桜子編 7
昭和20年 3月末
少尉が美月家を去り、桜子にとって もうひとりの大切な人との 別れが待っていた。
3月28日 夜のこと、
桜子は 勤労動員から帰り、食事を済ませたところだった。
「すみません。ごめんください」
「はい。」
母が 手ぬぐいで 手をふきながら玄関へと向かう。
「まあっ!」
母の驚いた声。
桜子は 気になり、玄関に向かう。
「あの、桜子は・・桜子さんは おられますか?」
廊下で その声を聞く。
桜子は慌ててガラスに写る自分をみて、身嗜みを整えた。
「お、桜子ね、ちょっと待っ・・・」
母がそういうか言わないかのうちに 桜子は出て行く。
玄関に立っていたのは、真新しい軍服姿の 学思だった・・。
桜子は 凛々しい学思にみとれた。
母は 見つめ合う二人に驚いていたが、ただ黙って奥に入って行った。
「今、ちょっといいか?」
「うん、ちょっと待って、学思くんに渡すものがあるの。」
桜子は お守りと 手紙を急いで 部屋から持ち出した。
二人は 庭にでた。
桜子の 桜の木は 満開に花をつけていた。
月の光に 照らされて 暗い中に 薄桃色の花が 映え、花びらを雪のように散らせていた。
「明日の朝、ここを発つよ。九州に向かう。」
「そう、いよいよ・・」
「自分から志願したんだ。決して後悔しない。たとえ どんな状況になっても。」
「学思くん。これ、あげる。」
桜子は 手に持ったお守りと 手紙を 学思に手渡した。
「ありがとう。・・いつだったか、まだ幼い頃、お前に おんなじようにもらったよな、ボウロを。」
「そうだったね。そんなことも あったね」
「あの時からだよ・・・」
学思は口ごもる。
「ねぇ、学思くん。お守りに、この桜の花も一緒に入れたの。この桜の木はね、私の生まれた日に植えたの。私そのものなの。押し花にすると 永遠に残るでしょう。離れていても、あなたのいるところに 毎年送るね。この花の押し花。・・いつかまた、一緒に見られる日が来るといいね」
「ああ、ほんとにそうだね」
「学思くん、 わたし、看護婦になろうと思う。戦地や内地で 爆撃で怪我をした人を 一人でも 救ってあげられるように。」
学思は 桜子に手当てしてもらった 手の傷を触った。
「桜子は きっと たくさんの人を救うことができる。」
桜の花びらがヒラヒラと舞い、学思の肩に落ちた。
桜子は そのひとつを指でそっと とる。
学思は 抱きしめたい気持ちを ぐっとこらえた。
「沢村学思 行って参ります。」
満開の夜桜の下、学思は凛々しく 敬礼をした。
桜子はあふれる涙を こらえて 言った。
「どうか ご無事で。武運長久をお祈りします。」
学思は 黙って頷いた。
何度も何度も 桜子のほうを振り返り、手を振りながら 帰っていった。
桜子は泣きながら また桜の花をひとつ 押し花にした−−−
学思が 九州福岡に発ってから 数日後、彼から手紙が届いた。
一枚の写真と 共に。
桜子は その写真をいつも大事にしていた。
桜の押し花を貼付けた栞と一緒に 分厚い教科書の間に挟み、時折見つめては物思いに耽り、ため息をつく。
凛子のように、君彦の写真を 堂々と飾ったりはしないが 恋をする心は 同じだった。