2.応接室
応接室に通されたローランは、温もりを失った液体を見つめていた。入校申請の受付を終えてから用件を伝え、ここへ案内される。アカデミアを訪れた際の変わらぬ手順。違うのは目的の人物が現れていないことだ。
「間もなく参りますので、しばしこちらでお寛ぎ下さい」
案内役の職員が退室したのは、どれ位前なのだろう。先ほど女給仕も、申し訳なさそうに三杯目を運んできた。一杯目に少し口をつけただけなのが、余計に恐縮させたのだろうか。茶菓子にも手は伸びていない。
別段こちらに用はないのだ。ただ律義に約束を守ったにすぎない。こうなるなら露店へ寄ってからでも良かったのではないか。受け取った駄賃で買い食いする、見知った顔が思い浮かんだ。
「好みでなくてな、格式張るのは」
南方諸島で栽培された茶葉を用いた紅茶が流行しているのは聞き及んでいたが、昼過ぎに馬車を降りてから休まず歩いてきた体を満たすのは、これではない。
早急にここから立ち去るべきだと腹が主張する。問題は相手が何を強いるかだがと思案していると、入室合図に続いてようやく待ち人が現れた。
「遅くなり申し訳ございません。少々どころでなく立て込んでおりました。ローラン様におかれましては、ご健在のご様子何よりと存じます」
「…おまえさまも相変わらずの様だな。年長者を敬う気持ちが欠けておる」
「相変わらず手厳しい。北の旅はどうでしたか?お話伺いたいものです」
「忙しいのではないのか。お互い手短に済ませたいはずだ。前置きはいいから本題に入れ」
「やれやれ、お会いする度せっかちになっておりませんかな。立ち話で済ます気はありませんので…」
そう言って腰を下ろした白髪の老人に紅茶が用意される。レモンの輪切りを浮かべて口に運ぶと、満足げな表情で給仕係に下がっていいと指示を出した。
「ようやく人心地がつきましたよ。難解な議題の対応に追われて大変なんですよ。いやしかし、思ったより早く立ち寄っていただき助かりました」
「用件を言え。聞きたくもないがな」
「いつになく前向きですな。今回の旅では貴方の内面を変える出来事があったのですかな?」
「さっさと片付けて解放されたいだけだ」
「解放とは人聞きの悪い。…そういえばお昼は何を召し上がられたのですか。久しぶりの露店街、さぞや堪能されたのでしょう?」
悪びれることなく言い放なたれた言葉に、湧き上がる感情を隠しながら、努めて冷静に返答した。
「何も。どこにも立ち寄らずここに来たのだから」
「…これはすごい。お気に入りの露店街を後回しにしてまで、会いに来て下さるなんて。光栄です!」
「貴様の一族特有の冗長さを儂は好かん。…最後だ、聞いてやるからとっとと話せ」
「誇ってはおりませんが、愛すべき我が血筋です。まあ、再開を祝した軽口はこれくらいにしましょう。怒って帰られますと、困るのは私の方ですしね」
居住まいを正した老人は、変わらず笑みをまとっていた。
「実は今回の入学者選抜試験において、合格基準に達した者が一人不合格になりました。後なって発覚した為、撤回を求める動きが起こり、アカデミアの約9割がそちらの立場をとっています」
「素晴らしいではないか。アカデミアの理念に反する不平等な決定に、内部から反対の声が上がった。自浄作用がある証拠だ」
「誉め言葉と受け取っておきます。つきましては本件に対処するため、お力を貸していただきたいのです」
問題があったのは事実だが、対応に苦慮する理由が見てとれない。ひと呼吸おいてから、問うてみる。
「…大半が撤回派ならベリンお得意の民主制とやらで、数に任せて押し切れよう。その前に本件は儂が相談を受けるものではない。然るべき立場の者が然るべき裁定を下せばいい。試験の責任者が無理なら、より立場のある者、最終的にはアカデミアの長たるお主の仕事だ。部外者に投げるのは筋違いぞ!」
語気が荒くなる。一刻も早く我が欲望を満たしてやりたい。
「その長たる人物は1割の賛成派を率いて、不幸な若者を生み出したのですよ」
「…お主、呆けたか?」
「そうなら、とっくに周りが引きずり降ろしてくれています。その若者は前例のない受験生でした。他の者と大きく異なっており、また優秀です。なにせ試験の最高得点を記録しましたからね」
「まったく解せんな」
「…私を含むアカデミア中核は彼を持て余すとの結論に至り、現状での受け入れは困難と判断しました」
「家柄や出自か、それとも個人の内面の問題か?」
「強いて挙げるなら血統になります。彼は異質すぎました、貴方様もご覧になったように」
瞬間、先刻の門前での出来事が鮮明に呼び起こされた。
「心当たりがないのだが…」
「御戯れを。真っ直ぐこちらにお越しなら、彼とすれ違ったはずです」
「………」
「ようやく本題に入れます。…貴方様の教えをもってすれば、彼でも他の者と同様に習得出来るのでしょうか?」
「残念だが、難しいだろう。そもそも資質があるのかどうか―」
言い終わる間もなく向かいの席から、長く深いため息が応接室に響いた。視線をそらすと、窓外には赤みが差し始めていた。