第1章(その2)
英輔はどうすることもできず。
「あっそうだ、紹介するよ。石野洋子・・ああ?・・??あっいや、えっと!さと・・?いしのさとえ??さんだ・よぉぅ・・僕の・会社の・・後輩・・・」としどろもどろになりながらも辛うじてさっきと同じ言葉を繰り返しながら幸都恵のほうに歩み寄った。しか
し足の運びがなんともぎこちない。心臓の鼓動は早くなっていたし、今血圧を測ったら
相当高いだろうな、150には達しているか?俺は普段100くらいしかないのになぁ。
案外冷静な考えも出来たりするものだ。と複雑な心境のまま幸都恵の目の前に立った。
その姿を自分の中で想像すると更に恥ずかしさが増していた。赤い顔を見られたくない
のでやや斜に構えながら右手を伸ばし
「あちらが洋子さん。さっきヨットを教えてくれた川島さんの奥さんだよ。」と極めて冷
静を装いながら紹介したつもりだが声は確実に裏返っていた。幸都恵はといえばその視
線はここになかった。洋子を見ているのだろうか?
目線が合わない隙に幸都恵の顔をじっくりと観察したのだが、頬にも瞳にも涙の跡はな
かった。英輔は今の出来事に困惑した。確かにこの女性は泣いていた筈だけれど・・
これをデジャブというのか?英輔はここでも戸惑った。
真っ赤になった顔を幸都恵に見られずにはすんだが、この状況はどのような言葉をもってしても説明がつかなかったからだ。
英輔に続いて洋子が徐に幸都恵に歩み寄った。
うわぁ近づいて来る。幸都恵は緊張したが、洋子の顔が微笑んでいたので少し安心した。
「幸都恵さん?」洋子が話しかけてきた。
「はい」幸都恵は小さくうなずいた。すると
「初めまして、川島洋子です。」と洋子が右手を差し出した。幸都恵は一瞬躊躇いはした
ものの直に右手で握手に応じながら
「石野幸都恵です。宜しくお願いします。」と挨拶はしたのだが、洋子の顔を真正面から
見ることができずに少し俯きながら洋子の色白な手を見つめたまま握手に応じた。その
手の感触は今まで幸都恵が感じたものとは異質だった。
握手なんて何度となくしてきた。硬い手、柔らかい手、暖かい手、冷たい手、握力の強弱だってそれぞれ違う。・・・
ただ・・どうしてもこれを上手く説明できる言葉が見つからないのだった。
「こちらこそ!・・」と洋子は言いながら少し間をとった。
「・・・ところで貴方達どういう関係?」英輔の顔を見ながら静かに言った。実は洋子の
目尻は吊り上っていたのだが、英輔は恥ずかしさから目線を合わせずにいたのでそれに
気づかずに
「会社の後輩だって言ったじゃないか!」とそれだけ答えると、ヨットのあるほうへ歩
き出した。
洋子は出来るだけ冷静を装った。
今日は、待ちに待った英輔との久しぶりの再会だったのに・・・
夫の雄三からは
「英輔が会社の同僚と来るってよ!」と聞かされていただけだった。
都合がつかないことを装いサプライズで登場すれば、英輔は間違いなく驚き喜んでくれる。
洋子は確信してこの瞬間を待ち構えていたのに、とんだサプライズに遭遇することになってしまった。正に逆サプライズだった。
「同僚!」そう聞けば女性だなんて思わない。それなのに・・・
どう見ても英輔の同僚ではない。愛人というには不釣合いだけれど、親子ではない。でも夫婦ともいえない。ただ今言えることはその娘は間違いなく若い。
‘20代前半ではないかしら?’と洋子は見た。英輔とは10歳近く年齢が離れていることになる。
彼が奥様と一緒ならば納得しないわけにはいかないけれど、なんとも説明の難しい間柄の女性とこんな形でお目にかかることになろうとは・・・こんなシナリオも又洋子の中には存在しえないものだった。
幸都恵が目を伏せている間に洋子は幸都恵をじっくりと観察した。肌はキメが細かく色白で輝いていた。それなのに、綺麗とはお世辞にも言えない酷いメイクをしていた。これなら素顔のほうがよほどマシ。
笑いが思わずこみ上げてきた。それをこらえるのに必死になっってしまい、肩がゆれた。
「でも?もしこの幸都恵という娘が今とは違うメイクをしていたら?」と考えると、それはやはり美人という言葉が当てはまるだろうほど綺麗である事は理解できた。
それが洋子の疑問も呼んだ。
何故こんなメイクをしているの?バカにしているの?
普通の女の子なら、どんなに下手でもこういう風にはならない?・・・ううん・・しない。と言うか??恥ずかしくてできない。‘絶対何かあるわ!’
その確信的な興味と疑いが英輔への嫉妬にも変わった。英輔が意図的にこういうメイクをさせていると感じたからだ。英輔が純真な乙女心を弄んでいるように思えたのだ。またそういう英輔の言うがままにしている小娘にも怒りを覚えた。しかし一方で洋子の知る英輔はそういう事を強制させる男ではない。
‘・・・でも!浮気・・・??・・・不倫関係ではなさそう?’にも思えた。
‘彼が再婚したとも聞いていないし・・・’「そう同僚なのよね!」
心の中で多岐な詮索が湧き始め思考が行きつ戻りつした。・・・・・
結局この2人に色々と湧いた疑問と興味を満足させるには、もう少し様子を窺うことが最善という結論になった。
洋子は少し膝をかがめて、下から幸都恵の顔を覗き込むと
「幸都恵さん!今夜家に泊まっていかない?何か予定があるなら無理にとは言わないけど・・」と言ってみた。
夫の雄三は英輔のことになると言葉数が減って多くを語らない。彼の近況を知るにはこの
娘に語らせるのが良い方法だと思ったのだ。
幸都恵は突然の誘いに戸惑った。その時初めて洋子の顔を見た。洋子は幸都恵の意に反して笑顔だった。
‘つい今さっき英輔さんに声をかけた時は確かに怒りがあった筈よ。あの声のトーンからしても間違いない筈。笑顔と怒り!どちらが今の本当の洋子さんの感情なの?’と考えながら
「あっ・・はい・・別に予定は・・でも・・あのぅ・・吉岡さんが・・」と幸都恵は気持ちの整理がつかないままで曖昧な答えを返した。
洋子は
「英輔くん?なら多分大丈夫よ。貴女が良いって言えば、それに従う筈よ!じゃぁOKって事ね・・・」と笑顔で返した。
少し強引!?と幸都恵は思ったが、黙ってうなずいた。少しばかり冷静さを取り戻し始
めた幸都恵は、英輔と洋子の関係の詳細が明らかに出来るかも知れない。という期待と興味が出始めたからだ。英輔はどうやら只のオヤジではないらしかった。
それに英輔よりも10歳位は若く見えるこの女性が何故「英輔くん」とクンで呼ぶのか?
不思議だった。相当親しい間柄なのだろう。それだけに英輔の実態を知るにはこの女性
に語ってもらうのが最善だろうし、わざわざ向こうからその機会を作ってくれそうな気
配なのだ。気持ちを切り替えることにした。
図らずも2人の利害は一致した。
「幸都恵さんワインは?」と洋子はたずねた。
「ワイン?ですかぁ?」幸都恵は洋子の言葉の意味が理解できずにいた。
「ワインお好きかしら?良いワインが手に入ったのよ!嫌いじゃなかったらぜひ一緒にどう?」
ワイン好きか?って聞いていたのね。幸都恵は理解した。
「あっ、はい ありがとうございます。ぜひお願いします。」幸都恵は明るく答えた。
その答えを聞けば洋子はもう十分だった。
「じゃぁ気をつけて行ってらっしゃい。そして楽しんで来てね!」洋子は言った。
‘へぇ、やっぱり夫婦だわ。さっき雄三さんも同じ事を言ったわよ’と幸都恵は考えていたが、その間に洋子は英輔に視線を向けなおし、
「英輔くぅん、それじゃ後でネェ。気をつけてぇ」と大き目の声で呼びかけた。英輔は大きく洋子に手を振って返した。その様子に幸都恵は何か物足りなさを感じた。
今の私と彼女の会話が彼に聞こえたとは思えないけれど何となく2人には理解しあえているらしい気配を感じたからだ。だからといって「それで通じているんですか?」と確認するのはどう考えても馬鹿げている・・・
幸都恵が近づいてきたので
「よし、じゃ行こっか!」英輔は元気に幸都恵に声をかけた。
「ばぁか!嘘に決まってるだろう。本気で言うわけねぇだろう!」幸都恵は急に乱暴な言葉になった。幸都恵の豹変に英輔は戸惑ったが
「わかってるよそれくらい!行くぞ!さっさとしろよ・・」と毅然と言った。
「はい」と幸都恵は素直に従い笑顔を作ったが、すこしぎこちない笑顔?と思った。
2人が沖へ出るところを見届けた後、洋子はワインを探しに出かけた。あの日と同じワ
インを手に入れるために・・今日こそ英輔にワインの薀蓄を語らせたかった。