帰
「あ……」
何かを思い出したように、少女は声を上げる。オレは何事かと首を傾げると、彼女は、
「名乗り忘れてたわね」
そういやそうだ。どうして本題に入る前に名乗りもしなかったのだろうか。まあ、オレとしては急な話の流れについていくのが精いっぱいだったというのもあるが。彼女の方は……まあ、セリフから察するに単に忘れていたというだけだろう。抜けているのか、順序を間違えただけなのかは詮索しないでおこう。
視線の先で少女は一つ咳払い。そして、胸を逸らし、つんと顔を上げて挑発的にオレを見る。
「真城夜宵よ。アナタは?」
マシロ・ヤヨイ、ね。音は綺麗だと思うが、流石に漢字はわからない。まあ、呼ぶうえで字面はさして重要でもないか。
しかし、オレは少しばかり悩んだ。いや、漢字のことではなくて、少女ことマシロがオレにも名前を求めたことに対してだ。常識的には名乗るべきなのだろうか? いや、どうだろう。初対面の、しかも少しばかり不躾な頼みをしてくるような相手に。
……まあ、減るもんでもないし、第一、学校でも会うことになる以上名乗らないのもバカバカしい。
見上げた空には弱々しい星の、煌めきと言うには微かな光。
「散秋赤葉だ」
「チアキ……? どういう漢字を書くの? 普通に考えると数字の千に季節の秋だけど、なんかアナタの場合は違う気がする」
勘が鋭いのか、詮索好きなのか。だが、目に浮かんでいるのは好奇心よりも普通に不思議がっているような色。
「散る秋と書いて散秋。名は赤い葉っぱだよ」
「散る秋に、赤い葉……素敵な名前ね」
「…………」
自分でも不自然と思うほど長い沈黙の後、蚊の鳴くような声で、
「……ありがとう」
と言うのが精いっぱいだった。
その様子がおかしかったのか、マシロはくすくすと笑う。しかし、それは嫌味なものではなくて、オレは軽く肩をすくめただけだった。
「あら……」
彼女は腕時計を見やると、
「少し予定よりも遅くなっちゃったわ。申し訳ないけど、今日は帰るわ」
「そうか……」
自分勝手だな、とは思ったが口には出さなかった。
「明日もこの時間?」
確かめるために問う彼女に、オレは頷く。
「じゃあ、明日は一緒に走れるように間に合わせるわ。その後、時間あるかしら?」
「まあ、まだ学校も始まらないしな。多少は」
「ならよかったわ。少し付き合ってもらいたいの。いい?」
「まあ……いいけど」
安堵の表情で「よかった」と言うのを、オレは少し不思議な気持ちで見つめた。
その視線を怪訝に思ったのか、表情を曇らせて首を傾げる。
「何でもない。明日だな……わかったよ」
「そう……」
疑問を感じつつも、彼女は手を振って背中を見せた。でも、一度だけ振り返ると、
「また、明日ね」
そう、念を押すように言う。オレが確かに頷いたのを見た彼女は、自身も頷いてから今度こそ、小走りで去って行った。
取り残された、と感じるのは、オレの勝手な感傷だろうけれど、彼女との出会いは色々な意味で印象的だった。土手から転げ落ちたことも含めて。
一息つくと、歩いて帰路についた。