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預言者は既に中央広場に国中の兵士を集め、丸一日、魔王の出現を待ち構えさせていた。それは風涼やかな、光散ずる曇りの日であった。兵士は午睡への欲求と闘いながら、勅命に違えぬ様、ひたぶるに眩い雲の向こうを凝視した。遠くが近くなり、近くが遠のいた。
預言者の言葉は絶対であった。そしてそれが魔王の来襲を告げている以上は、嘗て無い困難を強いられる筈であった。敵は世界を破滅に導いた魔王である。たとい英雄ら(彼らは預言者が間接的に力を与えたことに依って成功を得た者共とされている)に依って瀕死の傷を負っていたとしても、そんな瑣事は兵士たちに対する慰めとはならなかった。
曇天の空に小さく光の穴が生じた。
当初気付く者は誰もいなかったが、雲の合間から降りた一筋の光が直線的に中央広場の処刑台を照らし、その穴を中心に雲が渦を巻き始めると、その異様さに誰もがそこを注視せずにはいられなくなった。鍋をかき回すように雲は激しく波打つ。かつて誰もが見たことの無いこの状況に兵士達は挙って震え上がった。
「皆の者。構えい。」
預言者の嬉々とした甲高き声が、遥か後方より湿った空気を切り裂いた。最も強健な兵を左右に置き、更に国内の何れよりも頑丈に組み上げられた城のバルコンから、枯木のような体躯に不似合いな金の豪奢な杖が正しく天を指した。
そして確かに、光射す穴に小さな黒点が見えた。それは次第に近づき、やがて人型であると判じられるようになった。それは多くの者の目には神、として映じた。光を背に、腕を広げ、悠々と降りる存在は、自らが崇め奉っていた筈の、城内に喚き立てるその存在の卑小さへの嫌悪感さえを生成させた。
神(と誰もが見紛うた)、は、何者にも恐れず、何者にも動じず、重力さえも己に屈服させて舞い降りた。黒い外套をはためかせながら、優美に。
兵士は慄いた。今から神に対する冒涜を働くかの錯覚に襲われて。
後方には卑小な神。不快な罵声を上げている。
兵士らは太刀を構えつつ降り立つ者へと仕方無しにずるずると近寄った。
その者はあまりにも美しかった。見る者より言葉を奪う美貌は、しかし冷たく無機質そのものであり、兵士らに生命を揺るがす、根源的な恐怖を与えた。これは確かに人間ならざる者であるとの強い確信が、兵士らの胸をにわかに支配した。
「我が名はルスカ。人類を屠りし者。」
ルスカは永代残された詩を詠じるが如く言った。
その時である。預言者に似た痩せた男が、ほとんど倒れんばかりに駆け込み、ルスカの腕に触れたのは。彼は腹違い故一兵の座に甘んじる預言者の義弟であり、生まれてついて以来、手柄にだけは頗る貪欲であった。
ルスカは無論一切の抵抗をしなかった。図に乗った預言者の弟は、ルスカの腕を攫んでその身ごと地に叩き付けた。それを合図として兵士たちが目配せをしながら最終的には菓子を覆う蟻の如くルスカに覆い被さった。
そうして魔王の贖罪の日々が始まった。
ルスカは未曾有の罪人として国民へとその姿を晒すため、かつて国民を流血の宴で狂喜させた闘技場へと連れ出された。なぜならその目的は同一であったから。そこで行われる懲罰により、ルスカの一切の色彩を拒否したはずの皮膚は赤く爛れ、ねっとりとした悪臭漂う膿が流れ続けた。滝の如く腰まで伸びた白銀の髪は根元よりごっそりと切り取られ、どこぞの狡猾な兵士を介し大量の金貨へと換えられた。体中に鞭を打たれた跡は、陽光の与える痛手と共に皮膚を容易に切り裂き、鮮やかに過ぎる肉を晒した。
激痛に襲われながらもできるだけ、意識を失わぬよう、逸らさぬよう、現実に拘束されることだけをルスカは祈った。全ては罪を償うが為。
贖罪が始まって数日が経ったある夜半、狂奔の宴を終え土牢に身を横たえながら、ルスカは戯れに掌に思念を送った。かつて虚空を占める程の雷雲を造作も無く呼んだ掌からは、火打石が出す程のけちな火花一つも出なかった。どんな相手であっても必ず死に至らしめられるその箇所を一分の狂いも無く突ける腕も、細かな震えが止まず、完全に失せているのが知れた。残酷なまでに神々の言葉に一切の虚飾は無かった。ルスカは血痕がこびり付き震える唇に、初めて柔らかな安堵の笑みを浮かべた。
しかし如何に意識を保つべく尽力すとも、それを保持できる間はそう長くは無かった。ルスカは今や常人であった。
間もなくルスカは一日の大半を、別の世界へと意識を泳がせ生きるようになった。それはルスカにとってこの上ない苦難であった。身体的苦痛を覚えている限りは、己が無限に広がる海原の如き罪障を一滴ずつでも滅しているのだと実感することができた。その為だけに生きたかった。それが夢に意識を葬られているのでは、生きている意味が無い。生きる? それは最早安易に生と定義できるものではなかったかもしれない。辛うじて体が硬直していないだけであったから。体には温かみさえもほとんど無かった。
更にルスカが苦痛の嗚咽も悲泣も漏らさぬようになり、意識も保たれぬようになったので、預言者はルスカを闘技場に晒すことを辞めた。元来、ユーギュナータが魔軍による襲来を一度も受けなかったことで、国民のルスカに対する憎悪をそれほどに生成することあたわず、かつての闘技場のような熱狂は得られなかったのである。
そればかりか――。
問題は此方にあった。この男の如何なる傷跡にも褪せることの無い、人類を超越した美麗な顔立ちは、一部の女たちの熱狂的支持さえ醸し、従来から燻っていた独裁的預言者への批判への土壌さえも形成しつつあったのである。
従ってルスカの居場所は人の目触れぬ城の奥深き地下牢へと決まった。夢魔に何を見ているのか、頻りにサーシャの名を呼びながら、ルスカの意識は日に日に遠退き、その内に一日中戻らなくなった。




