第五話
「よし」
そう一言呟いて立ち上がったのは座り始めて三十分も経った頃だろうか。
目の前いっぱいに広がった景色を全て理解することは出来なかったけれど、自分が物思いに耽っている間であっても世界はいつも通りに動いてくれていたのだろう。
視線を下に移せば川の氾濫はいつの間にか収まり、所々木に隠れてはいるけれども濡れた地面が見えている。
『まずは自分の出来ることを探す』、それが座りながら考えていた僕の答え。
何故だ何故だと考え続けるのは簡単だけれど、きっと何処へ行っても雨は降るしお腹も空くだろう。と考えてお腹を擦ってみるけれど、見事に割れた腹筋は硬さを主張するだけであってお腹の空き具合までは悟らせてはくれなかった。
つまりは何をしていても時間は流れるということだ。
今分からないことに思いを馳せるよりかは自分の好奇心、目の前いっぱいに広がっている景色に思いを馳せた方が実に健全に思えたのだ。
「まずはあの灰色の壁?に行ってみよう」
自分の独り言が最近多くなってきていることに気が付いてしまったけれど、こんな何もわからない状況なのだ。声に出して少しでも怖さや寂しさを紛らわすのが独り言だっていいじゃないか、と自分に言い聞かせながら歩きだした。
墓石があった方の一本道から下に降りると川のある右側とは反対の左側、木々しか見えない方を丘を中心に回りながら歩き始めた。
万が一増水して流れの早い川に落ちてしまっては如何に屈強そうな身体でも溺れてしまうと考えたからだ。「筋肉は脂肪よりも重いって言うしね」と少し聞きかじった知識を笑いながら言うのだから緊張感に欠けるというものだ。
今はきっと日中で、雨雲さえなければ明るいのだろうと思いながら視線を上に向ければ、気付いた時にはあっという間に森の中。視界に広がるのは太陽の光をその身に浴びようと目いっぱい腕を伸ばした木々の枝、それの先々から零れる緑の葉っぱで視界は埋め尽くされていた。
未だかつてこんなにも緑に囲まれたことがあっただろうか?そう考えてみるも日本の都心近くに住む僕には想像もつかず、思わず「凄いなぁ」と口を突いて出た呑気な独り言もしょうがないことだろう。
この時は何も考えずに見たままをそのままに受け入れて歩を進めているジャックではあるが、普通に考えると異常なことだ。
今年の夏には13歳になる普通の中学1年生、入学前のことを考えると未だ小学6年生の子供が一人見知らぬ深い森で平然としていること等まずありえない事だろう。
常日頃緑豊かな森の近くに住もうとも、人っ子一人居ない状況下で木々の逞しい営みを見て「凄い」等と呑気な感想は出ないものだ。それも笑顔で。
何かが噛み合っていない、いや、噛み合っているからこそ考えにも及ばないのだろうか。
自分の身体を突き破る痛みを感じても、見知らぬ文字を自然体で解す事ができても。
今でさえ薄暗い森の中を平然と歩きながらも常に頭は冷静に、起こり得ること全てを自然に受け止めてしまうのだ。
まるで全てを知っていたかのように、体験してきたことがあるかのように。
それは全て身体の記憶、12歳の少年を護るかのように只々共に在るだけ。
しかしまだジャックは気付かない、元来マイペースな質なのだろうか。今も木々が多いから地面がしっかりしているなぁぐらいの事しか考えていないのだから。
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大分歩いてきたと思う。
そう思ったのは歩き始めてから既に三、四十分は掛かっていると思ったからだ。当然時計なんてものは無いし、風景も大して変わらず延々と森が続いているだけで景色の変化は見られない。しかし耳を澄ませば進行方向とは違い左側から水の流れる音が聞こえてきている為、同じ場所をぐるぐると回ってはいないことは確かだった。
「でもそろそろだと思うんだけどなぁ」
それはあの透明で灰色の壁のことだ。
目測では一時間もしない場所から立ち上っていたあの壁がそろそろ目に飛び込んでくるかと思いを馳せてはいるものの。目に飛び込んでくるのは木々ばかり、一向にあの壁までたどり着けないのだ。
でも思わぬ収獲はあったと思いたい、それは自分の身体が思っていた以上に疲れないということだ。今までの僕だったら舗装もされていないような森真っただ中、一人で動き回ろうものなら二十分も経たずに疲れてしまっていたことだろう。
しかし幸運なことにこの屈強な身体は裸足であるにも関わらず、平然と木々生い茂る森の中を音を上げることなく突き進んでいってくれる。
頼もしい限りだと思えば、前方の方に変化が訪れた。
あの透明で灰色の壁が見えてきたのだ。
目的の場所まで来れたと喜び半分不安半分に近づいて行ってみる。
「透明な…壁だなぁ、向う側も普通に見えるし」
と僕は呟きながらその壁に触った。
冷たくも無く、温かくもない。そんな何の変哲もない壁だ。
透明なのだから当然向う側も見えるし特に変わったことも無いとはおかしいかもしれない、何故なら何の意味があってこんなものが地面から生えているのかが分からないからだ。
壁について考えながら視線を彷徨わせていると何かが目に留まった。
「あれは…」と視線をそのものに定めて右の方に歩いて行くと、より見やすい位置までくればその可愛らしい姿に笑顔がこぼれてしまった。
それはリスの様な動物だった。
その場にしゃがみ込んでじっくりと観察をしてみる、そのリスは二足で地面に立って手に持っている木の実を齧っている所だった。
しかし、おかしいことに気付いたのはすぐのことだ。
「何だろう、全然動かない」
そうなのだ。
全くと言っていい程に動かない、微動だにしないのだ。普通リスは木の上に居るんじゃないのかとか、可愛らしいなとか、色々思う所はあると思うけれども動かないそれは只々不気味だった。
不審に思った僕は壁を叩いてリスに動きの変化をもたらそうと思うも、何も変わらず木の実を齧ったままでそれ以上の動きを見せなかった。
それどころかリスの体毛も動きを見せていなかったのである。
何かがおかしい、異常だと思い立ち上がると周囲に視線を配った。
風によって揺れる木々の葉っぱ、耳を澄ませば水の流れる音がまだ聞こえてくる。そこではたと気付く、壁を隔てて向う側の木々の葉は小揺るぎもしていないのに、自分のすぐ近くにある木の葉は風で揺れているのだ。
まるで壁を隔てて向う側は時が止まってしまっているようだと思うと、先ほどのリスにも合点がいった。とても信じることが出来ないけれど、頭に飛び込んできた情報を転がしてみてもそれ以外に考えが思い付かなかった。
壁の向こうは時が止まってしまっているのだろうか、それは何故?考えても考えても今の僕には到底答えを導き出せるとは思えなかったのだった。
第五話 了