7.勝ち負け
再訪した応接室には、お茶の用意がされていた。ローランと旧友、そしてもう一つまだ伏せられたカップが来訪者の存在を匂わせている。
「いやはや、大事が済んでからの一服は格別です。これは今日のランチも心から楽しめそうだ」
昨日の別れ際とは程遠い破顔でローランを招き入れると、学長は経過について語り始めた。アカデミアで起きた入試に関する対立は、昨晩の内に双方合意可能な着地点を見出した。いくつか細々した取り決めはこれからになるが、日付の変わった今となっては協力し前進姿勢をとっているそうだ。
ようやく人間らしい時間に眠れるだの、誰それの説明は回りくどいだの、身の上話にローランの期待した内容は含まれていない。“貴方のお力は必要なくなりました”を意味する文脈は。
「件の学生は書類上、特待生としました。今からでは進度差が出てしまいますので、休学扱いにして入学は来年度改めて。勿論本人がアカデミアでの学びを希望すれば、ですがね」
「体よく一年先送りにして、その間受け入れ態勢を整える算段か…」
「特待生とすることで、アカデミアは彼に対し援助する大義名分を手にします。最も財源は私のしがない財布からですがね」
肩をすくめて見せる厄介な相手の姿が、出された紅茶の味を引き立てる。
「身から出た錆だな。それはそれとして、こちらの要件を―」
「旅の保証人ですね。いつも通り引き受けますよ。…旅程はエニベルから城塞都市、祝祭会場からベリンへ戻る、で合っていますかな?」
「道順はそれでよい。ただ人数がいつもと違う。儂を入れて三名で頼む」
「おや、一名多いですなぁ。いつの間にお友達が増えたのですかな?」
一々噛みつく気にもならん。にこにことしたこの老人は、ベリンの象徴たる学府の長。対して己は非常に特徴的な外見を持つ珍客。噂される側とそれが集まる側。自然と奴の耳に届くだろう。
「昨晩からこちらも色々とあってな」
「そうですか、…むしろ好都合か。でしたら、もう一人加えて四名で申請しておきます」
「なぜ人数が増えた?」
「祝祭へはアカデミアからも使節を派遣します。一人増えるも一緒でしょう。ついでに連れていてあげて下さい」
「勝手な事をぬかすな」
「いいでしょうに。三人前注文した料理が四人前で出てきたのです、遠慮なく召し上がってくださいな」
「馬鹿者!一人分払いが高くつくではないか」
「相変わらず、経済観念がしっかりしていらっしゃることで。受けていただけるなら保証人になりましょう」
「………」
急所を突かれ押し黙る。人と亜人が共存する社会において、長寿な種族に対しては、人間を身元保証人にすることが義務付けられている。元々は罪人の逃走と失踪防止を目的としていた。遠方へ逃げ月日を重ね、自らを知るものがいなくなった頃、何食わぬ顔で戻ってくる事が無いように。ローランも例に漏れず、旅に出る際、行程と帰還時期を申請した保証人の同意書が必要となる。
「ずっとベリンでは御身が退屈で滅んでしまうかもしれません。私にとっては数多ある他人事ですが」
「…嫌な奴。本当に」
「賞賛と降伏と同意の言葉と取らせていただきます。明日の出立には間に合わせますのでご安心を」
勝鬨の祝杯代わりに紅茶を口にする。ローランもカップに口をつけたが、先ほど感じた上品な味わいは微塵もなかった。
「森の賢者たる貴方様なら、誰にも気づかれず街を出て、誰にも知られることなく旅する方法もご存知でしょうに。律儀な事です」
「浅はかな奴だ。いいかよく聞け。心の赴くまま、誰にも憚ることなく、自分の体をくたびれさせ、思い通りにならぬ不条理をかみしめ、不便と苦労を寝床とし、やっとたどり着いた目的地でありきたりな名物を食す。これが儂にとっての旅だ。第一貴様の言い方こそ、夜逃げのそれではないか」
別段怒っているわけではない。反論することで、負け気分を軽くしたいだけなのだ。
「難儀ですな。型破りなエルフは貴方だけにしてもらいたいものです」
「そんな者がいるなら、今すぐ風になって会いに行くわい。もっとも、あんな退屈な里で儂と同じ高尚な考えの持ち主が生まれるとは思えんがな」
「故郷を出るのに百年準備された執念を、高尚と評しますか。まあ、言葉にするだけなら只ですから」
冷めた目が向けられると、カップから熱が逃げていく気がした。温かい方が風味もいい茶葉なのにもったいないことだ。応接室の扉が静かに二度叩かれる。学長の返事を待って一人の少年が入ってきた。