第2話 知財の盾と魔導の法
「……おい、この『内容証明』ってのは一体何の冗談だ!? 佐藤! 貴様、今すぐこれを取り下げろ!」
麻布台ヒルズから車で十五分。虎ノ門にある、やたらと天井が高くて無機質な法律事務所の応接室。
僕のスマホから漏れ聞こえる神代の絶叫は、もはや人間の声というよりは、壊れた拡声器のノイズに近かった。
「冗談じゃないよ、神代。それは九条先生が徹夜で書き上げた、渾身の『宣戦布告』だ。あ、スピーカーにするね」
僕がスマホをテーブルに置くと、向かい側に座る九条美琴が、高級そうなモンブランの万年筆を弄びながら、冷ややかな笑みを浮かべた。
彼女の前には、神代が僕を追い出した際に突きつけてきた「知財譲渡契約書」のコピーが置かれている。
「神代様。お初にお目にかかります。佐藤様の代理人を務めております、九条でございます。お電話口で失礼ですが、先ほどお送りした通知書はお読みいただけましたか?」
「九条ぉ? 知らねえな! いいか、佐藤はうちの『作業員』だ! 作業員が書いたコードは会社の所有物になるって、契約書にもハッキリ書いてあるんだよ! この三流弁護士が!」
「三流、ですか。……ふふっ」
九条の瞳が、獲物を定めた猛禽類のように鋭く細まった。
彼女は机の上のタブレットを指先で弾き、プロジェクターに複雑な数式と法令の条文を映し出した。
「神代様、残念ながらあなたの『法務IQ』は、そこらのスライム以下のようですね。鑑定の結果、この契約書は……法的には『ただの落書き』です。いえ、それ以下の産業廃棄物ですね」
「な、なんだと……!?」
「特許法第三十五条……いわゆる『職務発明』の規定をご存知ですか? 従業員が発明した技術を会社が取得する場合、それ相応の『対価』を支払う必要があります。ですが、あなたが佐藤様に提示したのは、月給三十万円と、創業メンバーという名の無価値な肩書きだけ。しかも、特許出願を『会社』ではなく『あなた個人』の名義で行った。これは会社法上の『自己取引』であり、なおかつ『特別背任』の疑いすらある、極めて悪質な不法行為です」
電話の向こうで、神代が絶句するのがわかった。
おそらく、横で木村やサラが「え、それヤバいの?」と慌てふためいているのだろう。
「さらに付け加えるなら」
九条は、追い打ちをかけるように声を一段低くした。
「佐藤様が『鑑定アルゴリズム』の基礎理論を完成させたのは、会社設立の半年前……大学の研究室時代であることが、タイムスタンプ付きのログから証明されています。つまり、これは『職務発明』ですらなく、佐藤様の『個人資産』です。それを騙して奪い取った行為は……分かりますか? これはビジネスではなく、単なる『強奪』なんです」
「うるせえ! 証拠なんていくらでも偽造できるんだよ! あんな陰キャの学生に、そんな大層なもんが作れるわけねえだろうが!」
「おや、感情的になると鑑定スコアがさらに下がりますよ。……神代様、一つ教えて差し上げます。エンジニアの『プライド』を甘く見ないことです。佐藤様は、自分のコードに『電子的な刻印』を隠していました。あなたが今、勝手にライセンス販売しようとしているシステムの中には、今この瞬間も、佐藤様の所有権を示すデータが息づいているのですよ」
九条が指を鳴らす。
すると、僕の手元のノートPCに、神代の会社のサーバー状況がリアルタイムで表示された。
そこには、神代が強引にβ版をローンチしようと負荷をかけている、真っ赤なエラーログの山が築かれていた。
「佐藤、貴様……バックドアでも仕込んでやがったのか!?」
「失礼な。バックドアなんて物騒なものじゃないよ。ただの『認証システム』だ」
僕は、かつての親友に向けて静かに告げた。
「ミエールのアルゴリズムは、開発者である僕の『指紋』……つまり、固有の暗号鍵がないと、一定以上の計算負荷がかかった時に自己崩壊するように設計されている。君が僕を追い出したせいで、システムの『鑑定精度』は今、ゴミ箱の中身を当てるのが精一杯のはずだ。……あ、今ちょうど、大口のクライアントに『偽の鑑定結果』を送信しちゃったみたいだね」
「ぎ、ギャアアアアアアア! 止めてくれ! 今すぐ止めろ、佐藤! 悪かった、謝るから! 戻ってこい! CTOの椅子も、給料三倍も約束する!」
「お断りです」
九条が僕の代わりにスマホを手に取り、無慈悲なトーンで告げた。
「交渉のテーブルは、すでに法廷へ移りました。神代様、お手元のシャンパンを飲み干したら、次は召喚状を待つ準備をしてください。あ、それから、あなたが契約した大手ギルド……いえ、投資会社からも、まもなく『説明責任』を問う連絡が行くはずですよ。私たちの仕掛けた『法的鑑定』の結果を、彼らは大変興味深く受け止めてくださいましたから」
電話は一方的に切られた。
静まり返った応接室に、九条の満足げな吐息が漏れる。
「……ふう。やっぱり、無知な権力者を法で殴る瞬間の音は、何度聞いても素晴らしいですね」
「九条先生、性格悪いって言われませんか?」
「最高の褒め言葉です。さて、佐藤さん。あちらの会社の資産状況ですが、調べたところ、勇者様(神代)の個人口座には、すでにライセンスの着手金として二億円が振り込まれています。これをまずは『仮差し押さえ』しましょう。彼には一銭も使わせません。コンビニの肉まん一つ買うのにも、震えてもらうことにしましょうか」
九条は、楽しそうに次の書類を取り出した。
そこには『資産仮差押命令申立書』という、神代にとっての「死刑宣告」とも呼べるタイトルが並んでいる。
「……本当に、徹底的ですね」
「当然です。知財を盗むということは、その人の『未来』を盗むということ。奪った未来の対価は、全財産でも足りないくらいですよ」
彼女はそう言うと、僕の顔をじっと見つめた。
「佐藤さん。あなたは、自分の技術が世界を救うと信じていましたか?」
「……ええ。少なくとも、正しい評価がされない世の中を、技術で変えたいと思ってました」
「なら、その第一歩として、まずは『泥棒』が正しく裁かれる世の中を証明しましょう。それが、あなたの開発した『鑑定スキル』の、最初の仕事です」
九条の言葉は、昨夜、エントランスに放り出された時の僕の心を、ゆっくりと、しかし確実に溶かしていった。
その日の午後。
SNS上では、『ブレイブ・スタートアップ』の株価が大暴落していた。
β版の致命的な不具合と、代表取締役に対する巨額の損害賠償請求、そして特許侵害の疑い。
かつて「時代の寵児」ともてはやされた神代勇太の名は、今や「希代の詐欺師」として拡散されていた。
僕は、九条事務所の窓から見える虎ノ門の街並みを眺めながら、自分のスマホに届いた一通のメールを開いた。
差出人は、僕をゴミのように扱った元仲間の木村とサラからだった。
内容は、「私たちは神代に脅されていただけ」「本当は佐藤くんを応援してた」「また三人でやり直そう」という、吐き気がするほど見え透いた言い訳のオンパレード。
「先生。これ、鑑定できますか?」
僕は九条にスマホを見せた。
彼女は画面を一瞥し、鼻で笑った。
「鑑定結果……『ゴミ』。それも、再利用不可能な燃えないゴミですね。即座にブロックして、証拠として保存しておきましょう。後の『共同正犯』の立証に使えますから」
「……了解です」
僕は迷わず、二人をブロックリストに叩き込んだ。
かつての「パーティー」は、もうどこにもいない。
僕の横にいるのは、六法全書という名の魔導書を携えた、最強の魔女だけだ。
「さあ、佐藤さん。次は楽しい『資産調査』の時間です。神代氏が隠し持っている別荘や高級車、一つ残らず『鑑定』して、競売にかけてあげましょう」
「……よろしくお願いします、九条先生」
反撃の第二章。
それは、傲慢な勇者から「全て」を剥ぎ取り、彼らが最も軽視していたルールの重さを、その身に刻み込ませる工程だ。
僕は、新しく購入したノートPCを開き、あの日消されたはずの「鑑定アルゴリズム」の真の力を解放した。
画面上で踊る複雑なコードが、神代の会社の息の根を止めるために、冷徹な光を放ち始めた。
神代、お前が言った通り、エンジニアは「交換可能なパーツ」かもしれない。
でも、そのパーツを一つ外しただけで、お前の「黄金の城」がこれほど脆く崩れ去るとは、思ってもみなかっただろう?
今夜の酒は、神代が飲んでいたペトリュスよりも、ずっと美味しくなりそうだ。
(続く)




