第4話 青春18きっぷ
デートは楽しいはずの時間だった。
美味しいものを食べて、きれいな魚を見て、天気も良くて――
全部、うまくいってるふうに見えた。
でも、私の中では何かがずっときしんでいた。
小さな不安が、音もなく積もっていた。
電車に乗る直前、駅前のベンチで並んで座っていたとき、
私は何の前触れもなく、口を開いた。
「……別れたい」
彼が振り向いた。
少し驚いたような、冗談かと思ったような顔だった。
「……え?」
「ごめん。なんかもう、いろいろ疲れちゃって」
うまく説明できる理由なんて、実はなかった。
ただ、不安が胸を突き上げて、気づいたときには言葉になっていた。
唐突だった。
でも、自分でも止められなかった。
駅前には、少しだけ風が吹いていた。
街のざわめきが遠くに聞こえた。
彼とは、もう10年近くの付き合いになる。
最初のきっかけは、ほんの小さなもので、
私が高校生のとき、深夜に投稿したツイート――
「宇多田ヒカルって、なんであんなに歌詞沁みるんだろうか。」
それに、ぽんと“いいね”がついた。
知らないアイコン、知らない名前。
だけど、なんとなく気になって、プロフィールをのぞいた。
そして、彼も宇多田ヒカルが好きだった。
それだけの偶然だったはずなのに、気がつけば毎日のようにやりとりをしていた
気づけば、彼とは5年もやり取りをしていた。
それなのに――会ったことは、一度もなく
電話も、ビデオ通話もなし。
ただ、文字だけだった。
日々のあいさつ、深夜の愚痴、音楽の話、
まるで日記のやりとりみたいに、私たちは毎日言葉を交わしていた。
ただ文字だけで繋がっていた相手
声も知らない。背丈も知らない。
でも、不思議と“近さ”は感じていた。
その頃の私は、会うことが少し怖かった。
想像が壊れるのが怖くて、踏み出せなかったのかもしれない。
会うきっかけは、本当にどうでもいいようなことだった。
幼馴染と行く予定だったディズニーランド。
チケットは取ってあったのに、前日の夜になってドタキャンの連絡が来た。
「急にバイト入っちゃって、ごめんね」
仕方ないとは思ったけど、モヤモヤは残る。
そのまま、誰に言うでもなく、SNSにこぼした。
「ディズニー行く予定だったのに、チケット余った…1人ディズニー泣」
すぐに反応したのが、彼だった。
「行く?」とも、「誘ってくれ」とも書いてないのに、
彼は自然にこう返してきた。
「それ、高額なチケットなのに」
冗談みたいなテンションだったけど、
「明日空いてたら行きませんか?」
なぜかその時だけは、自分から誘ってしまった。
――いいよ、じゃあ、行こうか。
人見知りのくせに、私は誘ってしまったのである。
しかも、初対面がまさかのディズニーランド。夢の国である。
普通は、駅前のカフェとか、無難な居酒屋とか
なぜいきなり、世界一ハードルの高い初対面デートを選んだのか。
過去の私に問い詰めたい。
「チケットが余っていたから仕方ない」――そういう言い訳を、私は胸に抱えて舞浜に向かった。
内心は、心臓がパレード中の音楽みたいに鳴っていた。
ホームで待ち合わせして、彼と目が合ったその瞬間、
私はなぜかこう思った。
――あれ、思ったより普通の人だと。
たぶん彼も同じようなことを思ったんじゃないかな。
あの時の空気は、たしかにぎこちなかったけど、
夢の国の力ってやつはすごい。ミッ○ーが全部を中和してくれた。
なんとなく、その日を境に、私たちは“画面の向こう”から、“現実”になった。
趣味も、なんとなく似ていた。
音楽の話をすれば、宇多田ヒカルの歌詞に同じタイミングでうなずくし、
特別に盛り上がる話がなくても、会話は続いた。
無理にテンションを上げなくても、静かに笑い合える関係が心地よかった。
何度か会ううちに、私たちはすっかり“画面越しの知り合い”ではなくなっていた。
彼から「…付き合ってほしい」
驚きよりも先に、“ああ、そうなる気はしてた”という静かな納得があった。
そして私は、うなずいた。
当時、私は24歳。
友達の結婚式に呼ばれる機会も増えはじめていて、
「次は誰かな」なんて冗談が飛び交うなかで、
恋愛も“将来”と切り離せなくなっていた。
“未来を見据えて”なんて、少しだけ背伸びした気持ちで
子どもの頃に思い描いていた“普通の幸せ”に、
そっと近づける気がしたから。
でも気づけば、付き合って3年が経っていた。
季節が3巡する間に、いくつもの街を一緒に歩いたし、
何度も喧嘩をして、そのたび仲直りもした。
彼の好きなコーヒーの銘柄も、苦手な野菜も覚えた。
でも、そのどこにも――
“結婚”という言葉はなかった。
焦っていたわけじゃない。
だけど、誰かの結婚報告をSNSで見かけるたび、
胸の奥でそっと針のような違和感が刺さるようになった。
「このままずっと、付き合っていくんだろうな」
それは希望でもあり、不安でもある曖昧な未来で。
私は、ただ静かに、その言葉を待ち続けていた。
結婚の話は、2年待っても、3年待っても
いつまで経っても彼の口から出てこなかった。
代わりに聞こえてくるのは――
「子供がいるとさ、すごくお金かかるよね」
「子どもはまだいいや」
「結婚式とか、俺はいいかな。あんなの見せものみたいで嫌だし」
「マイホームはいらないなー」
彼なりの価値観なのだろう。
誰かに押しつけられた夢ではなく、自分の生き方を選びたい人なのだとわかっている。
だけど、そういう“現実的な発言”が続くたびに、
私はまるで、自分がコストや手間の一部にされているような気持ちになっていた。
だけど、何かが少しずつ、ずれてきている気がしてきたほんの一度、時計の針が微かにズレたような感覚。
最初は気づかないくらいの差だけど、時間が経てば経つほど、その誤差は大きくなっていく。
誰もが夢を見るものだと思っていた。
いい人と出会い、恋をして、結婚して、幸せになる――
ドラマみたいな奇跡じゃなくていい。
ささやかでも、穏やかでも、
自分なりの幸せに手が届くと、信じていた
彼と過ごす時間は、嫌いじゃない。
だけど、夢の続きを語るたびに、
返ってくるのは現実の数字と、慎重な言葉だけだった。
「現実はしょうがない」
お金のこと、将来のこと、生活の安定。
わかってる。全部大事だ。
きれいごとじゃ生きていけない。
夢だけじゃ生きていけないことも理解している。
でも、現実の中でも、ほんの少しでもいいから夢を見させてと…そういう淡い期待を、していた。
過去に散り積もったものが、ついに形を持った。
「……別れたい」
その言葉が口をついて出た瞬間、彼の顔がぽかんと固まった。
まるで、まだ愛がそこにあると信じていた人間の顔だった。
「結婚も考えてたんだよ? 転職して群馬から引っ越して、そっちの近くに住む計画もしてた」
彼は、まるで最後のカードを切るように言った。
けれど、その言葉が届くには、私はもう遠くに来すぎていた。
「……ごめんなさい」
それだけが精一杯だった。
心はもう、戻れない場所にいた。
あの時なら嬉しかったのに、
どうして今なんだろうって思ってしまった。
未来を語られるほど、
自分の心がもうそこにないことを突きつけられる。
たぶん、愛はまだ、そこに“ある”のかもしれない。けれど、“戻れない”ってこともあるのだ。
重たい空の下、私は足早に駅へ向かい、無言のまま電車に乗った。
窓の外は何も変わらない日常の景色なのに、
見慣れたはずの街並みが、やけに暗く感じた。
これで良かったのだろうか。
何度も、何度も、心の中でその問いが反響した。
改札口を出たあとふと目に入ったのは、駅の端にある販売機だった。
その前でしばらく立ち尽くして、無意識に手を伸ばした。
「青春18きっぷ」
使い方もよくわからないまま、なんとなく昨日見たポスターに惹かれて手に取った。
………旅に生きたい
フレーズにただ、その言葉にすがりたかったのかもしれない。
今の私に“青春”なんて似合わないのに、それでもこの一枚が、今の自分をどこか違う場所に連れていきたかった。