第73話 昔の話
由美の住むマンションについた。真人がここに来るのは、かなり久しぶりだ。夏休み中にもバイトで由美が遅くなる時は近くまで送ったりしたのだが、マンションまでは一度も来なかった。
何となく懐かしい気持ちになりながら、真人は由美の後ろをついて歩く。
「あら。由美ちゃんじゃない。今帰り?」
「林さん。こんにちは。今帰りですー」
彼女は林|久美子。由美と同じ階に住んでいる、長話が好きなおばさんだ。中学2年生の男の子、康弘の母親でもある。
「こんにちは」
由美の横にいた真人も、挨拶をしない訳にはいかないのでペコリと軽く会釈をして挨拶をした。すると、久美子は興奮した様子で真人と由美を交互に見た。
「あらまあ、こんにちはー。もしかして、由美ちゃんの彼氏さん?」
ニコニコと穏やかな笑みを浮かべているが、やはり興奮しているようだ。顔が真人の近くまで来ていて、確かな圧を感じる。
「い、いえ……。父親同士が同じ職場で働いてまして。今日はそれで、父とお邪魔することになったんです」
真人は圧に戸惑いつつも、きちんと説明をする。
「あら、そうなの? 美男美女だからお似合いだと思ったんだけど。由美ちゃんはいい子よぉ。いつも家の手伝いをしていてね。お料理上手だそうだし!」
「あわ…林さん……!」
由美は褒められると、おろおろと恥ずかしそうに手をさ迷わせる。最終的に行き場の無くなった手は、スクールバッグをぎゅうっと抱えて顔を隠す手伝いをしていた。
「バイト先でもみんなに頼られてますよ。世話焼きで優しいですし。俺も彼女はとってもいい子だと思います」
「北川くんまで……」
由美は真人にまで褒めちぎられて、更にぎゅうっとスクールバッグを抱きしめた。
「まあ、うふふ……」
久美子はニマニマとからかうような笑みを浮かべてから、真人に由美を売り込む勢いで、色々なことを話した。久美子は由美が生まれる前からここに住んでいるらしく、由美が生まれた頃の話まで聞かされてしまった。
「そ、そうですか……」
「は、林さんってばあ」
由美はいたたまれなくなって、ぎゅうっとスクールバッグで顔を隠しながら、小さくなる。
真人もこんな風に彼女の昔話を聞かされて、申し訳なさと戸惑いがあった。それでも途中で止められなかったのは、久美子の勢いと、ほんの好奇心だった。
「色々聞かせてもらって嬉しいんですけど、食材もありますし、そろそろ……」
真人がそう切り出すと、久美子はハッとした。
「あらやだ。ごめんなさいね! 私も買い物に行くところだったの。とにかく私が言いたかったのは、由美ちゃんは昔っから本当にいい子だって事! 手放しちゃ損よ?」
「あはは。覚えておきます」
最後に挨拶を交わして、久美子はエレベーターの方へ向かう。真人は、恥ずかしそうにしている由美を宥めながら、由美が住んでいる部屋へと向かった。由美は今もまだ顔をあげられないらしく、スクールバッグで隠したままだ。
「浜野さん。前見えてる? 気をつけてね?」
「う、うん……」
何とか家の前にたどり着いて、由美は鍵を開けて中に入れてくれた。
「に、荷物…ありがとう……」
「ああ、うん」
未だに赤くなってる由美だが、やはり手際は流石のものだった。サッと手を洗い、エプロンを身につける。そして、今買ってきた食材を綺麗に分けた。
真人は久美子が褒めていた言葉を思い出しながら、凄いな。と思う。
「俺はさ、小さい頃から惣菜とかインスタントとか、外食ばっかりに慣れてて、親のために自炊しようとか、考えたこと無かった」
「え?」
「浜野さんは小さい頃から、お父さんのために料理を覚えようと星野店長に教わって、凄いな」
真人はニコッと優しく微笑んで、そう言った。いつも遠くを見つめている瞳に似ているが、彼の瞳はきちんと自分を捉えている。由美はそれがわかって、嬉しかった。
「林さんだっけ? あのおばさんの言う通り、本当に昔からいい子だったんだろうね。浜野さん。今もすげえいい子だし」
「……そ、そんな風に褒められると恥ずかしいわ」
それでも褒められるのは恥ずかしいらしく、由美はパッと前を向く。
「北川くんの小さい頃は、どんな子だったの?」
由美がそう聞いてみると、真人は座っていた場所から由美のそばに移動して、手伝う。と言ってくれた。今は水道水で手を洗っている。
「お皿を出すくらいしかできないと思うけど」
「それでも助かるわ。ありがとう」
由美が食材を切る手元を見つめながら、真人は先程の由美の質問に答えた。
「母親が早くに亡くなった反動なのか、好きな子にベッタリな甘えた奴だったよ」
「……北川くんの好きな人」
由美は拓真の家でのことを思い出して、俯いた。熱に魘されながら呟いた名前。明里という女の子。
「うん。今はもう会えないけど。ちょっと浜野さんに似てたな。芯の通った子だったんだ……」
由美はこれ以上は聞けずに、「そっか」と短く返してから、料理を進めた。真人もこれ以上は何も言わずに、由美が料理をしている手元をじっと見つめている。
「えーっとお皿お皿」
由美がお皿を取ろうと背伸びをすると、手を伸ばしたその後ろから、真人の手が伸びてくる。
「どれ?」
「わ。北川くん」
真人が近くに迫って来たものだから、由美は驚いてパッと手を引っ込める。
「えっと、左から2番目のお皿……」
「ん」
真人が取ってくれたお皿に野菜を盛り付けてから、由美は真人の顔色をチラッと覗く。
真人は何を考えているのか、由美の方から目を逸らして軽く伏せている。表情だけでは分からないが、彼の姿は何となく寂しそうに見えた。
「北川くん」
「ん?」
由美が声をかけると、真人はいつも通りの顔で由美に視線を合わせてくれる。それでも、やっぱりさっき見た真人の姿が寂しそうだったから、由美はパッと手を差し出した。
「? ……何?」
真人は戸惑いつつも、由美が差し出している手に自分の手を近づけてみる。すると、由美がその手を両手で包み込んでくれた。
「浜野さん?」
「北川くん、なんだか元気がないように見えたから」
ぎゅうっと両手で強く握ってくれている由美の手は、とても頼もしく見えた。
「余計なお世話だったかしら?」
「……ううん。ありがとう」
真人は由美に握られた手を見つめてから、もう片方の手で由美の手を撫でる。
「気を遣わせてごめんな。変なこと言っちゃったなって、反省してたんだ」
「変なことだなんて。北川くんの思い出は変なことじゃないよ。ただ、私が北川くんの気持ちを想像できないから……。何も言ってあげられなくてごめんね」
「浜野さんが謝るなよ。今、浜野さんに手を握ってもらって、本当に嬉しいんだ」
真人は由美の手を撫でながら、そう言った。
「前に浜野さんが、嬉しいから抱きしめたいって言った気持ちが分かる気がする」
「へっ!?」
由美は驚いて、真人から手をパッと離した。真人はクスッと笑ってから、挑発するように口角を上げる。
「ほら。言われる側になると戸惑うだろ? 本当に抱きしめようだなんて思ってないよ。そんな事したら、痴漢で父さん達に捕まっちゃう」
由美は顔を赤くして、真人を睨む。
「何だよ。前に驚かされたんだから、仕返ししてもいいだろ?」
「もう」
由美はプクっと子どものように頬を膨らませてから、くるりと調理台の方に身体を向ける。
「またお皿出して欲しい時にお願いするから、座ってていいよ」
「見てちゃだめ?」
「別にいいけど、見てて楽しいの?」
「うん。ほしのねこでもそうだけど、テキパキやってんのすげえなって」
「そう。ありがとう」
由美はそう言ってはにかむと、買ってきたお肉を1口大に切り落とす。真人はこの時点では、まだ何を作るのか分かっていない。
下ごしらえが終わって、油を鍋に注ぐところでやっと気づいた。
「唐揚げ?」
「ふふ。わかった?」
「今更だけどね」
由美は当てて貰えたのが嬉しいのか、楽しそうに鼻歌を歌いながら、今度は卵をお椀に割ってとく。
「卵?」
「うん。北川くん。そっちの、下から2番目の引き出しに鶏がらスープの素と乾燥ワカメがあると思うから、取ってもらっていい?」
「この引き出しだな」
真人は由美に言われるがまま、引き出しを開いて使いかけのスープの素と、乾燥ワカメを取り出した。引き出しには、他にもコンソメの素や出汁を摂る用の昆布やにぼしが入っている。きちんと料理をする家庭の収納といった感じだ。
「はい」
「ありがとう」
「俺、卵スープ好き」
「よくわかったね」
「流石にね」
スープの素と卵が揃っているのだ。真人でもさすがに気づいた。由美がスープの素を入れた鍋に火をかけた頃、玄関の方でガチャガチャと鍵の開く音がした。




