第2話 28歳、青春やりなおし中。
普通だったら、仕事をしながら次の職を探すのが“正しい手順”だろう。
安定した収入を得ながら、こっそり転職サイトを開いたり、面接の予定をやりくりしたりして。
世の中の「ちゃんとした人たち」は、きっとそうしてる。
……けど、私はそうできなかった。
満員電車に揺られて、パソコンに向かって、作業して、残業して。
そんな日々の中で、履歴書を書く余裕も、未来を描く力も、どこかに置き忘れてしまった。
だから私は、ある日ふっと、何も決めないまま、仕事を辞めてしまった。
勢いだった。たぶん、あれは。
何かが――ほんとうに、プツンと音を立てて切れたように感じた。
はっきりとした理由なんてない。
怒鳴られたわけでも、失敗したわけでも、誰かに裏切られたわけでもない。
ふと思ったのだ。
“ちょっと休憩がしたいな”と。
目の前に上司がいたから、
「仕事辞めたいです。やりたいことがあるんで」
そう言って、会社を辞めた。
実際、そう言うしかなかった。
理由もなく辞めます、なんて、そんな正直者は社会では通用しない。
でも本当は、やりたいことなんて、特になかった。
本当に勢いだった。
退職の手続きを終えると、あとは流れるように進んでいった。
コロナの影響もあって送別会はなかったけれど、気づけば机の上に、花束とお菓子の詰め合わせが置かれていた。
先輩が照れくさそうに「これ、みんなから」と手渡してくれて、
先輩はいつもの調子で「太らないうちに食べなよ」と笑った。
そして、色紙。
寄せ書きの中には、思っていたよりもずっと優しい言葉が並んでいた。
「次の仕事頑張れよ」「いつも助けられてました」
そんな風に書いてもらえるほど、私はちゃんとこの会社で頑張っていたみたい。
「次の仕事は何するの?」
誰かが気軽に尋ねたそのひと言に、私は少しだけ間をあけた。
本当は、何も決まっていない。
やりたいことがあるわけでも、次に進むあてがあるわけでもない。
でも沈黙が長くなるのが怖くて、
口をついて出たのは、
「うーん、また建築かなー」なんて、曖昧な嘘だった。
笑いながらごまかしたけれど、
心のどこかで、その嘘がじんわりと自分を苦くする。
誰のためでもない、変なプライドだった。
退職は、ただの事務処理のひとつとして、
静かにスムーズに、終わった。
この先どうしよう。
そう思いながら、でも特に何かをするでもなく──
テレビをつけては消し、スマホをいじっては放り出し、
結局、何も“始める”ことなく過ぎていった。
それでも一日は終わる。
太陽は沈むし、夜はやってくる。
そんなふうにして、ニート 一日目は終わった。
最初の三日は、自由って素晴らしいと思った。
四日目は、ようやく「何かしなきゃ」という気分になり、重い腰を上げた。
向かった先はハローワーク。
別に急に仕事を探す気になったわけでもなく、
とりあえず“やること”が欲しかったのだ。
受付票を書いて、番号札をもらって、待合室の椅子に座る。
周囲の人たちも、きっと何かを失って、そして何かを探しに来ている。
でも、誰もそんなことは口にしない。
「失業保険の申請ですね」
職員の人がてきぱきと説明する横で、
私は自分の現状を“失業”と名付けられたことに、少しだけ自分がこの社会から少しだけ外れた場所に立っているような感覚に陥った。
世界はちゃんと動いている。
でも、私だけがそのレールの外にいる気がした。
理由はわからない。
でも、たしかにそんな感じがした。
SNSを開くと、同級生たちは、
結婚し、葛藤しながらも子どもを育てをし、家族写真をアップしている。
「○歳になりました」
「結婚しました」
「名前変わりました」
「新しい家、建てました!」
まるで人生のチェックリストを、順番通りにきちんとこなしているかのように羨ましいとも、少しだけ思った。
ハローワークの手続きも終わり、ひと息ついた帰り道。
駅の階段を上がる途中、ふと目に留まったのは一枚の観光ポスターだった。
ローカル電車、温泉、緑に囲まれた山々、湯けむりと小さな宿。
「大人のひとり旅」と書かれていたその言葉に、なぜだか心が揺れた。
ただの広告。
けれど、あまりにもよさそうで行ってみたくなった。
せっかく長い休みだ。
何かしら人生に行き詰まって手に入れた“自由な時間”なんだから、
せめて少しは、贅沢に使ってみてもいいじゃないか
そう思った。
転職活動を始めるには、まだ気持ちが整っていない。
家に閉じこもっていても、自己嫌悪ばかりが積もる。
だったら、遠くへ行こうか。
見たことのない景色を、ただ眺めに行くだけでもいい。
誰も私を知らない土地で、少しだけ時間をリセットしてみたい。
理由は後からついてくる。
とりあえず、移動手段だけ探してみようかな。
どこにでも貼ってあるような、ありふれた旅のポスター。
けれど、その一枚が、妙に胸に引っかかり
ニート四日目にしてはちょっと前向きだった。