第3話 言えない本音。
ニート五日目。土曜日、快晴。
今日は土曜日。
世間は休みで、街は少しだけ明るい顔をしていた。
それなのに、何もしない自分だけが、
取り残されているような気がした。
今日は、彼が群馬から東京に来る。
仕事を辞める前から決まっていたデートだった。
彼が群馬から東京に出てくるのは、だいたい月に一回、二回くらい。
今回は、私の都合に合わせてくれる約束だった。
この三日間
「何時に終わりそう?」
「 今日もお仕事お疲れさま!頑張ったね!」
そんなLINEの通知が届くたび、胸が少しざわつく。
「うん、和也さんもお疲れさま」
昨日の私は、“働いているフリ”をしたまま、
「今日もくたびれたよー」なんて、嘘のメッセージを送る。
デートの約束は、嬉しいが
でも、その裏にある自分の嘘が、ちょっとだけ胸に刺さる。
本当は、一日中暇なのに。
会社も、上司も、出勤表も、もう私には関係がないのに。
“仕事あるふり”をするのが、こんなに疲れるなんて。
私、今、時間ならいくらでもあるんだよな。
けれど彼は、まだそれを知らない。
10時に上野駅のホームで待ち合わせをした。
休日のホームは、どこか浮かれた空気が漂っていて、
周囲の会話や足音が少しだけ眩しく感じる。
「久しぶり」
そう言って彼は、いつも通りの落ち着いた顔で立っていた。
黒のジャケットに、少しだけ整えられた髪。
なんてことない服装なのに、“公務員らしいきちんと感”が滲んでいる。
私は少し、うまく笑えなかった。
向かったのは、品川の水族館。
前から行きたいと言っていた場所。
言い出したのは私だったはずなのに、
今日の私は、なぜか少し遠くにいるような感覚があった。
クラゲの前で立ち止まる。
淡い光の中を、ただ漂うその姿が、今の自分みたいで少しだけ切なかった。
「このあと、どこかでランチでもする?」
彼の声が優しく響く。
「うん、そうしよっか」
私はうなずいた。
“仕事の疲れを癒しに来た”ふりをしたまま。
品川のカフェで、オムライスを食べていた。
ふわふわの卵にナイフを入れると、黄身がとろりと広がって、
休日らしい穏やかな時間がそこにあった。
「仕事、忙しい?」
彼がふいに、そんなことを聞いてきた。
フォークを口に運ぼうとした手が、少しだけ止まる。
「うん、まぁ、そこそこ…」
そう答える声が、ほんの少しだけ遅れたのは、自分でもわかっていた。
彼は、特に悪意もなく世間話を続けていた。
「実は仕事ね……」
言いかけたそのときだった。
奥から、ガチャン!と派手な音が響いた。
ウェイトレスの女性が、トレーごとグラスを落としてしまったようだった。
水が床に広がり、何人かの客が一斉にそちらを見ている。
「ああ、あれ結構派手にいったな…」
彼が苦笑しながら呟いた。
私の口元には、まだ言い終えなかった言葉の残りが、ぽつんと取り残されていた。
けれどもう、あの音にかき消された一言を、再び口にするタイミングはどこにもなかった。
「最近さ、共働きが普通っていうか…やっぱり女性も働く時代だよな」
そんなふうに言って、コーヒーに白いミルクが、黒い液体の上にゆっくりと広がっていく様子を、私はぼんやりと見つめていた。
「仕事って、やっぱり続けることが大事」
彼はそう言った。いつもの、理路整然とした口調で。
彼は市役所勤めの公務員。
残業は多いけれど、休みはきちんとあって、ボーナスも出る。
未来の話をするときは常に“安定”が前提だった。
私はと言えば、
その“安定”を、自分の手で手放してきたところだった。
仕事を辞めたことは、まだ言えていない。
今日は、口に出す気力がどこかへ行ってしまった。
「最近ちょっと忙しくて、気持ちが疲れててさ」
そう言えば、彼はすぐに「大丈夫?」と言ってくれる。
優しい。
でも、その先にはいつもこう続く。
「でも、仕事はやめちゃダメだよ。人生、詰むから」
その言葉に、私は笑ってごまかすしかなかった。
詰んだ、とまでは思っていない。
ただ、ほんの少しだけ、遠くに逃げたくなった。