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テディ・ベア/あるいは、誰が運転手をふたたび殺したのか
「うん……そう。そう、全部破棄。やり直すってことで。いいかな?」
イイダバシちゃんと電話で話している。
現在午後十時。
自宅に帰ってすぐ「大いなる眠り姫」の既刊十二冊を読み返し、考えがある程度まとまってきたので電話をかけた。
『えぇーでもネームを全部破棄って……大丈夫ですかァ?』
不安そうな声が伝わってくる。
それはそうだろう。一度はオッケーを貰った次週のネーム(漫画の設計図みたいなもの)をやり直すと言っているのだから。
「うん……時間はギリギリだけど、ちょっと練り直してみたくなって。迷惑かけないようにする。だから……」
『えぇ、そりゃまあ先生がそうおっしゃるなら、わたしからは何も言えませんが……』
「本当に? ありがとう! 頑張るよ! じゃ」
電話を切り、ふうとため息をひとつ。
「……さてと」
ぽきぽき指を鳴らして机に向かう。
サングラスを外した六郎のラフスケッチを開始する。なにしろ描いたことがないのだ。しかも超イケメンとして登場してしまっている。今週号の彼を見ながら、角度を変え、表情を変え、試行錯誤を繰り返した。
――あと八週間生きたい。
そう願う彼の望みを叶えてあげるわけではないが、とりあえず物語の中ではまだ生きている。一度外してしまった以上、今後はサングラスなしで登場させるしかないではないか。
と同時に、私の中に、ひとつのアイディアが生まれていた。
読者はリニと六郎の関係をまだ知らない。
ならば最終決戦の前に、それを見せてあげればどうだろうか。
いわば、回想パートだ。
省略されていたけど、リムジンの中で二人は実はこんな会話をしていた、というのを、第一話から現在までダイジェスト版で描写してやる。
ただのモブキャラがいきなりメインキャラに昇格するのはかなり冒険ではあったが。
面白いもので、そういう視点で一巻から読み直すと、新たな発見があった。
たとえば。
六郎は最初は缶コーヒーを飲むキャラクターだった。リニお嬢様を待つ間などによく手に持っていたものだ。
しかし途中からなぜか紅茶のペットボトルに鞍替えしている。
深読みすれば、リニが飲み物を一口ねだるくらいに二人が親密になって、苦いコーヒーではなく甘い紅茶を飲むようになったと考えられないだろうか?
いや、実際には、私が仕事中にたまたま飲んでいたものを六郎に飲ませていただけなんだけど――
他にも。
リニは第一話の登場時にウサギのぬいぐるみを抱えていた。
誰にも心を開かず、内側に閉じこもっている象徴として持たせたのだが、五巻あたりでウサギのぬいぐるみがどこかへ行方不明になっている。
多分、毎回描くのが面倒くさくなったせいだと思うが、これもこじつければ、リニが六郎に心を開いていく過程で、必要なくなったという伏線にならないだろうか?
こういう小さな発見、自分でも気づかなかったことをまとめていくと、不思議なことに一つのストーリーにまとまっていく。
誰にも心を開かないロボットのようなリニ。
おそらく六郎にも無関心だったことだろう。
しかし、何かのきっかけで二人の間に交流が生まれる。
次第に絆は強くなっていく。
ついには私がタクシーの中で見たような親密な関係になる……。
◇
『ははぁ……あの二人、実は仲良かったんですかァ』
翌日、アイディアを羅列した紙を見ながら、私はイイダバシちゃんに進捗を報告した。
「うん、そうなんだ。この漫画って孤独な少女の復讐劇だったんだけど、視点を変えれば、実はボーイミーツガールモノでしたーっとひっくり返したくなってきちゃって……」
『ふんふん』
「あ、あの……やっぱ危険かな? 作品のカラー変わっちゃうけど……」
どきどきしながら私は言った。
読者から、なんでやねーんとツッコまれる展開には違いないのだから。
だが、
『いえいえ! わたしはすっごく興味あります! どうなるのか見てみたいです!』
ホッとした。百人力を得た気分である。イイダバシちゃんに幸あれ。
本当にこういう時は、編集さんの何気ない励ましの一言に、ものすごいパワーをもらえるものなのだ。
「そ、そう? 本当? 二人がなぜ心を通わせることになったのか、そのきっかけはこれから考えなきゃいけないけど――」
「はい、楽しみにしています。それでネームのほうは何時ごろに戴けるのでしょう?」
「うーん、今日中には出せると思う。多分……なんとか――」
「そうですか、わかりました。今日は二六時頃まで仕事していますから、そのくらいまでなら待ちますから」
ほろりときた。
思わず時代がかった台詞で、
「……うう。いつもすまないねェ」
「それはいいっこなしですよ、センセ。頑張っていいものを作りましょう!」
「うん、うん。頑張るよ、私」
「はい! あ、そういえば――」
と、電話の最後に、イイダバシちゃんはこんな質問をしてきた。
「結局、六郎くんは何で蘇ったんですか? その謎は明かされるのでしょうか?」
ギクッ、である。
「あ! うん、それね! 勿論考えてあるよ! 意外なオチが待ってるから、だいじょぶだいじょぶ、ハハハ!」
大嘘ブッこいてしまった。
そんなもん考えてるわきゃない。
あのヤロウ、八週間がどうのいっていたし、何か目的がありそうな雰囲気だったけど。
「そうですか。よかったー。読者ハガキがぼちぼち届きはじめたんですけど。みなさんそこを知りたがっていますので」
「そっかそっか。だよねー! まあ任せてくれてOK牧場!」
◇
それから。
二週間に渡って「大いなる眠り姫」は過去回想パートが展開された。
誰にも心を開かないかに見えたリニも、実は六郎だけは例外だと判明する。
六郎も『組織』に親を殺された孤児だったのだ。
似たもの同士ということもあり、また六郎の惜しみない献身もあって、リニの永久凍土のように閉ざされていた心に、次第に、次第に、人間らしさが恢復していく。
それは同時に殺人という罪の意識の芽生えでもあった。
葛藤をはじめるリニ――もはや冷徹な殺人マシーンではなく、一人の少女に戻っていた。
だが、それは隙を生む。
『組織』に強襲され、サブマシンガンで惨殺される六郎。
リニは再び復讐心の虜となった。
「あいつらの息の根を止めてやる。今度こそ――」
しかし、そこに現れた、死んだはずの六郎……。
◇
「レモン先生! レモン先生! おめでとうございます! 今週の読者アンケート、二位ですよ! 二位!」
仕事場にイイダバシちゃんがドーナツを差し入れにきてくれた。
アシ諸君が子供のように「わーい! ドーナツだぁ!」と群がる。
「ふわあ……ありがとうー」
フラフラと椅子から下りて、ドーナツをパクつく私。
ここのところ深夜まであーでもないこーでもないとプロットを練っているので、極度の睡眠不足状態が続いていた。
しかし、疲労こんばいの身体とは裏腹に、気持ちの方はめちゃくちゃ充実していた。
久しぶりに漫画を描くことを楽しんでいたのだ。
思えば、デビュー前はいつもこんなだった。
もう、ペンを握るのが楽しくて楽しくて、二日くらい寝てなくても問題ない感じ。創作意欲が迸って、自分でもどうしたらいいかわからなかった。
漫画を描いて、疲れたら息抜きにイラストを描く。
今考えるとアホだなあと思うけど、ふたたびあの時の気持ちが蘇っている。
「いやーリニちゃんが可愛い、ていう感想がすごいんですよ!」とイイダバシちゃん。「なんていうんですか? ギャップ萌え? リニちゃんって本当はあんな娘だったんですねー。あと絵の実在感がすごいというか、まるで……匂いすら嗅げそうな」
まあ実際本人をクンカクンカしたからね、とは言えず、
「そうかな、ははは、どうもどうも」
「以前のリニちゃんもかっこよかったけど、わたし今のほうが断然好きです! 六郎くんもイケメンだし」
うん、そうだね。内心頷く。実は私もそうなんだ。
復讐だけの機械人形にも、ちゃんと心があったことで、作者の私すらリニが好きになってきていた。それだけに、まもなく物語が終わることに寂しさを感じる。もう少し早く気づいてあげれば……という後悔の念があるのは否めない。
「あーそれでですね」とイイダバシちゃん。「なんとか二人をくっつけてあげられないか? という意見もチラホラ見受けられるんです。そこのとこどうなんでしょう?」
「うーん。それはちょっと難しいかな……。六郎、多分死ぬし」
「あ、やっぱり死んじゃうんですか?」
すると、アシ諸君の「えー」の大合唱。
「先生、もう一回殺すんですか?」「そんなぁ、何か仕掛けがあるんだと思ってた」「ハッピーエンドにはならないんですか?」
鼻息荒く詰め寄ってくる。
意外だった。君たち、そんなに六郎に感情移入してたの?
というか、あいつがどういう理屈で蘇ったか私にはまだわからないのだ。それに八週間だけって約束だし。だから多分、それが過ぎたら今度こそ死ぬんだろうと思っている。
二週間が過ぎたから、残りは六週。
あと六回分のストーリーで、私はまた六郎の死を描くことになるのだろう――
そしてその夜のこと。
アシ諸君は帰宅し、私は一人仕事場に残ってネームを切っていた。
午前三時にイイダバシちゃんに展開のことで相談のメールをしたら、電話がかかってきて、
しばらく雑談した。
『それにしても先生。物語って何なんでしょうねえ。あたし最近よく考えるんです。なんであたしたちは物語を読みたくなるんだろう……その意味はなんだろうって……』
と、深夜特有のテンションのイイダバシちゃん。
「そうだねえ……。なんだろうねェ」
『あたし今真面目モードなんです。先生が頑張る姿を見て、自分は今までヌルイ仕事してたなって恥ずかしくて――』
「いやいやいや……」ヌルイ仕事をしていたのは私もである。
『でもお蔭様ですごく楽しいです! 先生、今週も頑張りましょうねぇ』
とまあ、そんな会話をして電話を切った。
そしてネームの続きにとりかかろうとしたのだが。
「……え。えぇええっ!?」
私は電話の直前まで自分が描いていたネームを読み返して思わず悲鳴を上げてしまった。
それは二ページ目、最初のコマである。
背景は商店街だ。そこをリニと六郎が歩いている。
何気ない日常のワンシーン。
店のウィンドウに、リニの影が映っている。だが、六郎のは映っていなかった。
また無意識に描いたのだろう。影を足そうとすれば出来たのに、わたしはしなかった。
意味するところは、一つしかない。
と、その時――
「……ま、そういうことなんですよ」
少年の声がして、私は振り向いた。
つづく 3/5