突然の握手に面喰って、ネルソン先生は銀縁眼鏡の向こうの瞳を瞬いた。
俺の大げさな謝辞に若干引きつつも、先生は大らかに笑って俺の手を握り返した。
「私はただの町医者だが、君の怪我を治せてよかったよ。全治おめでとう、ショーン」
俺はもう一度先生の手を力強く握った。
自由に手が使えるって本当にすばらしい!
手首を回して指の感覚を確かめつつ、古いが丁寧に掃除されて清潔なネルソン先生の診療所を出た。
さぁて・・・仕事しないと!
さっき払った治療費で、正真正銘『一文無し』だからな(泣)
足早に自宅に向かいつつ、厳しい現実に俺は大きなため息をついた。
かさむ生活費と治療費。
この二つ以外にもう一つ、俺を財政難に追い込んだ理由がある。
原因はやっぱりあのマンハッタンだ。
あの時俺は猛烈な濁流にのまれた。
・・・手荷物をもったまま。
そう、あのザックの中には入っていた!
携帯端末含む、もろもろの取材用の電子機器が!!
一応防水タイプのものを使ってたんだが、あの濁流は「水没」の想定域をはるかに超えてたようで、みごと全部オシャカになった。
中にはネオロイター本社からレンタルしていた高価な機材もあった。
ソイツを弁償、その他を新調したことで俺のなけなしの貯蓄はいよいよ底をついたのだった・・・。
「お・か・え・り!ショーン❤」
ギクッ
考え事をしながらたどり着いた我が家、6階建ての古いアパートのエントランスで今最も会いたくない人物に出迎えられた。
右手にデッキブラシ、左手に床磨き洗剤を持ち、勇ましく仁王立ちしている小さな影。
このアパートの所有者の娘、モニカだ。
ドレッドヘアのツインテールがトレードマークで、チョコレート色の肌に白いトレーナーが今日もよく似合っている。
笑顔が愛らしいこのアパートのアイドルだが、全住人から密かに恐れられる悪魔でもある。
・・・家賃の催促が執拗で、その手腕が7歳の少女のそれとはとても思えないからだ。
「今日はいないんだね、あのうさんクサい中国人」
モニカはちらちらと俺の背後を覗き込んだ。
今日は月末でいつもなら真っ先に家賃の催促なのに、別の話題を振ってくるなんて珍しいな。
「ウェンのことか?アイツなら今朝早くに出かけたけど。なんだよモニカ、アイツに何か用あった?」
「あるわけないでしょ?あんなフシン人物!ショーンったら、大ケガした上にあんなアヤしいヤツひろってきて!お人好しもいいかげんにしないとホントいつかケガじゃすまないんだから!」
不審人物って・・・。
1か月前ウェンを連れて帰ってきたとき、動けるぐらいには回復していたとはいえ俺は包帯だらけだった。
7歳のモニカには俺の怪我がウェンのせいに思えたのかもしれない。
「いや、ウェンは悪い奴じゃないぞ。むしろ命の恩人で・・・」
モニカは俺の言葉を遮るように、デッキブラシの柄を俺に突きつけた。
こら、危ないって。
「アタシの勘がいってるの。あの中国人はヤバいって」
有無をいわせない迫力で、紅茶色の瞳に睨みあげられた。
ウェンの素性はここの誰にも話してないし、これからも話すことはない。
なのに、このやけに頑なな確信は何だろう?
ごめん、ウェン。俺はお前の誤解を解いてやれそうもない。
「ショーンにはいつまでもゲンキでいてもらわないといけないんだから。家・賃・毎・月・き・ち・ん・と!はらってもらうためにね!」
「うっ!」
やっぱキタか!
「あ、モニカ、今月はさぁ、その」
「わかってるよ。ショーン、ケガでぜんぜん働けなかったもんね。でも」
『にやり』
7歳の少女の顔に音を立てて浮かんだ悪魔のスマイル。
「ウチはタイノウ禁止だから!ゲンキンがムリならカラダではらってもらいます!」
シカゴの青空にデッキブラシを突き上げて、モニカは高らかに宣言した。