私がわたしでなくなった日
(漢字一文字「霧」をテーマに書いた作品)
たしかにあれは本当に起きたことだった。
私はクリスマスイヴに、貴方の運転するバイクにしがみついて雪山へ向かっていた。
今の年齢になってバイクに乗って雪道を走るなんて……、
まるで嘘で固めたファンタジーみたいじゃないの。
私はそう思っていた。
山の頂上へ着いたとき、貴方はせっせとテントを張りランタンに火を点した。そして寒さに震える私を毛布でぐるぐる巻いて温っためてくれた。
――寒くないかい?もうすぐ目が醒めるほど美しいものを見せてやるよ。
そういって貴方は私をひとりテントの中に残してどこかへ行った。
そう、今夜はクリスマスイヴなのだ。
私は家で背を丸め火鉢にあたっているひとのことを思い出していた。
そのひとと一緒に食べようと買って来たクリスマスケーキはぐちゃぶちゃに潰され、私は凍える闇の外気に晒されて蹲っていたのだ。
あのままでいたら多分凍え死んでしまっていたかもしれない。
*****
リンリンと鈴の音が私の耳元まで近づいて来るのが聞こえた。
やがてテントの入り口が開いて貴方がそこへ立っていた。
――外に出てごらんよ。
私は貴方の声に誘われてテントの外に出て夜空を見上げた。
真っ暗な空から白い雪がふわりふわりと落ちてきてはその冷気が顔に当たる。
――きれいだろう。
あなたはそう言いながら私に赤と緑色の毛糸で編んだとんがり帽子を被せ、震えている私をぎゅっと抱きしめた。
私はあたかも蘇生するかのように、貴方の腕の中に身をうずめてぬくもりを感じていた。
――雪の向こう側を見てごらん。あのキラキラ光ってるのは星が降ってるんだよ。
クリスマスの夜には雪に混じって星も降るんだ。僕は毎年ここに来てひとりきりのクリスマスをしてるんだよ。
今夜はきみといっしょ、神様がさみしがりやの僕にきみというプレゼントをくれたんだね。
貴方の傍にいると凍えるような山の上の雪の中でも寒くはなかった。
私の心の中の暖炉であたたかい火がちろちろと燃えているように思えた。
今夜のクリスマスはこれまで永く生きてきて初めての、味わったことのない至福の時間だった。
*****
眠れぬまま白々と夜が明けるころ、私は自分の背なかに羽根が生えているのを感じた。
貴方の姿はもうなくて、かすかな声が遠くから聞こえるような気がした。
――また会えるよ、きっと。
きみの羽根が伸びて空を飛べるようになるまで動かずここにいるんだよ。きみが飛べるようになったらきっと迎えに来るからね。
貴方は朝霧の中を颯爽と飛び立って行ったのだ。
*****
私はあれからずっとここで待っている。
もう300年ぐらい経ったかもしれない。
私は信じている、必ず貴方が私を迎えに来てくれるだろうことを……。