点睛の黒
電撃小説大賞2次選考落選が確定したので晒します。
評価シートが楽しみ……というのはやはり悔しいですね。
一
本物の墨の香りがした。
嬉しくて、胸いっぱいに吸い込む。
そこでハルカは首を傾げる。
本物の墨の香りってなんだろう。
墨は煤と膠、そして香料からできている。だから、香りが本物かどうかは香料で判断することになるはずだ。となると、香料が天然か合成かが本物か偽物かの判断基準になるだろうか。
ハルカは普段自分が使っている墨を思い浮かべた。
ごくありきたりの墨液だ。高校生が部活で使うのだからあたりまえだろう。そんな墨液に高価な天然香料が使われていることなどあり得まい。たまに母の墨液を使うこともあるが、あれの香料は天然だろうか、それとも合成だろうか。
そもそもなにが本物かもわからないのに、この墨の香りを本物と感じた理由がわからなかった。
窓から入った西日が、お習字の添削に使う朱墨のようなあかね色で教室の壁を照らしていた。
普段はきちんと列をつくっている机と椅子は、あたかも休み時間ででもあるかのように壁際で乱雑に身を寄せあって寛いでいる。拓けた中央の床にはベッドを二つ並べたくらいの広さの黒い毛氈が敷かれていて、その中央には昼寝をするにはちょっと幅も長さも足りないくらいの細長いクリーム色の毛氈が置かれていた。上に広げられている紙の大きさは半切、つまり一・一五尺×四・五尺(三四・八センチメートル×一三六・三センチメートル)。種類はありふれた棉料単宣だろう。子供の頃から書道をやっているハルカにとってはどれも身近に感じられるものだ。
傍らには、硯と、磨られて半分ほどに減っている十丁型の墨が一つ置かれていた。
ああ、そうか、とハルカは得心した。
おそらくこの情景と香りがあわさったことで、本物という感覚を引き起こしているのだろう。
書道をはじめたばかりの子供の頃は、いつだって自分で磨った墨で練習をしたものだ。もちろんすすんでそうしたわけではなく親からやらされたわけだが、そのおかげで書道イコール磨った墨というイメージが頭の中に刷り込まれているのに違いない。中学に入学して部活で書道をやるようになってからは市販の墨液を使ってきた。磨り減った固形墨を見るのはいつ以来だろうか。
ぼんやりと想い出に浸るハルカの目の前で、広げられた紙に文字が描かれていく。字の大きさからして三行書に違いあるまい。行書だ。漢字ばかり。知っている。手本などは置かれていないが、これは間違いなく王義之の集字聖教序の一節。自分もよく練習した。けれど。
巧い。ハルカは息を呑んだ。
柔らかい羊毛の長峰筆に充分バネをきかせて線に強さと鋭さを与えている。字形もいい。さらに、字と字の連綿や余白の生かし方も美しく、センスの良さがうかがわれる。
集字聖教序は、西遊記で有名な三蔵法師が生きていた唐の時代に石碑に刻まれた文章だ。時の皇帝が三蔵の業績をたたえるために書いた文章を、それより三百年も昔に死んでいる書聖・王義之の文字で表すために、いろいろな碑文などから文字を寄せ集めた(偏と旁という組み合わせもある)ものだから、ただ臨書(手本をまねて書くこと)しただけでは作品としては不自然さが出る。目の前で書き上げられている作品は、王義之の技法などを自分のものとした上で、もし王義之がこの文章を書いたらこうなったのではないかという文字を、再現しているのだ。
書き手は、風晴尚都。自分と同じ高校生で、学年はひとつ上の二年生だ。
素足で紙をまたぐように筆を操る姿は実に堂々としていた。袖をまくり上げたワイシャツ姿が凜々しい。のぞいている前腕は太くはないものの、無骨な男の子らしさを充分主張していた。
声をかけたい、もっと間近で筆遣いを見てみたいという気持ちがふつふつとわき上がってくる。
高校生でこれだけ書ける人間はそうはいない。自分と同じように子供の頃から筆に親しんできたはず。きっと話が弾むだろう。なにより、今日はそのためにここに来た。
しかし、ハルカはじっとこらえる。
練習にしろ、作品を仕上げるにしろ、大切なのは集中力だ。邪魔をしてはならない。
少しだけ後ろにさがろうと思った。それが礼儀だ。
教室の中に彼を見つけたとき、すでに書作をはじめていた。忍び足で背後に近づいたが、その筆捌きの見事さについ引きこまれて背に触れることができるほどの距離まで近づいてしまっていた。これでは墨継ぎをするときに視界に入ってしまいかねない。
一歩足を引こうとした瞬間、足の裏にぐにゃりとした手応え(足応え?)を感じる。
「ゔあっ? とっとっ」
がたたたー。
何かを踏んでよろけ、寄せてあった机につっこんでしまったのだ。やってしまった。また。
マズイ、謝らなければと思った瞬間。
「ぬあー、なんてことしやがる!」
「ご、ご、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。うるさかったですよね」
「そーゆー問題じゃねぇ」
平謝りに謝るが、通じなかったようだ。歩み寄ってきた風晴がハルカを容赦なく引っ立てる。
「ほら、見てみろ。演劇部に頼まれて書いてたのに、台無しじゃねえか。どうしてくれるんだ」
連れて行かれたのは、先ほどまでハルカが立っていた場所だ。目の前に、焦がれた作品が横たえられている。
たまらず、毛氈の上に跳びのって作品の前にひざまずく。
蓋聞二儀有像顯覆載以含生
四時無形潛寒暑以――
力強い墨溜まり。勢いを感じる引き締まった点画。途切れそうで途切れない余韻を感じるかすれ。それらが、文字を最も美しくみせる場所で使われている。
見蕩れながら文字を追っていく、と。
「あれ! どうしたんです、これ! ひどい!」
三行書のうち二行目も後半に入ったところで、文字がぐっちゃりと滲んでいる。というより、書いた文字の上から水でもこぼしたように黒々とした水たまりを作っていた。
問いかけながら風晴に視線を向けると同時だった。
ぱふーーん。
気の抜けた音を立ててハルカの顔面に叩きつけられたのは、紙をくしゃくしゃに丸めたものだった。書き損じか、墨の調子をたしかめるために試し書きしたなにかだろう。見事顔のど真ん中に命中したそれは、数瞬ハルカの鼻の型どりをしたあと、ぽとりと床に落ちた。
「自分がやっといてひどいとはどういう了見だ! 事と次第によっちゃぁただじゃすまさんぞ」
「え? わたし?」
たしかに大きな音を立ててしまったが、水となると心当たりがない。
「あの、騒いだのは申し訳なかったと思いますけど、水のことはわたしじゃ……ひょっとして、音に驚いてあなたがこぼしたとか?」
「ふざけんな。やったのはオマエだって言ってんだろ」
風晴はケチャップやマスタードが入っているようなボトルを持ち上げて示してみせる。
底の方でわずかに揺れている透明な液体は、考えるまでもなく水だろう。とはいえ、やはり心当たりはない……な……い?
ふいに蘇る、ぐにゃりとした足の裏の感触。
「あれ? もしかして?」
いや、もしかしなくても、踏んだのはあのボトルだったのだろう。細いボトルの口が、よりにもよって、風晴の作品の上に水鉄砲よろしく水を飛ばしたのだ。。
「どうやら心当たりがあるようだな。さて、説明してもらおうか」
「ごめんなさい。わざとじゃないんです。その、あなたの筆捌き見蕩れて、つい……」
丁寧に頭をさげたのがよかったのだろう。風晴は仕方なさそうに告げた。
「まあ、過ぎたことはいいさ。こっちも女の子に悪いコトしちまったし」
書き損じの紙を顔にぶつけたことを言っているのだろう。言葉遣いはちょっと怖かったが、意外といい人なのかもしれない。
「あれくらい、されても当然です。あんな凄い作品をだめにしちゃったんですから」
「そうか? じゃあ、貸し借りなしってことにしてもらうか。で、あんた誰よ。なんか用?」
「わたし、一年の小番ハルカっていいます。書道愛好会に入れてもらおうと思って来ました」
「小番? どっかで聞いたような気が……」
わずかに視線を中空にさまよわせた後、風晴は今にも笑いだしそうな顔でハルカを指さす。
「おお! あの小番ハルカか。なるほど。どうりで」
「いや……なにがなるほどで、どこがどうりでなんですか」
「謙遜するなよ。伝説のパフォーマンス女子高生書家のくせに」
耐えきれなくなったのか、下品な笑い声を響かせながら無遠慮に肩を叩いてくる風晴に恨めしげな視線をおくるが、腹を抱えるのに忙しいのか気づいてもらえない。
勝手に伝説にするな、と心の中で叫ぶものの、声に出すことは躊躇われた。実はあれを伝説と呼ぶ人間がいることもたしかではあるからだ。
ハルカは、ハルカを『あの小番ハルカ』たらしめている事件をいやいや思い出していた。
二
「ハルカ、肩の力を抜きなさいな。ちょっと緊張しすぎ」
同級生の宿里さやかが左手でぽん、とハルカの背中を優しく叩いてきた。心配しているのだろう。今日、パフォーマンス書道の出場メンバーに選ばれた一年生は、ハルカひとりだ。選ばれなかった先輩たちの視線が、ハルカのプレッシャーを倍増させている。
「う、うん。大丈夫……だと思う。こんな大勢の前で書くなんて、はじめてだけど」
ハルカは深呼吸をしながらあたりを見まわす。
気持ちよく晴れ上がった日曜の市役所前広場には、老若男女、大勢の人たちが詰めかけて人垣を作っていた。今日、ここでパフォーマンス書道の競書会が行われるのだ。パフォーマンス書道は、十人程度でチームを組み、音楽などにあわせて作品を書き上げる競書で、書道用の筆が伝統工芸品となっているこの市が力を入れているイベントだ。客寄せの催し物という性格が強いものの、二ヶ月後に行われる競書会の正式な前哨戦ともなっている。
つめかけた観客のほとんどは今日出場する高校の生徒や父兄であるが、それ以外の人間も少なからず来ているはずだった。各校の書道部の顧問と、審査員をつとめる書家たちが属する書道団体の関係者だ。いわゆるサクラということになるだろう。さて、こういうときに点数を稼ぐようでないと書道展で入賞できないという噂があるが、本当のことなのかデマなのか。
それはともかく、子供の頃から仕上がった作品を見てもらうのが書だと思ってきたハルカにとっては、人前でリアルタイムに書くこと自体が緊張の源であり、苦痛の種でだった。
「ハルカの実力ならなんの問題もないよ。大筆だって、使ったことはあるでしょ?」
さやかは左手でハルカの肩をもみほぐす。
「二、三回遊びで使わせてもらっただけだよ。作品を書いたことはないもの。自信ないな。それに、わたしは代役に過ぎないし。ホントは、さやかが……」
「実力ではハルカが上でしょ? むしろわたしは、これでよかったって思ってる」
さやかが自分の右腕を見る。
そこには、ギプスで固定された、さやかにとってなによりも大切な利き腕があった。ほんの二日ほど前、転んで骨折したのだそうだ。
「わたしはさやかが最初に選ばれたのは当然だと思う。先輩たちだって納得してたじゃない」
「それは建前だって、わかってるでしょ? ハルカじゃなくてわたしが選ばれたのは、鳳書会の人間だから。実力なんて二の次よ」
「もしそうならわたしが代役に選ばれるはずないよ。ほかにも鳳書会の部員、いるし」
「中ノ堂先輩は……ちょっと他の先輩に比べて見劣りするもの。鳳書会の名に傷をつけかねない人を三膳が選ぶはずない」
鳳書会はこのあたりでもっとも大きな書道団体で、ハルカたちの顧問である三膳をはじめとした高校の書道教諭の多くが所属している。そのうえ、高校書道のコンクールで審査員を務める人間も鳳書会の書家が中心となっていた。だから、この地方での高校書道コンクールは、自然と出場者も鳳書会関係の生徒が大半を占めることになる。ほかの書道団体に属する生徒が作品を出品しても結果が出にくいのだから仕方あるまい。
「わたしも、うちの書道部の名に傷をつけないように頑張らないとね。自分のパート、きちんと書き切ってみせるよ」
「ハルカのパートは端っこのいちばん目立たないところでしょう? 本当はメインのパートを受け持つだけの力があるのに」
さやかが少しヒートアップしている。これはよくない。さやかは三膳に対してあまりいい感情を持っていないのだ。部の中で実力相応の扱いをしてもらえないハルカのために、三膳とはなんどか衝突している。今回、最初のメンバーに自分が選ばれた時にも、はっきりとわかるくらいの怒気を孕んだ声で辞退を申し出たくらいだ。
おそらく、さやかの母親が鳳書会の幹部をつとめていることに、負い目を感じているのだろう。母親が三膳にごり押ししたか、三膳が母親に気を遣ったことを疑ったに違いない。気にすることなどないのに、とハルカは思う。さやかが選ばれたのは見あった実力があったからこそだ
「ねえ、さやか。まさか、わざと骨折したんじゃないよね?」
さすがに意表を突いた問いだったのだろう。高ぶった感情が一気に冷えたのか、さやかは苦笑いしながら声のトーンを抑えた。
「馬鹿なこといわないでよ。自分の腕を折ったりするわけないでしょ」
「そっか。そうだよね」
「本番の前に余計な心配させてごめんなさい。ハルカの書、楽しみにしてるよ。頑張って」
「ありがとう。さやかの分まで頑張ってくるよ」
背中を押す力をありがたく感じながら、ハルカは競いの場へと足を踏み出した。
鳳書会の作風は、ひと言で言えば前衛的ということになるだろう。書の芸術性に重点を置き、既成の概念にとらわれない自由な書を追求することを標榜している。そのため、この流派の作品は絵画と見まがうようなものが多い。
ところが、同じ流派でも学生書道となると話が違ってくる。作品発表会などで出品される作品の多くは保守的な楷書や行書、隷書などが多い。自由で型破りな書を創作するにも、基礎ができていなければ話にならないということだ。未熟な高校生ごときが芸術などもってのほか、と言われている気がするのは、きっと自分が当の高校生だからだろう。
ともあれ。要するに、審査員がそういう考えでいるのだから、たとえパフォーマンス書道といえども、良い評価を得たければ書きあがった作品は保守的なものでなければならない
それはそれでいい、とハルカは思う。
小文字を使ったかな文字から楷、行、草、隷、篆の漢字にいたるまで、子供のころから臨書はいやというほどやってきた。その力が生きるはずだ。
「小番さん?」
先輩のひとりから声がかかる。いよいよ本番なのだ。
目の前には縦四メートル、横六メートルのまっさらな紙。左右はポールに巻かれている。これは、できあがった作品を起こして審査員に見せるためだ。
紙の向こうには設置されたテントの下でむつかしそうな顔をしている審査員たちが見えた。
「礼! おねがいします!」
頭を上げると同時に、音楽がはじまった。
会場から、手拍子が加わる。この音楽と手拍子にあわせて書を書き上げるのだ。
構成は、中央に大きく『恩送り』という文字。左右には先輩への感謝の言葉と後輩への叱咤激励などを中字細字で書き連ねるというもの。年配が多い審査員たちには受けが良さそうだ。
紙の上に駆け上がり、筆を洗面器に入った墨に浸す。
まずは細字の部分を皆で代わる代わる書きはじめた。
片手で筆を持ち、もう片手には洗面器に入った墨液を持っているので、かなり重労働だ。
墨液は黒ではなく、橙や緑、青などカラフルなものが主体。このあたりは審査員に支持されにくいかもしれない。けれど、これは一番最後に書く大きな恩送りの文字を正統派の黒で堂々と書き上げるための布石。字のうまさだけではなく、演出もよい評価を引きだすためには重要なのだ。
ハルカは一旦紙の上から引き揚げて、筆を中字用に持ち替える。
まずは半数のメンバーが、中字の部分にとりかかる。それが終わったら、ハルカを含む残りのメンバーの出番だ。
わずかな時間で呼吸を整え、紙に向かおうとした時。
「小番さん、墨の色!」
忘れていた。細字とは違う色の墨で書かねばならなかったのだ。
慌てて洗面器を変え、駆け出す。
しかし、それが悲劇の幕開けだった。
誰かが置いた洗面器に足を取られてつんのめる。
「ゔあっ? とっとっ」
勢いは止まらない。持っていた墨を頭からかぶったあげく、紙からこちらに戻ってくる先輩にぶつかってさらにカラフルな墨にまみれた姿で、紙のど真ん中につっこんでしまったのだ。
胴着や袴が吸い込んでいた墨の量は、メインの言葉『恩送り』という文字を書き込むスペースを塗りつぶすには充分だった。
静まりかえる会場。音楽だけ鳴り続けているのが、妙にシュールだ。
顔を上げると、呆然とこちらを見ている先輩方と三膳が目に入った。
なにをしてもすでに遅いのだが、ハルカはそろりそろりと紙を降りる。
ほどなく、音楽が鳴り止んだ。制限時間にあわせて編集された音楽だった。
つまり、この後はもう作品に手を加えられない。
はたして、紙面にはカラフルで見事な中字細字の墨書と、同じようにとてもカラフルな人型が刻まれた、ひどく前衛的な作品として仕上がったのだった。
三
「いやー、あの時の三膳の顔ったらなかったな。人間呆気にとられるとこんな顔になるって見本に写真撮っときたかったぜ。まあ、さすがに哀れだと思ったけど」
「み、見てたんですか、あれを」
「一応書道関係のイベントだからな」
風晴は書道部に所属せず、ひとりで習字愛好会を作って活動している。おそらく鳳書会の関係者ではないのだろう。
「いや、あのですね、今日は――」
話があってきたのだが。
「審査員も気の毒に思ったんだろうな。アレに意外とまともな点数つけてたし」
ハルカは、涙を流しながら笑い続ける風晴に、床に転がっていた反故紙を頭に叩きつける。
「やかましい! 人のちょっとした失敗をそんなに笑うなんて、失礼でしょ」
「仮にも書家のはしくれなら、人に向かって紙を投げるな! 文房四宝のひとつだぞ」
じゃあ、さっきのあんたはどうなのよ。
「そもそも、こっちは褒めてやってるじゃねーか。鳳書会学生部門の古くさいパフォーマンス書道の殻を破ったんだからな。そうだよ小番、おまえはこの町の保守的なパフォーマンス書道を、筆人間コンテストに変えちまったんだ。凄いヤツだな」
「ふ、ふ、筆人間コンテスト? くっ。くぅ」
いろいろ言いたいことはあるが、ここがこらえどころだ。
「まあ、そのくらいにしておきましょう。失敗から立ち直る人は、失敗しない人と同じくらい立派だって昔から言われてますし」
「おまえが言うのか、それ。つーかもう立ち直ったのか。あれからまだ三日しか経ってないぞ」
「三日悩んで、これから立ち直ろうとしてるんじゃないですか」
「立ち直るんなら、さっさと書道部に行って練習しろよ。こんなとこに来る暇あんのか?」
「書道部は辞めました。習字愛好会に入れてください」
「なぬ?」
風晴は怪訝な顔をして続けた。
「三膳はOKしたのか? まさか辞めさせられたわけじゃないだろ」
「辞めろなんて、誰からも言われてません。自分から退部届を出しました」
「三膳、受けとったのか?」
「――その、いない時を見計らって、職員室の机の上に……」
わかっている。ただ退部するのではなく、愛好会とはいえよその書道サークルに鞍替えするのだ。裏切り行為以外のなにものでもない。けれど、三膳に、先輩方にあれだけ恥をかかせたうえにさやかの信頼を踏みにじってまで部に居続けるなんて、どうしてできるだろう。
「身勝手なヤツだな」
「自分でもそう思います。だから、高校の間は書道展への応募は自粛するつもりですし文化祭もあきらめます。そのかわり、学校の中で書道をする場所を持つことだけ、許してほしいんです」
風晴はなにかを言おうとして躊躇し、苦いものでも噛んだような表情で、頭を掻いた。
「やれやれ。まあいいか。オレがどうこういう話じゃないし。好きにすればいいんじゃないの」
「ありがとうございます!」
「せっかくだから、何か書いてもらうか。筆はオレのを使っていいぞ。人間筆とかやられたら後始末が大変そうだし」
いいかげんそこから離れて欲しいのだが。
「入会試験ですか?」
「別に試験とかじゃねぇよ。上手いのはわかってるし」
この間のパフォーマンスを見ていたのなら、ハルカの力をあるわかっていても不思議ではない。あの失敗までに、多少なりとも字は書いている。
「ええと、じゃあ、お言葉に甘えますね」
ハルカは風晴の失敗作(?)をどかして、新しい半切の紙を下敷きの上に広げた。そして、残り少ない墨の中に筆をどっぷりと浸す。
ぱふーん。
今度は後頭部に丸めた反故紙をぶつけられた。
「何するんですか!」
「いやいやいやいや。そこまで遠慮なしに墨を使おうとされると、反射的に手が出てしまって。それ磨るのに何時間かかったと思ってやがるんですかね」
「そ、それはそうですけど……」
たまゆら、思考を巡らす。
「風晴先輩。細い羊毛筆あります? 穂の長いの。それと、新しい硯。小さいのでいいです」
「ほらよ。これでいいだろ」
言った瞬間、手渡された。試験ではないと言っていたが、結局試されたような気がする。書道は上手い下手だけではない。知識も必要なのだ。
「あと、これもか? 墨はそれを磨りなおせばいいだろ」
さっき踏んづけた水の容器だ。すべてお見通しらしい。
はるかは残っていた墨を少しだけ新しい硯に移し、それをさらに濃くすべく磨りはじめる。量はそんなに必要ないから硯の丘の部分に載る程度でいい。
ハルカは、きめ細やかなに磨りあがるよう、ゆっくりじっくりと固形墨を動かしはじめた。
やがて、墨がある程度の濃さまで磨り上がると、水を加えて薄めはじめる。
淡墨だ。
はじめから薄く磨るより、この方がにじみも綺麗で立体感が出る。
さらに、まだ乾いたままの筆に、ボトルから水を滲ませた。
ちらりと、風晴を見やる。
ニヤニヤと笑っていた。予想どおりなのだろう。構わない。奇をてらうつもりなどない。
水を含んだ筆の形を整え、濃度を調整した墨をつけた。そして、そのまま筆を逆さにする。
黒い墨がじわりじわりと、水を含んだ筆に滲んでいく。この、ほんのわずかな時間が肝だ。どのくらい滲ませるかは、書き手の経験値とセンス次第ということになるだろう。
頃合いと思ったところで、転がっていた反故紙に、ちょん、と筆を触れさせてみる。
広がっていく滲み。いい具合だ。
間、髪を入れず、下敷きの上でじっと待っていた紙に、筆をおろした。
書く文字は決めている。もちろん、構成も。
いかなる書でもそうではあるのだが、書の出来は、書きはじめる前にほぼ決まってしまう。
紙質、墨の種類と濃度、筆の材質。それらを生かす筆遣い。
運筆によってどんな線が出てどんな滲みが出るのかを予測する力は、積み重ねられた経験値の高さに比例する。むろん、線質や滲みは偶然の部分はある。けれど、偶然に頼り切った書は、書家の書とは言えないのだ。調味料を使いこなせない人間を料理人とは呼べないように。
ハルカは思うがままに筆を操る。自分は墨も筆も使いこなせるのだから。
淡墨は、経験値の蓄積具合が特にはっきりと顕れるように思う。運筆に澱みがあれば、書の流れも滞る。流れが滞れば、不必要な墨溜まりや滲みがて、作品を台無しにしてしまう。だから、迷いは禁物。自分を信じて書けばいい。頭の中では出来上がっている書を、紙の上でなぞっているようなものだ。造作ない。
勢いよく書き上げて、筆を置く。
いちど出来をたしかめてから脇によけ、風晴に披露する。
「どうですか?」
風晴は吹き出した。嘲笑の笑いではない。心から楽しんでいるようだった。
「いいね。さすがに巧い。乾いたら滲みがもっと綺麗に見えるだろうな」
「試験は合格ですか?」
「試験じゃないって言ったろ。放課後は大抵この教室だ。書きたくなったら来ればいいさ」
「できれば、作品に対する詳細な評価が欲しいですね」
試験ではないとしても、ちょっぴり意地悪な腕試しを仕掛けられたのだ。それくらいは要求してもいいだろう。
「言うことなしだよ。字の形も線も、書道展なら入賞間違いなしだろ」
言いながら、風晴は肩をすくめる。
「もっとも、こんな文章じゃ応募できないけどな」
その言を受け、ハルカは書いた文字を読み上げる。
習字愛好会への入会を申し込みます
なお筆人間呼ばわりは禁止のこと
即興で書いたにしては、いろいろな意味で上出来だろうと思った。
四
部と愛好会の違いは、予算のあるなしだけではない。
学校によって違いはあるだろうが、うちの場合はまず部室。
道具を置いておける場所は、自分の教室のロッカーだけということになるし、練習する場所は空き教室だ。もちろん職員室に行ってひと言断りを入れてから使わなくてはならない。もうひとつないものを挙げるなら、顧問か。書道教諭は三膳しかいないからその方が好都合だ。
ハルカは硯や筆などの入った重い手提げ鞄と下敷きの入ったキャリーバッグを肩にかけ、急ぎ足で廊下を駆け回っていた。
放課後になっていつもの教室に行ったところ、使用中だったのだ。文化祭にそのクラスで何か出し物を計画しているらしく、打ち合わせをしていたのだ。文化祭まで、もう間もない。
もちろん中に風晴の姿はなかった。
となりの教室にでもいるのかと探してみたが、見あたらない。一応風晴のクラスメイトに行方を確認してみると、保健室に行ったみたいだという証言を得ることができたのでその情報を頼りにうろうろと探し回っているという状況だった。とくに怪我をしたとか具合が悪いというわけでもないらしいが、保健室になにをしに行ったものやら。
とにもかくにも保健室に足を運ぶ。
すると、保健室のドアに造像記(昔の中国、北魏の頃、磨崖仏に刻まれた書)風の力強い書が貼りつけてあった。
使用中
立入禁止
たかだか入室を禁ずるための張り紙にしては堂々としすぎている筆蹟に、思わず見入る。
中で何をしているのだろう。
保健室の入り口に近づくと、中から男どおしぼそぼそと話している声が聞こえてきた。
「おい、逃げるなよ」
風晴の声だ。
「だって、くすぐったいんだよ」
「我慢しろ。オマエがここに欲しいって言ったんじゃねぇか」
「ああ、そうだったな。でも、どうせならもっと力強く頼む」
「そうか、じゃ、動くなよ? 力は抜いていい」
「うん……あふっ」
考える前に、手が動いた。
入り口の引き戸を力任せに開いて、中に飛び込む。
「何をやってるんですか!」
そうだ。神聖な学校の中で何かみだらっぽいことが行われていることが許せなかったのだ。決して興味本位で覗いてみたかったわけではない。
「お、おい。誰か来たみたいだぞ?」
「ちゃんと張り紙しといたんだけどな。つーか、小番の声だったような気がするが。あいつがこんなとこ見たら、失神するかもしれん。とりあえず服を着ろ」
声は仕切り用のカーテンを閉めたベッドの上からだった。
どこかで、ぷちんと何かが切れる音がした。
「は、は、破廉恥です! せ、せ、先生を呼んで――」
きびすを返して駆け出そうとした瞬間、肩にかけていたキャリーバッグがドアと壁に引っかかり、反動で部屋の中に押し戻される。
くるりと身体を反転させてバランスを取ろうとするが、不運なことに、手提げ鞄が足もとに転がっていた。
「ゔあっ? とっとっ」
たたらを踏んで、カーテンの隙間から破廉恥な行為が行われているらしいベッドにダイブする。
目に飛び込んできたのは、パンツひとつでベッドの上に立っている男子生徒……。
と、その身体に筆文字を書き込んでいたらしい風晴の姿だった。風晴の服装に乱れはない。
「ええと?」
風晴の生温かい視線が突き刺さる。
「こんにちは、風晴先輩。今日の活動は、ここでいいんですかね?」
「……ひとまずグラウンド十周くらい走って煩悩を振り払ってこい」
こういうときは抑揚のない声のほうが怖いんだな、と思った。
「耳なし芳一、ですか」
「ゲネプロだそうだ」
「はあ」
ハルカは床に正座をしたまま相づちを打つ。
風晴はベッドの上で偉そうにあぐらをかいている。
ゲネプロとは演劇用語で、本番と同じ衣装を着て行うリハーサルのことを言うのだそうだ。今年の文化祭、演劇部では耳なし芳一を上演するのだそうだが、今日は芳一役の人物にも本番と同じように、体中に文字を書いて稽古をするのだそうだ。着物で隠れる身体には汗で落ちにくい塗料で先に書いておき、顔だけは必要な場面になったところで書き込むのだという。
習字愛好会はこうした仕事をよく引き受ける。
入会してまだ一週間だが、ハルカも茶道部が茶室に掛ける軸を書かされている。涼しげな書を依頼されたので、淡墨で余白を充分に生かした書を納品したのだが、思った以上に喜ばれたことが嬉しかった。なんでも、特別なお客さんもを招くのに使うのだそうだ。
それはともかく。芳一役の演劇部員はすでに稽古に戻ったため、保健室の中は二人きりだった。
「最初は書道部に頼んだんだそうだが、三膳が突っぱねたそうだ。オレも野郎の裸体に字なんて書きたくないんだが、演劇部の副部長は中学からの知りあいだから断り切れなくてな」
「そんなの、自分たちで書けばいいんじゃないですかね」
「あんまり下手くそだとリアリティが出ないんだと。ま、素人がやるとインチキな字のくずし方になったりするからな」
「字のくずし方ですかー。とりあえずわたしは足をくずしたいんですけど」
正座をさせられてから、そろそろ三十分になるだろうか。堅い床の上なので、さすがにこたえる。というか、これは体罰だろう。しかるべき機関に訴えたいところだ。
「うむ。そろそろ許してやるか」
「オッス。ありがとうございます!」
ハルカは勢いよく立ち上がる……つもりだったのだが、足がしびれてよろけてしまう。
「ゔあっ? とっとっ」
どてー、と倒れ込んだのは、こともあろうにベッドの上にいる風晴の腕の中だった。
「す、す、すみません。その、足が……」
「なにしやがる、つーか、オレもまだ心の準備が……」
「いやそうじゃありませんから」
「ここに尚都さんがいると伺ってきたのですが」
「この体勢だとちょっと痛いぞ」
「待ってください、ちょっと動きますから……ん?」
今、自分と風晴以外の声がしなかったか、とハルカは訝しむ。すると。
「何をやってるんですか!」
ひどく険のある声が聞こえた。聞き覚えのある声だった。
「さやか? どうしてこんなところに?」
「え? ハルカ? ハルカこそどうして……具合でも……あれ? 尚都……さん?」
静けさが訪れたのも一瞬。すぐにさやかの金切り声が響き渡った。
「は、は、破廉恥です! せ、せ、先生を呼んで――」
ハルカは風晴と顔を見あわせた。
二人してベッドの上で跳び起きる。やることは一つだ。
誤解を解くため、というか変な噂が広まるのを防ぐため、ハルカは風晴と共に、どこかで聞いたことのあるようなセリフを叫んでいるさやかに駆けよった。
「まあ、それはいいとしましょう。ハルカの足がもつれたことは信じます」
ベッドの上で正座をしているさやかが重々しく言い放った。あいかわらずのギプスが痛々しい。
ハルカと風晴は床で正座をさせられていた。
なぜだろう。喋った言葉は同じなのに、さやかと自分ではまるで立場が変わっている。
「でもハルカ、あなた、本当に書道部を辞めるつもりなの?」
「あんな失敗をして、わたしもう書道部にいられないよ」
「三膳も先輩方も、怒ってなんかいないのに。みんな心配してるよ?」
「だから戻れないんだよ。叱ってくれてよかったのに。罰を与えてくれたらよかったのに。でも、そうしてくれなかった。だからわたし、自分から辞めたの」
「戻る気はないってこと?」
「うん。それに、わたし習字愛好会に入っちゃったし」
そこで、今まで黙っていた風晴が口をはさんだ。
「別に両方に属したらいいんじゃね? 所詮こっちはただの愛好会だし。書道部にも所属してた方が小番のためだと思うぞ」
なんてことを言うのだろう。味方をしてくれるかと思ったのに。
「尚都さん、貴方がそんなこと言うとは思いませんでした。三膳と喧嘩して習字愛好会をつくったんでしょう? せっかく仲間ができたのに、ハルカが両方に属しても構わないんですか?」
「たしかに三膳とは一悶着あったけど、それは小番とは関係ないからなぁ。なんだかんだ言っても、公式な場所に作品を発表する機会はあったほうがいいと思うんだよ」
初耳だった。
たしかに部活があるのに非公式な愛好会で活動するなら、何か理由があってしかるべきだろう。所属している流派が違うとかそんな理由を考えていたのだが、もっと根が深いことがあるようだ。それにしても、さやかはその理由を知っているようだが、どういうことだろう。そもそも、『尚都さん』と親しげに名前を呼んでいる。少なくとも、昨日今日知り合ったという感じではない。
「あの、さやかと風晴先輩ってどんな関係?」
「関係って、変な言い方しないでよ。尚都さんのお父さんは鳳書会の役員をしている人で、わたしのお師匠さんなの。その縁で尚都さんと一緒に練習したこともあるから知ってるだけ」
「え、風晴先輩って、鳳書会の人だったんだ。三膳と喧嘩したって言ってたけど、なんでまた」
風晴が、ちらりとさやかを見やった。が、さやかも風晴先輩を見ていたことに気づくと、すぐに視線をそらす。何か意味ありげだ。
「墨だよ」
「墨?」
「オレは、書道ってのは自分で磨った墨で書くのが基本だと思ってる。百歩譲って墨液は許すとしても、赤だの青だの黄色だの、そんなの墨じゃねぇだろ。絵の具みたいなうるさい色を使って書いた字を、書と呼びたくないね。そんなのを使ってるパフォーマンス書道に出場させられそうになったから、三膳に言ってやったんだよ。オレは書道をやってるんであって、書道もどきをやるつもりはない。あんたと違って組織の上役にこびを売るために書いてるんじゃねぇってな」
パフォーマンス書道を嫌って書道部を辞めたのなら、自分を習字愛好会に入れてくれたのは、パフォーマンス書道で失敗をして三膳に恥をかかせたことを気に入ってのことなのだろうか。
ハルカがネガティブな思いを巡らしていると、さやかがため息と共に胸の奥底から生まれたであろう言葉を吐き出す。
「嘘ばっかり」
「何が嘘なんだよ。三膳にはたしかにそう言ってやったぜ?」
「言った言葉が嘘だったって言ってるんです」
風晴が押し黙った。
「本物の墨に顔料を混ぜた色墨があることを教えてくれたのは尚都さんでしょう? それに、パフォーマンス書道の映画にも連れて行ってくれたじゃないですか」
むう。それって、一緒に練習しただけの関係じゃないじゃないですか。
なおも風晴は口を閉ざしたままだ。
「尚都さん、あなたは一年生でメンバーに選ばれたことが嫌だったんです。父親の威光が影響したかに思えて。でも、それを口にしたら、ほかの生徒たちの三膳への信頼が失われる可能性がある。だから、みんなから嫌われるようなことを言ったんです。わたしには……わかります」
なるほど。ハルカは得心する。
三膳の体面を気遣って自分が悪者になったわけだ。ナルシシズム的な優しさってかんじか。
「それとも尚都さん、先輩方からそのことでいじめでも受けましたか?」
なかなか意地悪な質問だ。これは答えざるを得まい。答えなければいじめがあったと肯定することになる。
「ねぇよ」
空耳かと思えるような、小さな声だった。
「聞こえませんよ、尚都さん。もっとはっきり言ってください」
さやかは、厳しい。風晴のことでもあるし、自分に関係することでもあるからだろう。
「ねぇ! いじめなんてなかったよ! オレがいじけてただけだ。自分に自信がなくて、実力で選ばれたって信じられなかったのさ」
どうだろう。本当にいじめがなかったのだろうか。
ハルカは自分が選ばれたときのことを思い出す。
いじめは、なかった。
けれど、脳裏に浮かぶ、メンバー選考から漏れた先輩方の視線。もちろん敵視するような視線ではなかった。けれど、特別な思いは感じられた。
人は、こういう時、部外者に対して意外と優しい。コネがない以上、実力で選ばれたのだろうと自分を納得させるしかないからだ。本当に厳しいのは、仲間の中の、何らかのコネを持っている人間に対してだ。事実がどうあれ、自分が選ばれなかった悔しさを、ぶつける的を持っているのだから。風晴に対する視線は、ハルカに向けられて視線とはまた違っていた可能性もある。
とはいえ、風晴がなかったと言っている以上、いじめはなかった。そういうことだ。
さやかを見やった。
ギプスに固定された、右腕。
しかし、即座に否定される。
「ハルカ、考えすぎ! そんなのあり得るはずないでしょ?」
さやかはしようがないな、という顔で笑っていた。
「そ、そうかな」
「そりゃそうだろ。腕一本折るなんて大げさなマネ、必要ねぇだろうし」
「うん。指一本で充分だよね」
何気に怖いな、この二人。
ちょっとひいていると、突如風晴が聞いてくる。
「で、小番、どうすんの?」
「どうって、なにがですか?」
「書道部だよ。戻んのかって聞いてんだよ」
「なんでそういう話になるんです?」
「さっきも言ったけど、部に属してる方が小番のためだ。高校三年間、きちんとした作品発表の場を持たないなんて、もったいない」
そう言われても、退部届まで出しておいて戻る気になんてなれない。
「じゃぁ、習字愛好会も、人数集めて部に昇格しましょうよ。そうすれば、予算もついて書道展に作品も出品できて、すべて解決しますし」
むろん冗談で言っているのだが、風晴はまじめにその話に乗ってくる。
「顧問はどうすんだよ。まさか三膳に頼むのか?」
「だれか、名前だけ貸してくれる先生いませんかね」
「はいはい、そのくらいにしてください二人とも。活動内容が同じ部活があるのに、もうひとつ新設するなんて許してもらえるはずありません。だいたい、もったいないのは尚都さんだって一緒でしょ? 書道が好きで好きでたまらないくせに。ハルカも、尚都さんも戻ればいいんです」
「オレはこっちの方が性にあってるんだよ。書道展だって、一般個人の部で出品するし。小番の場合はそれも自粛するって言ってんのが問題なんだ」
たしかに、そこは風晴と事情が異なる点だ。三膳や先輩方に恥をかかせて出奔したあげく、書道展でそれなりの成績など上げたらさらに恥の上乗せをさせることになる。それがハルカの考えだから、書道展などに出品する気などないのだ。
風晴とさやかが、じっとこちらを見つめてくる。
それがどうにも居心地悪くて、話題をそらそうと思った。
「ところでさやか、風晴先輩に用事があってきたんじゃないの?」
聞いたとたん、さやかがあっと声を漏らした。
「そうです。大切な用事が――」
ひとまず話題そらしには成功したようだったのだが。
五
学校には、できれば入りたくない部屋というものがある。
生徒だろうと、たとえ教師だろうとも、だ。
そこには整理整頓された本棚。重厚な机。ふかふかソファーの応接セット。大きな窓からは、きっと陽光がさんさんと差し込んでいることだろう。もしかしなくても、テレビやエアコンなんかもあるかもしれない。物理的なことだけ考えればそこは天国と言える。けれど。
そこに入るということは、ある人物からありがたいお言葉をちょうだいするのと同義だ。
すなわち、校長からのお説教。
もちろん、お褒めの言葉をいただくというシチュエーションもあり得る。今日ハルカがここを訪ねたのも、おそらくはそっちの理由だ。それでも校長室に入りたくなるわけではないが。
実は、さやかの大切な用事の相手とは、風晴ではなくハルカだったのだ。
この町で有名なお茶の先生が茶道部の指導に来たのだが、茶室(っぽく改造している部室)の床の間に飾られていた書を見ていたく気に入ったのだそうだ。茶道部員から習字愛好会に書いてもらった作品だと説明を受けたものの、勘違いをして書道部を訪ねてしまったらしい。
勘違いと言えば、さやかも同じだ。話を聞いたさやかはが、習字愛好会と聞いて風晴が書いたものと思ったのだそうだ。まあ当然と言えるだろう。もともと習字愛好会は風晴一人でやっていたものだし、ハルカが入会したことを知っているのは風晴と茶道部くらいのものだろうから。
それはそうと、いつまでもドアの前で入室を躊躇っていても仕方がない。というより、中で件のお茶の先生が待っているのだから、はやく入らなくてはせっかくの褒めてもらえる機会をお説教タイムに変えてしまいかねないだろう。
躊躇う心を押さえ込み、ハルカは壁のようにも思える重厚なドアを、静かに叩いた。
「入りなさい」
帰ってきた声は、きっと中にいるだろうと予想していた人物の声だった。
「失礼します」
ドアを開けて、一礼した。
顔を上げると、概ね想像したような家具の配置だった。
大きな窓の前には執務机。左右の壁際には小難しそうな分厚い本ばかりが並んだ大きな本棚に、むさ苦しいおっさん(歴代校長?)の写真。もちろんはエアコンやテレビもある。
そして部屋の中央の応接セット。
ハルカから見て右側には一人掛けのソファーが二脚あり、そのうちの一脚に和服姿の壮年の男性が座っている。お茶の先生だろう。
真ん中のローテーブルにはハルカが書いた軸が載っており、それをはさんだ向かい側には、三人掛けのソファー。こちらから見て奥には恰幅のいい背広姿の、やはり壮年の男性が座っていた。この部屋の主、校長先生であらせられるに違いない。
その校長先生と一人分スペースを開けて出口に一番近い席に座っているのは、先ほど入りなさいと声をかけてきたよく知っている中年の女性教師。書道部顧問三膳礼子だ。
三膳は入ってきたのが風晴ではなくハルカだったことに驚いてはいないようだった。作品を見て気づいていたのだろう。落款を入れているし。
「あの、御用ということで参上しました」
うなずいた三膳が立ちあがり、和服姿の男性にハルカを示してみせる。
「この作品を書いた、小番です」
次いで三膳はハルカに向きなおる。
「こちらは時々うちの茶道部を指導してくださっている茶人の高僧先生。あなたににお話しがあるそうよ。まずは座りなさい」
三膳は自分と校長の間を指さす。
それは少し困る。できれば手短に用事を済ませて逃げ出したい(もちろん三膳から)のだから。
「文化祭前で忙しい時に、すまないね」
高僧が柔和な声で挨拶をしてくる。生涯怒ることなどないのではないかと思えるような優しい声だった。これなら用件だけさっさと終わらせて帰ったとしても気を悪くしたりしないだろう。
しかもいいことを教えてくれた。文化祭前なので、自分は忙しいのだ。世間的には。
「あの、わたしは立ったままで結構です」
「ええと、小番君だったかな。そうかしこまらずに、まずは座りなさい。高僧先生が君の書をたいそう気に入られてね。お話しがあるんだそうだ」
こちらの事情を知っているのかいないのか、両手を広げて通せんぼするかのごとく言葉で逃げ道をふさいできたのは校長だった。さらに三膳がバックアップで隙間をなくす。
「そうですよ、小番さん。立ったままでは話がしづらいでしょう? それに、わたしもこの後あなたと話したいことがあるし」
どうやら逃がしてはもらえないらしい。
やむなくソファーに向かうが、チャンスはいつ訪れるかわからないものだ。常に逃げ出せる位置にいるべきだろう。ハルカは三膳を押しのけて出口に一番近い端っこにどっかと腰を下ろす。
三膳はつかの間困ったような顔をしていたが、あきらめたようにハルカと校長にはさまれた真ん中の席に座った。
「ほうほう、奥ゆかしい女の子だ。今日の主役だというのにねぇ」
高僧が穏やかに笑った。
「この作品をね、わたしに譲って欲しいんですよ」
ひとしきり茶室に飾る軸だとか花だとかを談義したあと、高僧が切りだした。
まあ、気に入ったと言うことなのだから驚くことでもない。
「ええどうぞ持ってってください」
即答したところ、沈黙が訪れた。用事が終わったようだが、もう帰っていいのだろうか。
「小番君、これはとても光栄なことなのだよ? わかっているかい?」
沈黙を破ったのは校長だった。三膳もそれに続く。
「小番さん。作品が欲しいということは、先生の茶室に使ってくださるということですよ。自分から売り込んでも断られる書家も多いというのに、わずか高校一年生の作品を飾ってもらえるなんて、前代未聞の快挙なの。もっと喜んでいいのよ?」
どうしよう。今さらバンザイと叫んでも意味はないだろうし。
「はいとても嬉しいのでぜひ持ってってください」
「持ってってはないでしょう。小番さん」
ちょっと棒だったか。
しかし、高僧は気にした様子もなく問いかけてきた。
「おいくらで譲ってもらえるでしょう?」
「へ?」
「とんでもない! お代なんてちょうだいできません!」
驚くハルカのとなりで、三膳が金切り声を上げた。
お代がいらないのなら、「持ってって」でもいいと思うのだが。
「いやいや。さすが三膳先生の生徒さんの作品です。実に見事だ。ぜひ、次の茶会に使いたい」
ぴくりと、三膳の肩が跳ねた。
ハルカもすぐに気づく。
自分は、すでに書道部の人間ではない。
これは、あの筆人間コンテスト……もとい、パフォーマンス書道の失敗に続いて三膳の顔を潰していることになるまいか。メンバーに選んでくれた三膳への恩を踏みにじった上に、後足で砂をかけるようなまねをしたことにならないだろうか。
おそるおそる、三膳の顔色を伺う。
「小番はこの学校に入った時点で、すでに充分な実力を持っていました。わたしが指導できることなど、ほとんどありません。あとは、多くの人に実力を認めてもらう機会を持てるかどうかです。どうか、先生の茶会で使ってやってください。それが、なによりの報酬になると思います」
三膳はなぜだか嬉しそうに笑っていた。
「小番さん、文化祭も近いというのに、どうして部活に出ないの?」
怒るわけでもなく、三膳が問いかけてくる。
辞めたのだから、どうしてもこうしてもないだろうに。
校長室に残っているのは、ハルカと三膳の二人だけだった。
応接セットのソファーに、向かいあって座っている。
答えに窮していると、三膳はハルカの急所中の急所を突いくような言葉を発した。
「文化祭ではパフォーマンス書道も披露するするでしょ? あれはリズムにのって書くのだから、みんなの呼吸をあわせる必要もある。何回かはメンバーが揃って練習しないと」
「どうして部員でもないわたしにそんなこと言うんです? あんな失敗をしたのに、わたし、部に戻れません! そりゃ、さやかは骨折で間にあわないかもしれないですけど、中ノ堂先輩がいるじゃないですか。わたしなんかいなくたって……わたしなんかいない方が、書道部にとってはいいと思うんです。わたし……鳳書会じゃないし」
「なんてこと言うの、小番さん!」
はじめて、三膳の声に怒気が乗った。
「わたしは鳳書会以外の生徒だって、差別したりしません! みんな大切な生徒です!」
あまりの剣幕に、思わずソファーから腰を浮かせた。
「あ、あの……差別とか……そういう意味じゃ……」
「ではどんな意味です!」
書道での厳しい指導は見てきたが、怒った三膳というのははじめてだった。言葉につまる。
「どんな意味だか聞いているんです!」
限界だった。
「差別なんかされていません! だからつらいんじゃないですか! みんな私を責めたいはずなのに……中ノ堂先輩を選んでおけばよかったって思ってるはずなのに!」
言うだけ言って、ドアに向かって駆ける。
「小番さん!」
呼びかけに答えたつもりではないが、一度だけ振り向く。
「みんな……ううん、違う。先生も正直に言ってくれればいいのに。その方がずっと楽なのに」
「正直って、どういうことです」
「鳳書会以外から選んだメンバーがあんな失敗をしたら、鳳書会の偉い人たちに顔向けできないんでしょう? もう、先生がわたしのためにそんな思いをする必要なんて……」
聞いていた三膳の顔から、するすると怒りの色がひいていくのがわかった。
いろいろ吐き出して軽くなったはずの身体に重さを感じながら、ハルカは校長室を後にした。
六
放課後、いつものように風晴の教室に行くと、そこにいたのは当の風晴ではなく、ハルカがメンバーから蹴落とした先輩、中ノ堂だった。
ここにいたことは偶然ではあるまい。ハルカに用事があってきたのだ。ハルカが習字愛好会にいることはさやかから聞いているはずだし、昨日の三膳との会話のことも知っているだろう。実は昨日、さやかは校長室のドアの外側で聞き耳を立てていたのだ。
「ご無沙汰しています、中ノ堂先輩。その節は、ご迷惑をおかけしました」
頭をさげると、中ノ堂はゆっくりとうなずいた。
「そうだね。でも、迷惑をかけているのは今だと思うよ」
「すみません」
それ以外、返す言葉がない。
「部においで? みんな待ってるよ?」
「わたし、退部届を出しました。もう書道部員じゃありません」
「そんな話は聞いてないけどな」
「先輩は練習に行かないんですか。文化祭のパフォーマンスのメンバー、先輩なんでしょ」
「うん。昨日、三膳先生に言われた」
どうやら三膳はあきらめてくれたらしい、と思ったのだが。
「ずいぶん迷ってるかんじだったよ、三膳先生。まだ小番さんに未練たらたらだと思う」
「どうしてそんなこと言うんです? まかり間違ってわたしがメンバーに戻ったら、先輩は控えになっちゃうんですよ」
自分はなんて意地悪なんだろう。いや、もともとそういう人間なんだろう、とハルカは思った。そして、もっと意地悪な言葉を吐いてやろう、とも。
しかし、中ノ堂の邪気のない笑顔がハルカから悪言を奪った。
「そうなって欲しいから言ってるんじゃない。だって、わたし、あなたの書が好きなの。上手いし、余白の白さを生かしている感じが」
「余白、ですか?」
「うん。字が主張しすぎないの。控えめなのね。紙の中で、調和がとれてるの」
「よく……わかりません。そんなのみんなやってると思います」
「とくにセンスがあるんだと思うよ? 茶道の先生に認められたんでしょう?」
「茶道の先生は、書の先生じゃないですよ」
「そうね。時に小番さん、高僧先生に認められた書、どんなことを考えながら書いたの?」
なにが言いたいのだろう。
「どんなことって……涼しげな書って依頼だったし、茶室の床の間にかけるって話だったから……一輪挿しの花なんかも飾られてるだろうし、お茶碗は夏向けのヤツだろうなって……」
「そう! そうだよ、小番さん。あなたは涼しげな書って言われだけで、そんなことまで考えて調和がとれるような作品を書いてるの。凄いことだと思わない? あなたはそれができる子よ」
あたりまえのことのような気もするが、言われてみるとたしかに凄いことのように思える。
「きっと、書道部のみんなとも、調和がとれるよ?」
句切るように発せられた言葉が、ハルカの心を縛っているなにかに刃先を食い込ませてくる。
「ダメ! ダメです! わたし、戻れません! パフォーマンスのメンバーは先輩がふさわしいです。三膳もみんなも、先輩だってそう思ってるはずです。それが、わたしの感じる調和です」
「三膳先生ね、とっても悩んでたんだよ? 最初から小番さんをメンバーに入れたかったから。でも、最初は鳳書会のお偉いさんに気兼ねして宿里さんを選んでしまった。それで自分を責めていたのに、今度は宿里さんが骨折してまた選択を迫られた。わたしか小番さんかという選択を」
「それで、わたしを選んだんですか」
「そうだよ」
違う、と思った。
「先輩。もしかして、選ばれたけど、悩んでいる三膳を見て辞退したんじゃないですか」
先輩はクスクスと、さも可笑しそうに笑った。
「ちょっと違う。選ばれる、前」
「ごめんなさい……わたし――」
「あ、それとね。宿里さんのお母様からも、抗議があったみたいね」
「さやかのお母さんが? なんで?」
「娘より上手い人がいるのに、なんで娘を選んだんだって言われたみたい。自分が圧力かけたように思われるのは嫌だったのかもね。面白いな」
「結局、誰から強制されたりするわけじゃないのに、三膳は勝手な思い込みで自分を追い込んでただけってことですか?」
「あなたもね、小番さん」
「わ、わたし?」
「そう。そして、風晴君も」
中ノ堂の視線が、どこか遠くに向けられている。
風晴の顔が思い浮かんだ。
風晴は、一年生の時自分がパフォーマンス書道のメンバーに選ばれたことが嫌で、書道部を退部している。
「書道部に戻ってくれるよね?」
「で……も」
「文化祭でのパフォーマンス、出てくれるよね?」
もう、言葉を発する気力はなかった。
「みんな待ってるよ」
苦い思いを噛みしめていたハルカにとって、甘すぎる言葉だった。
七
「もう少し、待ってください」
中ノ堂にそう答たまま、文化祭まで来てしまった。
甘い言葉を受け入れなかったため、苦い味が口の中にずっと残ったままだ。
みんな待ってる、その言葉が頭の中で心地よくリフレーンしている。
本当に、待っているのだろうか。
よしんば中ノ堂が自分を待っていてくれるのだとしても、ほかのみんなも待っていてくれるとどうして言えるのだろう。中ノ堂の気持ちは中ノ堂のものだから、その気持ちは本物だ。けれど、ほかのみんなの気持ちを、中ノ堂が知り得るはずなどない。
三膳や風晴やハルカがしていたように、中ノ堂の勝手な思い込みをしているだけではないのか。
その思考を邪魔するように、歓声が響き渡った。
校舎内では様々な出し物が行われている。
習字愛好会は文化祭には参加しないため、展示などはない。
ハルカは風晴と共に、生徒会室にいた。
することがないということもあるが、案内板などに貼る掲示物を書くことに協力しているのだ。プリンターもあるのだが、紙のサイズによっては印刷できないものもある。それに、和紙に書かれたお知らせなどは意外と好評だったりするのだ。
「小番ー。墨が足りねー。もっと磨れー」
催促の声は、もちろん風晴だ。床に敷いた毛氈の上で、筆を手に仁王立ちしている。
「勘弁してくださいよー。朝から何時間磨ってると思ってるんですか。それに、三日前から溜めといた墨、まだたくさんあるじゃないですか。こんなに、なんに使うつもりなんです?」
傍らのペットボトルに入った墨を見やる。五百ミリリットルのペットボトル二本だから、普通に使うのなら一週間でも使い切れまい。
「しょうがねぇんだよ。結構大きなの書くことになるからな」
「なんか嫌がらせしてません? 造像記とか、顔真卿とか、墨を食う書体ばっかり書いてるじゃないですか」
「ばかいえ。俺は嫌がらせとかするような器の小さな男じゃねぇぞ。自分で磨らなくていいから張り切ってるだけだ」
その理由も勘弁して欲しいが。
校長室の一件から、風晴とハルカはなんとなくぎくしゃくとしていた。風晴がハルカに対してなにか思うところがあるようなのだ。とはいえ、本人の言うとおり風晴は器の小さな男ではないから、ハルカの書がお茶の先生に認められたことを嫉妬しているわけでもあるまい。
「ねぇ、もしかしてわたしのこと、なんか怒ってます?」
「おわっ」
言葉になっていない悲鳴とともに、風晴が書き損じたらしい幟旗の布を持ち上げた。
「やっぱり怒ってるんでしょ?」
布をふたたび床に置くと、風晴は書き損じた部分を上手く隠すように筆を動かしはじめた。
「怒るに決まってんだろ。せっかく中ノ堂が戻れって言ってくれたのに、答えてねぇんだから」
「答えが出なかったんだから仕方ないです」
「あいつ、オマエのこと、本気で心配してたぞ」
「不思議に思ってたんですけど、中ノ堂先輩が来たとき、どうして教室にいなかったんです」
「ど、どうしてって……」
あやふやな態度が、かちんときた。
「中ノ堂先輩と通じてますね?」
「つ、通じてるって、なんだよ、それ」
「中ノ堂先輩がわたしの居場所を知ってたの、さやかから聞いたからだと思ってたんですけど、手引きしたの風晴先輩でしょ。どうして辞めたはずの書道部員とつながってるんですかね」
急に押し黙った風晴に、さらに苛立つ。
「お二人はどういう関係なんです?」
「おおわっ」
書き損じがさらにひどくなったようだ。もうあそこは塗りつぶすしかあるまい。
「か、か、か、関係って、なに考えてんだよ。美奈……中ノ堂は高校に入ってから書道はじめてなかなか上手くならなかったから、多少指導してやっただけだ。それを今でも恩義に感じてるみたいで、なんていうか、その……」
いったい何を指導したのかはわからないが、今でもいい関係らしい。さやか、かわいそうに。
「ま、それはいいでしょう」
ハルカがその話題から離れることを、心底ホッとしているのだろう。風晴はハルカに歩み寄ってきて、墨を奪い取る。
「どれ、交代しよう。オマエ書け」
書き損じの後始末をさせられるのかと思ったが、幟旗を確認するとその必要はなさそうだった。間違えた部分は塗りつぶされて模様のようにカモフラージュされている。
「上手いもんですね」
「皮肉にしか聞こえんな」
「で、次は何を書けばいいんです?」
「仕事は来てないから好きなのを書いてろ」
「お優しいことで」
さて。何を書くか決めていないが、とりあえず紙の上に筆をおくふりをしてみる。
「おまえ、なんで中ノ堂に返事してないんだ?」
ふふん。ハルカはふり返ってにやりと笑ってみせた。
風晴は、悔しそうな顔で舌を鳴らした。
びっくりさせて書き間違えを誘おうなんて、通じると思ったのだろうか。
「だから、答えが出なかったんですよ」
「自分が戻りたいかどうかもわからないのかよ」
「だって、わたしが戻ることを許せない人だっているかもしれないじゃないですか」
「ふーん。そういうことか」
ハルカのわずかな言葉だけで、言いたいことがわかったようだ。それはそうだろう。
「じゃあ、わたしも聞きますね」
「何をだよ」
「あなたはどうして戻らないんですか、風晴先輩」
虚を突かれたといった感じで、風晴は墨を磨る手を止めた。
「自分が戻ったらどうなるのかなって、想像しちゃいますよね。歓迎したくないのに、表向きは笑顔で迎えなきゃいけない人も出てくるんだろうなって」
「まあな」
風晴の言葉に被さるように、校庭から音楽が流れてくる。
はっと身をこわばらせた。校庭で、パフォーマンス書道がはじまったのだ。
これでいいと思った。
きっと、みんなにまじって書いているのは中ノ堂先輩だろう。残念ながらさやかのギプスはまだとれていない。
視線を、落とした。
目の前に、紙がある。風晴が用意してくれた紙だ。縦二尺、横三尺の大きめの紙。
ちょうど比率がパフォーマンス書道の紙と同じだ。
風晴を見やる。
「意地悪」
「なんのことかな? 意地悪なのは生まれつきだと思うが、おまえが言ってるのがなんのことなのかわかんねぇなぁ。それより、書きたいものを書いてみろって」
もう一度、言う。
「意地悪、ばか」
「ほら、書けよ」
音楽が、聞こえる。それにあわせて、身体が動いた。
「おまえ、書道部に戻らない理由、一度もパフォーマンス書道が嫌だって言わなかったよな」
「だから……なんです?」
「好きなんだろ? みんなで書くの」
ハルカが書いているのをよそに、風晴は墨を磨るのをやめて窓に近づいていく。
「おお、みんな書いてるな。なかなか上手いじゃねぇか。面白いし。けど、ありゃ見世物だ。オレの趣味じゃない」
「人前で書くのは怖いです。でも、見世物は言い過ぎじゃないですか。まっとうな書家だって、人前で筆遣いを見せるために書くことはあるでしょう? わたし、書道部の先輩たちと一緒に書いて……楽しかった」
腕が、勝手に動く。書きたい文字を、書くべき文字を紙面に描いていく。その文字を見て、風晴が混ぜっ返す。
「オイオイ、身体は正直だな」
「変な言い方しないでください」
音楽が、終わる。
そして、ハルカの筆も、止まった。
それを見て、風晴が告げる。
「オマエはあそこで書きたかったんだよ。だから、戻れ、書道部に」
「だって……」
「答えは出てるだろ? 今オマエが書いたもんを見れば」
ハルカは、自分が書いた文字を見下ろす。
それは、パフォーマンス書道で自分が担当するパート。
この文化祭で、先輩たちの中で書きたかった。あの日、市役所前広場で失敗せずに書き上げたかった。そして、間もなく行われる正式なパフォーマンス書道の競書会で書きたいパートだ。
「みんながどう思ってるかってか? それはアレを見ればわかるぜ?」
風晴は、校庭を指さした。
何を見せたがっているのだろう。中ノ堂が書いた自分のパートを見せようというのだろうか。それに、何の意味があるというのか。
ハルカはよろよろと窓に近寄る。
校庭に、書が広げられているのが見えた。もちろん書道部のパフォーマンスによる書だ。
真ん中に『恩送り』の文字。そのまわりに散りばめられた、先輩への感謝と後輩への叱咤激励の言葉。あの日市役所前広場で書いたのと、同じ文面だ。
しかし、そこはかとなく胸のうちに生じる違和感。
――足りない?――
「たしか、十人でやるんだったよな? オマエらのパフォーマンスって」
今さらなにを言っているのかと思ったのだが。
「九人しかいねーぞ、あそこには」
「あっ」
気づいた。今まで気づかなかった自分の馬鹿さ加減にも、気づいた。
風晴の言うとおり、九人しかいない。中ノ堂先輩の姿が見えないのだ。
「どうすんだ、あの書? 書き足さなきゃないパートがあるみてーだけど」
なにか言い返したいが、今、自分が応えなければならない事はわかっている。なぜなら。
パフォーマンスを終えた九人の先輩たちが、校庭からじっとこちらを見ていた。まわりでフォローしていた残りの部員たちがこちらを見ていた。そして。三膳が、瞬きすらせずにこちらを見ていた。信じているとでも言いたげに。
「わたし、書いてもいいんだよね?」
入り口のほうを、振り向く。
そこには、胴衣と袴を持った中ノ堂先輩とパフォーマンス用の筆を持ったさやかの姿があり、ハルカに向かって力強く首肯した。
足早に近づき、受けとる。
「はやく行けよ。待ってるぞ、みんなが」
背後から近づいてきた声に、胸が熱くなる。
「あなたは戻らないんですか、意地悪な風晴先輩」
「オレは音楽にあわせて書いたりなんてしないんだよ。リズム感が悪い上に音痴だからな。それが、書道部に戻らない理由ってことさ」
「でも、わたしは待ってるんだよ? 風晴君」
「わたしも待ってます、尚都さん」
中ノ堂とさやかが口々に訴えるが、風晴は動じなかった。
「すまんね。書道は一人で書くもんだっていうのも、オレの考えの一つなんだ。おれは習字愛好会でいい。それよりハルカ、あの書を完成させてこい。短い間でも、オレの習字愛好会に属したんだ。ここで学んだことをあそこで表現して見せろ」
そう言って、抱えている胴衣の間にねじ込んできたのは、ペットボトルに入った墨だった。ハルカが磨った、黒々とした墨だ。
「自分で磨った墨で書くのが基本だ。それがオレの考えだってのはホントのことだ。その信念だけは、書道部に戻してやるよ。オマエの中に根付かせてな」
「風晴先輩……」
「どうだ、感動したか?」
しないと言えば嘘になるが。
「……いえ、なんか言い方が卑猥です」
中ノ堂とさやかも、なぜだか不機嫌そうにうなずいていた。
「三膳先生」
胴衣と袴に着替えて校庭に降りたハルカは、三好に向かって一礼する。
「もう制限時間は過ぎてしまいましたよ? 本来ならば失格です」
「はい。すみません」
「けれど、よく戻ってきました」
「みんなが、わたしを許してくれたからです」
三膳が大げさにうなずく。
「ええ。それがわかったのなら、はやくこの書を完成させなさい」
言葉とともに、ペットボトルから洗面器に墨を勢いよく注ぐ。
「それは?」
「自分で磨った墨です」
「……そう。風晴君ね」
「はい」
笑って答えると、三膳も納得したように微笑んだ。
書道部のみんなが、紙のまわりに並んだ。
観客たちは、遠巻きにそれを見ている。
「行きます!」
宣言とともに洗面器と筆を構え、紙に向かって駆けよる。
手拍子が、はじまった。
もう迷わない。
ハルカは紙面に筆を押しつける。
完成させるのだ。未完成のこの書を。
自分で磨り上げた、この墨で。
八
「なんですか、これは」
ハルカが手渡した封書をしげしげと眺め、三膳が間抜けな声で聞いてくる。
文化祭が終わってすぐ、ハルカは職員室に三膳の元を訪ねたのだ。
「入部届です」
「それは見ればわかります。これを提出する理由を尋ねているのです」
三膳は、なぜだか困ったように笑っていた。
「何かおかしいですか? 再入部って、禁止されてませんよね?」
「たしかにそういう規定はなかったと思いますが……」
「じゃ、受けとってください。ぜひ、書道部でみんなと書きたいんです」
「もちろんです。わたしもずっとそうしなさいと言っていたでしょう?」
「でもわたし、退部届を――」
「そうですね。きっとあなただろうと思いました。受けとるつもりはありませんでしたけどね」
あなただろうと思いました、とはどういうことだろう。
三膳が机の抽斗を開ける。中には二通の封書が入っており、そのうちの一通には見覚えがあった。三膳はそれを持ち上げ、ハルカに示してみせる。
表に、退部届と書いてある。間違いない、ハルカが提出したものだ。
「やっぱり出してるじゃないですか」
「でもね、小番さん。差出人がわからない以上、この書類を退部届けとして処理することはできませんよ。たとえ、どう見てもあなたの筆蹟だったとしても、ね」
三膳はハルカに封書を手渡す。
ハルカは慌てて封書の中身を確認した。
『一身上の都合により、書道部を退部いたします』
書いてあるのはそれだけだった。署名はない。
「ええと……あれ?」
「退部していないのなら、あらためて入部届を出す意味もないわね。それは持ち帰りなさい」
「ゔー」
思わずうなったとき、まだ開けられたままの机の抽斗の中に残っていた封書に、目が行った。
「退会……届?」
「こ、これはなんでもないんですよ」
ハルカは慌てて抽斗を閉めようとする三膳に先んじて、封書を奪い取る。
いつか中ノ堂が言っていたことを思い出した。三膳がハルカをメンバーに選ばなかったことで悩んでいたとか、鳳書会に気兼ねしてさやかを選んだ自分を責めていたとかいうことだ。
「先生、鳳書会を辞めるつもりなんですか?」
「まさか」
三膳は中をたしかめようとしているハルカから封書を奪い返し、びりびりと破く。
「あなただって辞めなかったのに、わたしが辞めるわけないでしょ」
しかし、すぐに怖い顔になって続ける。
「でも、他人の手紙を勝手に開こうとした小番さんには、罰を与えようかしらね」
九
教室の、ドアを開けた。
中では、いつもどおり風晴が書作をしている。体育の授業が終わったばかりででもあるのだろうか。それとも、何か大作でも書くつもりなのか、制服ではなくジャージを着ていた。
「ん、小番か? 何しに来た? 書道部に戻ったんだろ」
「おかげさまで、無事戻ることができました。ていうか、辞めてなかったみたいですけど」
「なんだそりゃ?」
「ま、いいじゃないですか。大団円ってことで」
「で、何しに来たんだよ。もうここに用はないだろ」
「ところが、できちゃったんですよねー、用が」
風晴の怪訝そうな顔が気持ちいい。
この間、中ノ堂やさやかと共謀していたことに対する仕返しができているのがたのしい。
「三膳からの罰なんですよ」
「罰?」
「はい! 風晴先輩が書道部に戻るまで、つきまとえって」
「なんだと! 俺は一人で書くのが好きだって言っただろ!」
「だからつきまとうんじゃないですか。それに、先輩だって両方に属したらいいって言ってたし、問題ないですよねー? じゃ、わたしもなんか書こうかなー」
と、スキップをして風晴に近づこうとしたときだった。
「ゔあっ? とっとっ」
何かを、踏んづけた。
この感触は、またアレだ。水を入れたボトルだろう。
ハルカはたたらを踏んで、風晴にしがみつく。
が、しがみついた場所が問題だった。
「て、てめ、何ジャージ脱がしてやがる」
見事、ジャージのズボンだけがずり下がっていた。
「すすす、すみません。こんなところ誰かに見られたら大へ――」
「風晴君、わたしも習字愛好会に――な、な、な、何をやってるの、風晴君!」
「尚都さん、わたしも習字愛好会に――は、は、破廉恥です! せ、せ、先生を呼んで――」
さてさて、だいぶ賑やかな愛好会になりそうだなと、ハルカは嬉しくなった。
<了>
平成29年2月22日、誤字脱字等を修正しました。