百年のシュトーレン
航行一日目、0.1c
地球での時間経過、一日。
百光年先の惑星へ向かう宇宙船の中にいるというのに、私は昨日妻が焼いていたシュトーレンのことを思い出していた。
人類の可能性を広げるための惑星間移動計画。
私たちは、地球からおよそ百光年先にある惑星、TOI700dを目指している。
発射の衝撃が消えると、今まで全身を押し潰していた加速の重みが消え、船内は静まり返った。
無重力に慣れるため、マニュアル通りに体をゆっくり動かす。
通信端末を開くと一通、メッセージが届いていた。
妻からだ。
『どうしてあなたでなければいけないのか……どうしてあなたが志願したのか……まだ、ちゃんと気持ちの整理はついていません』
思わずため息が漏れた。
『笑って送り出せればよかったのにね。昨日作ったシュトーレンを入れておきました。クリスマスは来月だけど、一ヶ月以上日持ちするから少しずつ食べてください』
船内に持ち込めるものは制限されている。妻のシュトーレンは、私の荷物としてではなく、目的地到着後に使う物資と一緒に保管されていた。
そちらのクリスマスは、だいぶ過ぎてしまうな、と私は苦笑した。
◇ ◇ ◇
航行二日目、0.99c
地球での時間経過、七日。
宇宙船の速度は徐々に上がり、やがて光速の九十九パーセントに到達した。
目的地、TOI700dは遠い。光でさえ百年かかる距離だ。
また、どんな物体も光の速さを越えることはできない。だから普通に航行すれば、人間の寿命では到底たどり着けない。
さて、どうする? 冷凍睡眠?
実際のところ、人間の体は凍らせると、解凍時に細胞が壊れて死んでしまう。
では、どうやって行くのか。
その答えは、宇宙船を光の速さに限りなく近づけること。
相対性理論で証明されているように、宇宙船の速度が光速に近づくほど、船内の時間の流れはゆっくりになる。
つまり――地球での経過時間は百年だとしても、乗組員の体感時間は、短くできる。その代わり、ここでの一日は、地球では何日にもなる。
妻から新しいメッセージが届いている。
『あれから一週間が経ちました。びっくりするくらいのお金が振り込まれています。あなたは英雄になる人ですものね。この支援のおかげで生活には困らないでしょう。
でも、あなたのいない生活にはまだ慣れません。
あの子、今日ひとりで着替えができたよ。得意そうな顔をしていました』
昨日、別れたばかりのはずなのに、地球では、もう一週間が過ぎている。
◇ ◇ ◇
航行三日目、0.999c
地球での時間経過、三十日。
宇宙船の速度は、もうほとんど光速と変わらない。
だが、この残りわずかな差を埋めるには、莫大なエネルギーが必要になる。そのエネルギーは、私たちの体感時間を、さらに縮めるためのものだ。
宇宙船は日々少しずつであるが、加速を続けている。
船内点検、異常なし。
これほどの速度で飛行しているというのに、船内は驚くほど静かだ。
実際は、一粒の小石がぶつかるだけでも致命的だというのに。
進行方向の空間は、先行して飛ぶ無人機のレーザーが微細な塵まで焼き払い、航路を切り開いている。
端末を開けば、今日も妻からメッセージが届いている。
通信には、量子もつれを応用した仕組みが使われていて、地球との距離がどれほど離れても、信号は瞬時に届く。
『メリークリスマス。あれからもう一ヶ月ね。あなたの返事は、なかなか届かないけど――仕方ないよね』
クリスマスケーキと一緒に映った息子と、笑顔を無理に作ったような妻の写真が添えられていた。
◇ ◇ ◇
航行四日目、0.9999c
地球での時間経過、百日。
加速はまだ続いている。わずかな速度の変化が、船内での時間の流れに大きな影響を与える。
私は日々の運動プログラムを終え、観測窓の内側を布で拭いた。
近くの星が動いて見える。宇宙船の外は、百倍の速さで時間が流れているのだから。
遥か遠くにあるはずの星との距離が、短くなったような感覚を覚えた。
今日も妻からメッセージ。
『保育園の入園式でした。あなたが来られるはずはないのだけれど、席だけは確保しておきました』
それは私を気遣っているようにも、拗ねた反抗のようにも思えた。
この宇宙船に乗り込んだ時点で、私はもう妻にも息子にも、直接会うことはできない。
それでも私は志願した。
なぜかと問われれば、もちろん誰かがやらなければいけないことだが、それに加えて私はただ……何者かになりたかったのだ。
小さな家、変化のない毎日。
自分が、何のために生きているのか。その理由を導きたかった。
だが、今さらふと思う。
果たして――何者かになるということに、それだけの価値があるのだろうか。
◇ ◇ ◇
航行五日目、0.99999c
地球での時間経過、一年。
『あれからもう一年です。息子はすっかり保育園に慣れたけど、反抗期かな。あなたに似て、話を聞きません』
似ていると言われるのは嬉しい。
だが、喜ぶところではなさそうだ。
私はしばらく画面を見つめていた。
今ここで言い訳を書いても、妻がそれを読むのは、このメッセージの時刻から半年後になる。
◇ ◇ ◇
航行六日目、0.999999c
地球での時間経過、四年。
莫大なエネルギーを投入して加速を続けているのに、昨日から増えた速度は時速百キロにも満たず、自動車ほどの速さでしかない。
だが、このわずかな差が、船内の時間の流れを大きく変える。
『息子は小学校に入りました。あなたはこちらでは有名人だから、そのおかげで友達もたくさんできたみたい』
出発してから、私の体感時間はまだ一週間にも満たない。なのに地球では、もうすぐ四年が過ぎようとしている。
◇ ◇ ◇
航行七日目、0.9999999c
地球での時間経過、十年。
ついに宇宙船の速度は性能上限に到達した。
光の速さとの差は、わずか時速一キロメートル。ゆっくり歩く程度の差しかない。
だが、この差がどうしても埋められない。
この速度のまま、目的地へ向かうことになる。
◇ ◇ ◇
航行八日目、0.9999999c
地球での時間経過、十六年。
出発時は年下だった妻が、今は私より十歳以上も年上になってしまった。
『息子は十八歳になりました。大学も決まりました。偏差値はトップクラスとは言えないけれど、あの子が自分で決めたんです。あなたなら、反対したかもしれませんね』
確かに、私は口うるさい父親になっていたかもしれない。
最近眠りが浅い。
トレーニングは続けているが、無重力では身体を十分に使わないため、深く眠ることができないのだ。
そのため、夢をよく見る。
夢の中で、息子はいつも幼い年齢のままだ。
なのに本当の息子はもう成人してしまった。
◇ ◇ ◇
航行十日目、0.9999999c
地球での時間経過、二十八年。
『息子が結婚しました。もうすぐ子供が生まれるんです。あなたの孫ですよ。
あなたは子育てにはまるで関わっていませんでした。でも、あなたのおかげで支給されたお金で、一人立ちするまで育てることができたんですから、そこは感謝しなければいけませんね。
少し肩の荷がおりた気がします。私も何か新しいことを始めてみようかなと思っています』
妻ももうすぐ還暦だ。
◇ ◇ ◇
航行十二日目、0.9999999c
地球での時間経過、四十年。
『あなたの孫が三人になりました。男の子が一人と、女の子が二人です。
私は、英雄となったあなたの名前を借りて、環境に関する活動をしています。いよいよ石油がなくなりそうだ、という話になっているのです。
太陽光など他の手段はあるけれど、これまで通りの電力を確保するのは、なかなか難しいみたい。
今さらですね。あなたが行った意味、最近やっと分かってきました』
小学生くらいの孫たちの写真が添付されていた。
私はしばらくその写真を見つめた。
私の記憶の中にいる息子は、まだ三歳のままだ。
その息子より大きな孫の姿を見ても、どうしても実感が湧いてこなかった。
◇ ◇ ◇
航行十五日目、0.9999999c
地球での時間経過、五十八年。
『あなたの三人の孫たちも、すっかり大きくなりました。もうすぐ、ひ孫の顔も見られるかもしれません。
ですが、私も、だんだん体の自由がきかなくなってきているので、そこまで見届けられるかどうかは、わかりません。
それから、もう一つ、
私たちは、ちゃんと幸せでした。
それだけは、伝えておきます』
それが、妻から届いた最後のメッセージだった。
◇ ◇ ◇
航行十七日目、0.9999999c
地球での時間経過、七十年。
届いたメッセージは、息子からだった。
『母さんは九十歳で旅立ちました。
親父と直接話した記憶はほとんどありません。でも、なんとなく覚えている気もします。写真を見て育ったからかもしれませんが。
俺の子供たち、つまり、親父の三人の孫たちもそれぞれ家庭を持ちました。あなたのひ孫も生まれて、全部で六人になりました。
俺も定年退職して、いまは悠々自適の生活です。親父は大変ですね。これからまだ活躍しなければならないのですから。
それから、石油がとうとう枯渇しました。
エネルギーはすでに別のものに置き換わっていますが、効率は十分ではなく、慢性的な電力不足が続いています。
それに、エネルギーだけの問題でもありません。良質なプラスチックが作れなくなったことも、大きな問題になっています。
今では、良質なプラスチックを作れる石油は宝石のような値段で取引されています。
こんなに貴重な資源を、人間はただ燃やして使っていただなんて、今になって思うと、ずいぶん贅沢なことをしていたものです』
◇ ◇ ◇
航行二十日目、0.9999999c
地球での時間経過、八十八年。
『俺の孫たち、つまり、親父のひ孫たちもそれぞれ家庭を持ちました。
親父のことは英雄だと、よく話して聞かせています。でも、ひ孫たちにはあまり実感がないみたいです。地球の未来のために人生を賭けている人だと言っても、遠い話に聞こえるのでしょう。
こちらでは、エネルギーだけでなく、水や食料など、いろいろな問題が表面化しています。
親父の仕事が、今すぐ状況を変えるものではないことは分かっています。でも、人類の未来を作るための大切な任務だということも、よく分かっています。だから、応援しています。
とはいえ――
俺にも、そろそろお迎えが来そうです。
親父の息子として生まれたことを、誇りに思っています』
◇ ◇ ◇
航行二十二日目、0.9999999c
地球での時間経過、百年。
ついに目的地 TOI700d に到着した。
地球では百年が過ぎている。
だが、この宇宙船の中で私が感じた時間は、わずか二十二日だった。
百光年離れた地球では、私たちは英雄として語られているらしい。
いつもの通信端末を開いてみる。
だが、個人宛てのメッセージは届いていなかった。
妻と息子は、すでにこの世を去っている。
地球から送られてきた記録によれば、私には会ったことのない大勢の家族がいる。
七十歳前後の孫が三人。
ひ孫が六人。
そして、ひひ孫が十一人。
私は貨物庫から、百年前の地球で妻が焼いたシュトーレンを取り出した。
一口かじる。
妻の焼いたいつものシュトーレンの味だった。
妻は四十年前に他界しているというのに。
さて、これから、この惑星の開拓を始めなければならない。
多くの人々を受け入れるための拠点を作る大仕事だ。
やる気と使命に満ちて地球を旅立ってから、体感時間ではまだわずか二十二日しか経っていない。
だが――不思議なほど、やる気が湧いてこなかった。
私は、シュトーレンをもう一口かじる。
ここは、地球の未来を賭けた未知の惑星。
しかし、私が今帰りたい場所は、百光年の彼方にある、百年前のあの小さな家だった。




