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祝祭の夜と温かなテーブル




リアンは、テーブルの上の料理を、思わず凝視してしまう。

どうやら王宮で振舞われているお祝い料理とは違うようだが、それでも、立派にご馳走である。



(……………でも、もしかすると)



すっかり嬉しくなってしまい、体に巻き付けていたシーツや薄い上掛けを剥ぎ取ってテーブルに向かいかけ、リアンはぎくりとして立ち止まった。


テーブルの上の美味しそうな料理は、本当にただのご馳走なのだろうか。

腹ぺこのリアンを油断させ、この妖精はまた何か罠を仕掛けようとしているのかもしれない。


今回、王太子妃はリアンに興味を示さなかったが、とは言え、邪魔に思っていないと決まった訳でもないのだ。

二日後のお披露目にて、リアンは、儀式魔術の献上でこの国の王族達の前に立つ。

それはリアンが魔術師でなければ必要のないものなので、一介の側妃候補がそのような舞台に上がる事を、内心は快く思っていないのかもしれない。


部屋の真ん中で、へにゃりと眉を下げて立ち尽くしているリアンに気付き、ジャスワンが眉を寄せる。

だが、その理由もすぐに察したようだ。


ふっと揺らいだのは、不愉快そうに眇めた眼差しの鋭さだろうか。

それとも、なぜか一瞬だけ途方に暮れたようにこちらを見た、美しい妖精の紫がかった赤い瞳だろうか。



「……………料理には、あなたを害するようなものは何も入っていませんよ。葡萄酒を必要以上に飲まなければ、明日の生活や明後日の儀式に響くこともないでしょう」

「………っ、………私は、そこまで分かりやすいですか?」



ジャスワンは、言葉を選ばなかった。


その結果、リアンも曖昧に濁す事が出来なくなる。

こちらを見ている妖精を脅威に思うべきだし、今度はもう、何一つとして明かすべきではない。

だが、どれだけ冷ややかに線引きをし、この美しい妖精など大嫌いだと突き放そうとしても、リアンには上手く出来ないのだ。


もう、ジャスワンへの恋心はあの砂漠に埋めてきた。

彼がこの王宮で儀式長の役職を得て、シャンティアと談笑している姿を見ても未来のないリアンは胸が痛まなかったのに、今は、どうしてただ背を向ける事が出来ないのだろう。



(……………この人はまた、私を破滅させるかもしれないのに)



「ええ。それほど警戒すれば、言葉にせずとも伝わりますよ。…………ですが、この料理には何もあなたが恐れるような物は入っていません。あの寝具や、私がこの部屋に来た事も、あなたを損なう為ではない。ですが、そう言ってもあなたには信じられないでしょう。……………リアン、三年前のあの日、何がありましたか?」

「…………っ!!」



またしても、ジャスワンは言葉を選ばず、ただ真っ直ぐにこちらを見て問いかけた。

人間なら、きっと言葉を彷徨わせ、或いは慎重に選び尋ねた筈の事だ。


けれども、鋭いナイフのようにそう問いかけたジャスワンは、どれだけ人間によく似ていても、人間とはまるで違う生き物なのだった。



「少し話をしませんか、リアン。こちらに座って、まずは温かい紅茶を飲むといい。…………その様子だと、陽が落ちてから、何も食べていないのでしょう。あなたが不安に思うのであれば、都度名前にかけて誓約しますよ。妖精がそうすれば、約定を破れない事は知っている筈だ」

「……………私は、」

「あなたが、かつて私が仕えた王女ではないという言い訳は聞きません。私には、人間とは違うやり方でそれを確認し得る術がありますし、その上で無駄な議論をしても意味がない。……………ですが、まずは食事をしなさい。酷い顔色だ」



リアンは、それはあなたがいきなり秘密を暴き立てようとするからだと反論したかったが、確かに彼の言う通り、名前を使っての誓約を交わせば、妖精は嘘を吐けなくなる。


自らその提案をしたのだから、そこに乗っからない手はないなと頷き誓約を要求すると、なぜかジャスワンは嫌そうな顔をした。

自分で提案しておいて不機嫌になるのは解せなかったが、リアンは、あらためてこの妖精もこんな顔をするのだと驚いてしまった。


林檎の国の王女のよく知るジャスワンは、いつも優しく微笑んでいたが、その微笑みが本物であることも少ないような、そんな妖精だったのだ。



「……………これでいいでしょう。では……………リアン」

「むぐ!」



誓約を終え、ジャスワンは礼儀正しく晩餐を始めようとしたのだろう。


側妃としての勉強をする為に部屋にある大きな楕円形のテーブルには、二人分の晩餐の準備がある。

なぜかジャスワンもまだ食事をしていなかったようで、どうやら同じテーブルに着くらしい。

だが、リアンは誓約を終えた途端に焼き立てのパンを頬張ってしまっており、礼儀作法に厳しい儀式長の表情は呆れたようなものになってしまった。



「やれやれ。そのような有り様では、側妃としての振舞いとは言えませんよ」

「私は、魔術で貢献を果たすのですから、これでいいのです」

「………温かい食事を摂るのは、どれくらいぶりですか?」



その質問には答えず、リアンは顔を上げて少しだけ微笑んだ。

今だって、リアンという名前には頷いていないのだ。

ただ、否定もしなかったというだけである。


それに、何もリアンはずっと食事を取り上げられていた訳ではない。

昨日までは冷え切った料理は部屋に届けられていたし、リアンも、今夜程には警戒せずに魔術を使い、器用に温め直してそれなりに美味しくいただいていた。

だが、ジャスワンはまだ、リアンがそこまでの優秀な魔術師だとは思っていないのかもしれない。



それは、いつだって、誰も知らずにいた。


リアンが教えを請うたのは森や林檎畑に暮らす人ならざる者達だったし、家族はリアンが魔術に興味を持ってはいても、王女である事を捨ててまで魔術師になりたいとまで考えているとは思わなかっただろう。


あの日、林檎の木の下で魔術の話をした騎士がいなければ、リアンは、誰かに魔術師になりたいと話す事はなかった。



(でも、今思えばあれは、妖精の侵食魔術の手の内だったのかもしれない。高位の妖精は、気付かれずに相手を誘導する事に長けているのだもの)




料理は、どれも美味しかった。


リアンは少しだけ興味を惹かれてジャスワンの方を見てしまい、美しい妖精がどきりとするくらい優雅な仕草でカトラリーを扱う姿に、謎めいた敗北感を覚える。


綺麗な飴色の焼き色の付いた鶏肉にはふわりと香草のいい香りがして、かけられた果実の甘酸っぱいソースと皮目に振られた岩塩の塩味の組み合わせが堪らなく美味しい。

黄金色に焼きあがったパイの中には、林檎の香りのするベーコンと、野菜のクリーム煮が入っていた。


マスタードと酢漬け野菜を添えた祝祭日らしい贅沢なパテに、焼き栗や蒸し野菜などの載せられた小さなサラダの鉢。

全体的にはリアンの祖国の料理に似ていたが、大きな港のある街を有するこの国のお祝いによく出ると聞く、大蒜を効かせた海老の料理もある。


デザートには林檎を使ったタルトと、この国のお祝いに出て来る乾燥させた果物をたっぷりと入れたお酒の風味のある焼き菓子まで。


その全てを夢中で食べ、リアンは素敵な気持ちで食事を終えた。


食べ物にそこまでの執着はないと言いながらも随分と食べてしまったが、どれも素晴らしく美味しかったのだから仕方あるまい。

安心して食べられるご馳走が、目の前にあるのだ。

多少の現実逃避も兼ねて、心ゆくまで堪能してもいいだろう。



「…………あの日、私が部屋に戻ると、あなたの姿はなかった。この部屋と、離宮内を探し、念の為に書庫やあの回廊も探しに行きましたが、そこにも姿はありませんでした」


リアンが食事を終えるのを見計らって、ジャスワンは先程の話を続けるようだ。

成る程そういう事にしたいのかなと思いかけ、リアンは少しだけ眉を顰める。


毒を飲まされ、夜の砂漠に放り出されたリアンが聞かされた話は、果たして、本当なのだろうかと。


「その方は恐らくもう、夜の砂漠で亡くなってしまわれたのだと思います」

「……………ええ。この離宮を抜け出し、愚かにも滅びた祖国に一人で戻ろうとし、砂漠で果てたと。そう聞いております」

「であるのなら、それでいいのでは?」



信じたいものを信じて目を逸らせば、足元を掬われるだけだ。

そう思ったリアンが顔を上げると、ジャスワンは静かにこちらを見ていた。


ぞくりとするような美貌は静謐で、リアンは、そんな色彩は夜のどこにもないのに、月のない暗い夜のようだと思う。

ジャスワンの赤い瞳は、深い深い夜の奥底に沈む深い森のようだ。


紫混じりの深い赤色のどこにも森の気配はないのに、なぜだかそう思ってしまう。



「それでは、誰が私を欺いたのかが分かりませんからね」

「……………あなたを?」

「ええ。私を。……………ですが、今の言葉ではっきりとしました。あの頃のあなたは、愚かではありましたが無謀ではなかった筈だ。私との約定を破り、その誓約に手を伸ばした責任を放棄して一人で王宮を逃げ出したのであれば、私が報復するべきはあなたなのかもしれないと思っていましたが、どうやらそうではないらしい」

「…………あなたは、私があなたを欺き、…………いえ、その方があなたを欺き、」

「リアン。ここでそのように言い換える必要が、今更ありますか?」



そのジャスワンの声は穏やかだったが、僅かに苛立ちのようなものも感じられた。

リアンは小さく息を吐き、ここで、力のある妖精を不機嫌にするだけの嘘を重ねる必要もないかと腹を括る。



「あなたは、私があなたを欺き、ここから逃げ出したと思っていたのですか?」

「長らくは。………そして、死んだのだと思っておりました。あの砂漠には確かに、人間の死に近しい痕跡がありましたからね」


その言葉に、リアンは思わず身動ぎしそうになった。

それならジャスワンは、リアンが放り出された砂漠に、リアンを探しに出たのだろうか。



「……………あの日、このまま離宮に留まるのは危ういからと、…………そのように手紙を残し、私を王宮の敷地の外に逃がそうとしたのは、あなたではないのですか?」



何となく答えは分かっていたが、リアンはそれでも問いかけてみた。


こちらを見ていたジャスワンの瞳がすっと細められ、凍えるような剣呑さを帯びる。

抑えてはいるのだろうが、ジャスワンは高位の妖精だ。


その気配の鋭さに思わず肩を揺らしてしまい、気付いたようにジャスワンが気配を緩めた。



「…………私以外の誰かの思惑でしょう。あの死者の回廊で、私は、あなたの手を取った。その時に交わした言葉に偽りはありません」

「けれども、あの時のあなたは、選んで口にした言葉程には、私を案じてはいなかったのでしょう」



そう言ったリアンに、こちらを見ていたジャスワンの瞳が僅かに揺れる。

リアンがそれを見抜いていたのは、意外だったのだろう。


けれども、どれだけ動揺していても、どれだけ信じたくても、時として人間は残酷な真実こそ見えてしまうものなのだ。



「………かもしれませんね。あの時の私はまだ、…………なぜ、目の前の人間をそんなに気に入っているのかを、自分でも理解していませんでしたから。……………ですが、あの段階でも恐らく、万全ではなかった。だからこそ、……………彼等に付け込まれたのでしょう」

「という事は、…………私を助けてくれようとはしたのですね」

「敢えて言いますが、あの場で私が言った事は全て真実ですよ。あなたの弟も、苦しまずに死んでいる」

「……………ええ。それは、後で確認しました」


リアンが告げた言葉にジャスワンが頷いたのは、死者の日に再会したと考えたのだろう。

だからリアンは、その誤解を解かずにおいた。

腕のいい魔術師には、いつだって秘密が必要なのだ。


「成る程。……その後は、あなたも慎重になられたようだ」

「ならざるを得ませんでしたから。私は、最後まで迂闊で、そして愚かでした」

「最後まで?…………それでも生き延びたのに、なぜここに戻ってきたのですか?…………私が訪れた砂漠には、見間違えようのない痕跡が幾つか残っていました。見逃されたのでもなく、逃げおおせたのでもない。あなたは、運よく生き延びられたに過ぎないというのに」



(ああ、そうだ……………)




リアンは有能な魔術師であったが、夜は冷えるので暖かい飲み物を飲んでからという言いつけを律儀に守ってしまい、用意されていた花茶を飲んでいた。

ティーポットの中で花びらの広がるお茶は、植物の系譜の妖精であるらしいジャスワンがよく飲ませてくれたもので、そんなところからも、ジャスワンの手配だと信じて疑わなかった。


遅効性であった致死量の毒を飲まされ、拘束されて投げ捨てられた夜の砂漠が、どれだけ寒かったか。

あっという間に氷のようになってゆく指先で魔術を描ける筈もなく、声を上げることも叶わなかった唇では、詠唱すら難しかった。


ただ冷たい夜の砂漠に一人で横たわり、ゆっくりと星空を見上げて死んでゆく感覚。

助けてと呼びたい誰かはもう、みんな、リアンのせいで死んでしまっていた。



あの、寒くて寒くて堪らなかった夜。



「…………毒を飲まされ、夜の砂漠に放り出されれば、人間は簡単に死んでしまいます」

「っ、…………」


そこで初めて感情の揺らぎを露わにし、言葉を失ったジャスワンに、リアンは薄く微笑むに留める。

だって、他にどんな表情をすればいいのだろう。

苦しくて怖かったのだと訴える程、ジャスワンは、リアンに近しい人ではない。

もし、あの夜にリアンを陥れるのに使われた情報が、ジャスワンの裏切りによるものではなかったとしても、だからといって、この美しい妖精はリアンの友達でも家族でもないのだから。


そのことに、もっと早くリアンは気付くべきだったのだ。


「ではなぜ、この国に戻ったのですか?伯爵家の思惑から逃れられなかったのであれば、側妃候補にされるまで、自身の能力を誇示するような必要もなかった筈です。それなのに、ここまで来てしまったということは、今もまだ、災いの書を開くつもりだからなのでしょう。それは、あなたの意思ですか?それとも、妖精と交わした約定を破ることが出来ないと知っているからですか?」

「まだ、あの時の会話を覚えていたのですね」

「言った筈ですよ。あの時の会話に、嘘はなかったのだと」



(ここからは、絶対にこの妖精の反応を見誤らないようにしなければ…………)



息を吸い、そう自分を戒める。

自分がリアンだという事が明かされても、今ならまだ、リアンの秘密は守る事が出来る。

だが、あの日に交わした会話をジャスワンが忘れていないのなら、こちらの目的を隠し通すのはやはり難しいだろう。


では、何を選ぶべきか。

残されたものも少ない人間は、最後の嘘に何を選べばいいのだろう。


「今度こそ、カリアム殿下に私の価値を認めて欲しいのかもしれません」

「もし、そんなものが理由だというのなら、あまりにも愚かな選択ですね。……………ですが、あなたが今もあの男に執着や恋情を残しているにせよ、そればかりではない筈だ。でなければ、シャンティア妃の突然の訪問を知らされた日、あなたがああも冷静であった筈がない」


そこでジャスワンは、何を言っているのだと、思わず憮然としてしまったリアンの顔を見たのだろう。

僅かに瞳を瞠り言葉を切ってから、なぜか、ふっと満足気に微笑んだ。


「……………成る程。執着も恋情も残していないのなら、復讐の為にここに戻ったのでしょう」

「そもそも、私はあの方に対しては、最初から執着も恋情も抱いてはおりません。この国に来るまで、お会いしたこともなかった方なのですから。とは言え、見付かって望まれてしまった以上、私の国が、カルフェイドの王子の申し出を断れると思いますか?」

「………いえ、難しいでしょうね。ですが、あなたには想い人がいたと聞いていましたが」



思わずと言った様子でそう呟いたジャスワンに、リアンはぎくりとした。


リアンが林檎畑で見かけた美しい妖精に恋をした話をしたのは、小さな弟だけだ。

であれば、この国に招かれた弟が、その時の話の何かをジャスワンに伝えてしまったのだろう。


年に見合わない程に、聡明なところのある弟だった。

叶わない恋を持ったまま大国に召された姉の為に、小さな子供なりに、ジャスワンに何かを伝えようとしてくれたのかもしれない。



「…………ずっと昔の事ですし、そのような思いはもうありません」


きっぱりとそう告げたリアンを、ジャスワンはじっと見ていたようだ。

だが、それ以上は何も言わず、話題を変えてくれた。


「あの時は言及しませんでしたが、手にした災いの書を開くつもりであれば、災いを呼び込む者にも、相応の対価が求められます。あなたに、今もそれを支払う覚悟はありますか?」


今やもう、摩耗されるばかりの奴隷上がりの従者ではなく、儀式長の肩書を持つジャスワンだ。

てっきり、思い留まるように説得されるのか、何を馬鹿な事をと呆れられるのかと言われる可能性もあるぞと思っていたリアンは、そんな言葉をしっかりと思案する。


ジャスワンが、何一つ満足に出来ない王女だと失望されるばかりだったリアンがもう、この広い王宮に隠された災いの書の在処を見付けているのだろうと考えていたのが、少し意外だったのだ。


(生活に使われる魔術と、災いを取り扱う魔術は領域が違う。だからこそ、私はジャスワンの授業を受けられたのだ)


魔術師から魔術を学んでこなかったリアンは、基礎が、がたがたであった。

そんな基礎を学ぶくらいなら大したことはないのだろうと誤認させ、災いの書を扱える程の魔術を有している事を隠せると思っていたのに。


(ジャスワンは、私が三年前に交わした約束を果たす為に、渋々この王都に戻ってきたと思っているのだろうか……………)


確かに、妖精と交わした約束は、おいそれと破れるものではない。

おとぎ話の中にも、安易な約束を交わした人間が破滅するお話が、子供達への戒めとしてたくさん残されている。


礼拝堂に残された痕跡は、リアンの正体に目星をつけてから行われたものだろう。

リアンの存在に気付き、災いの書を手に入れやすいようにしておいたのは、ジャスワンにとっても、三年前の約束が有効であったという証だったのだろうか。

とは言え、なぜ妖精除けをしてあるあの場所を知っていたのかという疑問も残ったが、儀式長になったことで、この国の王族を脅かすような災いの書の在処も教えられていたのかもしれない。



(もしくは、ジャスワンもずっとあの魔術書を探していたのかもしれない…………)



だからこそ、カルフェイドに召される予定であったリアンが魔術師の気質と知り、禁忌を犯しても欲するかもしれないと、災いの書の話をしたということもあり得るのではないだろうか。



「ジャスワンは、あの約定があったにせよ、私を止めないのですね」

「止める必要もありませんからね。元より、私はそこまでこの国に長居するつもりはありませんでしたから」

「……………そうなのですか?」

「羽を奪われているので、あの人間の支配からは逃れられないと?」



驚いて昔のように見つめてしまった先で、ジャスワンが静かに微笑む。

その微笑みは、高貴な存在でありながら人間に狩られた妖精のものではなく、どこかしたたかで、ぞっとするような悪意が覗える。


だからリアンは、理解した。


この妖精は、カルフェイドの王宮で人間に使役されているのではない。

何某かの目的を持ち、自らの意思でここに巣食っていたものなのだと。



(……………そうか。だから、あの時も、あんなに色々な事が出来たのだわ)



ローワンの処刑の日、ジャスワンは隷属させられている立場にしては、なかなかに危うい事ばかりしていた。


後に、シャンティアに命じられてそう振舞っていたのだと考えたが、そうではなかったのだ。

ジャスワンはただ、人間が思っているより遥かに自由であっただけ。

そして、この王宮の人間達が思うより、彼は遥かに高位の妖精なのかもしれない。


(となると、この王宮に、ジャスワンを使役するくらいの力を持つ魔術師がいたのではなく、ジャスワンは、自らの意思でここに入り込んでいたのだ。それなら、あれだけの魔術を有していても不思議ではない………)


ここでリアンは、あの回廊で、ジャスワンが友人だと話していた魔物と交わしていた言葉を思い出した。

あのような時だったのであまりにも動揺していて、詳細を記憶に留める程の余裕はなかったけれど、交わされている言葉の温度だけはぼんやりと聞こえていた。

その中に、ジャスワンは自らの意思でこの国に来たとも取れるようなやり取りがあったような気がする。


今になって思えば、他にももっと大切な事があの会話に隠されていたような気もしたのだが、記憶の糸は途切れたまま、今更手に取ることは出来なかった。



「……………では、お披露目で、私が行う事の邪魔をしないでいただけますか?」

「ええ。三年前のあの日、そう約束した筈だ。あなたが、災いの書を開くのに相応しい対価を支払う覚悟があるのなら、私は観客に徹しましょう」

「……………その、あなたの職場は惨憺たる事になりますが」

「今更でしょう。………それに、この国も充分に実りましたからね。今までは上手く災いを退けてきましたが、そろそろ、祝福と災いの天秤が吊り合っても不思議はありません。元より、私にも目的があると話していましたが、その目的にも適います」


(ジャスワンの目的……………)


それは何だろう。

今の言い方では、この国が育ってから熟した実が地面に落ちるのを待っていたようではないか。

だが、執着という表現も使っていたのだから、やはり目的はシャンティアかもしれない。

今更彼の心を読もうとしても仕方のない事なのだけれど、リアンの復讐の障害になるような要素があれば、しっかりと見極めておかなければいけなかった。


「ジャスワンは、どうしてこの国に来たのですか?」

「……………古い友人と、賭けをしたからですよ。私と彼のどちらが、この国を、より適切な状態で剪定出来るのか」

「……………剪定」


思いがけない告白に、リアンは静かに息を呑む。


目の前に座って葡萄酒のグラスを傾けている美しい男性が、急に、得体の知れない人ならざる者に思えたような気がした。


「この国が興された時代に築かれた文明には、世界の黎明期に葬られた、禁忌の魔術の歴史やレシピが数多く残されています。その中の幾つかには、人間に残しておくのは望ましくないものがある」

「……………あなたも、この国を滅ぼそうとしていたのですか?」

「ええ。多くの場合、それは我々にとっての暇潰しでもあります」


(……………もしかすると、その賭けの相手は、あの処刑の日にジャスワンが呼んだ神様なのだろうか)


神という名称は、主にこのカルフェイドやカルフェイドが呑み込んだ一部の国々で使われるものである。

リアンの祖国では、人外者達の事はそれぞれの種族で呼び分けていたので、どのような種族の人外者であれ、国の護り手として祀り上げた段階で神とするという考えには、未だ馴染みが薄かった。


だが、そうして祀り上げられたひと柱の魔物は、この国にとっては護り手という認識なのだろう。

この国の人々は、神として祀り上げた者が、この地を剪定するべき対象として見ているのだとは思いもするまい。

そう考えればやはり、種族が違うという事はそれだけの大きな隔絶となるのだ。


決して人間が思うような祝福ばかりを与えない者達に傅き祈るカルフェイドの民は愚かだし、それは、目の前の妖精と無謀な契約を結んでしまったリアンにも言える。


(もし私が、やはり復讐などはやめて、一人の人間として幸せになろうと考えていたら、あの約定こそが私を破滅させたに違いない)


ある意味、人外者達は人間ほどに移り気ではない。

彼等は、交わした約束は破らない代わりに、それを破る事も決して許さないのだ。


(でも、今の私には好都合だわ……………)


そう考えてしまうリアンもまた、強かなのだろう。

ここからまた、人外者の誠実さに付け込もうというのだから。


「ジャスワン。私は、今も災いの書を開いてこの国を滅ぼそうと思っています」

「ええ。そのようですね」

「ですが、あなたも、ここで暮らしてきた日々の中で、この国や土地、暮らす人々に何某かの執着や愛着を育てているということもあるでしょう。……………それでも、絶対に邪魔をしないでいてくれますか?」

「……………それも、名前にかけて誓約して欲しいですか?」


呆れた様子でそう尋ねられ、力いっぱい頷いたリアンに、ジャスワンはどこか遠い目をした。

まだ信頼されていないようですねと言うのだが、こちらからしてみれば、敵ではないにせよ、関係性としてはほぼ他人である。


「ふと思ったのですが、あなたと契約を交わした私がこの国を滅ぼせば、あなたは、ご友人との賭けに勝てるのでは?」

「…………ここ数年は、友人とは言えない関係でしたからね。あなたが生きていたのなら、その内にかつての付き合いに戻る事もあるでしょう。因みに、彼との賭けは私が先に下りたので、既に無効となっていますよ」

「私が死んでいたかどうかが、ご友人との関係に何か影響を及ぼすのですか?」

「……………私と彼には、それぞれの盤上と自分の駒がありました。あの日、私が彼と交わした契約は、私が賭けに負ける代わりに、駒の一つを盤上から下げるという了承で成されたものです。下げた筈の駒に彼が手を出したのだとすれば、契約違反でしょう」

「……………まぁ」


そんな話を聞いたリアンは、人間や人間の国を使ってなんということをしているのだと思わずにはいられなかったが、高位の人外者は、まぁそんなものなのかもしれない。

海の向こうには、竜の四兄弟が、人間の国を使って陣取り合戦をしているという国もあるという。

そして、ジャスワンが、あのお願いと引き換えに、賭けから下りていたというのも驚きであった。


(……………でもそうか。私はやはり、ジャスワンが選んだ駒だったのだ。だからこそ、災厄の書の話を教えて貰い、……………この国に誘導された)


であれば、リアンには確認しなければいけない事がある。

ジャスワンが、ローアンを安らかに死なせてくれる為に勝負から下りてくれたという事を引き換えにしても、その返答によっては、ジャスワンを許せなくなることだ。


「リルベリアを滅ぼそうと決めたのは、あなたなのですか?例えば、盤上の駒を潤滑に動かす為に」

「いいえ。リルベリアを滅ぼしたのは、私でも、かつての友人でもなく、盤上にも登らなかったこの国の人間達でした。リルベリアは元より、とある高位の人外者の守護下にあった。ですので、私が、……………盤上を揺るがす駒としてあなた一人を呼び込んだだけでも、友人は頭を抱えておりましたからね」

「そう、なのですか?……………どなたかが、私の国を守っていてくれたのです?」

「それが、誰の手によるものかまでは、私も知りません。ですが、かつてのあなたの話に上るご家族の教えを聞いていると、その時に交わしたのであろう誓約の形は見えてくるような気がしますね」

「どのような内容なのでしょう?私には、さっぱり分からないのです…………」

「……………清貧に、誠実に、穏やかに。それはリルベリアの民の嗜好でもあったが、同時に戒めだったのでしょう。あの国の人間達の持つ魔術は、扱い方を間違えれば戦や動乱を呼び込む毒になりかねないものでしたから。恐らく、その懸念を抱いた何者かが、守護と引き換えに、幾つかの魔術的な禁則事項を設けたのだと思います。三年前の侵攻の時にも感じましたが、あの一方的な蹂躙は、リルベリアの人々の力を思えば異常ですよ。古い約定が無意識に民の心に根付き、戦いに出る者達の心を鈍らせたのでは?」

「……………そう、だったのですね」


言われてみれば、その教えは戒めにも似ていた。

生活に根付いた魔術は多く、魔術の教えを請えば、それを授けてくれる隣人達も多かった。

それなのに、誰も救われないまま滅びてしまったのは、古い約定で対価として定められた戒めが、リルベリアの人々の行動を妨げたからなのかもしれない。


「あの国には、何か周辺の国々とは違う状態や特徴がありましたか?」

「状態や、特徴……………?…………強いて言えば、冬に、リルベリアだけは雪が降らなかった事でしょうか。国境の線の内外で、くっきりと分かれるのだと聞いた事があります」


驚くような話ばかりで、半ば呆然としたままリアンがそう言えば、ジャスワンが短く頷いた。


「……………それなら、辻褄が合う。あなたの魔術に雪の系譜があるように、リルベリアの民には、本来、雪や氷、冬の系譜の魔術の才を持つ者が多かった。そんな民を慈しみ、尚且つ雪を遠ざけてみせたともなれば、高位の冬の系譜や雪の系譜、或いは、冬の領域に権限を持つ者達の誰かでしょう」

「……………私の国も、だったのですね」

「リアン?」

「この王都のそこかしこに、かつては意味があったに違いない古い魔術の守りや、風習の名残を見付ける事が出来ます。私は魔術師なので、そうして失われてゆく叡智や記憶を、どこか腹立たしく、そして悲しく思っていました。……………けれども、リルベリアもだったのだわ。そんな風に我が国に守護を授けてくれた方がいたのであれば、そのことをもっとしっかりと覚えている者がいれば、或いはその方に力を借りるという手もあったのかもしれないのに」

「おや、王家にも、そのような逸話は残っておりませんでしたか」

「ええ。もしかすると、守護は一度きりの恩寵で、新たな願いをかけることなどは叶わなかったかもしれません。ですが、……………私達の運命の分岐は、他の結末に向かう道もあったのかもしれない」


欲に任せた侵略は悪だと、国を滅ぼされたリアンはそう思う。

けれどもそれは綺麗事に過ぎないし、人間は、生来強欲な生き物なのだ。

国土を広げてゆくことで叶う豊かさや安定があることも、否定はしきれない。


だが、それが人間という生き物の常であれば、国を守る手立てを切り出せなかったリアン達にも、その咎はあるのだろう。

守護という程のものが備わっていた国であったのなら、どこかで失われた記録や記憶の中に、リルベリアをカルフェイドから守る手立ても隠れていたかもしれないのだ。


(魔術師になりたいのだと思うのなら、私は、王族としてもっとその思いを貫き通すべきだった。こうして見えてくる様々な事情を並べてみれば、国を守り動かす王族の中に、人ならざる者達の叡智や機嫌を汲める者がいれば、あの国の未来は変わっていたのかもしれない……………)



人間は、魔術を作れない唯一の種族だ。

だからこそ人間は、その叡智や力を借り受け、人ならざる者達と関わってゆく。

それこそが魔術の本質なのに、リアンは、ちっともわかっていなかった。


もっと、自分を恥じずに勉強しておけば良かった。

リアンを窘めた兄だって、視野を広げるように言いはしても、魔術への憧れを非難したりはしなかったではないか。

自分の生かし方を知っていれば、あの国を守れたかもしれないのに。


(ああ、悔しいな。私はとことん、不出来な王女だわ。その立場の不自由さを嘆くばかりで、誰よりも型の内側に潜り込んで小さくなろうとしていたのは、私自身だったのだ。もっと勉強して、沢山の事を知っておけば良かった。あの国を守ろうとしてくれていた人がいたのなら、その人にだってお会いしてみたかったな……………)


そんな誰かは、この雪空の向こうのどこかにいるのだろうか。

そう思い、思わず窓の外を見てしまったリアンは、はらはらと舞う白いものに、まだ王都に雪が降り続いている事に気付いた。


となると、明後日の朝の儀式の時には、王宮の庭園は真っ白になっているかもしれない。

ふかふかと積もった雪を見たいという思いと、またしても最後は寒いのかという思いが鬩ぎ合い、リアンは何とも言えない顔になってしまう。



「………もうこんな時間ですか。就寝の準備を手伝いましょう」

「いえ、さすがにそこまでは。ジャスワンはもう、私の部屋付きでもないのですから」


まだ帰らないつもりなのかと瞠目したリアンに、なぜかジャスワンは愉快そうに笑う。


儀式の邪魔はしないにせよ、完全に楽しみ出したぞとふるふるするリアンに、どこか酷薄な微笑みを浮かべたジャスワンは、漸くあの日の続きが出来ますからねと本心の読めない美しい微笑みを浮かべる。



(でも、最後の祝祭の夜に、…………一人ぼっちじゃないのは、いいことかもしれない)



何か理由をつけて出ていって貰おうと思ったのに、そんなことを考えてしまうリアンは弱い人間なのだろう。




でも、最初に死んだ時には、凍える夜の砂漠に一人きりだったのだ。



あの夜、リアンを迎えに来たのは死者の国からの使いだけで、リアンの願いはどこにも届かないままだった。

誰もいない夜の砂漠で凍えながら死んだリアンが、温かな部屋で世話を焼いてくれる美しい妖精を、もう少しだけ見ていたいと思うくらいなら、きっと誰も責めはしないだろう。


それに、ジャスワンやこの国に巣食う人外者達の目的が、この国の剪定だと知れたのも大きい。

賭けそのものは終わっているにせよ、この国を滅ぼすという到着点には不服はない筈だと知れた。


(でも、ジャスワンは、……………あの日の約定を守っているということは分かるけれど、元々は剪定の為にこの国にやって来たということが明らかになったくらいで、今回だって、最後まで私の味方かどうかは分からないのだ)


とは言え、話して貰えた情報を踏まえると、ジャスワンがリアンを裏切るとすれば、災いの書を開いてからである可能性が高い。

それなら、もう少しの間はこんな風にお喋りが出来るのかなと思えば、こんなに失敗を重ねてもまだまだ愚かで強欲な人間は、少しだけ喜んでしまうのだった。








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