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テディ・ベア/あるいは、誰が運転手をふたたび殺したのか
さて、十日あまりが経ち、答案を提出せねばならなくなった。
ひたすら考え、泣き喚き、原稿を何回も破棄し、泣き喚き、イイダバシちゃんと打ち合わせを重ね、泣き喚き、どうにか完成させた血と汗の回答である。
出来栄えは……一言でいえば最悪だ。
どう理屈をつけても辻褄があわない。読者にフルボッコにされようが、もうこれしかない。
私はこう描いた。
○前回の続き
リムジンの扉を開ける六郎に似た少年。
その顔を見て、リニ、かすかに眉をしかめる。
少年「上田七朗と申します。今日から私が兄に代わってお仕えさせていただきます」
リニ「……そう。車を出して頂戴」
七朗「かしこまりました。お嬢様」
おわかりいただけただろうか。
うわっ最低!
そんな感想が聞こえてくるようだ。つまり、カ○イ伝方式だな。
だって六郎に似た少年が、六郎本人だとは明言してないもーん。
その後、それ以上七朗に触れることなくストーリーは進行していく。作者、全力のスルーである。わはは。
雑誌の発売日、私は朝から自宅で布団を被って寝ていた。
このまま人生もスルーしてしまおうか考えていた時だ。
ふいに“ロッキーのテーマ”が鳴り響く。
出たくない。出たくないが、ありったけの勇気を振り絞り、
「……ひ、ひゃい……茶虎レモンでっす……」
『やりましたね! 先生! 大勝利! 逆転大勝利ですよ!』
イイダバシちゃんが興奮して叫んだ。
というか、興奮しすぎだ。
「は、はあ?」
『ネットでの評価、悪くないですよ! 女性人気が出たかんじで! いやあ先生を信じてよかったです!』
「う、嘘だぁ」
『ホントですって! ご自分で確かめてみては?』
携帯を切り、ネットを見てみる。
すると、あらヤダ。本当に擁護が増えてきていた。“六郎がまさかのイケメン”という意見がちらほら見える。ん? 六郎?
慌てて近くのコンビニまでダッシュ――
週刊ハクションを手にとってしばらく読み、私は「くわっ」とのけぞることになる。
雑誌にはこうあった。
○前回の続き
リムジンの扉を開ける六郎に似た少年。
その顔を見て、リニ、手で口をおさえる。
リニ「ろ……くろー……?」
六郎「はい」
リニ「本当に……ろくろー、なの?」
と、ここで六郎、サングラスをスチャッと外す。限りなく透き通った瞳。超イケメン。
六郎「はい。六郎にございます」
リニ「でも……あなたは……死……」
六郎「さあ、お嬢様。お乗りくださいませ。決着をつけに……いくのでしょう?」
リニ、頷く。何度も。
六郎「六郎もお供いたします。最後の時まで、ずっと」
微笑む六郎。その笑顔はこの世の人間とは思えない、切ない笑顔。
「どういうことじゃぁああああああい! おらぁあああああ!」
雑誌を手にしたまま、その場で二メートルほどジャンプした。
すぐさま携帯を出し、イイダバシちゃんに怒りの電話をかけた。
「もしもし! イイダバシちゃん? いま見たよ。これどーいうこと? 原稿が違うじゃないの!?」
『はええ?』
「はええじゃないよ! 君に渡した原稿と掲載された原稿が違うっていってんの! これは由々しき事態ですよ! あってはならんことですよ!」
『そんなはずはありませんけどー』
「だって内容が違うじゃねーか! 六郎のままだし、サングラスは外すし! わたしゃ、あんな絵描いてねーぞ!?」
『ええ? ネームでも六郎くん、サングラス外してましたよ?』
「……はへ?」
◇
夕方。仕事場。
アシスタントを前に、私は雑誌をそっと差し出した。
「みんな、冷静に聞いてほしい」私は言った。「われわれの身に超常現象が起きました」
ぽかん、としているアシスタントたちに構わず続けた。
「――とりあえずは掲載誌を読んでみてください。驚くよ」
さんざ脅かされて、おっかなびっくり雑誌を開くアシ諸君。しばらく読んでいたが、わけがわからんという表情で、
「えっと、何がですか?」
「何がじゃないよ。内容が違うだろうが。しかもイイダバシちゃんはネームのまんまだと言い張るんだ。いや、君たちのことは信じているよ。この中に裏切り者がいて、原稿をすり替えたとは思えない。そんなことする意味ないし。となれば、これはもう天狗の仕業としか――」
ざわざわ、とアシ諸君は何か囁き交わしていた。
と、同時にいやーな目つきでこちらを見つめてくる。具体的にいうと、何いってんのこのヒトという目つきだ。
やがて、チーフアシが代表して言った。
「先生。わたしたちも仕事ですから、原稿はちゃんと目を通しているつもりです。……あの、これはわたしたちが徹夜して苦労して完成させた原稿そのままですけど」
「う、嘘だぁ」
「嘘じゃありませんよ。嘘をいったって仕方ないじゃないですか?」
ごもっとも。
じゃあ何か。やっぱりこの原稿で正しいのか。おかしいのは私の方なのか?
そこまで考えて慄然とした。
「先生、疲れているんですよ」と、同情したように、チーフアシ。
以前、敬愛する先輩漫画家からこんな話を聞かされたことがある。
徹夜につぐ徹夜を重ねていると、脳みそから作業用の思考回路が切り離されてしまうことがあるというのだ。
自分では真面目に仕事をしているつもりなのに、全然関係ない絵を描いてたりする。描いた覚えのないコマがあったりする。まるで二重人格になったかのように。
もしかして、私もソレなのだろうか。
もう一つの人格が勝手に原稿を仕上げてしまったのだろうか――
◇
仕事は「大いなる眠り姫」の他にもある。
別の雑誌のカットと、頼まれていた挿絵をいくつか完成させ、今日はアシのみんなを早めに帰した。一人になりたかったからだ。
いつもなら仕事場から自宅までは電車で帰るのだが、今日はタクシーを使った。
「○○××までね」
初老の運転手に自宅の近所を告げ、バックシートにもたれる。
どっと疲労が押し寄せてきた。
頭を空っぽにして、車窓を眺める。
甲州街道まで来たとき、夕方のラッシュに捕まってしまった。イルミネーションを思わせる美しいテールライトの列を見ながら、例の原稿のことを考えた。
もう一人の人格の仕業かは知らないが、ろくな仕事ではない、と思った。
なぜなら、本質的になぜ上田六郎が生きているのか、依然として理由が提示されていないからだ。その辺は誤魔化して、むしろ謎を深めただけである。
まったく――どうせなら解決しておいてくれたらいいのにと内心ぼやきながら、連日のハードワークのせいで窓辺にもたれるうちに眠気がやってきて、いつのまにやら、私はうつらうつらと――
「……くしゅん!」
と、突然のくしゃみの音に、ハッとして体を起こした。
ぶるるっと身震いする。
少し肌寒い。
「――お風邪を召されましたか?」
運転席で、少年の声がした。
って、アレ? なんかおかしいぞ?
私は隣の席を見た。
そこには、リニが座っていた。
絶句する。
これは夢? それとも幻か?
彼女は漫画から抜けて出てきたかのようだった。前髪ぱっつんの黒髪に、無愛想な顔。冷酷そうな瞳。水色のロリータドレスを着て、物憂げに車窓を眺めている。
と、また、
「……っ……くしゅん!」とくしゃみした。
すん、と鼻をすすり、
「そうね。少し風邪気味かもしれない」
と、リニは答えた。
謎の感動が、作者である私を襲う。
もう少し高いかと思っていたが、なるほど、こういう声だったのか。
しかし、悪くない。彼女ならやや低いほうがむしろ合っているかもしれない。
「いけませんね」と運転手。「風邪は怖いですよ。万病のもとといいますから」
それにもう一人――
タクシーの運転手。帽子の下の柔らかい髪、なめらかな首筋。
顔は見えないが、バックミラーに映る瞳は……上田六郎。
二人は私など存在しないかのように、会話を続ける。
「……なにか温かいものが飲みたいわ……」
「どこかに寄りましょうか」
「ううん、いい」
「自販機がありますが」
「いいの。ろくろーの紅茶を一口貰ってもいい?」
「これですか? 僕の飲みかけですよ」
「うん、それでいい」
六郎は自分の飲みかけのペットボトルをちょっと振り返って渡した。
リニはそれを受け取り、躊躇うことなく飲んでしまう。
思わず悲鳴を上げそうになった。
うおおおおおおおお、こいつら、間接キスしおったでぇええええええ!?
えええええ! 嘘ォオオオッ! 間接! キス! しおったでぇえええええええ!
作者、大ショック。
必死に喉の奥で悲鳴を堪えて、成り行きを見守る。
こくこくと喉を鳴らして飲んでいたリニは、ふうとため息をつくと、
「――美味しい」
と言って笑った。
その笑顔を見て、私の胸にちくりとした痛みが走る。
私は。
実は、今まで、ただの一度も、リニが笑っている絵を描いたことがなかった。五年以上の連載で、ただの一度も。無表情か、不快感を示すわずかに歪んだ顔のどちらかしか描いてこなかった。
そしてこの時になってようやく私は気づいた。
ここはコマとコマの狭間だ、と。
漫画本編では、リニはリムジンに乗ると、次のコマでは目的地に着いてしまう。初期の頃は移動中の車内を描写していたが、すぐに省略するようになってしまった。
われわれが漫画を読む時、コマからコマへ目を移すのは一瞬だが、描写されないだけで、本来ならそこには時間が流れているはずだ。
今がまさにそれなのだ。
私が省略した移動中の車内で、二人はいつもこんなやり取りをしていたに違いない。
温かい飲み物を飲んだせいか、リニの目がとろんとなってきた。
六郎はちょっと振り返り、
「着くまで少しお休みになったらどうですか」と言った。
「ううん、平気――」
「まだ眠るのは怖いのですか?」
「そんなことは……ない」ふうと顎を上に向ける。「……じゃあろくろー、いつもの歌って」
「テディ・ベアですか?」
「うん。それ聞いたら……少し眠れそう」
六郎は低く囁くような声で歌いだした。
なんだかどこかで聞いたことがあるような、懐かしい旋律。
ぼくは、きみのテディ・ベア、と六郎は歌った。
時折思い出したように渋滞が進み、すぐ止まり、また進む。
リニは、すう、すうと寝息を立てはじめた。
こうしていると、冷徹な殺人者には見えない。年相応の少女に見える。ほっぺなんかぷにぷにだ。
ちょい、匂いもクンカクンカしておくか、と私が鼻を寄せると、
「リニお嬢様は眠りました?」
と六郎が言った。
ずざっと、リニから飛びのく私。そして周囲を見回す。いやいや、狭い車内、他に人などいない。六郎は私に話しかけてきたのだ。バックミラーの彼の目がこちらを真っ直ぐに見つめていた。
「あ。……まあ、うん。寝た……んじゃないかな」
「そうですか。よかった」
「う、うむ」
気まずい沈黙が流れる。
作者対キャラクター、一対一である。なんだこの状況は。
しかもこの作者、キャラクターを殺して忘れちゃうという鬼畜っぷり。
え、もしかして今から苦情いわれちゃうの? とドキドキしていると、やはり先に口を開いたのは、六郎の方だった。
「ごめんなさい」と彼は言った。「ルール違反なのはわかっているんです」
「え。何が?」私は首を傾げる。
「生き返ったこと――本当は僕はあの時死ぬキャラクターでした。それを因果を曲げてまで再登場しました。先生には申し訳なく思っています」
「んっ」私はオホンオホンと咳払いした。「……まあね。若いんだし、気持ちはわかるけど。やっぱ……困るよね」
「すみません……」
「うん、いいんだいいんだ」と、ここで気づく。「んっ? まさか、今週号の原稿がすり替えられていたのも? まさか、君が……?」
「ごめんなさい」
「こッ……困るよ、チミィー……? そういう勝手なことされちゃ、えぇ?」なぜか謎の社長風に上から目線でモノをいう私。ていうか、何様だ。「なんでこんなことしたの? 返答次第じゃアレだよ? キミ、来週号は鼻メガネの刑だよ? えぇ?」
「果たすべきことをまだ果たしていないから――」
「果たすべき……? 何それ?」
たずねる私。しかし、その質問に六郎は答えなかった。
バックミラー越しに見る少年の瞳は、今にも泣きそうなほど潤んでいた。
「お願いします先生。あと八週間……八週間でいいから僕に命をください。その後でならどんな目にあっても文句いいません。物語にしたがって、僕はちゃんと死にます。だからどうか、わがままを叶えてください」
「いや、そんなこといわれても……」
「先生、どうか僕に命を。どうか――どうか――」
対向車のヘッドライトが光り、視界がホワイトアウトした。
六郎の言葉がかすれるように遠くなっていく……。
「――お客さん! お客さん!」
目が覚めた。
「は……はいぃい?」
「着きましたよ。大丈夫ですか?」
見れば、初老のタクシー運転手が不安そうにこちらを振り返っていた。
よだれが垂れていたのでじゅるりと啜り、代金を払って車を降りる。
遠ざかっていくエンジン音を聞きながら、私はカバンからアイディア帳を出すと、猛烈な勢いでさきほどの不思議な体験や六郎との会話をメモしていった。
悲しい性である。
普通ならば今のは夢かそれとも現実かと迷うところだろうが、漫画家としての本能が、
――いまのはネタに使える!
と告げていたのだ。
あらかたメモし終わって、アイディア帳をぱたんと閉じると、私は夜気に身震いした。
ふと、六郎の言葉が脳内にリピートする。
“あと八週間でいいから僕に命をください”
“どうか僕に命を。どうか――どうか――”
「……なんで八週間? なんかあるの?」
私はつぶやき、首を傾げるのだった。
つづく 2/5