001 高校進学
「んふふ~ん、明日は入学式~」
茅吹マリナは自分の部屋で、壁に掛けた高校の制服を眺めてニマニマしていた。皺1つない真新しい制服は、マリナが袖を通すのを待っているかのようだ。
「マリナ~、ちょっといい? 買い物お願いされて~」
「はーい」
階下からの、母のマリコの呼ぶ声に、マリナは返事をしながら部屋を出て階段を下りた。キッチンを覗くと、マリコが夕食の仕込みをしているようだ。精製水メーカーの社長として忙しい日々を送っているマリコだが、朝食の支度は必ずするし、休みの日にはこうして夕食の支度もする。
「何買ってくればいいの?」
「お米。明日の分がもう無くて」
「はーい。お金は?」
「ちょっと待って」
手を拭いてアイランドキッチンから回って来たマリコは、左腕に巻いたブレスレット・デバイスを差し出した。マリナも左腕を差し出す。
2人がデバイスを操作すると、浮かび上がったパネル上に映し出された数字が、マリコからマリナへと移る。
「これ多くない?」
「お釣りはとっておいていいわよ」
「いいの? やったっ。じゃ、行って来ま~す」
マリナは買物籠を持つと、キッチンを出た。
玄関へ行くと、横の棚から自分のライブギアを取る。
「あ、お水補給しておいた方がいいかな?」
一度ライブギアを置いて、その後部からオーキス・リアクターのモジュールを外し、玄関横の部屋に入って精製水サーバーにモジュールをセットする。
ボタンを押すと、赤いランプが点灯し、待つほども無く緑に変わった。
「これで良しっと」
サーバーからオーキス・リアクターを外して玄関に戻り、ライブギアに装着してロックしたマリナは、ライブギアを背負ってベルトで固定し、靴を履いた。
「行ってきますっ」
家の中に向かって大きな声で言い、マリコの「行ってらっしゃい」と送り出す言葉を背に、マリナは玄関から外に出た。
行きつけのスーパーマーケットへと歩くマリナは、途中にある公園の横を通る時に、数人の子供たちが集まっていることに気付いた。子供たちは、公園の端に生えている木の下に集まって、上を見上げ、長い棒を持って上を突ついている。
(何してるのかな?)
少し気になったものの、そのまま素通りしようとしたマリナだったが、子供たちの中に見知った背中を見つけて、声を掛けることにした。
「サシャちゃん、どうしたの?」
「あ、マリナおねえちゃん」
三軒隣に住んでいる、小学生のサシャがマリナの呼び掛けに振り返った。サシャはマリナの手を取り、反対の手で木の上を指し示した。
「ボールが引っ掛かっちゃったの」
公園の入り口からでは木の葉に隠れて見えなかったが、ここからは木の枝に引っ掛かっている黄色のボールがよく見えた。
長い棒を持った子供が、ボールを下から突ついて落とそうとしているが、目標物が高い場所にあるので、なかなか当たらない。それに、ボールは木の枝にしっかりと挟まっているようで、棒が当たっても動きもしない。
「あれを取ればいいのね。あたしに任せて。これ持っててくれる?」
「うん」
買物籠をサシャに預けて、マリナは木の下、ボールの真下辺りに行った。子供たちが場所を空ける。
「みんな、もう少し離れててね」
子供たちが2~3歩離れたのを確認して、マリナはライブギアを起動。背中のライブギアから2本のマニピュレータがマリナの両脚に沿って下に伸び、地面に接地。マリナの身体が持ち上げられ、操作肢が両脚に装着される。
(うん、大丈夫。高さは3メートル……よりはあるかな、3・2メートルくらいかな……)
足を軽く動かして動きがマニピュレータに伝わることを確認し、膝を曲げて狙いを定め、ボール目掛けてジャンプする、
マリナの身体は軽々と宙に浮かんだ。タイミングを合わせて手を下から突き上げ、ボールを木の枝から救出する。
枝の軛から逃れたボールを空中でキャッチ、そのままマリナは地上にカシャリと金属音を立てて着地した。
「はい、どうぞ。もう枝に引っ掛けないように気をつけてね」
「おねーちゃん、ありがとうっ」
子供たちがマリナを囲み、その中で一番近くにいた子供にボールを手渡すと、彼女は満面の笑みを浮かべてマリナに礼を言った。
「おねえさん、それライブギアだよね」
「そうだよ」
「いーなー。アタシも欲しいっ」
「中学になったらみんなも使えるようになるからね」
「すぐ使いた~い」
「中学なんてすぐだから、それまで待ってね。それじゃ、あたしお買い物行かなきゃならないから、また後でね」
「はーい」
子供たちが散ってから、マリナはライブギアのマニピュレータを収納した。視点の高さが元に戻る。
「おねえちゃん、ありがとう」
「サシャちゃんも、籠持ってくれててありがとうね」
サシャから買物籠を受け取ったマリナは、手を振って友達の輪の中に戻って行く少女に手を振り返して、公園を出た。
(あたしも小学生の時はお母さんのライブギアが羨ましかったもんね)
かつての自分を見ている気分を感じつつ、マリナはスーパーマーケットへと急いだ。
「よいしょっと。ふう、重い」
10キログラムの米をカートから買物籠に入れて、マリナは一息入れた。それからライブギアを起動する。
2本のマニピュレータが、今度はマリナの腕に沿って伸び、操作肢が腕に装着される。
マリナが右手を動かすと、それをしっかりとトレースしてマニピュレータも動き、重くなった買物籠を掴んで持ち上げた。
左手のマニピュレータでカートのハンドルを握り、置き場に戻して帰路に着く。
(やっぱり手足一緒に使えないと、重い物を持った時はちょっと不便かな。だけど、それだとライブギア自体が大きくなるし)
今使っている2肢タイプのコンパクトなライブギアを気に入っているので、今のところは4肢タイプのギアに変えるつもりはなかった。
買物籠を持って家までの道を歩くマリナが行き掛けに通った公園の横に差し掛かった時、子供たちはまだ遊んでいたが、ボール遊びではなく別の遊びをしているようだ。
それを横目に見ていたマリナは、ふと違和感を感じて足を止め、子供たちを見つめた。何が違うんだろう、と思い、少し見ていて気がついた。
(あの子、男の子だ)
女の子ばかりの子供たちの中に、男の子が一人、混じっている。さっき気付かなかったのだから、後から加わったのだろう。
(見たことないな。最近引越して来たのかな?)
マリナが住んでいる街、井久佐野市の人口はおよそ8万人。現在の男女比から推測すると、約80人の男が住んでいる計算になる。実際、マリナも街で何度か男性の姿を見たことはあるものの、しかし子供たちの輪の中にいる男児を見た記憶はなかった。
年齢からそう遠出できるとも思えないから、越して来たか、親と一緒にこの辺りに遊びにでも来ているのかも知れない。
違和感の正体に気付いたマリナは、公園から目を離して足を家に向けた。
「ただいまぁ。はぁ、重かった」
家に帰ったマリナはキッチンに行き、米の入った重い買物籠ををテーブルに置いた。ライブギアの補助があった上半身……腕の疲労はないが、補助も無しに重量のかかった足はそうはいかない。
「お帰り。どうもありがとうね。30分くらいでお夕飯になるから、それまでは好きにしてて」
「はーい」
マリナはマニピュレータをライブギアに収納すると、玄関に行ってギアを背中から下ろし、いつもの棚にしまった。
「明日は入学式だし、もう一度持ち物の確認しておこっと」
買物籠を手放し、ライブギアも下ろしたマリナは、足取りも軽く自分の部屋へと上がって行った。
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「お母さん、早く早く」
「まだ時間はあるわよ」
そして翌日。マリナは母マリコを急かしていた。高校進学が楽しみで仕方ないようだ。
そんな娘を窘めつつも、マリコもマリナと一緒に玄関を出た。
マリナの家から井久佐野高校までは、歩いても20分程度なので徒歩通学の予定だが、今日はマリコの運転する自動車で行く。運転すると行っても自動運転なので、非常事態に備えて座っているだけだが。
玄関脇の駐車場に停めてある自動車に乗る。座席に身を任せると、背面がライブギアを受け止めて沈み込む。
マリコが自動車の電源を入れる。コンソールパネルに光が灯り、オーキス・リアクターの起動状況、オーキス・ジェネレーターの稼働状態、各駆動モーターのコンディションなどが表示されて行く。オール・グリーン。
「いいかしら。忘れ物はないわね?」
「うん、大丈夫」
コンソールパネルで目的地を入力した後、娘に最後の確認をしてから、マリコは自動車をスタートさせた。
マリナは、瞳に宿した期待を隠そうともせずに、進行方向を見つめていた。