5
テディ・ベア/あるいは、誰が運転手をふたたび殺したのか
「かけない」
立ち上がって、ぽつりと呟く私。
アシスタントたちが唖然として見守る中、私は髪を掻き毟って叫んだ。
「もうこれ以上かけない。……かけないんだよう!」
そして逃げ出す。
子供の頃からの悪い癖である。
トイレに飛び込む。
鍵をかけた。
すぐさま、ドンドンドン! ドンドン! と打ち鳴らされるトイレのドア。
「先生ッ! 先生ッ!? 描けないってどういうことですか? どうしたんですかッ?」
チーフアシの悲痛な声。
マジでいい加減にしろよ、というニュアンスがびんびんに伝わってくる。
私は便座カバーをおろして、その上にしゃがみこんだ。
膝を抱えて丸くなる。
いやわかっている。私だって痛いほどわかっている。
漫画は商売だ。
食べていくための手段だ。
アシスタントのみんなも仕事をしに、ここへ来ている。
私がキャラクターに思い入れをしてよーが、どーでもいいことなのだ。
だから心のスイッチをオフにしてサクサク描けばいいのだ、サクサクと。
しかしそれでも……描く勇気が沸かなかった。
私が描くまでは、六郎は死なない。死が確定しない。シュレディンガーの六郎である。
「先生、理由を! 理由を教えてください!」
アシの子が言った。
それに対して私は、六郎を殺せないとかいうことを愚痴愚痴とほざく。
「殺せないって……じゃあ助ければいいじゃないですか?」
「それができたら苦労しないんだよう!」と私。
「でも……なんか方法があるはずですよ! そうだ、リニの涙で生き返るというのはどうですか? ベタですけど!」
「いや、マジで……ベタすぎ!」
「じゃあ……そうだ! ループ物! リニが六郎を救うために過去にタイムループするのはどうです! いいじゃないですかこれ! 連載続けられますし……!」
「アカン!」と私。「私、SF苦手!」
マジでめんどっくせー人だな! という声が聞こえてきた。
全員修羅場でテンパっていたのもあるけど、隠す気もなくダイレクトに聞こえてきたね。
「ねえ、先生」とこれはチーフアシ。「出てきて仕事しましょうよ……。子供じゃないんですから。辛いかもしれませんけど、みんなでやり遂げましょうよ」
「…………」
「わたしたち、最近先生を見直していたんです。お世辞じゃないですよ。やっぱすごいなぁって。ねえ、みんな?」
「うんそうそう」「みんなでこの作品絶賛してたんだよね」
「そうですよ」チーフアシは続けた。「本音をいいますと、『大いなる眠り姫』は最初あんま面白くないなァって思ってたんです。なんかよくある話だなって。でもまあ仕事ですから。お手伝いしてたんですけど……ここ最近の展開はわたしたちでも鳥肌たちました。まさかここが伏線になっていたのか! って。五年間にさりげなく張り巡らせていた伏線が一気に回収されていくストーリーはマジでやばかったですよ……!」
「そうですよ! 缶コーヒーから紅茶に嗜好が変わったのがまさか伏線だったなんて、思いもしなかったよな? な!」
「んなモン私も思わんかったワイ!」私は泣きながら叫んでいた。「いいか君たち! 最高の伏線は――最高の伏線というものはだな! 作者すら後から気づいた伏線のことだ!」
それ、世間一般では、後付けという――
ともかく、アシのみんなは、オイオイ泣き出した私を手がつけられないと判断したのかどこかへ消えていった。
私は泣き続けた。
そのうち泣くのも難しくなって声だけでオイオイいっていたら、
どこかから“ロッキーのテーマ”
私の携帯が着信したのだ。
仕事場の玄関がドタドタ! と騒がしくなって、イイダバシちゃんの声が聞こえてきた。
「今着いた! 今着いた! 先生はどこっ!?」
「トイレです! 鍵かけて閉じこもっているんです!」
「外から開けられないの? ダメ? 内鍵? じゃドアを壊すしかないわね!」
エライことになってきた。
ドタバタ! ドタバタ! とドアの向こうが騒がしくなる。
「待った待った! 壊すのはやめて! ドア壊しても私描かないよ!」
声を限りに叫ぶ。
「レモン先生! あたしです、イイダバシです! 一体どうしちゃったんですか?」
「イイダバシちゃん……」また涙がこぼれる。「描けなくなっちゃった……私、自分がこんなに六郎に感情移入していたとは思わなかった。辛くて辛くて。もう無理……」
「そんな――」
イイダバシちゃんがへたりこむのが気配でわかる。
しばらく黙っていたが、ドアにとん、と触れて語りかけてきた。
「先生。『大いなる眠り姫』はどうなるんですか。もったいないですよ。これはいい作品です。もしかしたら先生の代表作になるかもしれません。最後まで描ききれば……先生が六郎くんを殺すことができれば……です。でも、ここで投げ出したら終わりです。未完成の作品として最終巻も出版できないかもしれませんよ。それでもいいんですか?」
「……」
「それこそ先生のいう“最低”じゃないんですか?」
「……わかってる。私、イイダバシちゃんが言うこと、全部わかってる」
「だったら、どうして!?」
「わかってるのに出来ない! その勇気がでてこない!」
叫ぶ。
また沈黙が訪れた。
今度の沈黙は長かった。
やがて、
「……勇気ですか」
イイダバシちゃんは語り始めた。
「……わたしも勇気がでないことがよくあります。この仕事に就いてからミスしっぱなしで、何度も怒られて、明日会社いくの怖くて怖くて仕方なくなったりして……。そんな時どうするか、お話しましたっけ?」
「……“ロッキー”でしょ?」私は言った。
「そう! 勇気をもらいたい時はDVDで“ロッキー”観るんです! だってカッコいいんですよ。『最後まで立っていれば俺はクズじゃないってみんなに証明できるんだ』って、ボロボロになるまで戦って、最後『エイドリアーン!』って。それ観るたびに涙が出るんです。ロッキーも頑張ってるんだ、あたしも頑張ろうって――」
と、そこでイイダバシちゃんは自嘲気味にふうと吐息をついた。
「……でも、冷静に考えると酷くないですか? だって勇気をもらうためにロッキーがボコボコに殴られる姿を観たいってことなんですよ? あたしが落ち込むたびに、ロッキーさんは顔を腫らして血を流して、『エイドリアーン』ってやるんですよ。その姿をダシにして泣く。あたしって酷いヤツだなって――でも……」
私は彼女が何を言おうとしているか理解したくて真剣に耳を傾けていた。
彼女は言葉を探しているようだった。
やがて続けた。
「でも……多分それが物語の使命なんです。ロッキーは観ている人に勇気を与えるために血を流してくれるんです、何度でも。それが物語だし、キャラクターの役割なんです。
そりゃ中には、紛い物の物語もありますよ? お涙頂戴の、お前ら泣ければいいんだろうっていう作品が。
でも、『大いなる眠り姫』は違う。
先生は本当に六郎くんをなんとか生き返らせてあげたくて、リニを笑顔にしてあげたくて、悩んで悩んで、その末に、やっぱり出来ないって結論にたどり着いたんでしょ? 先生が苦しんでいたのは、あたしが見ていたからよーく知っています。それは先生が物語とキャラに真っ正面から誠実に向き合ったからの苦しみでしょう? それを否定しちゃダメです。どんなに辛くても、ダメです」
「……うん」
「先生は、六郎くんを殺すのは自分だって思っているかもしれませんけど、それは違います。殺すのはあたしたちもです。作者と読者の共犯なんです。
六郎くんのリニを想う気持ち、優しさ、愛情の深さは本物です。だからこそ、死んでしまう悲しさ、人を愛する気持ちの尊さが読者に伝わるんじゃないんですか?
わたしたちはそれを物語から受け取るために、六郎くんを殺すんです。何度も何度も。わたしたちが読み返してページをめくるたびに、何度も何度も――」
イイダバシちゃん、いつのまにか泣いていた。
アシスタントのみんなも貰い泣きして、うおんうおん吼えていた。
私はトイレットペーパーをがらがら鳴らして、ビービー鼻をかみまくった。
突然。どん! とドアが叩かれた。
「それがわかったら、いい加減でてきてください! 罪から目をそらさないでください! 作者の責任を、その背中にキッチリ背負ってくださいよ!」
また、どん! と叩かれて、ドアの向こうで、ずるずる……と拳がドアの表面を滑る音が聞こえてきた。
ひーん、と泣き始めた。アシスタントのみんなもいまや号泣。
私は立ち上がると、ドアの鍵を外した。
ドアがつっかえて、声をかける。
「……イイダバシちゃん、そこにいられると出られない」
外に出ると、みんな酷い顔をしていたんで笑った。
みんなも私を見て笑っていた。お互い様だったのだろう。
それから私たちは仕事を再開し――
六郎を殺した。
◇
イイダバシちゃんが完成原稿片手に帰っていって、アシスタントも全員帰宅させた。
修羅場を経た仕事場は散らかりまくっていたけど、それは明日みんなで掃除すればいい。
一つの作品が完結して、肩の荷が下りた感じで。
体から、すーっと力が抜けていった。
いつのまにか、わたしはスクリ-ントーンの屑を靴下にくっつけたまま、ソファーでだらしなく寝ていた。
どれくらい時間が経っただろうか。
ふと目が覚めると、夜明け近くで、辺りは水色の不思議な光に包まれていた。
くすくす笑う声がして。
足元に目を向けると、リニと六郎が並んで立っていた。
私はソファーから跳ね起きた。
「リニ! 六郎!」私は土下座。「ごめん……本当にごめん! 私、二人にいくら謝っても足りない。本当にごめん!」
床に額をこすりつけて謝り続ける。
気づいてあげられなくてごめんね。
幸せにしてあげられなくてごめんね。
リニ、六郎。
私、君たちを理解するのが、遅すぎた。
君たちの声が聞こえた時には、もう手遅れだった。
「顔をあげてくださいよ」六郎が言った。「果たすべき使命、おかげで果たすことが出来ました。途中退場することが、僕らにとって一番辛いことですから。色々わがままいってすみませんでした。それから――長い間ありがとうございました」
見上げれば、六郎は丁寧にお辞儀していた。
「ほら、お嬢様も――」
促されて、リニもぺこりとお辞儀する。
「先生。五年間お世話になりました。ありがとうございました」
最終回でぼろぼろ泣いていたリニはもういない。
今、目の前にいるのは、素敵な笑顔で笑うリニだ。
「うん、うん……」
頷きながら、私、号泣。
顔を見合わせて仲睦まじく微笑んだ二人は、帰ろうとした。
その背中に私は呼びかける。
「ま、待って――もういっちゃうの? もう少し話がしたい! 色々聞いてみたいことがあるんだけど!」
しかし、六郎は振り返り――
「僕らにはいつでも会えますよ。本を開けば、いつでもそこに僕らは――」
そこで私は目が覚めた。
体を起こしてみれば、朝だ。
物が散乱した仕事場に、ぽつんと一人。誰もいないと、やけに広く感じる。
カーテンを開けて、窓を開けてみた。
見上げれば、宇宙までつながっているような透き通った青空。
私は目を細めながら、ふうと一つ、ため息をついた。
◇
これでこの物語は終わりだ。
この十か月に私が体験したことは、私の脳が生み出した、ただの妄想だったのかもしれない。彼らと出会い、言葉を交わしたという物的証拠は何もないんだから。でも私自身は妄想と思われても全然構わないのだ。
最後に、二つばかり後日談めいたものを付け足して、物語の幕を下ろそうと思う。
◇
蛇足1。
連載も終了して、次の企画のためにアイディアを出している時、ふと思いついて六郎とリニが笑っている絵を描こうとした。上手く描けたら最終巻のおまけにつけるのもいいかなと思ったからだ。
しかし、鉛筆を走らせて下書きしている段階で違和感があった。
ラフ画だったが、違う、と思った。
見た目はよく似ているが、出来たのはリニと六郎のそっくりさんだった。
なんということだ、わたしはリニと六郎が描けなくなっていた。
二人は、二人だけが知る場所に行ってしまったのだろう。
蛇足2。
最初にタクシーの中で会った時に六郎が歌っていた歌。
私がへたくそなハミングでイイダバシちゃんに聞かせたところ、それはエルビス・プレスリーのテディ・ベアという曲だということがわかった。
なんと、1957年の曲である。
海外ドラマ「フルハウス」で末娘の子守唄に使われたらしいから、聞いたことがある人もいるかもしれない。
神田でプレスリーの古いベストアルバムを買ってきて、疲れた時、仕事に煮詰まった時に聞くようにしている。
不思議なことに聞いてると六郎の声が蘇る。
ぼくはきみのテディ・ベア。今では私のお気に入りの曲だ。
おわり。5/5
読んでくださってありがとうございました。