1.幌馬車
新緑の爽やかな香りを感じながら、ローランは幌馬車からうっすらと見える街の外郭を眺めていた。最寄りの宿場町から出発すること四日目、遅くとも昼過ぎにはベリンに到着できそうだ。大陸南部最大都市ベリンは東西交易路の中間点に位置し、南方地域への玄関口でもある。そこには自然モノと人とが集まってくる。
そのため乗り合わせた客もさまざま。商売人や職人だけでなく、吟遊詩人や修道士もちらほら見受けられる。ベリンが終着点の旅人たちは、近付くにつれ表情に熱を帯びてくる。
少し未来の希望がそうさせるのかと傍観していると、宿場町からの同乗者に話しかけられた。
「もうすぐ到着のようです。道中トラブルもなくなによりでしたね」
「旅程通りなのはキャラバンのおかげだな。経験豊かな貿易キャラバンに合流できたのは本当に幸運だった。おかげで随分と日数が稼げた」
「ベリンに急ぎのご用事でも?」
「…古い知人に会いに」
薄くなった灰色の髪がかかる、深い皺を歪めながら一つため息をつく。
「最後に顔を見せたのは数年前になる。しばらく北方へ足を延ばしていたから、あの街へ寄ることがなくてな」
「久しぶりの再会でしょうに、表情がすぐれませんが?」
「会いたくないわけではないのだが、立場のある人物で旅慣れた儂に毎度頼みごとをしてくる。時には手に余る依頼もあってな」
「それは大変ですね。あの街でとなると………、お城の方ですか」
肯定の愛想笑いで相手に応える。
「お前さんの方は何用でベリンへ。見たところ行商や職人ではないようだが」
「私はあの街で乗り継ぎ西へ向かいます。エニベルが次の目的地なのです」
「大抵はベリンで事が足りるだろうに、何用で落ち目の古都まで行くのだ」
「お祭りですよ。今年は大祝祭ですから。西へのキャラバンを待つので、数日はベリンで息抜きですよ」
「なら街中で顔を合わせるかもしれんな」
そこでお互いの言葉が途切れた。
「…気味が悪いな。儂の負けでよいから普段通りの言葉を使え」
「なんだ、もう終わりかぁ。まだまだ続けられたのに」
「もう結構。煩わしいのは、あの老人だけで十分だ」
「自分だって顔中しわしわのくせに。まぁいいや、それより―」
「露店街でよいな?」
下からのぞき込む相手の言葉を、少し強い口調で遮る。
「まだお昼だしね、いいよ。ベリンのお楽しみは夜に取っておかないと」
「お主とは、四日前に知り合った赤の他人だ。施すつもりはないぞ」
「わかっているって。おいらの胃袋は、ちゃんと自分で面倒見るからさ」
「宿場町でも訊ねたが、本当についてくる気か…」
「もちろん!故郷から出たのは初めてだからさぁ、旅慣れた大人が一緒だと心強いし。それに、おっちゃんも行くんでしょ、大祝祭に」
「まあな」
「楽しみだなぁ、お祭り。想像できないほどの美味い料理の数々が、おいらを待っているんだぁ…」
「ここで垂らすなよ」
すっかり夢中になっている、若い同行者にくぎを刺して、傍観を再開する。
太陽が真上にさしかかるころ馬車は東大門の列に加わろうとしていた。
大門をくぐると市井の人が生活を営む市民街の喧騒が乾いた旅人を出迎える。手続きを終えるとキャラバンの荷下ろしを横目に乗客は各々目当ての場所へと足を向けた。
西大門で次に出発するキャラバンを確認した後、ローランは中央広場を歩いていた。東西と南大門から延びる大通りが交わる広場は露天市でにぎわっている。商工ギルドと行政の共同事業は相変わらず盛況のようだ。然るべき手続きをふめば、ギルドに所属してなくとも誰でも露店を開ける。
軒先には遠方から持ち込まれた珍品や近郊で採れた生鮮品の商いが活発に行われ、この時期は特に果実を使った食品の店が活気を帯びている。店先から春の恵みの甘い香りが、往来の人々にささやきかけてくる。誘惑の渦に巻き込まれないよう、力強い一歩を踏み出し露店街を後にした。
市民街を見下ろす小高い丘の上に、旧国主の居城が悠然と佇む。
人はこの城をアカデミアとよぶ。大陸南部に唯一存在する公的な学術教育機関であり、科学を柱とした先進的で“平等”な学び舎である。
大陸全土から異なった人種、様々な家柄の学徒が集まり日々研鑽している。遠方よりの生徒は城内を寄宿舎として使用でき、広場の事業の売り上げはアカデミア運営費の一部に充てられている。
中央広場からアカデミアにつながる緩やかな登り階段を進むと、通路の両側に行政・司法機関と少数の貴族屋敷が出迎えてくれる。旧公国の血を受け継ぐ、ベリン首長の邸宅もこの区域に存在する。
城の主の不在が歴史の移り変わりを感じさせる。貴族階級が知識を独占した時代から考えれば革新的だ。ゆったりと階段を上っていくと後方から衛兵たちが駆け上がり追い抜いて行った。何事かあったのだろうか。傷害沙汰、物取り、実験中の事故。
そういえば昔、滑稽な事件があったことを思い出し、一人にやけてしまう。立場のある者同士の議論が白熱し口論に発展、止め時を見失い、お粗末にも衛兵が呼ばれる結果となったのだ。
「アカデミアは幅広い学問を扱うが、喧嘩の作法は教えておらんからな」
疲れはしないが、時間がかかる。
到着した正門前は記憶にある以前の風景とは少し違っていた。聴講生や出入りの業者が遠まきに見つめる先には、門番とその足元にひざまずく一人の少年がいた。離れて眺めていると、先ほどの衛兵が引き上げてくる。
「アカデミアの教員が騒ぐから急ぎで駆け付けたが―」
「何事もなくて良かったではないですか」
「それに我々では力になれません。可哀想ですがね…」
「それもそうだな…入学の嘆願ではな」
先の選抜試験はすでに終了している。親の地位や経済力で強硬突破を図るとも、アカデミアの理念に反するため、入学が認められることは当然ない。直訴とはこれまた珍しい。
しばらくすると、門番に諭された少年が立ち上がり、こっちへゆっくりと歩んでくる。すれ違いざま目を向けた。
昼下がりの真っ青な空。そのまぶしさに少し軽くなった足取りで、ローランは正門へと踏み出した。