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最後の日と災いの書




お披露目の儀式の日は、どんよりとした薄曇りの日であった。


こんな日くらい綺麗に晴れてもいいのではと思ったが、空の上は風が強いらしく、時折雲間から覗く青空や、差し込んでくる光の筋を見ていると、案外、国が滅びる日はこんなものなのかなとも思う。



季節が違うものの、リルベリアが滅ぼされた日は綺麗に晴れていた。

あの回廊の向こう側の処刑場も、けぶるような明るい日差しに包まれていたような気がする。



リアンは用意されていた瞳に合わせた淡いラベンダー色の盛装姿に着替えさせられ、長い髪も王族達の前での儀式に相応しい華やかさに結い上げられる。

少しだけ不安に思っていたが、ここでは意地悪などをされることもなく、少し崩したようなふんわりとした髪型は、結晶化した薔薇の花の髪飾りと共に、リアンによく似合っていた。


広がった袖口に白いスカラップレースを覗かせた装いは、カルフェイドの貴族の流行りなのだという。

ふわりと広がる袖口に、伯爵家の養女が、まんまと魔術金庫の腕輪を隠しているとは思うまい。

結局、金庫の中に隠し持っていた他の災いを使う機会には恵まれなかったが、ここまで、それらを使って目眩ましをせざるを得ないような危機がなかった事には感謝しなければいけない。



(それは多分、……………ジャスワンがいたお陰なのだ)

 


昨晩も、ジャスワンはこの離宮に泊まっていった。

そこまでして災いの書の管理を徹底しなくてもと思いはしたが、そんな疑問は、夜明け前に目を覚まして窓辺に立っていたジャスワンを見た途端に霧散してしまった。


リアンが頬に触れた風に目を覚ますと、大きな窓が開いていて、バルコニーには、見た事もないような悍ましい生き物達が転がっているではないか。


不思議な事に吹き込む風には温度がなく、部屋が冷え込むような事はない

だが、はたはたと風に揺らめくカーテンの向こうには、凄惨な光景が広がっている。


リアンはあんまりな光景に驚いて声を上げてしまい、振り返ったジャスワンに、バルコニーの上の惨状の理由を尋ねると、この王都のような場所では、封印が解けかけている災いの気配に気付いて集まってしまう障りや呪いもあるのだと教えられた。


ジャスワンの足下でさらさらと灰になって消えてゆく異形達を見ながら、リアンは、ジャスワンはなぜこんなに面倒な契約を結んでくれたのだろうかと考える。



(でも、あの日の約束の通りに、ジャスワンが最後まで私の復讐に手を貸してくれたのなら、私の命や魂は、ジャスワンに引き渡す事になるのよね…………)



そう考えたリアンは、思わずぎりりと眉を寄せてしまった。


裏切って欲しい訳ではないのだが、あの日の約定が続いていた事は想定外であったので、リアンは、残される魂の状態がかなりまずいことになるのを厭わずここまで来てしまった。

だが、それをジャスワンにどう説明すればいいのだろう。

とは言え、対価の回収が可能なところまでジャスワンが契約を守ってくれるという保証もないので、今は、悩むだけ無駄なのかもしれない。



(今日で、終わるのだわ)



運命の天秤は最後にどちらに傾くのだろうと考えながら、お似合いですよと褒めてくれる女官達の手を借りて外套を羽織り、迎えに出た騎士達に付き添われながら、もう二度と戻る事はない離宮を出た。

だが、離宮を出たところで足を止めたリアンを、騎士の一人が訝し気に振り返る。



「リドリア様?」

「………いえ。この離宮を、外からじっくり見た事はなかったような気がして」


振り返った先に佇む離宮は、美しく壮麗な建物だと思う。

贅を尽くして造られた建物が繊細ですらあるのは、驚くべき事だった。

リアンは、もう最後なのだから不思議な感慨を覚えるのかなと思って振り返ったのだが、心はさして動かず、こんなものなのかとがっかりしてしまった。


初めてここに来た日に、どんな思いでこの離宮を見上げたのかも、もう思い出せない。



復讐をしなきゃ。

復讐をしなければ。

そう思えば思う程に、心がこぼれ落ちてゆく。


今日のリアンは、心の中だけでずっと焦っていて、途方に暮れていて、せかせか狭い部屋の中を駆け回る小鼠のような気持ちだ。



(でも、大きな林檎の木が風に揺れる葉擦れの音が、今も聞こえるから、その音が聞こえてくると胸の奥の騒めきが静まって、少しだけゆっくりと息が出来る)



それはもしかしたら、封印を解かれる事を知った災いの上げる歓喜の音だったのかもしれないが、リアンは深く考えない事にした。


災いの書を持ち歩いていた二日間や、ジャスワンとの会話などから、朧げながらではあるものの、手の中の災いの正体が分かってきたように思う。

だからこそ、目を閉じると聞こえてくる葉擦れの音はいつの間にか、リアンにとって心地のいい音楽のようになった。



(祝福と災いの双方から、この国を盤上に見立てて賭けをしていた。ジャスワンが災いの側を引き受け、祝福を引き受けた側の人外者が、この国にとっての神であったのなら…………)


心と頭の中に散らばる欠片を繋ぎ合わせながら、リアンは、まるで刑場に向かうような最後の道のりをゆっくりと歩いた。

だが、自分でそう考えてから、むむっと眉を寄せる。



(どちらかと言えば、歌劇場がいいな。でも私は、歌劇場に行った事がないから、どんな場所なのかを知らないのだわ)


いつか、大きな国の都にだけあるという、歌劇場という場所に行ってみたかった。

でもそれは多分、こんな時に思い出さなくてもいいちっぽけな願い事なのに、どうしてこんなに悲しくなるのだろう。




「リドリア様。本日は、これからご案内する儀式の間にて、カリアム殿下及び、七の州の王族方の前で儀式詠唱を行っていただくようになります。ご使用される魔術書は、こちらで間違いありませんか?」

「はい。お預けしていたのは、この魔術書です。本日まで、有難うございました」



天井の高い儀式の間は、立派な円柱に囲まれていて、森の中の聖堂にいるようだ。

青みがかった緑色の石材は、森結晶だろうか。

高価な石材をここまでふんだんに使えるカルフェイドの豊かさを見せつけられ、リアンは思わず唸りそうになる。


王宮に入った際に預けていた魔術書を、儀式の間の入り口で、儀式補助を行うという王宮魔術師から返して貰い、リアンはそっと腕に抱き締めた。


この魔術書だってとても凄い物なのだ。

本当は大事に扱いたいのだけれど、儀式の前に災いの書と差し替えなくてはならない。

置き換えの魔術は得意だが、これだけ素晴らしい魔術書をリアンの復讐の犠牲にしてしまうのだと思えば、魔術師らしい身勝手さで胸が痛んだ。



(今日、カルフェイドでは沢山の人々の命が失われる。私が、それを始めるのに、魔術書の方が心配だなんて)


こつこつと石床を踏んで中に入り、入ってすぐのところで、また別の儀式補助の魔術師から、オリーブの小枝を束ねた聖刷毛で聖なる水を振るいかけられる。


そこで羽織った上着を脱がせて貰うのだが、脱いだ上着は同行した騎士が持っていてくれるようだ。

関わる人々が増えれば増えるほど、見知らぬ誰かの息遣いに触れるようで怖くなったリアンは、ずるいのは承知の上で、出来るだけそちらを見ないようにした。


三段高くなった儀式祭壇に登れば、不思議なくらいに厳かな気持ちになった。

儀式の間の作りは僅かに中央に向けて窪んでいて、王族達の椅子の置かれた席だけ前後に余裕を持たせてある。


リアンの立つ儀式祭壇は銀水晶で出来ていて、その上を歩くと、氷を踏むようにきしりと音がした。



祭壇の正面には、護衛騎士達に囲まれた王族や、王都に暮らす高位貴族達の姿もあった。

辺境伯であるモルジアナ伯爵の姿はないが、代わりに、王都に詰めている伯爵の甥だという男性の姿があるようだ。



(……これは、あくまでもリドリア伯爵令嬢のお披露目なので、ジャスワンは儀式には参加しない)



そんな儀式長は、随分と奥の席に座っていた。

とは言え、これからリアンが行う事を思えば、そのくらいの距離感が適当なのかもしれない。



しゃりんと、どこかで儀式錫杖が揺れる音がする。

手にしていた錫杖を揺らしてしまった魔術師は、照れたように頭を下げていた。

その音の余韻が消えれば、儀式の間はしんと静まり返る。



静かだ。

あまりにも静かで、あまりにも呆気なくて。

そんな事ばかりを考える。



けれども、祖国が攻め滅ぼされた日のリアンは、まだその事実を知らずに王都の図書室にある本を借りてきて夢中で読んでいたのだから、運命の日なんて、所詮そんなものなのかもしれない。

あの日のリアンの隣にはローアンがいて、二人で、今日は王宮が静かだねなんて話をしていたのだ。



(ごめんなさい、みんな。ごめんなさい、カルフェイドの罪なき人達。……………でも私は、この国に復讐すると決めてしまったの)



きっと、リアンの健やかな心は、あのローアンの処刑の日に壊れてしまったのだろう。

それは、死者の国でもう一度家族と再会しても、元通りにはなってくれなかった。



(だって、不公平だと思ったのだ)



死者の国での暮らしが、ただ健やかで安らかであれば、リアンも諦めたかもしれない。


だがそこにあったのは、やはり一度は無残にも蹂躙され殺された人々の魂で、リアン達は、死者の日に地上に戻り、祖国の懐かしい林檎畑を見上げる事も出来なかった。


焼き払われ更地にされた祖国を見てきた老人が泣きながら死者の国に戻って来た時、リアンは、やはりカルフェイドを滅ぼさずにはいられないと決めたのだった。




(復讐を始めよう)



不思議と足は震えず、微笑みが翳る事はなかった。

西方域での暮らしで、リアンは思っていた以上に自分が普通に振舞える事に驚いたのだが、こうして最後の舞台に立ってみれば、やはり自分はもう正気ではないのだなと納得してしまう。



この大きな国にぱくりと食べられてしまったリアンは、自らも悍ましい怪物になっていたらしい。



「モルジアナ伯爵家、リドリアと申します」



魔術書を抱えたままではあるが、優雅に腰を折って貴族のお辞儀をする。

指先やドレスの袖口や裾に動きが出ても不自然ではないその隙に、持ち替えた魔術書を入れ替えているが、魔術で幾重にも巡らせた目眩しをかけたので、誰にも気付かれてはいないだろう。



美しい顔、若い顔、年老いた顔。

様々な人達が好奇心も露わに壇上に立ったリアンの姿を見つめている。


貴族の実子の娘たちのお披露目は舞踏会で行われるが、リアンのお披露目は、王宮魔術師達と同じように、この国や七の州への魔術の隷属を誓う儀式で始められることになっていた。

珍しい儀式という事もあり、観客が多いのだろう。



(儀式としてのお披露目なので、余分な挨拶はなし。この魔術詠唱から始め、……………これで全てが終わる)




だからリアンは、微笑んだ。

はっとしたように目を瞠ったカリアム王太子は、この、本来の姿のリアンを知らない。


人外者に狙われやすい容貌なので伴侶を得る迄はと、リアンは、リルベリアにいた頃から髪と瞳の色を擬態させられていた。

その擬態を解かずにこの国にやって来たリアンは、リアンという本来の名前すら、カルフェイドには捧げていないままである。


家族には、魔術の祝福が濃いと分かるといらない疑念を招きかねないからと、嫁ぐ国の人々を怖がらせないように擬態を解かないのだと話していた。

けれども本当は、その全てを明け渡したら、もう二度と大好きなリルベリアに帰れなくなるような気がしたのだ。



(ジャスワンにだけは、愛称として教えてしまったけれど………)



目が合ってしまうと、目元を染めて俯く若い貴族の男性がいる。

カリアムの後ろの列の椅子に座った王子達の中にも、ぼうっとこちらを見ている者達がいた。



(私は、お母様とローアンにそっくりなのよ。お母様は夢見るように美しい方で、湖の妖精達に誕生の祝福を贈られて生まれたの。ローアンは、夜明けの薔薇の祝福を授かって生まれてきて、微笑むだけで幸せにしてくれるくらいに可愛かった)



であれば、お前達が目を奪われるこの容貌には、その手で滅ぼした亡者の影がある筈だ。

それに気付かずにこちらを見ている者達は、もう、この儀式の間の扉が一つ残らず開かなくなっているとは思うまい。



「其は、私の歌に踊り、この呼び声に傅く者」



朗々と響かせた詠唱に、はっと息を飲んだ者達はどれだけいただろうか。



「其は、夜の影に沈み、秘めやかなる鍵を開く者」

「ま、待て!!その詠唱を止めろ!!!」


誰かが叫び、リアンは微笑んだまま詠唱を続ける。

途方に暮れたように周囲を見回す者達の中にはシャンティア妃の姿もあったが、リアンに呪いをかけられたトレアは見当たらないようだ。


儀式会場に控えた魔術師達が、慌ててリアンの詠唱を押し留めようとしたが、声封じの魔術や、祝福剥離の魔術はリアンに届かずにばらばらと砕け落ちてゆく。


護衛騎士達が王族達を下がらせると、きゃあっと声を上げて扉の方に走ってゆくご婦人方がいた。

最初の悲鳴に人々が気を取られた隙に、リアンは更に幾つかの詠唱を重ねてしまう。




「…………退路の確保を。そして、魔術師達は前衛へ」



恐慌状態に陥りかけた儀式の間で、静かに穏やかに落ちたのは、以前に聞いた時よりも歳を重ね、厚みを増したカリアムの声だった。


ゆっくりと立ち上がった七の州の王太子の周りには、素早く護衛騎士達が集まる。

その中には勿論人外者達もいて、先程のリアンの詠唱を止めようとした魔術師達よりも、ずしりと重い人ならざるものの鋭さでこちらを見つめていた。



やはり、そう簡単に事は運ばないのかと思えば、少しだけほっとしたのかもしれない。

ジャスワンはまだ、奥の席に座ったまま動かずにいるようだ。



(私が詠唱を始めてすぐに、カリアム殿下は、隣に控えていた護衛騎士に何かを命じていた)



この元婚約者が侵略戦争の先頭に立ったことは知っていたけれど、リアンは、所詮王族はお飾りだとどこかで軽んじていたような気がする。

だが、実力主義を徹底しているカルフェイドに於いて、そんな筈もなかったのだ。



「リドリア嬢はどうやら、リルベリアの魔術を汲む魔術師のようだ」

「………っ、」



その言葉に思わず息を呑んだリアンを真っ直ぐに見据えた王太子は、はっとするような青い瞳の美しい男性である。


片方の目は豪奢な眼帯で覆われていたが、飾られた宝石は装飾ではなく魔術具ではないか。

この眼帯を正面から見た時に、リアンは、婚約者だったこの人物が魔術師でもあったのだと初めて知った。



「……王宮に入った際には、火の魔術と書の魔術を行使していたようだが、今の詠唱に宿したものは雪と流星の魔術だな。おまけに、流星の祝福を得た眼差しとくればもう間違いない。…………久し振りだな、元婚約者殿」

「まさか、リシアーヌ?」



はっとしたように目を瞠り、悲鳴のような声を上げたのはシャンティア妃だ。


まさか、扱う魔術からすぐさま正体が見抜かれるとは思っていなかったので、ひたりと冷たい汗が背中を流れる。

それでもリアンは、カリアムの死角になるようにして、いつでも魔術を動かせるよう、触れた魔術書の内側で指先を曲げた。



(………扉はもう、開いてあるのに)


詠唱は既に災いの書を開いていたが、災厄を齎す前に封じられた災いが、どのような形でこの地を襲うのかは誰にもわからない。

ひたひたと足元を満たしてゆく災厄の魔術の現れの瞬間を静かに待ちながら、リアンはただ、真っ直ぐにカリアム王太子を見つめていた。



「私であることに気付かれるとは思ってもおりませんでした」

「だろうな。かつてのそなたと面識があった者は少ない。加えて、私が魔術師である事も、そなたが王宮にいた頃は公にはしていなかったからな」

「魔術師であることを隠されていたのは、私が、……リルベリアの民だったからでしょうか」



(こんな風にカリアム殿下の目を真っ直ぐに見たのは、初めてかもしれない)



ほんの少しだけ、この人ともっと話してみれば良かったのだろうかと考えかけたリアンを引き戻すように、魔術書の中の林檎の木がざざんと揺れる。



「その通りだ。魔術はリルベリアの領域だからな。こちらは扱いが不得手だと思わせておいた方が、何かと都合がいい。…………そなたの手にあるのは、災いの書か。毎年封印の為に最大の儀式を重ね、封じた場所にも、どれだけの魔術の檻や鍵がかけられていたことか。それを掻い潜ったのだとすれば、やはり惜しかったな」

「カリアム様!」

「いや、すまないシャンティア。だが、同じ魔術師として、やはりこの血は少しばかり惜しい」


ぎょっとしたように伴侶の名前を呼んだシャンティアの顔が、そんなカリアムの言葉にくしゃりと歪む。

こちらを見た眼差しに煌めく憎悪の鋭さは、リアンを砂漠に捨ててくるように命じた人と同じであった。


「…………ずっと、おやめ下さいと申し上げておりましたわ。リルベリアの王女などを娶られては、後々に大きな棘をこの州都に残す事になりますもの。………なぜ、カルフェイドが、長きに渡り、かの国の野蛮な魔術師達を退けてきたのか。リルベリアの王女など、最初から我が国に迎え入れるべきではありませんでした」

「そうだったな。シャンティア。愛しいお前に何度叱られたことか。………だがな、やっと見付けたリルベリアだったのだ。剛気な八州の王にすら手を引かせたリルベリアだぞ。欲しくもなるだろう」

「カリアム様!」



シャンティア妃の詰るような声に小さく笑ったカリアムには、昨日見たばかりの、どこか疲弊したような姿は微塵もなかった。


トレアの言うように対価として目を取られているのだとしても、こちらを見据えた瞳には、未だ、はっきりとした為政者の力強さがある。



(………なぜ、この人は落ち着いているのだろう)



ふと、リアンはそれがどうしても気になった。

リアンの手にあるのが災いの書だと理解したのなら、なぜカリアムは、こんなにも落ち着いていられるのだろう。


(そしてなぜ、ジャスワンはまだ動かないのだろう)



ジャスワンは、カリアムの元従者だ。

忠義を確固たるものにする為に儀式長に任じたくらいであれば、このような状況では、身を守らせるのではないだろうか。

そんなジャスワンをカリアムが呼ばない事が、とても不穏に感じられたのだ。



「あなたは、……リルベリア侵略の為の人質として、私を婚約者に据えたのではなかったのですか?」

「そうだな。それもある。だが、リルベリアの民のように魔術の素養を多く持つ人間は、生まれながらにして人外者達の祝福が多く集まると聞いている。誕生の祝福が多いからこそ、リルベリアには美しい者達が多かったしな。………そなたとの子であれば、今後この国の王となる私に相応しいだけの祝福を持って生まれてくると思ったのだが」

「………なんですって」



冷静にならなければいけないのに、リアンは、気付けばそう呟いていた。

カリアムの愉快そうな笑みは、美しいのにどろりと澱んでいて、まるでこの国そのもののよう。



「だからこそ、林檎の国の聖女などという銘をそなたに授けたのだ。敵国の王女がこの国の王妃として迎え入れられるよう、リルベリア侵略戦争に大きく貢献した王女として、取り立ててやるつもりだったのに、その苦労を無駄にされるとは」

「……………私を、………祖国を売った王女に仕立てようとしたのですか?」



ひゅっと鳴ったのは、誰の喉だろう。

魔術書を持つ手が震え、カリアムの指揮でじりりと輪を狭めた騎士達が向けた剣先が、高い位置にある窓からの僅かな光にぎらりと光る。



「そこまでして、正妃にしてやろうとしたのだ。尤も、怒ったシャンティアに横から奪われてしまったがな」

「………アージュからも、リルベリアの王女は諦めるよう言われませんでしたか?」



やっと聞こえてきたその声の穏やかさに、リアンの胸が嫌な音を立てる。


手の中の魔術書の扉は開いているのに、災厄はまだ枝を揺らしているばかり。

青ざめたリアンとは対照的に、カリアムはぱっと笑顔になった。


「ジャスワン、そなたはいつも腰が重いぞ!………確かに、アージュには何回も考え直すように言われたな。だからこそ、リシアーヌの世話役はお前に任せたのだ。お前だけは、私がリルベリアの王女を連れ帰る事に同意してくれただろう」

「ええ。………ですが、今となってみれば、あの時にお止めするべきでした。…………ああ、今更彼女を捕縛しても手遅れですよ。災いの書は既に開かれています。かけられた封印が開かれた今、災厄の訪れを防ぐのは難しい」

「ば、馬鹿な。まだ、詠唱が途中ではないか!」



そう叫んだのは、カリアムの隣に立った護衛騎士の一人であった。

独特な宝石のような瞳の色を見る限り、人外者なのは間違いないが、ジャスワンはそんな騎士を、はっとするような冷たい瞳で一瞥する。



「その短い詠唱で災いを開くだけの才能が、彼女にはあったのでしょう。そして、それが分からない程度の才能しか、あなたにはなかったようだ」

「ジャスワン………貴様、隷属上がりの妖精が…」

「黙れ」


沈黙を命じたカリアムに、綺麗な緑色の瞳の騎士は口惜しそうに言葉を飲み込んだが、ジャスワンに向けた眼差しにはぞっとするような怨嗟が込められている。


「ジャスワン、その災いを封じてくれ」


けれどもリアンには、そんなカリアムの言葉程に恐ろしいものはなかった。

主人の命令に微笑み、顎に手を当てて、思案するようにこちらを見たジャスワンも。



「おや、私にそれ程のことをお命じになられますか」

「そなただからだ。………そなたこそがこの国を救った巡礼者だと、父上から聞いている」


 

(…………え?)



呆然としたのは、リアンだけではなかっただろう。

シャンティアも、騎士達も、魔術師達や、怯えるように蹲り、或いは儀式の間の扉をこじ開けようと試行錯誤していた貴族達も。


殆どの者達が、途方に暮れたようにカリアムを見ている。


だが、王子達の中にはその言葉に短く頷いた者もおり、そんな者達は、思えばずっとカリアムと同じように泰然としていた。



(ジャスワンが、巡礼者?………担っていたのは、災いの側ではなかったの?)



こつこつと、静かな靴音が響く。

ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる美しい妖精を、リアンはただ、呆然と見つめる事しか出来ない。


だが、ジャスワンが祭壇に足をかけた瞬間に我に返り、慌ててこれ以上近付けないように魔術を組もうとしたが、ばさりと響いた羽音に目を丸くしてしまい、その機会を失った。



(………妖精の羽だわ)



空気を打ち鳴らすような音と共に広げられたのは、息を呑むほどに美しい白紅の六枚羽だ。

さすがにこれは想定外だったのか、カリアム王子も目を瞠っている。


薄く薄く、雲母や削いだ宝石片のような妖精の羽は、その実とても強靭なものだ。

祖国の森で多くの妖精達を見てきたリアンだったが、ここまで美しく大きな羽を持つ妖精は見た事がなかった。


羽模様は鷲の翼のようで、付け根部分の暗く鮮やかな紫混じりの深紅が、羽先に向かうにつれて、雪をかぶったような白になっている。

魔術階位の上で最も高位とされる白を持つ妖精だなんて、リアンは伝承の中でも知らない。


そんな妖精がリアンの正面に立ち、あっと思った時にはもう、腕を掴まれていた。


「………っ、」

「どうか、暴れられませんよう。……先の詠唱で災いの扉は開いていますが、諸事情から、この災いは外に出さずにおこうと思います。私が己に課した枷は、封印を解く者が現れるまでという指定でしたので、こちらの目的はもう充分に果たされましたから」

「………ジャスワン?」


思わずその名前を呼んでしまい、リアンは、じわりと滲んだ涙をぐっと堪えた。



(では、災いの書を探し出して封印を解いたのに、未だにこの王都を災厄が飲み込まないのは、ジャスワンのせいなのだろうか)



こちらを見て微笑んだジャスワンの瞳は優しかったが、リアンには、これがどんな展開なのかさっぱり分からない。

ジャスワンもそれに気付いたのだろう。

何かを言おうと口を開きかけ、その言葉をカリアムが遮った。



「ふむ。さすがに手慣れたものだな。リシアーヌは、二度と魔術を使えぬようにした上で、こちらに引き渡せ」

「おや、なぜですか?」

「………お前は、この国に齎された災いを封じた巡礼者だろう」

「かもしれません。ですが、今の私は、三年前よりずっとこの方の騎士ですので」

「………その女は、災いの書を開いたのだぞ?お前は我が国に齎される災厄を封じる者ではないか」



困惑したようにこちらを見たカリアムに、リアンは、生まれて初めて元婚約者に同情してしまった。

復讐を始めたリアンにも、もうよく分からないのだ。

これで、対岸に立っているカリアムにも分からなければお手上げではないか。


そんなリアン達を見て冴え冴えと微笑んだ妖精は、どのような目的でここにいて、ここで、何をしようとしているのだろう。



「………かつて、この国の愚かな州王妃が、一人の旅人に出会い、その男が災いを齎す為にこの地を訪れたのだとも知らず、贅を尽くして三日三晩もてなしました。それがあまりにも滑稽だったのと、そのままでは友人との賭けにあまりにも簡単に勝つ事になってしまいそうだったのとで、巡礼者を名乗り善人のふりをして一度は災いをこの書に封じてみせましたが、もう充分に待ち時間を潰せたので良しとしましょう。時間切れですよ、カリアム殿下」



美しい声は優しくすらあって、けれども、語られる内容を理解したカリアム達が、じわりじわりと青ざめてゆく。


リアンはただ、災いの書を開いて持ったまま立ち尽くしていて、本の中の林檎の木が、ざわざわと笑うように枝を揺らす音を聞いていた。


ジャスワンはただ立っているだけだったが、高位の人外者の精神圧はとても重い。

数日前のリアンのように、初めてジャスワンの魔術に触れた者達は呆然としている。



「………そなたが、………災いの持ち主なのか?………まさか、………いや、そんな事が………ではなぜ、災い除けの守護に囲まれたこの儀式場や大聖堂を歩けたのだ!」

「残念ながら、敷かれた魔術の階位が足りておりませんでしたので。それに私は、災厄を齎さぬ土地では信仰の対象となる事もありますから、単一の災い除けの術式は、そもそも意味を成しません。まぁ、そのように教えたのも私でしたが」

「っ、……た、退路は?!退路の確保はまだか?!転移の準備を……」



初めて、カリアムが恐怖と混乱を見せた。

もっと早くこうなる筈だったのではと眉を寄せたリアンに、ジャスワンがくすりと笑う。


騎士達は守るべき主人の護衛に徹する事にしたのか、それとも、ジャスワンを恐れたのか、剣を抜き、祭壇の周囲まで詰め寄ってきていた騎士達までもが、儀式の間の扉のあたりまで一気に後退した。



「災厄のテーブルに載ってしまった以上、もはや転移でこの王都を離れるのは難しいでしょう。この災いは手のひらが大きいので、王宮を出られたからといって、逃れられるとは限りませんよ。………ですが、どうしてもと仰るのであれば、あなたは、従者として長年お仕えさせていただいた方です。試されてみますか?」

「ジャスワン!」

「………ジャスワン?」



リアンとカリアムの声が重なり、閉じてあった扉がバタンと音を立てて開いた。


はっとして扉を閉じようとしたリアンは片手を持ち上げてしまい、ぐらりと傾いて落ちそうになった災いの書を、ジャスワンが素早く支える。

掴まれていた腕は自由になったが、構築していた魔術が災いの書の上からこぼれないようにと慌てて蓋をしたその隙に、カリアム達は、驚く程素早く大きな両開きの扉から儀式の間を出て行ってしまった。



「………まさか、災いを開放する前に、あなたに裏切られるとは思っていませんでした」


そう言えば、なぜこの妖精は、はっとする程に優しい目でこちらを見るのだろう。

リアンはとても怒っていたし、混乱していたし、また裏切られたのだと思うと、わあっと声を上げて泣いてしまいたいくらいに惨めだった。


(災いを開くという意味が、封印を解くだけで満たされるとは考えていなかった………!ジャスワンが、シャンティア妃を助けるかもしれないとは思っていたけれど、皆を逃がされてしまうだなんて考えてもいなかったのだわ………)



カリアムとのやり取りで本人が告白したように、この災いは、ジャスワンの持ち物なのだ。


災厄を齎す林檎の木の妖精と、祝福を授けるこの国の神の両側から。

そうして災いの書に封じられた災厄がジャスワンの物であるのなら、本人がそれを押し留めてしまえば、折角封印を解いてもリアンにはもう何も出来なくなってしまう。


喉の奥が嫌な音を立てて、込み上げてくる涙と絶望を何度も呑み込んだ。

きつくきつく握った指先が、手のひらに食い込み、持っている魔術書がずしりと重たく感じる。

どうにかして復讐を続けるには、どうしたらいいのだろう。


「ええ。………ですので、あの日の契約は反故となりました。リアン、あなたはもうどこにでも行けますが、どうされますか?」

「……………ジャスワン?」



その瞬間の思いを、どう表現すればいいだろう。


伸ばされた手がそっと髪を撫で、リアンの額にふわりと優しい口付けが落とされる。

まるで慈しむかのような温度が触れ、途方に暮れて見上げるばかりのリアンに、ジャスワンが淡く微笑んだ。


「あなたはもう、復讐などしなくてもいい。どちらにせよ、この国は私が滅します。元々、剪定をする為にやって来たのですからね。………なので、あなたはもう自由ですよ、リアン。私との約定に縛られる必要はない。あなたが望めば側におりますが、…………あなたは、どうしたいですか?」

「ジャスワン…………?ど、………どうして、」


困り果ててそう尋ねたリアンに、ジャスワンはどこか自嘲気味に微笑みを深める。

その微笑みがあまりにも綺麗で、リアンは息が止まりそうになった。


「……………あなたをこの国に招き入れたのは、私です。そして、三年前のあの日、私はあなたを守れませんでした。………先程の様子からすると、あなたを殺そうとしたのはシャンティアだったのでしょう。そして、あの夜の私は、目を離せば契約したばかりの人間が殺されるかもしれないという懸念を優先させるほどには、あなたへの執着をまだ理解しきれてはいなかった」

「………だから、この契約を破棄するというのですか?」

「ええ。だからこそ。………私は、自らの犯した罪の対価として、一度だけ、あなたに私から逃げる機会を差し上げましょう。人間達と静かに暮らしたいのであれば、どこか政情の安定した国にでも送り届けて差し上げましょう」



ジャスワンが提示したのは、リアンが思いもしなかった選択肢であった。



(私はずっと、………つい先程まで、ジャスワンは裏切るかもしれないと思っていた。三年前の事だって、もしかしたらと疑ってさえいた………)




でも、そうではないと分かっても、もう叶わないのだ。


ジャスワンが、どうしてこの先もリアンと一緒にいてくれようとするのかは分からないが、意外に騎士の役回りを気に入っていて、暫くは騎士としての誓いを続けてもいいという気分なのだろう。


だが、それっぽっちの幸運でもいいからとこの美しい妖精の手を取ることすら、今のリアンにはもう難しい。



(こんな提案をされるくらいなら、三年前の契約の対価として、この命や魂を取ってくれた方がずっと良かったのに)



人ならざる者の好意は、とても気紛れだ。

彼等とて生涯の唯一を見付ける事はあるし、家族も友人もいるだろう。

だが、駒から始めたリアンがより頑丈な命綱を得るには、ジャスワンは高位の人外者過ぎるし、リアンを得る事への不利益が大き過ぎる。

どれだけ差し伸べられた手の先がきらきら輝いていても、リアンの余力でその先にえいっと飛び込むのはまず無理だろう。



(…………あの林檎畑で、こんな風に手を伸ばしてくれたのなら)



そうしたらリアンは、嬉しくてびょんと弾んで、この妖精に付いていってしまったかもしれない。

冒険の旅の向こうには、素敵な魔術があって、大きな歌劇場もあるのだろう。


そしてきっと、美しい林檎畑の向こうに大好きな祖国が広がっていて、リアンはいつかきっとそこに帰れた筈だから。



(でも、そうはならなかった。私は対価を支払う覚悟で色々なものを選び、ここにやって来た。…………たった一人で)



一人でここまで来たのだから、幕引きも一人ですると決めている。

格好をつける訳ではなく、特別な矜持や信念でもなく、そうせざるを得ない道を歩いてきてしまったから。



「………っ?!」


その時、ずしんと体に響くような重たい音が響いた。

ぎくりとしたリアンに、ジャスワンが、災厄の足音ですよと薄く微笑む。


「おや、少し揺れましたね。こちらの区画は後からにしましょうか」

「……も、もう、始まっているのですか?!」

「ええ。この国の剪定は、もはや私にとっての最優先ではありませんからね。寧ろ、目障りなものは早々に片付けてしまった方がいい」


ジャスワンの光を孕むような紫がかった赤い瞳は酷薄で、リアンですらぞくりとする程に美しい。

ああ、人ならざるものの美貌はこういうものなのだと、不思議と納得してしまうような仄暗さでもあった。


儀式の間の窓の向こうに、何か、大きなものがうねり、みしみしと音を立てて広がってゆく。

誰かの悲鳴が聞こえ、取り乱したような叫び声も聞こえてきた。

けれどもその全ての悲劇は、災いを齎した妖精に顧みられる事すらない。


何しろその妖精は今、リアンに今後の対応を選ばせているところなのだ。



(だから、自分を生かせないのであれば私はもう、予定通りに退場するべきだ。………きちんと、ジャスワンにさようならをして………)



じりりと体を離し、リアンは不思議そうにこちらを見たジャスワンの表情に胸が潰れそうになった。

この身勝手で美しい生き物は、リアンが、己の差し出した選択肢のどちらかを必ず取ると思っているのだろうか。


(これで最後だから、何か、素敵なお別れの言葉を選べたらいいな。この妖精がいつか、もしかしたらそう遠くない内に私のことなんてすっかり忘れてしまおうとしても、時々思い出してなかなかやるなと思わせるような、ジャスワンの記憶に残るさようならが言いたい)



それはリアンに最後に残されたちっぽけな我が儘だったけれど、真っ直ぐにこの美しい妖精を見て言うのだ。

そう誓い、大きく息を吸い込んだリアンは、どちらかと言えばここぞと言う時に仕損じる自分の運周りを忘れていた。



「ジャスワン、私はそのどちらも選びません。………そして、………ええと、………私はここで、もう一つだけ最後にやっておかなければならない事があるので、……お先に失礼しますね!」

「リアン?!」



リアンは、ちょっと泣きそうだった。

よりによって、これが自分の最期の言葉になるらしい。


あまりにもお粗末で恥ずかしくて、兎に角もう失礼させていただくのだという決意の下に行動に出る。

まさか目の前の人間がこんな事をするとは思っていなかったジャスワンの手からぱっと災厄の書を奪い取ると、そのまま儀式の間から駆け出した。



走りながら、直前の記憶をどうして消さないのか世界を呪い、リアンは、それでも一つも痕跡を見落とさないようにと王族達が使いそうな通路を幾つも覗き込む。


(ここは通っていないわ。では、こちらかもしれない………!)


確かに、王宮のあちこちには太い木の根が入り込み、壁を割って伸びた枝には青々とした葉が茂っていた。

リアンが見間違える筈もない、林檎の木だ。

それでもまだ、カリアム達がこの災いに損なわれたのかどうかをリアンは知らない。


したたり、侵食してゆく魔術には結実と終焉の翳りがあり、どう考えてもこの災いは、王都を滅ぼさんとしている。


だがやはり、リアンは、リルベリアを滅ぼしたこの国の人々や、その指揮を執ったかつての婚約者と、そして、罪もない弟を殺したシャンティアの最期だけは、なんとしても見届けておきたかった。



(なので、いくら契約を破棄する為に必要だったとしても、私の目に見える範囲からあの人達を逃してしまったことは、ちょっとむしゃくしゃする!)



だから妖精のやる事は困るのだとぷんすかしながら、リアンは走った。

この腹立たしさで、全てのやり場のない悲しさをどうにか塗り潰してしまえたらと思いながら、がむしゃらに走った。



「……………っ?!」


走って、走って走り切ったところで、リアンは横からしたたかに衝撃を受けてしまい、吹き飛ばされる。

大事な魔術書を抱えたまま、ごろごろと転がり、儀式用の薄いドレスが擦り切れて肌にびりりと痛みが走った。


ジャスワンに追いつかれないようにと、全ての魔術の盾を後方に振り分けており、身を守る為の防壁を展開出来ていなかったせいで、足元は酷い有様だ。

魔術師は不用意に血を落としてはならないのだけれど、人間は、爆風に吹き飛ばされた時にはそんな事も言っていられないらしい。



(攻撃、………どこから?!)



慌てて体を起こしたリアンは、目の前の壊れた大きな扉の向こう側に広がる景色に、ここがいつかの回廊から見えていた光の先であることに気付いた。



「……………あ、」



どうやらリアンは、王族達がバルコニーに出る為に使う通路からこのバルコニーに吹き飛ばされたらしい。

ひゅおんと吹き込む風には炎の匂いと死の香りがして、三年前のあの日にリアンが辿りつけなかった先のバルコニーからは、燃え盛る王宮前の広場が見える。 




「………これが、災厄」



よろりと立ち上がったリアンが呆然と見守る先で、美しい王都を喰らい尽くして蹂躙してゆくのは、枝葉を広げてゆく何本もの林檎の木。


その全てが、普通の林檎の木とは違い、宝石で出来ているような不思議な美しさで、悍しいのに目が離せなくなってしまう。


何本もの林檎の木が大きく育ち、見事な赤い実を実らせると、周囲で逃げ惑う人々がざあっと砂になってゆくのが見えた。

そして、そんな砂地を食い破るようにして、また大きな林檎の木が芽吹くのだ。



どこまでも、どこまでも。

広がり、呑み込み、砂に変えてゆく。

大勢の人達が作り上げて来た王宮があっという間に林檎の木に覆われてゆく様子は、災厄というものがどれだけ無尽蔵なのかを、初めてリアンに見せてくれる。



(林檎の木の災いなのに、どうして砂漠を有する土地にしかその伝承がないのかと思っていたけれど、こういう事だったのだわ)



ジャスワンから聞いた災いの書についてもっと知りたくて、リアンは、カルフェイドの王宮にある立派な図書館で林檎の木の災いに関する伝承を調べてみたことがある。

災いとは言え、それが林檎に纏わる魔術である事にとても興味があったし、多分、そうして仕入れた知識でまたジャスワンと魔術の話をしたかったのだ。


禁書の閲覧申請などを出さずとも、民間伝承やおとぎ話を集めた絵本を覗けば、大抵の物は見付けられるのだから、この国の人々はどれだけ多くのことを忘れていってしまったのだろう。


その時はまだ興味本位でしか無かったが、植物の系譜の災いなのに、なぜ砂漠なのだろうと不思議で堪らなかったのを覚えている。



(………この災いは、獲物や土地を砂漠に変えるのだわ。だからこそ、足跡を残してはならない記録を消す為に相応しいものとして、剪定に名乗りを上げたのかもしれない。もしかすると、この七の州の王都の周囲に砂漠があるのは、かつての災厄の現れの名残りなのだろうか…………)



呆然と、林檎の木に覆われては砂漠に転じてゆく王都を見ていると、すぐ近くでわぁっと声がした。

はっとして振り返れば、今まさにこの王宮の建物をも食い破り枝を伸ばしていた林檎の枝が、隣のバルコニーに居たカリアムとシャンティアを呑み込むところではないか。



こちらを見て何かを言おうとしたカリアムが、見る間に林檎の枝に絡みつかれて飲み込まれてゆく。

取り乱したような悲鳴を上げてそれより先に見えなくなったのはシャンティアだ。


がらんと、バルコニーの石床に落ちたのは、直前までカリアムがつがえていた弓のような道具で、恐らく魔術道具だろう。


災厄の顕現に目を奪われていたリアンは、あんな至近距離から狙われていることにすら、気付けなかったらしい。

襲撃を受けたばかりだということを失念してしまうくらい、この光景が衝撃的だったのだ。



「殿下!」


だから、その悲鳴はリアンのすぐ背後で聞こえた。


振り返ったリアンは、カリアムがリアンを仕留められるようにと後方に回り込んでいた騎士の一人から振り下ろされる剣の輝きに目を瞠る。


リアンを今まさに殺そうとしているのは、カリアム王太子の隣にいた人外者に違いない。

憎しみに満ちた眼差しと翻る騎士服を見つめ、リアンは、どこかで少しだけ安堵しながら、腕の中の災厄の書をぎゅっと抱き締めた。



その直後に響いたのは、最後にもう一度聞きたいと思っていた魔術書の中の林檎の木のざわめきではなかった。



ごとんと重たい音がしておそるおそる目を瞬くと、水晶を磨き抜いたような剣を手にした妖精が、怒りも露わにこちらを見下ろしている。


リアンを殺す筈だった騎士は床に倒れていて、もう既に事切れているようだ。

随分と引き離した筈なのにどうして追いつかれたのだろうと思ったリアンは、腕の中の魔術書に、この妖精が齎した災いが入っている事を思い出した。




「……………死ぬおつもりでしたか」



低く鋭い刃物のような声に、リアンは、なぜ最後の最後まで、逃げ出そうとする度にこの人には見付かってしまうのだろうと目を閉じる。



リアンにとって、その問いかけ程に、皮肉な言葉もないだろう。











完結となる明日は、14時に、二話の更新となります!


最後まで、リアン達の物語にお付き合いいただけますと幸いです。


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